【完結】罪状記録   作:初弦

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贖いの動機を知らない
嵐の前の静けさの前の嵐


「ある意味、部長が死んでて良かったかもな。あの人、俺らに……あいつらに甘かったからな、俺はもっと上手くやってたろうし、捕まるはずもねえし、したら稀咲と、マイキーを追って……東京はもっとひどいことになったろーよ」

「部長って……ドラケンくんの、お見舞いに来てた……? あの人も、死んだんですか?」

「ああ。部長、悪知恵はマジでパンピーじゃねえからよォ、ドラマみてーな完全犯罪もできたんじゃねえの。稀咲と手ェ組まなくてよかったよ、つくづく」

「手を組まなくてよかった……って、ことは。手を組まなかったから、稀咲に殺された?」

「……いや、どーだろうな。疑われちゃいたが、正直俺にはわからねえ。事故死だったのか、稀咲が仕組んだのか、死んでからわかったことも多かった。稀咲との話だって」

「稀咲との話!? それは、」

「あー……悪いなタケミッチ。俺から話題に出しといて。オマエはなんか、変わんねえみたいに思えたから、懐かしくなっちまってさ」

「そ、れは」

 

「でも、死人っつっても世話になった人の話いろいろ言ったら、マジであの世で怒られそうだ」

 

「純丘榎というらしい男について、警察庁のデータベースも含め総当たりしてみました。結果……」

「結果?」

「……この世に、存在しません」

「……いや、死んだっていうのはドラケンくんが言ってたよな?」

「違います。それはわかっています。そうではなく。……そんな人間がこの世に生まれたデータもありません」

「……そんなことある!?」

 

 

 

  嵐の前の静けさの前の嵐

 

 

 

 九月にはなんのイメージがあるだろうか。

 

 たとえば新学期。学校によっては進級の季節でもあろう。

 旬の作物も豊富にある。林檎に葡萄、梨、野菜なら椎茸や人参に芋類、魚でいえば秋刀魚や鰹。

 あるいは読書の秋。あるいは体育の秋。ぱっと思いつくだけでも様々に並ぶ。

 

「誰だよ今日ツーリングとか言い出した馬鹿はよォ!」

「それなあ実は大将なんだよな〜!? も寒みー……!」

「あもクソ雨やばすぎ前なんも見えねえ」

「だっからコンタクトにしろっつったろーがァ!」

「行けると思った」

「馬鹿馬鹿バーカ馬鹿ばっか」

 

 ……そして秋の天気ほど変わりやすいものもない。

 

「これ車ありゃなんとかなったじゃねーかおい武藤(ムーチョ)!」

武藤(ムーチョ)いねえよあいつ今東卍(トーマン)のお守り!」

「てかさすがに武藤(ムーチョ)いても意味ねえだろ欲しいの車なんだからヨ」

「ヤバいヤバいヤバい竜胆前前前! 前!」

「ヒッ」

「あ——っぶなァ!?」

「全員止まれ一旦止まれさすがに死ぬ! ガチで死ぬ! 主に竜胆が!」

 

 少年院仲間欠席一名プラス鶴蝶の、つまりいつものメンバーは、快晴のもとバイクをかっ飛ばしていたはずだった。

 一瞬で暗転した空の下、視界がけぶるほどの土砂降りに見舞われて現在である。無理です無理無理コレ走ってると死ぬ。

 

 今一番死亡リスク高めなのが灰谷竜胆だ。ひとりだけ眼鏡をかけてるせいで雨粒がレンズを叩いて、結果とっくになにも見えない。

 

「なあオイあれ! 百m先マックあるって!」

「っしマックまで俺のライテク見せてやんよ!」

「ヤこの百m生き残れねえだろとりあえず降りろ降りろ!」

「百m単車引いてけってか!? ずぶ濡れになんだろ!」

「とっくにずぶ濡れだろーがよォ!?」

 

 ともあれ急遽全員、土砂降りの中かろうじて発見した近くのマクドナルドにバイクを止め、屋根の下へと駆け込んだ。

 明らかに最底辺治安の少年ら計六名(びしょ濡れかつ不機嫌の姿)に、いつもスマイルゼロ円の店員はわりと真面目に怯えの表情、既にいた客たちはさっさか後片付けの体勢に入った。

 

 立派な営業妨害である。こればかりは事故だが。

 

 Tシャツの裾を絞るだけで床に水溜まりができた。楽しくなってきてしまったので、彼らはしばらく各々の服を絞り取ってどれだけ水が出てくるかで遊んでいた。

 五歳児みたいなはしゃぎ方をするんじゃない。

 

 車でスーッと駐車場に入ってきた新規の客も、店内を覗き見したのち、スーッと車に引き返す有様だ。

 大変賢明な判断ですね。

 

「で、どうするよ」

 

 一頻りはしゃぎ倒したあと、すんっと冷静に尋ねたのは望月だった。各々顔を見合わせて、蘭が外を一瞥する。

 

 豪雨である。

 それはもう凄まじい暴風雨である。

 

 屋根を叩く雨音にじんわりとした恐怖を感じるレベルで、無料オプションとばかりに雷も鳴ってる。なんなら光ってから爆音まで一瞬だ。かなり付近に落ちていることまでよくわかる。

 

「雨止まなそーだし……これ竜胆じゃなくてもバイク無茶だろ」

「むしろなんで俺らこん中走ってたわけ?」

「さあ……」

 

 ちなみに、人間は危機的状況に陥るとハイになる場合がある。アドレナリンだのエンドルフィンだのドーパミンだの、脳内麻薬とも呼ばれる快楽物質がドバドバ出て、火事場の馬鹿力を発揮するわけ。

