【完結】罪状記録   作:初弦

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擬似乱数の確率論

 正直なところ灰谷兄弟にとって、この抗争で誰が死のうと誰が生きようと誰が殺されようと誰が殺そうとどうでもよかった。興味がないし彼ら自身の死生観が世間一般から外れていることもある。

 倫理観がゴーアウェイというかゴーイングマイウェイというか。

 

 どうでもよかった。たいへんどうでもよく心底興味がなかった。

 純丘の弟が登場したときはさすがに三度見ぐらいしたが、マ俺ら無関係だしな……で終わった。場地が稀咲を殴っても静観していた。殴られてら〜カワイソ。完。

 

 知人の弟といえど知人本人ではない。交流があったらまた違ったのかもしれないが、灰谷兄弟と稀咲鉄太は今まで一切の関わりがなかった。純丘も、肉親への情はないに等しい家庭環境を匂わせている。

 つまり本当にどうでもよかったのである。

 

 どうでもよかったのだが。

 

「イザナァ」

「……なンだよ」

 

 己が大将が殺すとなると話が違ってくる。

 

 不意に声を投げた蘭に、イザナは、縊り殺そうと稀咲の首に伸ばした手をぴたりと止めた。

 すぐに反応するあたり、灰谷兄弟の存在は認識していたらしい。やはり冷静だ。

 

 極めて冷静に、いつも通りの思考に基づいて、稀咲を殺そうとしていた。

 

 鬱陶しそうに向けられた紫に、蘭は特に表情を浮かべず、三つ編みを指先でもてあそぶ。

 情がないにしたって、純丘は確かに、弟にはなんらかの残滓を抱いていた。灰谷兄弟は、彼らにとっての家族が兄弟だけで完結しているからこそ、元副部長から些細ながらも明確に異なった機微を汲み取った。

 

 そして。

 

 純丘が、佐野真一郎および彼に連なる佐野家よりもイザナを優先するのは、あくまでも灰谷兄弟の大将である、という前提に基づいている。

 

 弟を殺されれば、あの男は、無自覚か意識的かはさておき、優先順位を変更する。大幅にイザナを下位につける。

 蘭にはその確信がある。確信に足る根拠もある。

 

 灰谷兄弟と場地が居合わせたとき、度々、純丘は場地を凪いだ目で見つめることがあった。

 あれは観察であり、警戒であり、監視の目でもあった。佐野真一郎殺害前には向けられなかった視線だろう、と、蘭は直感した。

 

 おそらくああなる。もっと直截に。

 それはたいへんよろしくない。

 

「ソッチより先に羽宮の方行けば? アレまじで死ぬぜ? たぶんそこの場地より先に」

 

 蘭が指差したのは、一虎と、彼を只管に殴り続ける万次郎だ。

 

 イザナは静かに目を瞬かせて、それから、ぱっと稀咲の肩を放した。

 ずんずんと大股で歩く背を見つめて、稀咲はようやく詰めていた息を吐いた。背中を脂汗が伝った。

 

「待てよ、」

 

 去っていく背に向かって、場地が声を絞り出す。肺が潰れて上手く呼吸できず、小さく、かすれて、既に遠ざかったイザナには届かない。

 

「場地さん、動かないでください。血がほんとに、」

「止まらねえんだろ」

 

 言って、けふ、と場地はまた咳き込んだ。ぱたぱたと血の塊が落ちた。

 必死に背中の傷を——刺し傷のふちを、ナイフに触れないように、血が少しでもこぼれぬように——抑えようとする千冬の手首を場地は掴んだ。掴んだ、というより、ほとんど置く程度だった。

 

 そして場地は言った。

 

「抜け。ナイフ」

「っ、は?」

「ば、場地くん、なに言ってんすか。抜いたら血がもっと」

「だから、抜けって、」

 

 場地のてのひらの動きに合わせて、千冬の手首に、赤黒くべとりと線が引かれる。場地の背から、口から、こぼれた血だ。

 

