【完結】罪状記録   作:初弦

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傷害罪

 週真ん中、数多の人々のモチベーションがなんとなく下がる水曜日といえども、純丘榎が金欠な事実になんら変わりはなく、長期休暇やイベント、あるいは試験期間でもない限り、全日制高校は平日昼間に学校がある。

 しっかり授業とアルバイトをキメて帰宅したのは深夜十一時三分前。別名、青少年保護育成条例で十八歳未満の外出が禁じられる深夜帯ギリ手前だ。

 

 今日も今日とて謹厳実直な優等生、どうにかもうちょい効率よく金稼げねえかなと思いながらの帰宅。鍵穴にシリンダーキーを差し込んで回、

 

「あ?」

 

 ——回した瞬間、純丘は思わず声をこぼした。

 半・キレ、と評すに相応しい声色だった。

 

 

 

  傷害罪

 

 

 

 彼の名誉のために補足しておくと、声色から思われるほどキレてはいない。むしろその心境は困惑に近い。咄嗟に出てくる声が微妙にガラが悪いだけだ。

 

 灰谷兄弟の影響かというと特にそんなことはなくただの素。

 

 シリンダーキーとは〝錠前に取り付けられた鍵穴に、鍵を差し込んで開ける〟タイプの鍵全般を指す。

 このタイプの鍵はわりとどこにでもあって、家屋や金庫などの鍵に採用されている場合も多く、純丘が住むアパートも例に及ばず。あまりにもどこでも使われているためピッキング被害も数多い。彼らが生きている今は某窓のコンピュータがようやくXPまで進んだぐらい、電子錠の普及率も著しく低いのだから、尚更だ。

 

 シリンダーキーも細分化すれば種類は様々。

 ただこの場合重要なのは〝鍵を開けようとしたとき、元から鍵が開いていた場合、若干手応えが違う〟という特徴。

 

 たとえば今純丘が違和感を覚えたように。

 

 サッシに合鍵の姿はない。灰谷兄弟が我が物顔で所持してしまったので彼らのキーケースに連なっている——いや確かに使っていいとは言ったけどな、純丘は思いながらも諦めた——ならば灰谷兄弟がいるのか、可能性としては最も高いがこれもまた首をひねる。

 

 純丘が設定した厳守事項六箇条第四項め。

 曰く。

〝入退室時に鍵はかけること〟

 

 素行はアレだが、それでも彼らは、一度した約束事を守っていた。

 頭を掻いて、息を吐いた純丘が慎重に玄関を開ける。

 

「……ウッ、ワ」

 

 これを、より正確を期して表記するなら〝……………………ゥ↓ッッッッッ、ワ→↑ァ↑↑↑〟ぐらいになる。

 電灯に照らされて、ベッドの上の水色がわずかに揺れた。

 

 最近伸びてきたので染めたと竜胆本人が以前言っていた。

 

「……ぁ、っと……りてる」

「……それ、骨は折れてんの」

 

 おそらく〝ベッド借りてる〟と言おうとした純丘の元後輩は、ドン引いている元先輩の問いに億劫そうに「ない」否定を返した。ほんとかよ。

 痣だらけの口元はさぞ動かしづらいだろう。鍵をかける余力がなかったと見た。

 

 深々息を吐き出した純丘は、とりあえず靴を脱いで、フローリングに靴下で上がる。いつもアルバイト先に持っていくショルダーバッグが、乱雑に床に置かれた。その物音にすら竜胆がうるさげに眉根を寄せた。

 

「……ひびく」

「だろうよ……」

 

 布団から見えている部分だけでも確認できる打ち身の数がおかしい。

 季節は小暑より少し前、竜胆の筋肉量を考えると、掛け布団の中に体をすっぽり入れているのはさすがに暑いだろう。

 

 ……普段なら。

 

「体温は」

 

 純丘は短く問う。同時にベッド脇に膝をつき、下に置いた収納ケースを引き出す。

 

「さん、ぁち、よん」

「三八.四℃と解釈したが、合ってるか?」

 

 唸り声に近い「ん」がひとつ。肯定である。純丘の口端が苦く歪んだ。

 

「今寒気あんならもっと上がるな……今すぐとは言わないが、さすがに、もしも四十℃いったら病院に叩っ込むぞ」

「じで……」

「まじだよ。……また盛大な兄弟喧嘩だな」

「っせ」

「うるせえとは随分なことだ。頭上げろ」

 

 普段遣いのものなので、少々くたびれてはいるが、清潔なタオルを二枚。冷凍庫の保冷剤を複数個それでくるんで、下敷きにされた枕をわずかな隙間から引き抜き、空いたスペースに敷く。