 

 脱線はこれぐらいにしておこう。目下解決すべき問題が優先されるべきだ。

 

「バイクはまァ、どっかのタイミングでもいいから近場の兵隊に回収させるとして、問題は今の俺らだよな」

「誰か車回させれば良くね?」

「電話一本でこの雨ん中六人乗れる車回して迎えに来るやつ、兵隊でもやべー信者の確率高ェだろ。そんなやつの車乗れる?」

「必要経費じゃね……?」

「キモすぎてムリ」

「酷ェ言い方……」

 

 苦言を呈すのは鶴蝶ぐらいだ。望月も一見マシに聞こえるが、仮称信者の車乗るのは嫌だなと思ってるのは透けて見える発言。

 

 どいつもこいつも五十歩百歩に最悪である。さすが極悪の世代。

 

「くしっ」

「……誰だよ今のカワイーくしゃみ」

「女子?」

「清楚系?」

「……なんか文句あんの?」

 

 王様の平坦な問いかけに「ねーっす」忠実な人々の唱和。もう声色が平坦なのが逆に怖い。

 

 とはいえ身体が冷えてきているのも間違いない。いつでも元気有り余るメンバーだとしても、濡れて肌に貼り付く服も煩わしい。

 

「あの人は?」

 

 というタイミングで、この提案を出したのは意外にも斑目だった。

 

「あの人?」

「フクブくん。時間空けてでも来んだろ、セッキョーぐらいはあるかもだけどよォ」

「ああ……まァあるにしてもそこまで煩くねえしな」

「そーそー。あと言えばタオルとか持ってきてくれんだろ」

「なんなら着替えも出てくる」

「サイズ合うかわかんねーけどって言う」

「言う」

 

 ものすごく的確に人格を把握した発言。さすがに極悪の世代も付き合いが長くなってきた証左だろう。

 当然、視線は灰谷兄弟に集まった。

 

 竜胆は微妙に嫌そうな顔で、蘭の様子を窺った。

 髪をぐしゃぐしゃとかき回した蘭が、ついで溜息をついた。

 

「……呼ぶかー」

 

 彼らの読み通り、純丘は二つ返事で了承した。

 

「……君ら、今日テレビ観たか? 新聞でもいいが」

 

 ヘルプコールに応じて、八人乗りのミニバンを回してきた純丘榎。

 なにを聞くよりも言うよりも前に、彼は静かに問いかけた。

 

「テレビっすか? なんかやってましたっけ」

 

 バスタオルを投げつけられた鶴蝶が、イザナの頭を掻き回している。

 されるがままのイザナの頭は上手く据わらずに微妙に揺れている。

 

 生ぬるい目でそれを眺めていた純丘が短く答えた。

 

「今台風来てるって知ってたか?」

「……」

「とりあえずそこの兄弟と斑目くんと黒川くんと鶴蝶くんが把握してねえのはわかった。さすがに遠出するなら天気予報くらい見ておいた方がいいぜ」

「なんか悪ィかよ」

「悪かねえけど実際今困ってんだろ」

 

 軽い逆ギレへの対処があまりに手慣れている。

 あしらわれたイザナは思いきり舌打ちした——現在の彼はわりと不機嫌なので、触らぬ神に祟りなし。低気圧要因の頭痛をじわじわ自覚し始めたせいでもある。ハイだと痛みどころではないので今まで気にしてなかった。

 

「あれ今本州上陸してねえだろ」

「望月くん惜しいな……確かに上陸はしてないが、ただ台風の余波で秋雨前線がちょっと狂ってる。バックビルディング現象による積乱雲の大量発生。現時点の予報じゃ、北陸と首都圏にかなり影響があるんじゃないかって話だ」

「……言いたいことはなんだよ?」

 

 純丘の話を聞くコツは、半分以上聞き流してから聞き返すことである。

 なにせ本人も正直聞いてくれると思って話してないので、前半部分の脱線が非常に多い。適当なところで聞き返すと、もう少しわかりやすく平易に要約する。

 

 最初からやれという話でもあるが、そもそも最初からちゃんと聞いてくれる相手には純丘もちゃんと話す。

 

「このへんは今日夕方……ちょうどさっきぐらいか、そっから明日の朝方まで大雨の可能性が高い」

 

 ともあれ、今までの経験則に基づいて尋ね返した望月に、純丘は二本指を立てた。

 

 一本は今述べた大雨の状況。もう一本は現状を踏まえた今回の行動方針。

 

「というわけで近くの宿取ってきたから今日はそこまで移動する。……正直この暴風雨と雷の中で自分以外の命を六人も背負い込んで長距離運転したくないんだよ、俺」

「チキン……」

「やかましい」

 

 ぼそっとつぶやかれた言葉に真顔で返す純丘。リスクより安全性を取りたいお年頃。

 

 慎重に慎重を期す男と、無免許運転違法行為常套の無法者不良少年たちは、つくづくこういうところで意見が合わない。

 合わなくとも車回してきたのは俺なので俺がルールです。

 

「長距離運転っつったって、こっから東京までせいぜい二時間ぐらいじゃねっすか?」

 

 ところで、微妙そうな表情で問うた斑目に、純丘はこちらも微妙そうな顔で「そのへんはちょっとトラウマがあってな……」と、言葉を濁した。

 具体的には若葉マークまだ取れてない頃に灰谷兄弟乗せて高速行ったら酷い目に遭ってな……。

 