「俺は、自分で、選んで、死ぬ。一虎に、は、殺されねえ。俺が先に死にそうなら、イザナくんも、こっちに来る」

「イヤ意味わかんないっすって、場地くん助かるかもしんねえのに」

「このままなら俺はどうせ死ぬ」

 

 小さく、掠れて、聞き取りづらいはずの声が、やけにはっきりと響いた。

 

「なら、自分のケツは、自分で拭かせてくれ」

 

 千冬は、場地の声をはっきりと聞き取った。声とともに、かつての日々が脳裏を駆け巡った。

 今まで聞いたこともないほど、弱っていて、今にも死にそうで、同時に、明確に意志のこもった声だった。

 

 いつの間にか千冬は泣いていた。ぼろぼろと涙が落ちて、視界はかすんで、上手く見えない。

 

 その背に焦がれていた。その背を追ってきた。

 突拍子もないところを、わかりづらいところを、それでいて単純なところを、仲間のためなら自分の身さえ顧みないところを、尊敬している。憧れている。そうなりたいと思っている。その隣に立つに相応しい姿を目指している。

 

 追ってきた背中は今、血で染まっている。

 

「……はい」

 

 頷いて。

 背中から手を離した。

 

 それから、

 

「——違うだろ!?」

 

 そこを抑え込んだのが花垣である。

 

 怒鳴った少年は、何故か千冬よりも勢いよく泣いている。だばだばと号泣している。花垣武道はめちゃくちゃ涙腺が緩かった。

 涙を拭うこともせず、鼻をすすって「違うだろ!?」と繰り返した。

 

 場地の芭流覇羅(バルハラ)の特攻服をなんとか無理矢理に裂いて、その切れ端で、ナイフの脇を抑え込んでいた。テレビドラマを真似した拙い止血だ。

 

「なんっで一虎くんの代わりに死ぬってなるんすか、俺頑張ってきて、千冬なんかもっと頑張ってきて、マイキーくんとかドラケンくんとかみんな場地くんに戻ってきてほしくて、生きてほしいんすよ! 場地くんが諦めちゃだめだろ!?」

「タケミチおい、俺の話、聞けや! 一虎が——」

「一虎くんも死んでほしくねえし、マイキーくん止めてえし、止めます! なんか、こう、どうにかして!」

「どうにかしてってオマエ」

「どっちも生きてる方がいいに決まってる!」

 

 ……それはその通りである。

 そして花垣の言葉は、彼らの実力では、机上の空論の域を出ない。

 

 花垣は止血のやり方なんぞ知らない。千冬もここまで大きな怪我の応急手当の方法を知らない。場地はもちろん同様だ。稀咲は知っているが彼に手伝う気など無論ない。

 流れる血を堰き止めようとしている。潰えそうな命を掻き集めようとしている。その努力はある。少しだけ、ほんの少しだけ、出血は緩やかになっている。

 

 けれど、依然として血は流れ続けている。依然として命は保障されていない。場地の手足はどんどん冷えていく。適切な処置を為されなければ、場地の身体は着実に死に向かっている。

 

 未来を観測していても阻止できないことがある。

 いわんやそうでない人々の足掻きが、最後になにを生むか、なにを壊すか、誰一人予想もし得ない。

 

 これは奇跡の物語ではない。

 これは理想の物語ではない。

 

「そうだな、どっちも生きてたほうがいい」

 

 しかし。

 

「よく頑張ったよ、君ら。ちょっとそこ代わってくれ」

 

 これは、夢物語である。

 

「マ俺も素人だけど、少なくとも君らよりはマシそう」

「——榎さん?」

 

 ぐしゃぐしゃの顔で見上げられたから「ウン」純丘はかすかに苦笑した。泣きに泣いた顔はあまりにぐちゃぐちゃだ。びっくりするほど大惨事。

 片腕で毛布を一束抱え込んで、もう一方の腕にはハンドタオルを複数枚、そして、ホッカイロを複数個入れたビニール袋を吊り下げている。

 

