「部長さあ、場地と連絡取れねえ?」
「取ろうと思えば取れるが。なんか用事? 喧嘩の仲裁はめんどいからしねえよ」
「……喧嘩みてーなもんだけど、べつに俺の話はいいから。今何してるー? ぐらいで」
「俺はあいつのカノジョか?」
明らかに嘘をついてるな、そうでなくとも本当のことは言ってないな、と思っても、純丘がほとんどの場合それを追及しない。必要もなければ基本的に藪をつついて蛇を出す趣味はない。
万次郎が明らかに言葉を詰まらせて、変えたことも、そもそもいつも喧嘩したところで、人を使って様子を見るなんて回りくどい手を使わないことも、指摘しなかった。言葉に従う義理もないのではぐらかしておいた。
もとより、承ける必要も義理もない。
「もしもし俺で〜す。俺俺俺な。圭介?」
『オレオレ詐欺かよ』
承けない理由も義理もないので一応かけた。
此岸の火事
通話の向こうで、場地が思わずというふうに笑った。
「金巻き上げるのにわざわざ電話使う必要ないだろ」
椅子の上で足を組み、純丘は適当なことをほざいた。
電話を使わずとも金を巻き上げられるのは本当だ。やりませんけど。
『なんか用かよ? ……てか部長テンション高くね?』
「特に用はねえよ〜。テンションは、今日ガッコのやつらと飲み行ってきたからかもな。やや酔ってる」
『うわーずりぃ。なに飲んだ?』
「ははは……なに飲んだか言ってわかるのか? ずるいってなんだ?」
『引っ掛けやめろよ』
「勝手にコケてるのを俺のせいにされてもなァ」
意図してない墓穴を勝手に掘られた上に責任を押し付けられた。
呆れを滲ませてつぶやいた純丘は、そういや、と軽い口調で話を転ずる。
「君こないだ中間だったろ。テストどうだった?」
『……あー、まあまあ』
「ふうん? まあまあ。具体的には?」
『数学とか二七点だった』
「赤点をまあまあと言うなよ」
『まあまあだろ二桁は』
「一桁を前提に会話しやがる」
ちなみに純丘はその副業上、周辺の学校のテストのスケジュールをほとんど把握している。場地が通う中学において、二学期の中間テストは、一昨日たる木曜から、土日の休日を挟んで明後日の月曜まで行われる。
数学のテストの開催は月曜で、すべてのテストの返却は明明後日の火曜だ。
やってもないテストの点数が出せるわけもない。
この時点で、わかることはいくつかある。
場地が最近学校にろくに行ってないこと。少なくとも、二年の中間の数学のテストはまだ開催されてないと知らない程度には。それを純丘に、というか周囲に隠したがっていること。
隠したがるような、なにかがあること。
いくつかのことを考えている。いくつものことを考えている。
ほとんどの事柄が純丘には直接は関係ない。純丘の関与は、本質的には単なる余計なお節介だ。
「まァ、勉強で詰んだらまたこき使ってやるから頼み込んでこいよ」
『ウワ偉そー……』
「ははは。……真面目な話、正直手伝ってもらっててめちゃくちゃ助かってたからなー」
考える間にも世間話はくるくると回っていく。ケータイに結んだストラップを無意味に弄りながら、世間話と、関連性の薄い思考を同時に成立させている。頭脳の無駄遣いとはまさにこのこと。
「夏休みとりあえず乗り越えたけど、さすがに仕事量が多すぎて新規客取るのやめた。今後とも俺を頼ってくれ、俺も人手がほしい」
『部長そろそろフツーにバイト雇った方がいいと思うけど。それかパソコン覚えろよ』
「正直身に染みてるなあ。……あーてかそうだ、羽宮くんとか学校での成績どうよ。勉強教える代わりに俺に雇われてくれませんかね」
『イヤ俺がダメだからって俺のダチ狙ってんじゃねーよ』
「ははは言い方」