 

「傷洗ったか?」

「ん」

「風呂だのシャワーだのは」

「……らね」

「要らないってことは入ってないな。飯は食ったか」

「……い」

「なんなら食える?」

「にく」

「ゼリー買ってくるわ〜」

「くたばれ……」

 

 部屋を出る純丘の背中に、小さい罵倒が投げつけられる。死にかけの声だったので甘んじて聞き流した。鍵は閉めた。

 

 ちなみに帰宅時間が十一時ギリ前、となれば当然既に青少年の深夜外出制限の時間帯。うっかり警察に補導されないか、純丘としてはドッキドキ。

 訂正。

 急病は制限の例外だと知っているため、ドキドキではなくワクワク。正確には怪我だが誤差だろう。

 

 カンカンガンガンけたたましい階段を降りながら、ぴっぴっぴとケータイを操作した純丘は、番号を確認してからそれを耳に当てた。

 呼び出し音が一回、二回、三回……。

 

 永遠に鳴り続けるので、一旦切って、即座に掛け直す。

 

 繰り返すことおよそ八回。途中で最寄りのコンビニに辿り着いて、純丘はケータイを片手にコンビニの品揃えを物色していた。

 

『——しばらくかけてくんなしねころす』

「切ったらまた出るまで掛け直すからな」

『……あー、フクブ……』

 

 物騒で早口な〝もしもし〟に、間髪入れず、どころか食い気味に純丘が切り返せば、声は失速した。

 そしてすぐに切れた。

 

 嘘だろあいつ。

 

 素で思った純丘がリダイヤルを操作する前に、今度は純丘のケータイに着信。表示名は〝オーキッド〟となっている。

 ポケモンではなく。

 

「……もしもーし」

『で……どー、よ。あいつ』

「……金欠を気遣ってくださりドーモ」

 

 十秒が謳い文句のゼリーを片手に、純丘はつぶやいた。電話越しに、蘭はかすかに笑った。

 

『おれ、しんせつだからなあ』

「はははほざけ。楽な体勢で聞いてくれよ」

『まかせろー』

 

 竜胆に負けず劣らず億劫と苦痛をかけ合わせたような声色だが、瞬時に相手を判別して、電話代を肩代わりする思考力と判断力は、素直に称賛できる。

 

「骨折れてないっぽいし、肉食いたがってっから内臓やられてもいないだろうし、頭部に目視できる目立った傷がないから、とりあえず病院は後回しにしてる」

 

 見つけてきたカゴにゼリーを放り込み、彼は今度はスポーツドリンクの棚のところでしゃがみこんだ。

 

「仕草見るに胴体の打ち身が一番エグい。体温は三十八℃弱だが、更に上がるだろうな。風呂シャワーはやる気ないって。で、俺は今スポドリとゼリー買いに来てる」

『んー……』

「君は?」

『……りんどーほどじゃねえよ』

「相対評価は聞いてない。怪我の具体的な内情は」

『あー……熱だけ、りんどーより高い。さんじゅうく』

「左様で……」

 

 正規の販売店と比較すれば、やはり若干値段が高いので、純丘はあまりコンビニでの買い物を好んでいない。……今、彼が形容しがたい表情を浮かべているのは、物価のせいではないが。

 

「飯は食ったか?」

『にくくった』

「よう食いおる……。胃もたれ気をつけろよ」

『まじ、はきそー』

「君のが熱高いの、それでは? ……会計おなしゃーす」

 

 二リットルのペットボトルが二本、ゼリー複数個を会計。釣銭を数えて財布に流し込む。ぴろぴろと間抜けな音を背後に、無事純丘は退店した。

 二リットルが二本、単位に直せば約四㎏。重さはどうってことないが、ビニール袋の持ち手が肌に食い込むのはかなり痛い。

 

「誰かにやられたとかじゃないよな」

 

 純丘の問いは念の為だ。

 怪我の程度はさておき、もしも誰かに負わされた怪我なら、二人揃って押しかけてきて、三帖間は足の踏み場もなかっただろう。

 

『ねーよぉ……けんか、おれと、りんどーで、だけで』

 果たして蘭は答えた。受け答えがいつにも増してふわふわしている。

『たーのしかったあ』

「こっわ……」

『ひくなよ』

「ひくだろ」

 

 純丘榎には、灰谷兄弟の思考回路が理解できない。

 

 純丘自身、ぶっちゃけたまには人を殴りたいと思ったりもする。し、優等生を自称しているため声高には言えないが、武道の稽古以外で殴ったこともある。聞いていたより手は痛くならなかった。