 純丘榎はあくまでも一般人なので、時と場合によっては、本気で肝が冷える経験もあるわけだ。

 これはたとえばの話だが、高速を走る最中に窓から上半身を乗り出されたりね。

 

 誰かはわかるだろうからどちらとは言わない。

 

 

 

 激しい雨音をBGMに、ミニバンを走らせること十分と少し。

 

 滑らかに、規定の駐車場にミニバンを入れる。たった一年で純丘の運転の技術が格段に向上しているのは、同乗者が高確率で危険行動をかますせいだ。

 

「さてつい……えっ寝、えっ全員? マジで?」

「……っせえ……」

「ご、ごめ……いや俺なにも悪くねえな? はよ起きろ〜着いたぞ〜」

 

 そしてこの十分弱で爆睡した少年らを叩き起こす。

 

「フクブにしてはまともな旅館。最近やけに羽振りよくね?」

 

 三階建ての旅館を見上げて、純丘にそう問うたのは竜胆だ。

 民宿ではなくなんならわりと新築で、立地が悪いわけでもなく、典型的な家族旅行に選ぶよりは少しお高め、ぐらいの外観。

 

 ちなみにこの元後輩、車の出入口にわかりやすく置かれたビニール傘をガン無視して、先んじて傘を差して外に出ていた純丘のところに、当然の顔をして身体をねじ込んできたのがついさっき。

 

 この雨で傘を差す手間ぐらい面倒がるな。

 

 純丘の目がなにを物語っているかは、竜胆ももちろんわかっている。

 わかった上で無視している。

 

「否定はしないがこれは人からちょっと融通して貰った」

 

 諦めて、純丘も同じく旅館に視線を移す。

 

「ああ、あのハゲチャビン。ちょっと前にパシられてたよな、そーいや」

「うん、その報酬。……旅館内では悪口含め口にするなよ?」

「事実って悪口かよ……ハァイハイ」

 

 わざとらしく肩をすくめた竜胆が、それからなにかを思いついたように、にやり、あくどく笑った。

 

「てかフクブ、買い叩かれてんじゃん。なに頼まれたか知らねえけど、あの狸ならもうちょいマシなもんいくらでも出せんじゃね?」

「ははは。まさか俺がガメたのがそれだけだと思ってる?」

「……詐欺師?」

「なんでそうなるかな」

 

 すんとした純丘に「おーすげーすげー」竜胆は棒読みで応じる。

 

 しょうもないやりとりを交わす間に、他のメンバーもめいめい傘を差し——鶴蝶は何故か二本持ちで、めいっぱい腕を伸ばしてイザナに差し掛けているが——車からぞろぞろと現れた。ちょっとした百鬼夜行である。

 

 ところで。

 全員揃えば特に目立つのは、明らかに苛々としているイザナだ。

 

 部屋で靴を脱ぐのも動作が鈍いあたりで「黒川くん」と純丘がさすがに声をかけた。

 

「頭痛薬っていつも何飲んでる?」

「ハ?」

「威嚇しよる……飲んでなさそうだな。近くの薬局で薬買ってきたから飲んで寝とけば?」

 

 きつく目を眇めたイザナの隣で「それまじで効くんすか?」鶴蝶が尋ねた。純丘は軽く首をひねった。

 

「効き目には個人差があるな。あと、痛み始めてると効くまで時間かかるってのは聞いたことある……ただ、ここまで調子悪いと飲まないよりはマシな可能性が高い。内臓ぶっ壊したり血液検査で異常が出たことは?」

「イザナは……気圧低いときいっつも調子悪ィ以外は、俺が知ってんのだと、風邪とかも一回もなってねえっす」

「丈夫だな。ンなら飲んでも平気じゃね? 確信を持って言えるわけじゃねえが」

 

 ぱきんと錠剤を落とされて、嫌そうに摘み上げたものの、イザナは大人しく飲み込んだ。「水と飲めよ」渡されたペットボトルをこれまたぐっと飲み干す。

 飲み干した容器をてのひらに押し付けるから、ぺけ、間抜けな音が響いた。

 

「寝る」

「オヤスミ」

「えーイザナ飯は?」

「いらねえ」

「飯はどうしても血流良くなるからな。頭痛の種類によっちゃ悪化するし、食えるときでいいだろ」

「純丘くん詳しいっすね」

「知り合いが頭痛持ってたから、話を聞く機会が多くてな」

 

 鶴蝶と純丘の会話のうちにも、イザナは、灰谷兄弟が下敷きにしていた座布団を引き摺り出し——転がり落ちた二人は「言えば退いたワ!」などと喚きながら起き上がった——それらを並べて寝転がる。

 

 傍若無人度はいつにも増して著しい。それだけ他人に興味を向ける余裕がない、とも、言える。

 

「あいつはどっか専門のとこ行ったら改善したらしいけど、別に全部が全部治るもんでもねえからな。俺には、黒川くんの頭痛は気圧由来の気象病に見えるが……俺の見立てが間違っている可能性は否定しないし、合ってたとしても、それはそれで対症療法しか効かないだろうし」

「たい……」

「対症療法。ものすごく悪い言い方で表現すンなら、その場しのぎの治療、とも言い換えられる。早めに痛み止め飲むことはできても、頭痛が起きる原因をなんとかできるわけじゃない……で、なんとなく伝わるか?」

 

 てのひらの上で弾ませていた薬の箱を、それから純丘は無造作に放った。

 狙いは鶴蝶の胸もと、反射で受け取った彼に「そのまま持っててくれよ」男は軽く手を振ってみせる。

 