『てか一虎は。……一虎のカーチャンも、べつに成績とか気にしてねえみてえだし、部長はお呼びじゃねーだろ』
「オイ言い方」
わかることは増えていく。
場地は少なくとも、一虎をまだ友達だと思っていること。おそらく一虎本人も学校にはろくに行っておらず、学業に身を入れてないだろうこと。一虎の親も、少なくとも黙認はしていること。場地はそれらを把握できる立場にいること。
一虎が学校に来ない、ぐらいは同校の人間にでも尋ねれば割れることだろう。ただ、彼の親の態度まで知っているなら、未だ近い距離感と考えた方が自然だ。
酒を入れた頭でも、あいにく、純丘の思考は鈍らない。いつもよりいくらか軽快で調子のいい口ぶりだとしても、脳内はひどく冷静で、場地の言葉の端々から無意識に情報を引き出している。
そもそも純丘が今日、場地に電話をかけたのは、万次郎との会話があったからだ。
喧嘩みてえなもんという言葉は、限りなく誤魔化した言い方だった。
とはいえ、そう離れた表現でもないだろうと純丘は推察している。
一虎は
一虎が
なるほど、
そうでなくとも、一虎は真一郎に直接手を下している。幼馴染かつ幇助で済んだ場地とは、似て非なる立ち位置に当たるだろう。彼の扱いを理由に亀裂が入ってもおかしくはない。
問題は
場地圭介は東京卍會の一番隊隊長だ。特攻隊の隊長とも言い換えられる。役職の特性もあって、チーム外にも顔が知れている。
意外と暴走族同士で交流があるらしい、とは、純丘も噂に聞いている。
なくもないのだろう、が
初めから東京卍會に反感を持つ人間たちで形成されている。
東京卍會の隊長が、
それを回避するとして。
「圭介さー」
『ンだよ』
「なんか困ってることとかないか?」
『……なんだよ、困ってることって』
「えー……なんか」
『なんかァ? あー言っとくけどマジで手伝わねーからな』
「いやあれはジョーダンジョーダン。ははは」
『ウソつけ、』
そこで場地は不自然に言葉を切った。ウソつけの最後の母音が発音されてないくらいの切り方だった。
純丘はわずかばかり待ってから「……どした?」何気ない素振りで尋ねた。
『……部長、なんか言われたんじゃねえの』
「え、なにが?」
このときばかりは純丘は場地の勘の良さを恨んだ。
『マイキーとかドラケンとか。
「……なにかあったのか?」
『……はぐらかしてンなよ。つーか、てことは、そーなんだろ。普段用事もねえのに電話かけてこねえし。おかしいと思ったワ』
場地の声に苛立ちがにじむ。——完全に対応をしくじった。純丘は無意識に奥歯を噛む。
「なにか言われたわけじゃねえよ」
『ハァ? まだウソかよ』
「ウソじゃないって」
純丘が勝手に不穏を感じ取っただけで、なにが起きたかは本当に聞いてない。ゆえに嘘とは言い切れない
……弁解だとわかっている。正当化のための屁理屈だ。
「様子おかしいし、最近不穏だろ。君らのチーム周り」
『アーそう。だからこそこそ探ったって?』
「探ってた。……のは、そうかもだが。心配したんだよ」
『……部長さァ』
弁明のような言葉だと、純丘自身でさえ思った。
場地は彼の返答を鼻で笑ったりはしなかった。幾許の沈黙と、齎された声色は、むしろ、呆れと嫌悪に近い応えだ。
純丘は知る由もないが、場地は、この声色を喧嘩で威嚇する際によく使う。凄んで、相手を怯ませるためのトーンだ。
『これ言っとけば通せるって思って言うトコあるよな。タチ悪ィ』
「不用意だったかもしれないが、心配しているのは本当だよ」
すぐさま純丘は反論した。その言い分もまた事実ではある。
「春樹のことといい、ドラケンくんといい、君らだけじゃ防ぎきれないこともある。そうじゃなくとも、一人でできることってのは少ない——」
