爛れてくっついた火傷の痕跡は、時折——ほんとうに、時々、神経の上を這い回って、身体全体を苛む。場合によっては、心までもに纏わりつかれる。辟易する。息を吸って、吐く、それだけのことがどうしてこんなにも重たくて苦しい。
そういう日は、雨の日のことが多かった。
雨だとか、雪だとか、とにかく、天気が悪い日は、そういうことが多かった。
……多いというだけで、そうではないことだってある。
と同時に、天気が悪くない日にも、こちらもときたま、衝動に類似した倦怠感が、眼球の上を静かに這った。不快感を伴って、ざりざりと瞼に貼りついて、それから。
それから、じわじわと、全体に広がりいく。
親友はよく、そのことに気づいた。
てのひらはいつだって、彼のことを気遣うように伸ばされた。事実として気遣われていた。
それが、まれに——本当にまれに——煩わしかった。
なぜかはわからない。いや、というより、わかっていたのだろう。奥底では。わかっているのだろう。こちらもまた事実として。
わかっているけれど、それをどう表現すべきか、まだ、言葉を持ち合わせていない。言葉以外の、ありとあらゆる表現でも、同様だ。
なにより。
見たくない、のだと、思う。自分が。
……たぶん。
「おーい。大丈夫か? いや、大丈夫かって聞くのはよくねえな……あー……」
そこに親友はいなかった。わざと離れて行動していた。
彼は今日、晴れ渡った空、強風が吹く中、どうにも煩わしくなってしまったからだ。煩わしく、そんな自分が——なんだろう——とにかく、彼は親友とは離れて行動していた。
自分が不調なことはわかっていたけれど、どうすればいいのか、わからなかった。
途中から、いろいろと、どうしようもなくなった。
電信柱のふもと、アスファルトにぬるく体温が移っていく。人々は避けて通る。
ただ、少年は、蹲っていた。
「……君〜、聞こえてる?」
肩を何度か叩かれる。煩わしく、振り払った。
「イテ。まあ、ヨシ、生きてる」
靄がかったように動かなかった頭が、違和感に、触れた。気がした。
億劫がる己を自覚している。のろのろとした思考の中、背景の騒音として捉えていた情報を、もう一度、捉え直す。
「要らなかったら、もう一回叩くなり、手をぱたぱた振るなり、とにかく、反応してくれ」
彼には、聞き覚えのある音だ。聞き覚えのある声、とも言える。
「要るんだったら、なんにもしなくていい。質問はいくつかある。とりあえずひとつめ、救急車呼んだ方がいいか?」
思いっきり叩いた。
灯台下よりも光届かぬ遠くが暗し
純丘は、正直最初は通り過ぎようと思っていた。
純丘榎には世話焼きの側面こそあるが、それらを全方位に振り撒きはしない。他者に優しくするには、当人の気持ちと、時間と、その他必要に応じたリソースを求められる。
純丘はそのリソースを知人には惜しみなく使う代わり、他人には、身についた処世術以外のリソースを一切割かない。見捨てたと判断されそうな状況ならば話は別として——罪に問われかねないので——まず、自ら動くことはない。
立ち止まって、声をかけたのは、ちらっと見えた顔に見覚えがあったからだ。つまり他人ではなく知人だった。
知人といっても、乾青宗という少年と純丘榎なる男は、一回だけ自己紹介をしたことがある、ぐらいの立ち位置だが。
今のところ、純丘は乾よりも、彼の友人兼幼馴染たる九井一との交流の方が深い。ビジネスとか、利害の一致とか、一時的な協力関係とか。彼らの交流とはすなわちそういう意味だ。
……だからこそ純丘は乾にちょっとした負い目があったりする。
具体的には、九井との交渉を進める際に度々引き合いに出してるとか。いや俺にも罪悪感ぐらいあるんですよ躊躇なく人質取るにしてもね。
罪悪感を抱くぐらいなら最初から人質に取るなという話ではある。
「ほら」
缶コーヒーにハンドタオルを巻いて、乾の手に持たせておく。少し歩いた先に自動販売機があったので、ホットのブラックコーヒーを買ってきた。熱されたスチール缶。タオルを介して、柔らかになった温度を伝えてくれる。
タオルごと目元に押し当てた乾は、詰めていた息を吐き出すように、深く、呼吸をした。
「……ッあー……」
「オッサンみたいな呻き声だなー」
「うるっせ……」
「ふふははは。言い返す元気はあるようで」
意地の悪い笑いを浮かべた男は、乾の横にしゃがみ込んだ。乾は、もう二度呼吸をして、それから声を絞り出した。