「指定された飲み方を守らねえと効くもんも効かなくなるから、本人より君に任せたほうが確実だろ。……あとまあ市販で頭痛薬銘打ってる薬はだいたい普通に怪我の痛みにも効果ある」

「もう五箱ください」

「今度な〜」

 

 怪我にも効くとわかった瞬間食いつきがいい。

 純丘は笑顔ですげなく答えた。最初から大量に渡すといよいよ用法用量を守りそうにない。

 

 ドラッグストアで売ってるにしたって俺が自分の手では渡したくはないよ。

 

「頭痛って怪我と一緒の痛み止め効くんだな」

 

 これはもそもそと煎餅——部屋についていた茶菓子——を食べていた望月の発言だ。

 

「二日酔い頭痛とか効きにくいけどな。まあ黒川くんの場合は効く可能性が高いだろうなと思……」

 

 そこで純丘は言葉を止めた。

 加えて微妙に視線を逸らすので、望月はいかにも訝しむ様子で、純丘の方をを見遣った。なおその手は次の煎餅のパッケージを開けている。

 

「……なんだよ」

「……薬への耐性があると、話は変わってくる、が」

「……まァイザナわりと単純だから効くんじゃねーの」

 

 望月も微妙に視線を逸らした。

 薬への耐性がないとは言わないあたりが正直だが、誤魔化しに選んだ語彙のせいで後頭部に座布団が直撃。「テメコノヤロ、」当然ながらキレ気味の望月、飛んできた赤茶の布地を、クッション材ごと掴んで振り返る——身を丸めて座布団を頭から被った少年に、長い沈黙を挟んで、諦めて座り直した。

 

 飛んできた座布団は足の下に敷いた。

 

 鶴蝶曰く風邪ひとつ引いたこともない健康優良児が、なぜ薬に耐性があるのか……とりあえず一旦置いておこう。プラシーボ効果に期待しよう。

 食事は部屋に運ばれた。上げ膳据え膳——彼らが他の客の前で騒ぎを起こした場合、収拾をつける自信は純丘にはない。利用できるサービスは大人しく活用するが吉である。

 

 置いていかれたら、それはそれで不機嫌になるのが黒川イザナくんですしね。

 

「ウワ俺金目鯛ムリなんだけど」

「竜胆オマエ子供舌直ってねえわけ?」

「ウッッッゼ」

「マジウケる〜食わねえなら寄越せヨ」

 

 弟の好き嫌いに大爆笑しながら、横から箸を伸ばして突っつく兄。本気で嫌な顔しながら金目鯛の乗った皿ごと兄に押し付ける弟。

 その斜め前の斑目は、マナーも知ったこっちゃなく、目の前に並べられた食材すべて、頬に詰められるだけ詰め込んでもっちゃもっちゃと咀嚼していた。

 

 そのままなにかを思いついたのか「てか」と彼は弾んだ声で切り出した。

 頬に詰めた食材のせいで声はくぐもってもいる。呑み込んでから喋ったほうがいい。

 

「さっき見て回ってきたんだけどよォ、ここ部屋付きの露天風呂あったわ。ガチで広い、俺ら全員入ってもフツーに余る。てことで俺一番風呂な」

「テメェには今もひっきりなしに鳴ってる雷も雨も風も聞こえてねえのか?」

 

   ガンゴロゴロドンピッシャーン!

 

 望月のツッコミの背後でタイミング良く響くSE(サウンドエフェクト)

 

 誇大表現でもなく本当にひっきりなしに鳴っている。下手な雷も数打たれればそりゃあひとつふたつタイミング良くも聴こえよう。

 

「え〜いいじゃん? 屋根から手ェ出してどいつに雷一番早く落ちるか競争しようぜ」

「兄貴そういうけどさ、手じゃ早々当たんなくね。枝……ヤだめか……凧ぐらい必要だろ」

「本気で死ぬ気か?」

 

 笑顔で狂気的な提案をする蘭と、真面目な顔つきでさらなる手段を講じる竜胆。

 静かに尋ねた純丘に対して、彼らは各々白けた顔つきを見せる。

 

「ジョークとマジの違いもわかんねえのかよ」

「面白みのねーやつ」

「なんでこいつらと付き合いを続けてるのかわからなくなってきた……」

 

 それは普通に純丘だけでなく、灰谷兄弟も、彼らの周辺の人間たちも、いまいちわかってない。そもそもわかっていたことがない。

 ぱちん、と手を閉じて「ごっそさーん」蘭は醒めた声色で言った。

 

「冗談通じねえ真面目チャンはほっといてフロ行くわ」

「ドーゾお先に。俺は君らがいない部屋を思う存分満喫しておく」

「ァア゛ン!?」

 

 せせら笑う元部員を雑にあしらう元副部長。彼らのやり取りに、抗議の声を上げたのは斑目である。

 テーブルの天板には勢いよく箸が叩きつけられた。

 

「箸、折れてないよな……?」

「だァから俺が一番風呂だって!」

「残念だったな、テメーらは俺らの残り湯で我慢しろ?」

「っぱ先入れたやつの勝ちだろ」

「俺に足の速さ勝負とかいい度胸じゃ〜ん? 勝てると思ってんのかよ」

「兄貴やる気になってんだけど……なーカクチョー」

「悪い、俺朝風呂派」

「ノリ悪……イザナは? 風呂行かねえ?」

 

 竜胆の誘いに、イザナは無言で、座布団を更に深くかぶることで答えた。

 彼が今苦しんでいるのは、血管が拡張することで痛くなるタイプの頭痛だ。風呂に入って血行が良くなれば、もっと酷く痛む場合も多い。

 