『説教かよ、聞き飽きた』
場地はひどく醒めた口ぶりだ。取り付く島もない。
『どいつもこいつも似たようなこと言うよな』
「当たり前だろ。みんな君を心配してんだから」
『俺が決めたことに口出して、それが心配か? 部長は尚更関係ねえだろ。
「——君、それ、本気で言ってるのか?」
『ああ言うなァ。野次馬って
ひどく饒舌な物言いである。
場地は本来多くの言葉を繰るような人間ではないから、普段の彼を知っているだけに、ギャップに圧倒される。現に純丘は一瞬言葉に詰まった。
隙をついて畳み掛けるには、その一瞬があれば容易い。
『痛い目遭いたくなきゃ二度と首突っ込むなよ。
言うだけ言って、場地は通話を切った。ツーッ、ツーッ、ツーッ、接続の切断を示す効果音。皆さんお馴染みのビジートーンである。
ケータイを握りしめて、純丘はしばらく沈黙していた。
それから一言。
というか一音。
「……は……?」
——同時刻、通話を切った場地は、ぐしゃぐしゃと彼の艷やかな黒髪を掻き回していた。今しがたの会話を思い返して、唸って、それから、吐き出す。
「……ゴメン」
綺麗事と賢しらの掛け合わせ、優等生の顔をして説かれる正論、なにかと世話を焼くさまが鬱陶しくて面倒なのは本音だ。
それでも、嫌ならとうに突っぱねている。嫌ではないから今は拒絶しなければならない。
場地圭介は罪を冒した。佐野万次郎に押し付けてしまった。羽宮一虎に背負わせてしまった。
彼はそう思っている。彼はそう考えている。彼はそう信じている。
だから今度は、そうであってはいけないのだ。決して。
場地の言葉は純丘にとってかなり痛いところを突いていた。
常々、彼ら不良との線引きを欠かさないのは純丘の方だ。
なるべく知らないように領分を弁えて、最低限必要な情報だけ入れるように、他の情報は聞き取らないように。心配の一言で首を突っ込むには、あまりに今更だ。
加えて。
説得とは、相手の属性を見極めて、それらに応じたコミュニケーションを取る行為だ。
純丘は常日頃から周囲を分析し、相手に応じた言葉を繰るだけに、無意識に反論させないための言葉を選んでいるところがある。
そしてこれは場地は知らない話だが。
純丘は直近で、己に探りを入れてきた武藤に〝事情も明かさず返事はできない〟との回答をしている。
武藤やその周辺の所業があまりに悪辣だから……という前提があるにしても、人の振り見て我が振り直せと言われればなにも反論ができない。
「ああ〜もやもやする」
純丘はごくごく小さく呻いた。
思考を重ねるたびに言い訳じみてくる。自分の落ち度を確認し続けているあたり、反省というより、自己嫌悪と呼ぶが相応しい。
「あの、なんて?」
ところで、反省も自己嫌悪も好きなだけやればよろしいが、他人の前で行えば聞き咎められるのは当然だろう。
目の前の訝るような顔つきに「言っ、」誤魔化すかどうか迷って「……たな」隠す意味もなかったので開き直った。
注文したばかりのサンドイッチは当然まだ未完成。手持ち無沙汰にテーブルの木目をなぞってみる。
「まあ君ら相手じゃなく、壱番隊隊長のどこぞのどなたかへの文句だから気にするなよ」
「どこぞのどなたじゃなく場地くんしかいなくねーっすかそれ」
「あ゛あ? 場地さんに文句あんのかよ表出ろ」
「千冬待って待って待って聞きてェことあんの! 俺! な!? 抑えて!」
反射でガンつける少年松野千冬と、彼を宥める花垣。なんかまた周囲に面白人間が増えたよな、そんな気持ちで眺める純丘。ガンつけられてる当人が最も悠長とかいう珍現象。
適当なファストフード店でなく、馴染みの喫茶店を選んでおいて良かった、くらいは思っている。