「はい見せろ。はい。うんマジで刺されてんだよなやべー」

 

 退いた退いた、てのひらで開けるように促されて、花垣と千冬は反射的に場所を開けた。純丘はそこに己の身体を捩じ込んだ。

 

「抜かなかったの偉いな〜圭介ほんとうにそこの子たちに感謝してやれ」

「……なんで……」

「なんでも明後日もまとめて答えてやるけどとりあえず三十秒は待って? 処置するわ」

 

 押し付けられていた芭流覇羅(バルハラ)の特攻服の代わりに、タオルを配置する。下手に抑え込むよりはナイフが動かないようにするべきだ。

 白い布がみるみるうちに血で染まっていく——純丘は目を細めた。出血の色が思ったよりも黒い。静脈血の色だ。

 

 場地の身体を裂いたナイフは、大きな動脈は傷つけず、腎静脈を掠めていた。これが動脈であれば、血はもっと多量に排出されていたはずだ。

 ——起こるはずだった世界で、場地が死ぬに至った理由でもある。

 

 ともあれ傷口を避けつつ、場地の身体を毛布で包む。

 

「呼んだ救急車、たぶん数分ちょっとでくるから、それまで君は起きてろよ。寝たら俺は全身全霊で嫌がらせします。あることないことぜんぶぶちまける。初恋エピソードとか。君小学校の頃担任の先生に、」

「ぶっとばす、ッゴホッゴハ」

「死にかけがほざきよるわ〜」

 

 刺さったナイフは、素人判断では処理できない。だから清潔と保温を最優先とする処置を行う。

 刺傷が齎すリスクとして、失血死と、破傷風の危険がある。また冷えた身体は体力を消耗する。力尽きればそこで終いだ。

 

 少しでも命を引き延ばす。

 

「こないだはごめんな、花垣くん、あー、タケミッチくん。松野くんも。ちと大人気なかった」

 

 処置をしながらも純丘の口は止まらない。明るいトーンを心がけている。意識を保たせるために、会話を繋ぐ意味もある。

 

「こういうのは大人に任せて、君らは万次郎を止めてやってくれ。羽宮くんまでは俺の手が回らん」

 

 彼の視線は、場地から、背中の傷口から揺るがない。稀咲のことは、意識して、見ない。

 稀咲は、彼も意図的に視線を逸らした。眼鏡にかけられた手に微かな動揺があった。

 

「ぶちょ……う。イザナ、くんが」

「ああ、黒川くんも任せとけ。つか今の君が身体張ったところでたぶん死体が三つになって終わっから大人しくしててくれ」

「榎さんナンいやあの、イザナ? くんって知ってんすか!? もうさっき一虎くんの方行っちゃってあの人マジでやべーんですけど」

「あいつ俺の知らん間になに仕出かした? いや、まあ平気だろ。あっちはツレが対処に行った」

 

 イザナは、とりあえず、不機嫌も顕に息を吐き出した。ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻いて「なァ」といやに朗らかで明るくて甘やかな猫撫で声を出した。

 

「俺さ、オマエの後ろのバカどもに用があんだよ。もちろん退いてくれんだろ——鶴蝶?」

 

 半月型の傷跡と、色の異なる虹彩は、見間違えようもない。

 

 瞳孔かっ開いた王様を目前にして、下僕と呼ばれし少年は、澄んだ目で言い切った。

 

「いいぜ」

 

 些細な変化が、巡り巡るうちに様々なものに影響を与えていく。

 反響する。ぶつかり合って、増幅する。大きな変革を齎す。

 

 もしもを重ねて、仮定を繰り返して、偶然が次の偶然を呼び寄せる。

 

 誰しもが、いつだって、わずかな変化を起こしている。

 小さな波紋同士が、ぶつかって、重なって、過去が作られている。今が作られていく。未来は流動していく。

 