 それはそれとして。

 

「……テメェら、ウルセェ」

「ア、ウーッス……」

 

 ドスの利いた声色で付け加えた王将に、竜胆の返答もうっかり引き攣った小声。

 ただでさえ頭痛で神経過敏になってンだよグダグダ騒ぐんじゃねえ、ぐらいの圧があった。意訳としてはたぶんだいたい正解。

 

「じゃあ俺らだけ……アッ置いてくなよ!? 兄ちゃん!? 獅音センパイ!? 望月(モッチー)!?」

「竜胆ビリなー!」

「はぁー!?」

 

 しかし竜胆少年はわりと抜けたところもある。

 寝巻きをひっつかんで、風呂場へと駆けていく最後の一人。言ってるそばから全力で煩い。

 

 イザナが座布団の下で深々と溜息をついたのは、取り残されたメンバーしか聞こえていない。

 

 ドタバタわあぎゃあ喧しいのはイザナでなくとも肯定するところだ。いい部屋なので広い上に防音が効いている、はずなのに若干叫び声すら聞こえる。

 ……あの声、もしかして斑目くんが熱湯に突っ込んだか? 純丘は訝った。様子見に行くのが億劫だったので放置した。

 

 幼児でもあるまいし問題ないだろ、希望的観測を見込んでおく。

 

「てか黒川くん、布団入ったらどうだ。敷いてあるし」

「……」

「……純丘くんイザナこれガチで寝てます」

「まじかー……」

 

 さて、この場に留まっているのは風呂を断ったメンツだ。

 つまり、騒音がなくなった瞬間すこーんと寝落ちたイザナと、静かなうちに課題を済ませようといそいそプリントを広げる純丘、朝風呂派の鶴蝶の三人が内訳。

 

 実額経費がこれだから、ぷつぷつと純丘はつぶやく。鶴蝶は、座布団の上で足を組み替えた。

 

「……純丘くん」

「ン」

「マイキーの家って、今どんなかんじなんすか」

 

 シャーペンを回す手がぴたりと止まった。

 

「……君が言及するってことは、佐野家の人たちが、今、黒川くんに対してどういう態度なのか聞いてるってことでいいか?」

「あー……まあ。そっすね。……たぶん」

 

 鶴蝶は頷きながらも、言葉を探しているようだった。

 

「たぶんか」

 

 純丘は短く応じた。少し考えてから、一旦シャーペンを置いた。

 

「イザナにとっちゃ、家族ってことでしょ。血が繋がってなくても。生きてる家族、ってか」

「……それで?」

「……イザナが、イザナの兄貴のことめちゃくちゃ好きだったのは、見てたんで」

 

 鶴蝶はそこでまた、難しい顔で押し黙った。

 深く息を吐く。喉を鳴らすように唸る。

 

 めちゃくちゃ悩んでるなあ、とは、純丘の呑気な感想である。

 

「このまんまで、イザナにとって、いいことなのかわかんねえっつーか」

「……まあなるほど。君は相変わらず黒川くん思いだな」

「……褒めてます?」

「褒めてる褒めてる」

 

 相槌の言葉自体は雑に聞こえるが、彼のトーンはある程度平坦になっていた。真面目に話す際の声色だ。

 

 ローテーブルについていた肘を一旦下ろして、純丘は座布団の上で腰を落ち着け直した。

 

「一応君、自分が正しいかいまいち自信ないだろ」

「余計なことかもなってのは……思ってます」

「だろうな。だからって、全肯定してんなら、その言葉は出てこないだろうし」

 

 続けられた言葉に、鶴蝶は一旦口を噤んだ。

 きゅっと唇を内側に丸めている。立てた片膝を腕で抱えるように姿勢を変える。視線は足先に落ちている。

 

「……俺の親は死んでますけど。イザナの兄貴も死んでますけど。イザナも、マイキーたちも、そうじゃねえんで」

 

 そこでまた言葉が止まった。ヘテロクロミアが二度、三度、瞬いて、少し長く目を閉じた。

 

「……純丘くん、イザナの兄貴の葬式行ったじゃないすか。イザナと」

「……まあ?」

 

 純丘はゆるく首をかしげた。

 正確には通夜だが、わざわざ重箱の隅をつついても無意味だろう。

 

「線香上げにも」

「行ったな」

「あと墓参り」

「うん」

「……ぶっちゃけ、アンタがめちゃくちゃすげーことしたとは思ってねえんすけど」

「おう」

 

 ドストレートな評である。

 実際、すごいこと、と呼べるようなことはなにもしていない自覚があるので、純丘も素直に頷いた。

 

 ちょっとびっくりはした。

 

「けど……アンタがイザナを引き摺ってって。イザナが家族と会って。イザナの兄貴とお別れして。……たぶん、こう、なんか、デカい部分が変わったんすよ。わかんねーけど」

「黒川くんの心持ちみたいな?」

「それは。……そうかも、あーイヤ、どーなんだろ……。それもだけど、なんつーか、もっと、外側? みたいなもんが」

 

 息を吐き出して、鶴蝶が視線を上げる。その目が純丘の顔を捉えた。眼前の男が、ぱちぱちと目を瞬かせる様子は、たぶん、鶴蝶の言葉をいまいち掴み取れてないようだった。

 

 そのまま、鶴蝶の視線は部屋の中を横切った。

 座布団を二枚、それぞれ肩と腰の下に敷いて、もう一枚を被ったイザナは、そのまま静かに呼吸をしている。

 

「うまく言えねえけど……」

「……まあ、うん。そうか」

 