 とはいえだがしかしそれでもけれども——逆接——純丘は積極的に人と争おうとは思わない。人を甚振って楽しめる理由もよくわからない。人殺しも未経験。そのような場面に出くわせば、まず躊躇するだろう。

 

 ルールを守るのは面倒だと、純丘も確かに思う。単に明文化された基準はもちろん、人によって解釈が左右される内容や、暗黙の了解も数多く存在している。

 それでも彼は規律を守るタイプの人間だった。完全な自由の中ですべてを模索するより、ある程度なにかに従って生きる方が楽だ。規律を守れば大抵一定の信頼を得られるのだから、切迫した状況でもなければ、早々破ることはない。

 

 つまり純丘榎という男は、灰谷兄弟及び彼らの非行について〝マジで一㎜も理解できねー……〟と思っている。

 

 わかり合えるとは思っていない。そのつもりもない。すべての人々が仲良く手を取り合う未来などまやかしだと彼は捉えている。

 

「やりすぎて殺さないよう気をつけろよ、お互い」

『さすがに、弟は、やんねえって……たぶん』

「最後な」

 

 同時に、個々人が有する各々の価値観は、主観的な正しさは抜きに、尊重する自由があると信じている。

 純丘榎は自身にそう心得させている。

 

 灰谷兄弟の思考回路を純丘は理解できない。彼らの生育環境が特殊であることは、純丘も察している。全貌までは知らない。知ったところで納得できるとも思えない。

 

 たとえば、どうしても、許せなくなったら、さよならになるだろう。

 それまでは、このままだろう。

 

 明日かもしれないし、一生来ないかもしれない。

 

「喧嘩の理由も一応聞いとくけど」

『てれびの、ちゃんねる』

「……君ら自制心死んでんの?」

『うん』

「うんじゃねんだわ」

 

 ガチャガチャ鍵を開けて室内に踏み入った純丘に、ベッド上の竜胆が動いた。わずかにうたた寝していたのか、眼鏡をかけていない目は、さっきよりも細い。

 

「……し」

「めしめし」

「……ぁかん?」

 

 片手にはコンビニのビニール袋、片手には湯気を上げる薬缶。かすれ声で怪訝そうに尋ねられて、純丘は答えた。

 

「薬缶と湯は俺の夜食のカップ麺用」

「っち……れ」

「俺のです。君はゼリーです」

「めん」

「飲んでまだ腹減ってたら茶漬け作ってやるよ、米の余りが冷蔵庫にあるし」

「めん」

「俺のです」

「くそやろ」

「元気だな、何よりだ」

「はらたつ」

 

 育ち盛り男子高校生はすぐにお腹が空く。純丘もそのうちの一人だ。今日は幸運なことにバイト先で夕飯にありつけたものの、予定外の夜間労働の間に空腹を覚え始めた。

 べりべりカップ麺の蓋を剥いて、湯を注いで、蓋に薬缶の底でアイロンをかける。

 三分待つ間にゼリーとペットボトルをそれぞれ取り出した。蓋を開けたゼリーを押し付けて、スポーツドリンクは、プラスチック容器——かつては、純丘が同級生から奢ってもらった喫茶店のフラペチーノが入っていた、洗浄済——にそそいで、蓋をして、ストローを挿す。

 

 竜胆は露骨に嫌そうな顔をした。スポーツドリンクの甘さは独特だ。

 純丘は穏やかに笑んだ。スポーツドリンクはその特性上、脱水に効く成分が入っていることが多い。

 

「飲ませてやろうか」

「しね」

「ほんとあっさり挑発される……」

 

 奪い取ったスポーツドリンクを飲み干していく竜胆。膝の上に頬杖をついて眺めていた純丘は、ケータイの画面で三分経ったのを確認して、箸で麺をつつき始めた。

 純丘の部屋にカトラリーは彼が使う箸一膳と、冷蔵庫に仕舞われた割箸類のみ。牛丼等と違い、カップ麺(しかも出来たて)はさすがに直で指を突っ込むと熱傷のリスクが高い。竜胆は大人しくゼリーを飲む。

 

 ちなみに純丘はわかっていてカップ麺を選んでいる。

 

「一部は誰かに横槍入れられた怪我、とかだったりするのか」

「ちがう。ぇんぶにーちゃん」

「君らいつか兄弟喧嘩でうっかり死にそうだよな」

「……ぃを、ける」

「存分に気をつけとけ」

 