「……迷惑かけたな」
「そうでも。バイト帰りで大した予定もない」
プルタブに指を引っ掛けて、純丘は自分の缶コーヒーを開ける。
「最近季節の変わり目で気圧安定してないから、君の場合それかもなあ。低気圧だと古傷が痛みやすいって言うし」
「……そー、なのか」
「そうそう。むくみやすくなって神経が圧迫されるとか、神経周りに炎症が起きやすくなるとか。気温が関係している可能性もあるが……元々天気で左右されやすいんなら、気圧っぽいなと思うよ。どっちにしろ暖めりゃ多少は楽になるだろ」
言いながら、純丘はコーヒーに口をつけた。すぐに唇を離した。
シンプルに熱かった。
「まァ俺が知ってるのはあくまで通説レベルの話だから、気になったら調べてみてもいいと思う」
「病院は金がかかる」
「そこは同意する」
謎の連帯感はさておき。
「まあ病院じゃなくとも、たとえば図書館とかな。家庭医学がどのへんに分類されてたかは忘れたが……たぶん41なんちゃらとか、59……8……?」
純丘は自他ともに認めるデジタル苦手マンだ。
それでも(主に家庭の事情により)優秀な成績を維持する必要があり、また様々な知識が必要だった。
調べ物の一環として図書館愛用者へと進化したのは、ある種当然の帰結だとして。
「……気が向いたらな」
乾は小さく答えた。限りなく感情を排した物言いだった。
「まァメカニズムを知らなくても対処はできるしな」
純丘は、今度は慎重に、缶コーヒーに口をつける。唇に触れる程度の量をちみちみと飲むことにした。熱いので。
乾はしばらく、目元にタオルを押し付けて、虚空を見ていた。
ぼんやりと青い瞳が瞬いた。ぬくい熱が、乾の目元に染み込んでいく。
「……そーいや、ココとなんかあったのか。あんた」
こくりと喉が鳴る。食道の内側が一瞬熱く燃えた。
熱湯の痛みは面に出さないまま、純丘は一瞬考えた。ココという呼び方は、かろうじて、記憶の端っこに引っかかっていた。
「……ココって、九井くんだよな?」
「そう」
「彼、俺のことなにか言ってたのか?」
「なにがあった?」
混ぜっ返した瞬間、即座に畳み掛けられた。純丘は思わず乾を見た。無表情な碧眼が、片方だけ見返している。
乾青宗は、決して搦手に詳しいわけではない。それこそ、よっぽど彼の親友の方が、駆け引きには慣れている。
……ゆえに〝細かい話とかよくわからないからとりあえず答えてくれないか〟で押し通そうとする。
本当に腹の探り合いをしようと思っている相手には無効だとして、そうではない純丘にはたいへん覿面だった。
「……ちょっとした無理を頼んだかなー」
純丘の瞳は限りなく遠くを眺めている。心当たりがあり過ぎる。
「俺は今日あんたがいてくれて助かったけど、そういえば、ココはあんたにはあんまり関わるなって言ってたから。最初そうでもなかったよな」
「……ごめんな九井くん」
「なにがあったんだよ。ココも別にあんたのこと嫌いってよりは苦手みてーだし」
「ほんとごめんな九井くん」
「マジでなにがあったんだよ」
この話を本人ではなく、おそらく九井の弱味と思われる少年から齎されていることもふくめて、著しい罪悪感。
振り返って考えてみれば全面的に純丘が悪い。
「いろいろあったよ。いろいろ」
「それは、さすがにわかる……」
「なんか言われたら、苦労させてごめんなって話しといて。一応反省はしてます」
「だから……」
乾は半目になった。
要求するだけしておいて、結局一切情報が含まれていない。なにかあったのはどう考えても自明、そのいろいろの具体的な内容を知りたいわけだ。
もちろん純丘はわかっていて話を逸らしている。
「九井くんに聞いてください」
「ココは、教えられることならもう言ってる」
そしてこちらも、口を割るつもりはないらしいと乾もそろそろ理解した。
深く息を吐き出す。押し付けていた缶コーヒーとハンドタオルを剥がして、くしゃりと握ったハンドタオルを純丘に渡す。
「だいぶ楽になった」
「そりゃなにより。コーヒーは、飲めるならやるよ。開けてないし。飲めないんだったら俺が貰ってく」
「もらっとく」
懐に入れるまでのスピードが速かった。ちょっと笑った純丘に乾が怪訝げな顔をした。
躊躇いもなかったあたり、普段から貢がれ慣れているのだろう。
立ち上がれば、乾は危なげなくハイヒールで己を支えている。ブレない重心。履き慣れているし、体幹がしっかりしている証左だ。