 純丘は、とりあえず、相槌を打った。

 彼にもやはり、鶴蝶の言いたいことがいまいち見えていない。曖昧な返答がそれを示している。

 

 鶴蝶はおそらくなにか、彼にとって——あるいはイザナにとって——とても重大な変化を感じ取ったのだろう。くらいはわかる。

 

 といってもだ。

 言語化し難いことは世の中にはあふれるほどに存在する。言語自体、定型を組み合わせることで意思疎通を図るツールでしかない。既存のテンプレートに当てはまらないこともある。適切なテンプレートがあるとしても、存在を知らなければ使うことさえできない。

 

 齢十代前半の少年、同年代の平均よりも語彙を知らないのであれば尚更だ。

 

「……それで?」

 

 ゆえに、潤滑剤代わりにひとつ、話を促すように尋ねた。

 

 今言語化できないことを追及しても、有益になるかどうかは、正直半々だ。

 問題を解くときと同じ。わからないことは、一旦後回し。

 

「それで……」

 

 鶴蝶はまたしばし、黙り込んだ。

 

「……イザナは、こう……吹っ切れたわけじゃねえけど。一旦、収まれるとこに収まったみたいに、俺には」

「うん」

「ただ、それが……イザナがホントにちゃんと行き着けたのか。それとも……諦め、っつうとたぶん、微妙に違うんですけど」

「妥協?」

「だ……すみません、なんて意味っすか」

「目標通り、理想通りじゃないけど、まあこんぐらいできたならいいか、的な」

「あー……それです」

 

 純丘が提示した言葉も、完全に正しいとは言い難いだろうが、鶴蝶の感覚ではかなり近いところを掠ったようだ。少年はひとつ頷いた。

 

「んー……」

 

 言わんとすることは、わかってきた。

 

 純丘はなんとなくテーブルに指を滑らせる。指先では、コーティングされた天板の感触を確かめて、脳内では今しがたのやりとりを反芻する。その上で言葉を組み立てる。

 

「……そうだな。とりあえず一回話を整理するか」

 

 要点としては三つだ。

 

「黒川くんの現状は、とりあえず真一郎さんへの気持ちを整理して、佐野一家とは縁を断つ方向になってる」

「はい」

 

 ひとつ。

 黒川イザナという少年の選択。

 

「鶴蝶くんはそれを、ひとつの区切りだと思ってる。同時に、これが……そうだな、決着かどうか、決着にしても黒川くんにとって本当に良いことか、悪いことか、あるいはそのどちらでもないのか、わからない。動かしたら、良くなるのか、変わらねえのか、悪化するのかも、わからない」

「……はい」

 

 ふたつ。

 それに対して、鶴蝶という少年が思っていること。

 

「今のところ〝一旦収まった〟ことを動かすとしたら、君は、それは佐野一家だろうと考えてる。特に気にしてるのは、万次郎筆頭に、生きてる人たちか? ただ、そも佐野一家のことをあまり知らねえから、君の知人でも佐野家と関わりが深くて、黒川くんの決着にも一部関わってる俺に、とりあえず聞いた」

 

 みっつ。

 鶴蝶の思考から導かれた、彼のやりたいこと。および、純丘にそれを話した理由。言い換えるなら、話す相手に純丘を選んだ理由ともいえる。

 

 鶴蝶に聞かせる目的はもちろん、自身も言語化がてら、純丘は粗方を慎重な口調で述べた。

 

「俺はこんなふうな理解をしたが」

 

 最後にそう取りまとめた彼に「だいたい合ってます」鶴蝶は再び頷いた。

 

「なるほどなー。なるほど。ずいぶん黒川くん想いだな」

「——そう、す、ね」

「……その顔面白いから、ちょっと突っ込んだことも言ってみようか」

 

 ローテーブルに頬杖をついて、純丘は柔らかく微笑んだ。

 

 自称品行方正な一般人。事実として成績優秀でクリーンな経歴。

 彼と、鶴蝶が知り合ったきっかけは、どこぞの兄弟を経由している。性格も素行も最悪と呼ぶに相応しい少年たちだ。鶴蝶が知る限り、純丘榎と灰谷兄弟の付き合いはそれなりに長く、それなりに深い。

 少年院上がりにつるみ出した者どもと比較しても、彼らは少しだけ長く、少しだけ深い付き合いを続けている。

 

 もちろん、純丘榎は一般人だ。それは誰もが認めるところだ。

 悪人に至るにはあまりに不足している。

 

「君の言葉は、ずいぶん傲慢だよな」

 

 それでも、善良の塊なわけもない。

 

「黒川くんが今のままでいいかどうかとか、佐野の人たちが大きな影響を与えるんじゃないかとか、そういう心配を君がするのは、ちょっと筋違いに見えることもあるだろう。なにより黒川くん本人がそう言って跳ね除けそうだ」

「……」

「他人から見た黒川くんの現状がどうであっても、改善したいと思っても、黒川くん本人にとってそれが改善に当たるのかは俺もわからない。君が身勝手に考えるものじゃあないし、押し付けるものでもない」

 

 純丘はそこで言葉を切った。彼の口元はやはりうっすらと弧を描いていて、目元は柔くたわんでいる。

 

 対照的に、鶴蝶は苦く顔を歪めている。

 

「このあたりが、君が、言われると思っていた——そんで、言ってほしかったことだと俺は見たが」

「……ホンットに性格悪ィ」

「そもそもな、正解のない相談事のたぐいは俺に向いてないんだよ」

 

 何故だか最近そういう機会が多いので、純丘は実は甚だ不本意な心持ちでいっぱいだった。

 