 〝殺さないよう意識的に気をつけなければいけない兄弟喧嘩〟に言いたいことはいろいろあるが、純丘は口にしなかった。彼らにしては気をつけてるだけ良識的。

 なにせ気をつけなかった結果が傷害致死の前科なもので。

 

 しばらく二人とも言葉を発さなかった。無心で麺をすする純丘と、腫れた顔でゼリーをすする竜胆。

 

 そしてひとつ飲み干したゼリーのパックを竜胆は純丘に投げて、鋭く、長く息を吐き出した。

 

「投げるなよ」

 

 ゴミと化したパックを片手に受け止めて、言うわりに純丘は愉快げに笑っている。竜胆は心中でも長く息を吐き出した——性格悪、と、そちらでは一言付け足した。

 

「……にーちゃんは」

 

 ようやくまともに舌が回るようになった。

 

「発熱三十九℃だと。明日見に行ってくるわ」

「……それ大丈夫かよ」

「肉食ってゲロりかける元気あんだし、死ぬにしてもすぐではないだろ」

「は? おれのにくは……」

「ない」

「しね」

「罵倒の種類が少ないな」

「夜道には気をつけろよ」

「なんでそれは流暢なんだよ」

 

 言い慣れているからだ。

 空にしたカップ麺の容器に、飲み干したゼリーのパックと箸を入れる。仰向けになって目元を腕で覆った竜胆を、そうして純丘は見下ろした。

 

「お茶漬けいる?」

「いらね」

「ゼリーは?」

「いらね」

「スポドリ注いどくな」

「ん」

「もっかい体温計れよ」

「口うるせえ……」

「家主様だからな」

「うざ……」

「一応君にも聞いとくけど」

「……」

「なんでここまで喧嘩した?」

 

 同じトーンで、同じ口調で、純丘が尋ねてくるから、竜胆は腕をずらして、彼を見上げた。熱でぼやけた視界で、黒髪を短く切った男が見下ろしているのが見えた。

 純丘はピアスをつけない。髪も染めない。壁にかかった制服は規定のそれから改造もされていないのだろう。

 

 清く正しく、それなりにまじめで、教師から評判の良い男子高校生。

 そういう見た目で、そういう言動で、そういう素行で、

 

 たぶん、そうではない。

 

「てれびのりもこんとりあいになって」

「うん」

「けんかンなって」

「うん」

 

 言うかどうか、竜胆は、一瞬迷った。

 

 〝君にも聞いとくけど〟

 

 ……兄からも、聞いているだろう。

 

「……おれのこといらねーとおもってんだろっつったらまじでぼこぼこにされた」

「ンッフフフハハハハっごほげほっげほっ、笑っていいか?」

「ころす」

「いやこれ絶対なんべん聞いても笑える」

「ほんとまじでころす」

 

 笑って良いかもなにも、もう思いっきり笑っている。かろうじて笑い転げていないレベル。なぜならその手には食べたあとのゴミがあるから。

 舌打ちを放った竜胆に「片付けてくるよ」純丘はまだ笑いながら、肘で器用にもドアノブをひねった。

 

 

 

 インターホン越しの元副部長が珍しく、きらっきらの笑顔な時点で、蘭とて嫌な予感はしていた。

 

「しょーもねえ喧嘩中の売り言葉に買い言葉の逆ギレでボコったってまじ?」

 

 それでもオートロックを開けたことを心底から後悔した。

 

「べらんだからおとす」

「今度にしてくれ。来世とか。……うわあっつ」

 

 動きの鈍い蘭を捕獲して——副部長時代の経験の賜物——純丘は手近なソファに転がした。勢いはかなり抑えめ。とはいえ傷だらけで熱を持った身体が、軋んで、蘭は息を詰まらせた。

 

「しかも吐いて放置しよったろ。よくこの悪臭耐えられたな」

「へやあまってっし……ォエ」

「おいまた吐くぐらいならそっち戻れ」

「……フクブ、ガッコじゃねえの」

「今昼休み、五限は文化祭準備でほぼ自習、俺は買い出し担当」

 

 純丘は端的に述べた。要は抜け出してきたらしい。勝手知ったる様子で屋内を漁ると、コンビニのビニール袋と、ハンドタオルを取って戻ってきた。

 ついでに蘭には見覚えのない、若干濁った色の液体が入ったペットボトルと、百均で売っている使い捨て木べらも、腕に抱えている。

 

 乾いた吐瀉物を木べらで削って、タオルで拭ってビニール袋に突っ込む。それを繰り返す。

 