「でも殺しはナシだからな」

「……。だから置いてきたってのに」

「殺しはナシだからな」

「あ゛ー! ハイハイ! わぁったよ!」

 

 そうして手繰り寄せた結果を、運命と人は呼ぶ。

 

 

 

  擬似乱数の確率論

 

 

 

 純丘榎と鶴蝶。彼ら二名が廃車場に辿り着くまでの経緯を説明するには、少々時間を遡る必要がある。

 イザナが芭流覇羅(バルハラ)の動向を追い始めて、メンタルをぐらつかせていた頃、鶴蝶は事情を知らないながらも、つられてピリピリしていた。

 いろいろ疲れてついうっかり、純丘に対して、イザナに関していろいろ考えていたうちの一部をポロッとこぼすぐらいピリピリしていた。答えのない相談にまるきり向かない人間を選んだのは、単に判断力が低下していたのも強い。

 

 とはいえそれが続けば不審に思う。

 イザナの精神に、継続的に負荷をかけている、なにかしらの強い要因があるのではと考える。

 

 よって鶴蝶は、自分で調べ始めた。

 

 イザナが精神的に不安定になるような事項なら、それは、イザナが無視できないレベルの存在であるはずだ。

 あるとしたら佐野家、特に過敏に反応するのは真一郎、次点で万次郎のこと。イザナは実は、エマのことにも度々気を揉んでいるが、その場合、イライラよりもソワソワしている。今回は可能性から除外した。

 

 ちなみに鶴蝶に文句があるなら、それがどれだけ理不尽であってもイザナは鶴蝶本人に向かって言う。鶴蝶にはその自負がある。

 

 万次郎が総長を務める東京卍會には、鶴蝶が個人的に手本にする男、武藤泰宏が所属している。鶴蝶とも個人的にやり取りが続いている。

 なので鶴蝶は、最近変わったことがないかを武藤に尋ねた。

 

 芭流覇羅(バルハラ)の話が出されて一瞬でだいたいの経緯を理解した。

 

 武藤にとってその話は、東京卍會および佐野万次郎にとっての因縁であり、東京の不良の勢力図が変わるかもしれない情報だが、イザナには結びつかない。

 

 鶴蝶から見れば、結びつく。

 

 鶴蝶は真一郎のことを兄のように慕っていた頃のイザナを知っている。真一郎を結果的に殺したのが一虎で、場地がその幇助に該当するのも知っている。

 イザナが神経を張り詰めさせていた理由を察するには充分だった。

 

 ——来たる東京卍會と芭流覇羅(バルハラ)の抗争の日、二〇〇五年十月三十一日。

 

 イザナが一人バイクを走らせていったのを見て、鶴蝶はすぐに行き先を察した。

 彼もまた、東京へと向かった。

 

「族同士の抗争にイザナが突っ込んでいきそうで心配なんで力貸してください」

 

 この話で純丘榎がどこから出てくるのかといえばここから。

 

 彼は、珍しくも連絡してきた鶴蝶によって、渋谷の街角に呼び出された。持ち物には救急セットを指定された。

 

「……うん。まあ。確かに? 仮にも一応黒川くんは十八歳の少年ではあるが」

「イザナ、うっかり人殺しそうで……」

「そっちかあ」

「俺、あいつが人殺す前に羽交締めするのはできそうですけど、怪我させたあとの手当とか救急車とか警察とか……たぶん純丘くんのが詳しいっすよね」

「うーんそうだなそこは間違いねえわ」

 

 鶴蝶の言葉に、純丘は生ぬるい表情で頷いた。

 

 イザナが、抗争の最中ついうっかり、どこぞのどなたかを殺しにかかりそうという前提で話が進んでいる。鶴蝶は当然とばかりの口ぶりで純丘も彼の言葉を一切否定しないしわりと肯定している。