 頼まれた物事は、当然それなりの精度で遂行するのが彼のスタンスだ。ただそれにしたって最近はどうも数が多い。

 俺は駆け込み寺でも占い師でもカウンセラーでもないんだよ、というのが純丘の本音である。そろそろ専門家に頼め。

 

「まあ全く君の願望になにひとつ沿わない言い方をすると、そもそも君、そのへんわかって散々悩んだ上で聞いてきただろ? 黒川くんの性格も、ぽっと出の俺より把握してそうだし」

「ッス……」

「勝手に同情されたらキレて、これが一番良いって押し付けられたら暴れるんだから、扱いが難しい……改めて振り返ってみると本当に面倒な人間だな」

「純丘くん」

「悪い。つい本音が」

 

 咎めるトーンで言われたので純丘はちょっと肩をすくめた。さすがに咎められもする。

 

「そんで、君はそういう——まあストレートに言うなら、面倒な黒川くんを知っている」

 

 謝罪したわりに結局面倒とか言い出す男。本当に自称優等生である。

 鶴蝶の苦り切った様相に、純丘は笑みは崩さぬまま、ふと、目を細める。

 

 ひとは他人の感情を推し測る際に、表情、仕草、声色、言葉の内容、あらゆるものから無意識に印象を受け取っている。トーンに意地悪さが滲み出ていれば、柔らかな笑顔も揶揄いに見える。

 

 真剣な声で話していれば、笑顔は、相手を慮るように見える。

 

「君の一連の話は、わかっていて、それでも出た言葉だ。俺は最初言ったよな。〝自分が正しいかいまいち自信ないだろ〟って」

「……言ってたっすね」

「覚えてたならヨシ。……正しいと確信してるなら、わかってないなら、確かに俺も傲慢だと思ったかもな。でも、わかっていて、それでも出た言葉なら少なくともその心は傲慢じゃなくて思いやりだろ」

 

 鶴蝶は再び押し黙った。

 彼の表情は、眉を顰めた様相である。納得と不服の中間地点で惑っている。

 

「言っとくけど君に気遣って言ってるわけじゃない」

 

 純丘は素気無く言って、テーブルに置きっぱなしだったシャーペンを指先でひろう。

 

「というかむしろ、俺が突っ込みたいのは別のところだな。確かに黒川くんと真一郎さんの縁は深かったが、他の佐野の人たちで言うと、万作さんも万次郎も俺と一緒に二度会ったぐらいだし、あのエマでさえ十年以上前に三年こっきり暮らしただけだぜ?」

「いや、それは……」

「言わんとすることはわかるけど、黒川くんに変化を与えるとしたら、他に適役がいるだろ」

 

 訝しげに眉を寄せた鶴蝶が「……アンタですか?」「俺は手一杯です」尋ねるものの、純丘の返答は事実にしたって心底適当だ。

 

「ッスよね……いや、なら誰っすか」

「己の瞼は見えぬってやつか? 近すぎると気づかないものかな」

「は?」

「俺は君のことを言ってるが」

 

 しばしの空白。

 それから、鶴蝶の目がぱち、ぱち、と瞬いた。

 

 純丘はもはや鶴蝶から視線を外している。てのひらで何度かシャーペンを握り直して、ノートにペン先を走らせている。

 

「俺?」

「そう」

 

 視線を外したくせに肯定だけは早い。色違いの双眸が、もう一度瞬く。

 

「それは。……無理だろ」

「そうか?」

「そうスよ。俺は……下僕だし」

「俺にはよくわからんが。それは理由になるんだな」

 

 疑問を示す以外は、極めてフラットなトーンだ。否定を含んでいるわけではなく、意味ありげでもない。

 

 鶴蝶の回答の根拠が、少なくとも純丘にはわからない、というだけ。

 

「イザナが……荒れたのは、イザナの兄貴とか、そのあたりが原因なんで」

「まあそこは俺もなんとなく察しているが。それで、君が、自分だと無理だと思う理由になるのか?」

 

 鶴蝶が奥歯を噛みしめる。

 

「……俺は佐野じゃねえんすよ」

「そうだが……そうだな」

 

 問題文をなぞっていた視線が、再び、鶴蝶に向けられた。

 純丘の掌中でシャーペンが回る。一回転で三六〇度。二回転で七二〇度。

 

「でも黒川くんも佐野じゃないぜ」

「——それは、」

 

 それは。

 事実だ。

 

 事実だ、しかし——それは、あまりにも酷薄な言い方だ。

 

 絶句した鶴蝶に、純丘の表情からは既に笑みも消えていた。

 眼前の少年の表情が愕然としているのを、しばらく観察して、それから口を開く。

 

「彼がなにに拘ってるのか、俺は結局なにも知らないよ。他人だからな。君が自分は無理だと思っている原因も、俺は他人だから知らないよ。俺はあくまでも、俺から見て、思うこと考えられることを言ってる」

 

 たとえば純丘は、鶴蝶の苗字を知らない。鶴蝶という呼称が、本名であるのかも知らない。

 初対面の際、身柄請書には少なくとも本名を記されていたはずだが、鶴蝶と呼ぶように言われた時点で迅速に記憶から消去したので、一文字たりとも思い出せない。純丘本人はまあいっかと思っている。

 

 呼び方は定まっているので敢えて聞く必要もない。今回の主題はそこではない。

 

 鶴蝶とイザナは、純丘と灰谷兄弟よりも付き合いが長い。関係の内情も、より密接で、より深い関係にあたるだろう。

 苗字を名乗らない少年をそばに置いておきながら、イザナは、彼の苗字を捨てていない。あるいは純丘榎という男のように、別のものと取っ替えた苗字でもない。

 