おそらく古傷の痛みも和らいだだけで完全に治ったわけでもないだろうに——純丘はこっそり感心した。彼もまた、息を吐いて、立ち上がった。力を入れるときは息を吸うよりも吐く方が体幹が固定される。
「……そういや、アンタ、真一郎さんの家に入り浸ってたんだろ」
「……だいたい合ってるが……」
言い方にやや微妙な顔をした純丘に、とはいえ乾は気にした様子もなく——悪意はなく、単に言葉選びが雑——言葉を続けた。
「なら、マイキーは知ってるよな」
「……誰を指してるかは、わかる」
純丘にとっては不本意な評価だが、彼の存在は真一郎の周辺で〝佐野真一郎の家の小間使い〟という表現で知れ渡っていたらしい。ならばもちろん、佐野家の他の面々を把握してない方が不自然だろう。
一瞬のうちに判断して、純丘榎は短く答えた。
……一応彼も、知人との世間話、というノリで答えていい範囲とよくない範囲があることを、学んできている。乾青宗は東京卍會とは因縁ある
「仲良いか?」
重ねて尋ねる。
乾の、淡い色の瞳が、純丘の顔をじっと見ている。
「悪くはないだろうな」
「そうか」
曖昧な返答に、乾は顎を引いて頷いた。
「気をつけた方がいいぜ」
そのまま続けた。瞳は凪いでいる。変わらず。
純丘は、数拍沈黙した。乾の意図を推し量った。
言葉は少なく、文脈が掴みづらい。乾青宗は言葉で駆け引きをするタイプではないから、言葉の不足は、わざとではなく素だろう。
「……あー……それは、誰が、なにを気をつけろって?」
「アンタとマイキーが」
慎重に語彙を選んだ純丘に、乾の返答はシンプルだった。少し首を傾げて、なにを、と復唱する。
「そーだな。
「しら。……違うな、名前だけ聞いたことはある。どういうチームかは知らない」
かろうじてかすめた記憶は、久しぶりに遭遇した少年の顔だ。屈託もない笑みだった。
友達と久しぶりに遊ぶために気の緩んだ顔だ。揶揄われて翻弄されていた。
「
乾はつらつらと語った。
声色に含みはなく、ただ事実を述べるものだ。
「
前者はまだ記憶に色濃い名前だ。後者は、純丘は存在こそ知らなかったが、名称だけでどういうものかは想像がつく。
おそらく、特定のひとつのチームではなく、東京卍會に反感を抱く複数のチームが寄り集まったものだろう。
——脳裏を映像が過ぎる。記憶の中の声が再生される。
〝
彼らの推察は、この話を踏まえて考えるに、一部正しくて一部間違っていた。
東京卍會以外の人間、ではなく、東京卍會が嫌いな人間、だ。
あのときイザナは、勧誘の直前に〝死んでも入らねえ〟と東京卍會を拒絶していた。
重要視されたのはそこだ。今更ながら得心する。
「
どこか誇らしげな言い方だ。今の総長のことを乾は彼なりに尊敬しているのだろう。
「かっこいいな」と純丘は無難な相槌を打った。無難な相槌しか選べなかった。
推察に答え合わせがなる。解答をすり合わせて正誤判定が下る。情報は適時修正され、改善と改良を図る。より現実に近づけられる。
話が整理されゆく一方で、新たな問題が浮上する。
羽宮一虎は
「
乾はつらつらと言葉を並べていく。彼の左手は、ポケットに突っ込まれている。缶コーヒーの表面を爪の外側でなぞっている。
金属の容器は熱をダイレクトに伝える。純丘がハンドタオルで巻いてから乾に渡したのは、低温火傷を危ぶんだからだ。指の腹で触れるにはあまりに熱い。
二度、三度と、人差し指の爪がスチールにぶつかってかすかに硬質な音を響かせる。
「ココもわかんねえっつってるから、たぶんマジでろくに顔出してねえ。と思う。実際チームを取り仕切ってんのは、副総長の半間修二と、あと、№3」
乾は一度呼吸を置いた。無表情のまま、瞳の色だけがわずかに変わった。
——瞳孔が開いている。
彼の淡い色の瞳は、わずかな変化もわかりやすく反映する。
「名前は羽宮一虎。ほとんどのやつにとっちゃ、最近まで
その問いへの回答は是だ。
万次郎のかつての友人。場地圭介の友人。東京卍會の創設メンバー。そして。
……もちろん、乾が羽宮一虎という名前を記憶した理由も、推察できる。
純丘榎は不良のことなどわからない。暴走族のことなどわからない。なんとなく付き合いが長くなってきたとしても、副産物として知識が増えたとしても、結局、界隈そのものに所属したことは一度もない。潜入捜査モドキはさすがにノーカンだろうとも。