 ぶっちゃけ、実際やらかした前科がある男の理性、そりゃあ一ミリも信用できない。殺す時は殺すだろうなという嫌な確信がある。

 

「ちなみに族同士の抗争ってどことどこ?」

東卍(トーマン)芭流覇羅(バルハラ)

「……圭介と羽宮くんかー……」

「知ってんすね」

「今日が抗争とは知らなかったけどな」

 

 純丘にとっても、最近頭を悩ませていた案件である。鶴蝶にとっては知らぬ話だが、ある意味、渡りに船ではあった。

 了解、と純丘は快諾した。

 

「俺にできる範囲しか約束できねえけど。必要なところでは俺が出よう」

「あざっす。そこの路地裏にイザナいます」

「ちっか」

 

 鶴蝶に指差されて、純丘が目を向けたときだ。

 

「——オイ。刺されたっつったか? 場地が?」

 

 おそろしく静かな声がその路地裏から響いたのは。

 間違いなくイザナの声であるのは、純丘にも、鶴蝶にも、明確に判別できた。

 

「……鶴蝶くん、抗争の現場どこかわかってるか?」

「……廃車場っす。こっから徒歩で十分ぐらい」

「なるほど」

 

 イザナが何事か会話している声が時折響く。その間にも、純丘と鶴蝶の会話は、温度は一定で、双方に冗談の色はない。

 

「ヨシ。君ちょっと竜胆に電話してくれ、黒川くんを理由に持ち出せばあいつはたぶんわりと素直に話す」

「アンタが電話すんのは。……ダメか」

「ダメだな。適度に誤魔化される。それに車運転しながら電話はまずいだろ」

 

 イザナがバイクを走らせるさまを横目で見送って、純丘は言った。言いながらも、ジーンズのポケットから車のキーを引き摺り出したところだった。

 

 救急セットを指定されるぐらいだ。怪我人を積むためには車の方が楽だろうと考えたのは、東京卍會対黒龍(ブラックドラゴン)における反省を踏まえた上の結論である。

 タオルやブランケットを積んでいたのは、単に、台風のときに迎えに行ったセットを脳直でそのまま積み直したポカミスによる。

 

 結果偶然にも役に立っている。

 

 ——黒川イザナは知っている。鶴蝶という少年の我の強さを知っている。

 何度突っぱねても自分に食いついてくる諦めの悪さを知っている。絶対に曲げようとしない意思を知っている。

 

 殺しはナシだと鶴蝶は言った。ナシと言ったら、ナシだ。

 約束を破ろうとすれば四肢もぎ取る勢いで止めに来る。諫言を行える者こそが真の忠臣と呼ばれる通り。無論王がイザナである以上、押し通すことは、できなくもない。

 が。

 

「はーあ。あーあ。コロシはナシな。ハイハイ」

「やっ……ぱり殺すつもりだったのか」

「ぐだぐだ食い下がってんじゃねえよ。しゃあねえな……」

「イザナそういうところだぞ。イザナ」

 

 諌める鶴蝶から視線を外して、うざったそうに何度か手を振る。

 そしてイザナは息を吐く。

 

「でもアレ俺が殺さなくても死ぬだろ」

「……」

 

 ゴッ、ゴッ、ゴッ、ゴッ、と、一定間隔で響く鈍い音は、なんとなく、メトロノームを彷彿とさせる。アンダンテより少しだけ速い。

 殴打は、下敷きにした一虎を正確に捉えている。今死んでないのがむしろ奇跡的だろう。

 

 殺すのがイザナではないなら。

 イザナが死ぬわけでもないなら。

 

 鶴蝶が助ける義理も、実は、ない。

 

「うゔ——ああああ!」

 

 一方。

 

 駆け込んだ花垣がばさっと白の布切れを開いた——場地が着用していた芭流覇羅(バルハラ)の特攻服だ。シンプルに邪魔なのと、下手に着たままだとナイフを押し込みそうだ、と判断した純丘がいよいよ切り裂いて脱がした——そして、万次郎の顔にばさっとかけた。