「むしろ君にないのがびっくりだけどな? 俺は」
現在彼らが居座る喫茶店は初老の老婆が経営している。ちょっと客層と運営方針が特殊で、秘密厳守が徹底された店だ。
具体的にどのぐらい特殊かというと、どうも喫茶店を経営したいらしい武藤に、じゃあこの店どう? と紹介した結果〝美味いバイトだがやることが間違いなく喫茶店じゃねえ〟と報告された。
閑話休題。
純丘の言葉は冗談めかしていたが、本心からのものだ。
眼前の二人は、壱番隊隊長を
初対面でもわかる腫れ上がった顔は場地によるものだという。マジかよ。
「そりゃ懐かれてるとは聞いてたが、そこまでボコられて引き下がらねえのは相当だ、し……」
「し?」
「……まあそんなかんじ」
木目の真ん中を延々となぞる指先。たぶんあいつは引き下がってくれると思ったラインまでボコってるだろコレ、と純丘は思ったが言わなかった。
場地に限らず、東京卍會のメンバーは、己に向けられる感情を軽めに見積もる癖がある。
「俺をボコったのだって場地さんが
「そういうの、軽率に言うもんじゃねえよ。命まで取られたらどうする」
「軽率にってなんだよ? あの人が軽率な命令なんざするわけねえし、なにより、場地さんのためにこの命捧げんのは当然だろ」
「俺が軽率だった、ごめん」
思った以上に壮大な覚悟だった。純丘はちゃんと謝った。「わかってくれんなら……」千冬は引き下がった。素直である。
純丘の知り合いの悪ガキ(心当たりが複数人)だったら、ここぞとばかりに言質取った勢いで捏ね始める。性格の問題もあるだろうが、単に純丘が嘗められているのが大きい。
「サンドイッチの純丘榎さーん」
「ありがとマスターなんで俺ん時フルネームで呼ぶのー」
カウンターまで完成品を受け取りに行った純丘に、老婆は穏やかに微笑んだ。微笑むだけで何もかも伝わったら苦労しないのである。マジでなんで呼ぶの。
ともあれ分厚いカツサンドに目を輝かせた少年たちを前に、それで、と純丘は切り出した。
彼の片手には卵サンド。
「俺に聞きたいことって?」
卵サンド片手に切り出す話ではない。
カツサンドを両手で保持した花垣も、真面目な顔を作った。
カツサンド両手に持ったまま作る顔ではない。
「榎さん、ドラケンくんもそうだけど、マイキーくんも、場地くんとも長い付き合いなんすよね」
「それ誰から聞いた?」
「え、三ツ谷くんがフツーに……ガキみてーな大人だから安心しろって……」
「よしんばその言葉通りだとしてなにが安心だ」
純丘は半眼で卵サンドを齧った。どいつもこいつも良い性格をしている。性格が良いのではなく良い性格だ。間違えのないよう。
「……とりあえず理解した。続けてどうぞ」
「場地くんのこと、
花垣のコメントは単刀直入だ。駆け引きもなにもないド直球。
純丘はにっこりと微笑んだ。
「無理」
その笑顔のまま切り捨てた。
「そこをなんとか! やってみなきゃわからないじゃないですか!」
「うんあのな、そもそも君らすげータイミングが悪いんだよ。俺はちょっと前っつか具体的には三日前に、圭介から着拒されてる」
「ホントになんで!?」
「あの場地さんに!? 今敵チームの俺ですら連絡つくのに!?」
「つくんだ」
ホラ! と出されたケータイの画面には、たしかに、純丘にとっても見覚えがある番号との通話履歴が残っている。一分程度の会話が、この数日でいくつか。「一昨日のやつはこれで呼び出されてボコられました」「おう」純丘は反応に困った。
場地の方も、誇らしげにされる想定はしてない。
はずである。
「
「つ、っ……!」
「使えねえって言いかけたのは見逃してやろう……」