「竜胆は出るとき寝てたから、保冷剤変えてペットボトルと凍らしたゼリー置いて、扇風機かけたままで登校したよ。今月の電気代が怖い」

 

 単調な作業を続けながら、純丘は蘭の弟の現状を説明し始めた。ソファに転がったままの蘭は、なにをする気も起きず、伸びてきた自分の髪を指でつまんでみた。

 

「うちだと冷やすもんっつーか、まあ冷やすもんに限らず、ものがないのは知ってるだろ。夜の間に即席保冷剤量産しといたけど、どうしても冷やす初動は遅かったから、打ち身の治りは悪いかもな」

 

 ……いつものように、髪型を整える気力も起きない。蘭は腕を放り出した。クッションから半分はみ出た。

 

「ただ擦過傷は見たところ綺麗で膿んでないし、カロナール飲ませたからか三八℃弱で安定してるし、夜にはもうちょい動けるようになってんだろ」

「うごけないのをいいことにはだかにむいたのかよ」

「俺が君をベランダから突き落とすぞ」

 

 現在地、六本木の高層マンションの一室。

 

「んで、君の今の熱は?」

「さんじゅうくどさんぶ」

「おお……飯食った?」

「くって、はいた」

「それはほぼ食ってないんだわ。ゼリー持ってきたけど食う?」

「……あー、くう」

「横に置いた袋から漁れ〜」

 

 蘭がソファに転がされた際に、一緒に足元に置かれた袋。小学生が家庭科で作るような、安い生地のハンドバッグだ。

 はみ出た片腕をもう少し伸ばして、袋の口を広げる。ゼリーとスポーツドリンクが入っていた。

 手近なゼリーを掴んで、口元を捻ると、予め軽く開いていたらしく、手応えもなくキャップが取れた。

 

 蘭はしばらくそのまま、ゼリーの容器を見つめていた。

 

「……開いてないやつある?」

「マスカット……青いの以外は開けてねェよ。マスカットのも開けただけで口つけてないけど、要らんなら持って帰る」

 

 言われた通り、パッケージが紫のゼリーのキャップを捻ってみると、今度はカチ、と音がした。力を入れた掌がそれだけでも軋んだ。

 目を瞑る。息を吐く。

 

 キャップを開けるのも苦痛だと察して、先回りする。

 同時に、ある種の人間が有する〝視界の外で開けられた飲食物への警戒〟を理解し——蘭にとって不本意にも——配慮している。

 

「まじで、おまえの、そーいうとこ、はくわ」

「そだな〜」

 

 明らかに興味のない相槌。純丘は、謎の液体で濡らしたタオルで、床を拭き終えたところだった。匂いから察するに塩素系のそれ——漂白剤か。

 タオルごとゴミ箱に放り込んで、手を洗い始める。

 

「解熱剤は飲んだ?」

「のんで、はいた」

「それはほぼ飲んでないんだわ。あとで飲み直しとけよ、胃になんか入れたらマシだろ」

「んー」

 

 手を拭きながら、冷凍庫を開いた純丘が「ほぼ……から……」つぶやいた。冷凍食品あったよな。蘭はぼんやり思った。

 冷凍食品をカウントしてもほぼ空だった。

 

「ゼリーの余り、冷蔵庫と冷凍庫に入れといた」

「……ん」

「さてあとは」

「——つめ、った!?」

「今背中に入れたのが即席保冷剤。捨てる前のスポンジ濡らして凍らしたやつな。こんなふうにタオル巻いて使うこと」

 

 悶えようとして、身を捩った瞬間走った痛みに声もなく呻く蘭。背中に貼り付く前に保冷剤を回収した純丘は、新品のタオルでそれを巻いて、蘭の背中に当てた。

 最初からタオル巻いて渡せば良いだろうに。

 

「冷凍庫にもスポンジ放り込んどいたから」

「しね……」

「君ら弱ってるときの罵倒のバリエーション同じだな」

「おまえかえれもう……」

「言われなくても、そろそろ戻んなきゃ六限に間に合わねえ」

「……あそ」

 

 戯れに眉間を押す親指を、蘭は掴んで、迷って、離した。純丘は肩をすくめてハンドバッグを拾い上げた。




XP
:当時だと画期的なぐらい安定した、一般向けOS

十秒が謳い文句のゼリー
:まだプロテインのやつはない

ビニール袋
:無料で貰えたあの頃

スポドリ
:糖尿病でなければ脱水時のオススメはポカリ
 成分的な意味でオススメ

塩素系漂白剤
:酸素系と混ぜると危険
 消毒にべんり

即席保冷剤
:片栗粉とか使う方法も有名
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