 

 視界を塞いだ。

 そのまま後ろへと引っ張る。

 

 不気味なメトロノームが、止まる。

 

「千冬ゥいま!」

「っしゃあ!」

 

 千冬が一虎の脇を掴んで、引き摺り出した。地面を捉えて、ようやく立ち上がりながらも、くらくらと視線の焦点が定まらない一虎が「なんだよ……」つぶやいた。

 

「なに……敵に、なにしてんだよ……テメェも……テメェが……」

「うるせえ知らねえ喋ってんじゃねえ!」

 

 打てば響くにしても食い気味に、ぴしゃんと千冬は叩き返した。だいぶな暴言だ。

 一虎は素直に口を閉ざした。素直というか意識が朦朧としていて、抵抗する元気がない。

 

「俺らが場地さん心配すんの当たり前だろあの人オマエのために全部捨てて芭流覇羅(バルハラ)行ったってのに! 当のテメェがあの人敵とか言い出したら今度こそあの人ひとりだろうがフザッケんなよマジで! ああクソ俺だってこんなことしたくもねえ!」

「して!」

「するよ!」

 

 捲し立てられる早口を聞き取ってすかさず叫んだ花垣に怒鳴り返す千冬。

 

 あいつらコントやってんの? イザナが首を傾げた。いやちょっとわかんねえ、鶴蝶も首を傾げた。

 コントよりは確実に切羽詰まっているのでもう少しちゃんと真剣に見なさい。

 

「したくもねえけど! 俺は正直オマエのこと大っ嫌いだけど! でも刺されたの場地さんなんだからオマエは場地さんに一発三発五発十発殴られてから死ぬなら勝手に死ね! それまで死んでも死ぬんじゃねえ!」

 

 これを正論と呼ぶべきか暴論と呼ぶべきか根性論と呼ぶべきかは、やや判断に迷うところだ。

 

「退けよタケミッチ」

 

 こちらは万次郎。

 

「俺だって退きてえけど退いたらマイキーくん殺しに行くじゃないですか! 一虎くんを!」

 

 そして言い返す花垣である。

 彼の大声に、万次郎は平坦に答えた。

 

「当たり前だろ」

 

 その判断になんら疑問の余地はないとばかりだ。

 

「場地くんはそんなこと望んでない!」

「……オマエに場地のなにがわかる?」

 

 不気味なぐらい冷えた声色だ。花垣の背筋に怖気が走ったが、それでも、彼は万次郎の背中に回ったままだった。

 

 場地の芭流覇羅(バルハラ)の特攻服で視界を塞いで、会話で説得を試みつつ時間を稼ぐ——万次郎が本気で動いたら、花垣の身体は吹っ飛ばされて終わる。

 花垣武道の喧嘩の強さは、東京卍會内でランキングを作ったらたぶんワースト一位を争う。

 

 言葉で気を引くことしかできない。

 

「じゃあマイキーくんにはなにがわかってるって言うんですか!?」

「——」

 

 喋りながらも、花垣はふと、ひょこっと視界に踏み入った二人にうっかり目が釣られた。

 イザナと呼ばれた男と、彼となにかを喋っていた少年だ。色違いの瞳が特徴的で、しかし、花垣にとってどこか懐かしい顔をしている。

 

 答えを提示すると鶴蝶である。

 

 鶴蝶は、まず、イザナを親指で指した。

 

「俺、君に頼まれて場地くんを連れ戻そうと頑張りました! この一週間! 場地くんとも話しました!」

 

 花垣はイザナに視線を移す。イザナは足をわずかに動かしている——足場を確かめているように見えた。鶴蝶に視線を戻す。

 

 鶴蝶は、両手のてのひらをしっかりと開いた。続いて、右手の小指を畳んだ。

 同時に、はっきりと大きく口を動かした。声はない。口パクだ。

 

「一週間だけだけど場地くんとけっこう話しました! 千冬もそうです!」

 

 右手の薬指を畳んだ。同じ手の中指を畳んだ。

 人差し指まで来て、ようやく花垣は気づいた——カウントダウンである。

 

 ……え、なにを?