言ってる時点でぎりぎり見逃してない自覚はまあある。
すんません、と頭を下げかけた千冬は、はっとそこで止まり、なにかを決意したのか「いや」毅然とした様子で言った。
「情けをかけていただく必要はねえっす。使えねえ」
「か、かっけえ」
「違くない?」
「悪口は面と向かって言わねえと陰口でしょ。一度言いかけた言葉には責任を持ちます」
「そういう問題か?」
すごく解せない顔ながら、純丘は卵サンドをもう一口食んだ。
「と、いうかなんで俺を頼ろうと思った?」
それから、何気ない口調を装って尋ねた。
千冬のことは、純丘は場地から度々話には聞いていたが、顔を合わせたのは今回が初めてだ。花垣も、初対面でこそないが、会話と言えるような会話をしたのは一回きり。
場地と純丘は、彼らの年齢を考えれば長い付き合いに分類されるだろう。
けれど、場地のことを誰かに聞いてみよう、説得できるかもしれない、ですぐに挙げられる名前かというと、正直なところ疑問が残る。
純丘榎は東京卍會の人間ではなく、暴走族の情報を意図的に入れないスタンスは知れ渡っている。一般人の肩書が必要ならさておき、半ば抗争に発展しているのは事実で、むしろ部外者の必要以上の介入は嫌厭されるだろう。
「あいつら滅多に俺の名前出さないだろ? 圭介と長い付き合いとかわざわざ言うようなタイミングあったんだな〜と」
「ふおへは、あ」
「飲み込んでから喋りな。急かさねえから」
諭した純丘の眼前で、花垣は素直に頷いて、もごもごとカツサンドを咀嚼することにしばし専念。
千冬も目を輝かせて頬張っていて、気に入ったことは明白だ。ご馳走するなら反応がいいほうが嬉しい。
純丘も残りの卵サンドを口に放り込んだ。もぐもぐもぐ。ごっくん。
「んぐ、俺元々そっち聞きたかったんスよ! だから榎さんに連絡取れねえか聞いてて、そんとき場地くんとも仲良いって話教えてもらったんで」
「待て待て、話が繋がってない。元々なにが聞きたかったって?」
「アすんません。あの榎さん、稀咲と関わりあるんですよね? あいつの、」
「花垣くん」
純丘の口から思いきり平坦なトーンが出た。いきなり変化した様相に「ㇸアイ?」花垣の声がひっくり返った。まだカツサンドをしっかりよく噛んでいた千冬も、びっくりした様子で、目を丸くして純丘を見つめた。
既に純丘は笑顔も消していた。元々、愛想笑いとして浮かべていた笑みだ。
前提として。
純丘榎は未だ花垣武道を信用していない。
「稀咲というのは〝稀なる〟に〝咲く〟と書く稀咲で合ってるかな」
「稀なる」
「こう」
ペーパーナプキンを取り上げて、ボールペンで記された漢字に戸惑い気味ながら「はい」花垣は頷いた。
人違いではない。純丘は冷静に認識した。
勘違いではなく、明確に純丘榎という人間に対して〝稀咲〟の話を尋ねに来ている。
「稀咲と俺に関わりがあるってのは、どうやって知った?」
「ェ、あ〜っと……ドラケンくんが言ってた、んで」
「ドラケンくんが? それはおかしいな。俺と稀咲に関係があるなんざ、彼が知ってるわけがない」
「……え?」
「本人に確認してもいいか? 本当に君に、そう言ったのか」
純丘は、自己紹介のとき常に〝純丘榎〟で通している。郵便物のやり取りなど、本名が必要であれば苗字を明かすが、そうでなければわざわざ言わない。無闇に混乱させる理由もない。
道場のバイトや、学習塾関係で必要な契約は、佐野万作とやり取りしている。郵便物の宛名は屋号でも通るので、学習塾関連で交流のあるメンバーは、晴天教室名義で郵便を出す。
だから万次郎とエマは、純丘榎の本来の苗字を知らない。
必要な機会が訪れたことは今までない。目にする機会さえない。
龍宮寺も同様だ。