 黒川イザナという少年は、その名前は、本名だ。

 彼はあくまでも()()イザナと名乗っている。

 

「俺から見ると、鶴蝶くんが無理だと思う理由はわからないが。まあ君が無理だと言うなら無理なのかもな。俺より君の方が黒川くんには詳しいだろうし」

 

 それらすべて、純丘榎という男の思考であり、台詞であり、価値観だ。そうでしかない。

 第三者かつ赤の他人、鶴蝶とイザナの心や関係や人生に、まるで責任を持たない立場からの言葉だ。

 

 純丘榎は解法のない相談には向いていない。本人が公言している通りである。

 

 シャーペンの先でかつんとノートをつつく。

 課題に再度集中し始めた男を、見つめて、鶴蝶は唾を嚥下した。このたった数分のうちに、喉が酷く乾いたようだった。

 畳についた手が、わずかに滑ったので、手汗が滲んでいることに気がついた。Tシャツの端でてのひらを拭った。

 

「……コンビニ行ってきます」

「行ってらっしゃい。道わかるか?」

「ッス」

 

 立ち上がって、靴を履いて、鶴蝶が扉を開けたところで、彼がローテーブルに財布もケータイも置きっぱなしなことを指摘するか純丘は迷った。

 

 やめた。

 

「……やらかしたかな」

 

 独りごちるように純丘は言った。すぐに、言葉を続けた。

 

「君はどう思うよ?」

「……」

「話題の御本人だろ。黒川くん。頭はまだ痛いか?」

「……オマエマジで性格ドブだよな」

「ドブでは……ないと思う」

 

 溜息をついて、イザナは寝返りを打った。

 

「さっきよりマシ……」

 

 電灯の眩しさにちょっと眉を顰めて、目元に左の手の甲を乗せる。

 

「……てか、途中からしか聞いてねえけど」

「ああ、やっぱそうか」

 

 ベッドに行けと勧告したときは間違いなく彼の呼吸は寝息だった。だから鶴蝶も話し出したのだ。

 そして会話の最中には、もはやイザナを気にする余裕もなかった。純丘がそのように誘導した面は、否めない。

 

「だから。……しらねーよ」

 

 とはいえイザナの側も、短時間でもうたた寝していたのは事実である。不調なことにも変わりはない。

 発声と発音は拙く、手の甲で光を遮ったイザナは、再び目を閉じている。

 

「俺にもわかんねえ」

 

 茫洋とした響きを宿していた。

 

「そう」

 

 純丘は短く相槌を打った。

 

「なあマジでマジでフクブくん聞いてくださいよ竜胆が」

「ああ゛あ待っセンパイ獅音センパイなに奢ればいっすか!? 会社!? マンション!?」

「奢る規模がデカい」

「お、おう……いやドリンクとかでいい」

「必死過ぎ〜獅音のが引いてんじゃねえか」

 

 風呂から出た途端に騒がしい。イザナは深々と溜息を吐き出すと、おもむろに立ち上がった。

 

「寝る」

 

 言い残して、ぴしゃんと寝室の引き戸を閉めた。「オヤスミ」これは二度目の挨拶。

 いい加減怒らせそうだし大人しくしとくか……とものすごく今更の自制心が働いた少年たち、うち望月がぐるりと室内を見渡す。

 

「鶴蝶は?」

「散歩行った。コンビニ覗いてくるってよ」

 

 純丘はさらりと答えた。

 

「ああ、そういや朝のプロテインねえな……買ってくるか……」

「ちょーどいいナ、竜胆奢ってくれよ」

「ウッス」

 

 風呂組も各々の理由で外出の支度をする中、静かに目を細めたのは蘭だった。

 純丘を見下ろして、その肩に手を置く。ついで、体重をかける。

 

「重い」

「鶴蝶に何言った?」

 

 述べた文句を無視して尋ねるので、純丘は深々と息を吐いた。つくづく厄介な後輩を持ったことだ。

 

「……君、意図的にみんな煽ったろ」

「話しやすい空気作ってやった功労者によォ」

「ハイハイ」

 

 純丘のあしらい方もおざなりなものだ。ただし、彼の声色は平坦だ。

 ふざけているときの声は、そうではない。当然、蘭も、よく知っている。

 

 少しの間、斜め後ろの位置から横顔を観察して、ふっと蘭は息を吐いた。

 

「まァフクブに大した期待してねーけど」

「怒っていいか?」




走ってると死ぬ
:暴走族は抗争よりも交通事故でよく死にがちとのこと
 無免許運転って危険なんだね

台風
:平成17年台風14号
 のちに激甚災害として指定される

バックビルディング現象
:前述の台風が訪れた際に実際に見られた現象
 めちゃめちゃ割愛すると、積乱雲がめっちゃ生まれるのでゲリラ豪雨がずっと続く、みたいな現象

痛み始めてると効くまで時間かかる
:ロキソニンやカロナールは「痛みを感じる成分をこれ以上生み出すのを防ぐ」という効果がある
 体にとっくに回ってる痛みを感じる成分は消せないのでずっと痛い

血管が拡張することで痛くなるタイプの頭痛
:偏頭痛はだいたいこれ
 ストレスから解放されたときになりがちなので、学業や仕事がストレスの場合、解放された週末に倒れる人も多い 保冷剤とか当てるとマシになりがち
 血管が収縮することで痛くなるタイプの頭痛もある

凧ぐらい必要
:本当に落ちたら死にます
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