 

「たぶん今までのマイキーくんと場地くんの会話に比べたら全然喋ってませんけど!」

「だ……ったら、」

「でも俺、この一週間の場地くんとはたぶんマイキーくんよりめちゃくちゃ喋ってます!」

 

 あいにく花垣は読唇術なんて身につけていない。大きな口パクでも文章の心当たりがないとわりと読めない。せめてなにかに書いてほしい。とはいえこの抗争の現場にメモ用紙なんぞあるわけもない。

 そもそも花垣が必死に時間を稼いでいる今、なにかを書いているような余裕もない。

 

 右手の指をぜんぶ畳んだところで、鶴蝶もなんとなく察したらしい。ちょっと困った顔をして、鶴蝶はイザナを振り返った。

 イザナは、心底面倒くさそうに眉を顰めたのち、顎でくいっと花垣の背後を示した。

 

 ……え、なに?

 

 花垣は困惑している。本当に心から困惑している。

 

「さっきも場地くんと喋りました! 場地くん、今になっても一虎くんを助けようとしてたし、マイキーくんを止めようとしてました!」

 

 困惑している花垣を置いてけぼりに、ヨシ、とイザナと鶴蝶は頷き合った。

 

「マイキーくんにはなにがわかってますか!?」

「——黙れ」

 

 万次郎が腕を振りかぶった。彼の視界を遮っていた白の特攻服は地面に落ちた。

 

 花垣は、それより一瞬速く、襟首を掴まれて「ぐえ」大きく後ろへ引き剥がされたところだった。

 

 襟首を掴んだのは武藤だ。彼は、花垣をほとんどぶん投げるように、後方に放る。なんで東京卍會に入ってまでイザナの言うこと聞いてんだ、ぶん投げながらも武藤はしみじみと思った。

 どこぞの暴君の指示を汲み取って、東京卍會側に協力を回せる人員が、付き合いの長い武藤泰宏しかいなかったからです。

 

 勢いのついた身体が飛んでいく先は河田兄弟だ。二人ぶん、つなげて広げた特攻服でトランポリンのように衝撃を緩和し「ぉげ」受け止める。

 

「オラこっちだ」

 

 万次郎が目隠しを振り払うよりも、花垣が投げられるよりも、一瞬速く。

 イザナは、既に地面を蹴っていた。

 

 勢いを殺さぬまま、踏み込む。つっ、と回転。回し蹴りが万次郎の右肩にもろに当たって、はっきりと音が響く。

 右腕が不自然にも垂れ下がる——右肩が外れた。

 

 万次郎が顔を上げた。瞳にはほとんど光もなく、うつろな空洞がイザナを見つめている。

 不思議な既視感があった。親近感、と言い換えてもいいかもしれない。

 

 ありえたかもしれない現在。

 あったかもしれない過去。

 あるかもしれない未来。

 

 誰もいない公園で、みすぼらしく成り果てて、虚空を見つめた紫の瞳。

 木枯らしが吹いていた。気圧の低い夜だった。空っぽでがらんどうでなんにもなかった。寒さも気圧も膜を隔てたようで、ただ、空虚な事実だけを、はっきりと感じていた。

 

 そして声をかけられる。

 

 ——〝最強〟と謳われた男が、随分落ちぶれたな。

 

「なんだその目」

 

 幻聴を掻き消すようにイザナはつぶやいた。つぶやきながらも、今度は左を狙って、もう一度蹴りを繰り出した。

 ほとんどの人間にはイザナの蹴りの初動すら見えなかった。しかし万次郎は、前腕と上腕を使って受け止めた。

 