「あっいや、え、っでも!」
花垣は焦った様子で視線を四方八方に向ける。わかりやすい挙動だ。
純丘は少年の一挙一動を観察していた。
ジェスチャーが大きく、思ったことがすぐに口から出る。典型的な、嘘がつけない、嘘をつけばすぐにわかる人間……の、ように見える。
純丘榎の、本音と嘘をある程度見抜く特技は、知識と経験の合わせ技だ。日頃やり取りをする中でサンプルを集め、傾向を把握し、それらを基盤に言動を照らし合わせる。
ゆえに、灰谷兄弟や場地、武藤の、嘘や隠し事をある程度把握できるとしても、
たとえば、武藤の嘘はわかっても真実を言ってないだけの場合はわからない。場地の言葉は、電話越しであっても嘘と本音の割合がわかる。
それは彼らと純丘の付き合いの長さがかなり強く影響していて、そも、場地の嘘がわかりやすいことにも起因する。
まだ会った回数も少ない花垣に対して行うことはできない。サンプルがあまりに少ない。
たった二回の会話で読み取れるものが、果たして彼の素か、演技由来のオーバーリアクションか、純丘にはわからない。
「でもっ、稀咲と関わったことあるってのはマジなんすよ、ね?」
「関わったこと。関わったことね。まああるが。あったというべきか。今はないよ」
淡々と述べて、純丘は腰を上げた。椅子を元の場所に戻して、ゴミを集め、出立の準備を行う。
稀咲の名前を出してきたのは誰か。頭が回転する。
実家か。灰谷兄弟の関係か。純丘の小遣い稼ぎを疎んだ第三者か。
「俺から言えることはこれで終わりだ。先に帰る。ゆっくり食べてていいよ」
「な——っ、待ってください、榎さんは稀咲とどういう関係だったんですか!? 本当になにがあったんだよ!?」
「俺に稀咲の名前を出しておいて〝どういう関係〟はさすがに白々しいだろ」
席を立った花垣に腕を掴まれても、純丘の口ぶりはひどく醒めていた。
カツサンドを慌てて飲み込んで、千冬も椅子から立ち上がった。
「あんた、稀咲になにかされたのか? だからなにも——」
「俺から言えることは終わりだっつったよな。俺は圭介を連れ戻すことはできない。稀咲の話はしない」
慌てず騒がず、腕を捻り上げる。呻いて外れた拘束に、純丘は手首の関節を確認した。
捻挫骨折脱臼、いずれもなし。相手側も。武道を嗜む身として、計算して、手加減した。
純丘は善良で品行方正な専門学生だ。少なくとも見た目と素行は。不良と並んでいるとカツアゲと勘違いされることすらある。彼はよく心得ている。
印象操作の方法も、誠実な態度を装う方法も、相手が非を作るように誘導する方法も——普段悪用しないだけで、知識としてある。実行すらできる。
「これ以上食い下がるなら警察に相手してもらうが。穏便に引いてくれると助かる」
とても、よく、心得ている。
此岸の火事
:まだ現世のことであり、また、対岸の話ではない(できない)
二学期の中間テスト
:三学期制を導入している学校では、大抵十月上旬から中旬あたりに行われる
赤点
:中学において制度としての〝赤点〟はない
高校ならある 学校によって基準値はまちまち
ビジートーン
:綴りはbusy tone 話中音とも呼ばれる
慣例としての名称であり、別に話し中だけに流れるわけでもない
俺ですら連絡つくのに
:実際、原作6巻50話で呼び出してた
屋号
:個人事業主が事業で使用する名称
店名やペンネームがつけられやすい
信用していない
:前回起きた玉突き事故の二次被害
稀咲とどういう関係なんですか!?
:稀咲(鉄太)とどういう関係なんですか!?
俺に稀咲の名前を出しておいて
:俺に稀咲(家)の名前を出しておいて
即興アンジャッシュコント。被害者は花垣武道。