横から覗き見るのと、実際に体感するのは、ずいぶんと異なる。サッカーの試合観戦が好きだからといって、プロと同じようにプレイできるかといえば、それはまた別の話だろう。
そもそも、彼が普段からよく関わる不良少年のうち、過半数が少年院経験者だ。今眼前に立つ少年、乾ですらも、しばらく収容されていたことを純丘は知っている。
人を殺した経験があるメンバーも、多くはないが、いないわけではない。それこそ灰谷兄弟とか。
関わりの多いS62世代は特に、噂に聞く所業はどれもこれもが悪辣で、どこまでが真実で、どこから尾鰭背鰭かもわからない。
純丘榎という男にとっての日常からは、それだけ、かけ離れている。
この殺伐とした様相も、彼にとってはすべてが非日常だから差し迫って思えるだけかもしれない。もしかしたら普通のことなのかもしれない。
それでも。
なにか——あまりに、致命的なことが起きている。
得体の知れない不安と焦燥が這い上がって、喉元に迫っている。
「……
「ボスが否っつったら俺もそれに従う」
乾の答えはシンプルだ。本当にどうでもいいらしい。
一虎に言及したときとは打って変わって、フラットな声色には、感情を抑え込むような不自然さも消えている。
「俺の目標は
乾はちょっと肩をすくめて「さっき助かったから。一応。お礼」と言ってのける。
「ココが貸し借りは精算しとけって言うし」
「それは、正しいな……」
「つか、
「……若?」
「ボスの弟……弐番隊副隊長の柴八戒。家族のことになると面倒なんだよ、ウチのボス」
つらっと述べた乾が右手の人差し指を立てた。ささくれと拳ダコの目立つ指だ。
微かに頬を引き上げて、乾は初めて、純丘の目の前で笑った。無邪気で、穏やかな笑みだ。
「コレ秘密な。
「りょーかい……無闇な火種撒く趣味ないし。むしろ君がそれ言ってよかったのか?」
「良くねえから口止めしてんだろ」
「うん間違いない」
右手を開いて、ひらっと振って、乾は純丘に背を向けた。かつんこつんとヒールが鳴り響く。
どこへ行くつもりだったのか、少なくとも特攻服は着用してないので、チーム以外の用事の可能性が高い。純丘榎はそのへん興味がない。
彼は、しばらくその背を眺めていた。
手元に握っていた缶コーヒーの存在を思い出して、軽く呷った。
「アッツ」
意外とまだ熱い缶コーヒーを持て余して、さて、と純丘は天を仰いだ。
空はカラッと晴れている。秋空は高く見えるとはよく言ったものだが、確かに純丘も秋の空を見上げるたびに、その広さと高さを実感する。
相対的に、自分が小さくなったようにも思えてくる。
「……あー、くそ、わからんよ」
空を見つめて、純丘は、小さく悪態をついた。
所詮は彼もまた人生経験は浅い。秀才ではあっても天才ではない、超能力者でもない、たかだか生きた年数がようやく二十を過ぎた程度の男だ。
既にできた傷の手当はできたとしても、まだ起きてもない異変を突き止めて、事前に阻止するにはなにもかもが足りない。
かと言って、熱いコーヒーを一気飲みできるほど鈍感にもなれない。
スチール缶
:一九八五年にボツリヌス菌のリスクを危惧して自主規制していた慣習がまだだいぶ根強く残っていた時代
菌が増殖すると缶が膨張するのだが、スチール缶はその変化を感じ取りやすいため
ちなみにボツリヌス菌はミルク入り飲料の場合危険というだけなのでまあブラックコーヒーはそもそも関係ない
二〇一〇年代あたりからアルミ缶に置き換わる割合が増えている
低気圧だと古傷が痛みやすい
:気圧の低下によりむくみやすくなるとか
ヒスタミンが過剰に分泌されて炎症が起きがちとか
交感神経が活発になって血管が拡張して神経を圧迫するとか
ノルアドレナリンが痛覚神経を刺激するとか
痛くなった経験を身体が覚えていて勝手に不安定になるとか
諸説ある
複数の要因が重なってなることもわりとある
41なんちゃら
:日本十進分類表略してNDCの分類番号
41は数学なので無関係
49が医学、薬学
598
:前述同上
598は家庭衛生
病院は金がかかる
:ヒント・乾青宗の姉
限りなく感情を排した物言い
:ヒント・乾赤音がいつも寝てた場所
心当たりがあり過ぎる
:「方法を知らない」平等に無価値
「意味を知らない」on9.1
秋空は高く見える
:風向きの関係で不純物が空中に入りにくくて、結果遠くまで見えやすい
&天候や気流の関係で、より上層で雲が作られやすい
諸説あり