 驚きはしない。無敵と呼ばれるなら当然、あるべき姿だろう。

 イザナは冷静に考える。

 

 ()()()飛び退く。

 

 かつて〝最強〟と呼ばれた少年、黒川イザナ。横浜(ハマ)の不死身の怪物。黒龍(ブラックドラゴン)の八代目総長。

 

 今の彼はただの()だ。

 

「ッハァ!」

 

 飛び退いたイザナ。

 彼を反射的に追いかけた万次郎の背後から、三ツ谷と八戒がタックルした。そのまま地面に引き倒した。

 抑え込んで、力を籠めて、ゴキッ——左肩の関節も外す。両肩の脱臼。

 

 少なくとも、肩をはめなければ、拳は再び振るえない。

 

 二人はそのまま、万次郎の足を抑え込む。腕に力は入れられず、足を動かせず、身体の上に座られてしまえば起き上がれない。

 

「……なんなんだよ……」

「マイキー、あのさあ、さすがに俺らオマエに、ダチが理由でダチ殺してほしくねえよ」

 

 万次郎が独り言ちる。

 途方に暮れたようであった。悪態にも近かった。

 

 彼に対して、三ツ谷があっけらかんと言った。遠慮なく足を抑え込んで、筋肉は張っていて、それでいて三ツ谷の声は、必死さを思わせない穏やかさだ。

 

「オマエは……二年前のこともある。そこは、オマエだけだよ。でも、一虎にダチ刺されてんのも、それで怒ってんのも、俺らもだから」

 

 万次郎は、悪態をついていながら、ほとんど話を聞いていなかった。

 頬に突き刺さる砂利の感触。汗が冷えたところを風が吹いていく。一度拳を止めると、どころか身体が動かせない状況に陥ると、ドッと疲労を自覚する。

 

 お忘れかもしれないが、彼もまた、芭流覇羅(バルハラ)の最強格を幾人も相手していた。その上更に、鉄パイプで頭を何度も殴打されている。

 

 暗転。

 

「……ああ!? タカちゃんやべえマイキー落ちてるどうしよ死んでねえよな!?」

「は!? いや死んでねえよたぶんきっとど、ドラケェン!?」

「ドラケンくん今救急車案内させてっからちょっと待て! ちなみに警察も呼んでるんで関係ない奴らは下手すると巻き添えでパクられるぞ」

 

 純丘の言葉通り、かすかにパトカーのサイレンが聞こえてくる。救急車よりも警察への通報を後回しにしたのは一応慈悲だ。各々が迅速にも撤収の姿勢に入る。

 

 くあ、とあくびをこぼしたイザナが鶴蝶を横目で見遣る。

 

 鶴蝶は花垣を眺めていた。泣き虫の少年は今、河田兄弟にばしばし背中を叩かれて咳き込んでいる。

 記憶のうちにだけ残っている情景が、再生されて、重なる。

 

「これでいいかよ」

 

 助ける義理はなかった。

 止める義理はなかった。

 

 鶴蝶はあらゆるものを捨ててきた。捨てるしかなかった。今更捨てるのにもとうに躊躇いはない。

 

 ただ、まあ、全力で拾おうとしている人間がいたら。

 それが古く昔に知った顔だったら。

 

 ちょっとくらい、懐かしくなることもある。

 

「……ありがとう、イザナ」

 

 眩しそうに目を細めて、鶴蝶はつぶやいた。のち、二人とも身を翻した。




破傷風
:傷口に菌が入り込んで感染を起こす
 悪くて死ぬ よくても後遺症で麻痺が残る みたいな
 破傷風ワクチンが普及する前は死因トップランカー爆走していた

アンダンテ
:歩く速さで

擬似乱数列
:擬似と表記される通り、限りなく乱数列に近しいように見えるけれど、実際は人工的なものなので規則性がある コンピュータ等で乱数列に限りなく近いものを使いたい場合等に用いられる
 厳選……乱数……6V……
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