——二〇一七年十二月三日。一時。
ヴッヴッヴッ、
不意にバイブレーションが響いた。神経が高ぶっていたところに挟まる刺激は過敏に障る。直人と花垣はそれぞれ肩が小さく跳ねた。
バイブレーションは、ごく短く、小刻みに、振動している——顔色を変えた三ツ谷が「ふたりとも立て、動ける準備して」言いながら自らも立ち上がる。三ツ谷の手は己のポケットを抑えている。
「勘付かれた」
「かん……誰に、どこに!?」
「誰でもまずいことには変わりないでしょ」
「ホントそう。どれだろうな〜最近はマイキーから隠れてるけど、今まで
「巨悪組織最高幹部……!」
「どーも」
身を翻した三ツ谷がクローゼットの脇の壁に這わせる。直人は己の胸元に触れた。
コートを脱がなかったのは、日本において警察官に許された武装たる拳銃、SAKURAをそこに隠し持っているからだ。
ガコッ、と鈍い音とともに壁の一部が外れた。よほど肥満体でもなければひとひとりくらいは簡単に通れる幅の、長方形の穴が開いた。
穴の向こうには、コンクリートで打ち付けられただけの無機質な空間が続いている。明かりがないので奥の方はよく見えない。
「そこ開くんだ!?」
「ちょ……ちょっとワクワクしますね、他にもあります?」
「あるっていうか全部屋、嬢の緊急避難用の隠し通路がな。俺も初めて知った時はテンション上がったけどヤそうじゃなくて——」
言ってる場合でもない。
外した壁、もといはめ殺しの扉を脇に立てかけて、三ツ谷が「入って」と顎で示す。
「この左手から、通路は控室まで続いてる。控室の脇には非常階段がある。正道さん——さっきカウンターで遭遇したと思うけど、場所貸してもらってる以上いろいろ説明してるからそっちは心配しなくていい」
「柴大寿と柴柚葉が駐車場に——」
「さっきの連絡はその大寿くんと柚葉と決めたやつな。緊急事態、自分の命優先。今のお前らよりあいつらのほうがより修羅場くぐってるから早く入って」
「三ツ谷くんは」
「俺はこれ閉めるから最後だよ、入れ!」
急き立てられるまま「僕が先に行きます」直人が、そして花垣が飛び込む。穴も通路もひとひとりぶんの幅なので、三ツ谷の指示通り早足に歩いて後続のためのスペースを確保。
埃臭さと、通路の薄暗さに顔をしかめた直人がライトを取り出そうとしたそのとき——ガコン、と壁が外れたときと似たような音が再び響く。通路は真っ暗闇に閉ざされた。三ツ谷は言葉通り、扉を元通り閉め直したらしい。
……通路に響く足音は、
「——三ツ谷隆は?」
クローゼットをほとんどひきずって動かして、壁の前に設置。パイプ椅子は畳んでクローゼット内に放り込む。
龍宮寺の遺品は既に整理し、適切に処分を終えたあとだ。がらんどうのクローゼットにはパイプ椅子二脚くらいなら簡単に放り込める。
廊下を闊歩する足音は迷いもない。立ち止まることもなく扉が開く。
くろぐろとした瞳に「ノックくらいしろよ、マイキー」と三ツ谷は言った。
「忘れてた」
万次郎は無表情に応じた。
三ツ谷の記憶より髪が伸びていて、三ツ谷の記憶通りやつれた様子だった。
焦点のわかりにくい双眸が、室内を見回して、首を傾げる。
「写真とか、もうないんだな」
「正道さんが片付けて、ほとんどはドラケンと一緒に燃やしたってさ」
「ああ。……なるほど」
風俗店特有の薄暗い照明の下でも、目元の隈はくっきりとどす黒い。
エマが目を覚まさないまま、万次郎は反対に、眠らなくなった。東京卍會の頭領として求められる振る舞いだけを徹底した。
痛々しい様相に誰もなにも言えず、やっぱりやめようとも言えなかった。言えるひとは、誰ひとり、残っていなかった。龍宮寺ですら……彼は彼で、だからこそ、だったが。
「マイキー。今度は、俺の番?」
「……そうだな」
「まァ予想はしてたけど。ここでやるわけ?」
「うん」
「おー……」
プレイルームのひとつを改造しただけの部屋だったが、少なくとも、龍宮寺にとってそこは自室だった。もはやいない旧友の、三ツ谷隆が尊敬したひとの、半生を過ごした場所である。
……万次郎は、そこに意味を見出さなくなったらしい。
万次郎とは今でも会話こそ通じるが、しかし、彼は三ツ谷の知る親しい友〝無敵のマイキー〟ではなくなっていた。
佐野万次郎を人間たらしめていた最大の枷がエマで、また、佐野万次郎を元の彼から引き剥がしていった原因もエマだった。
枷であり原因であり意味であった彼女は、十二年かけて、こぼれ落ちていってしまった。
あとに残るのは、巨悪たる東京卍會のトップとしての、佐野万次郎。数多の敵を生み出し続け、殺戮に慣れた、人の形をした残骸。
三ツ谷は諦めの溜息をついた。まァ良いかとも思った。
妹ふたりともの成人式を見られなかったのは残念だが、そんなことは入学式と卒業式のときから思っていたので今更だ。さすがに反社会勢力の幹部が父兄席に座るわけにもいかないし、進路に困らない程度の金はとうに振り込んである。
「ルナとマナが心配しそうだし、死に顔綺麗な方法で頼むわ」
「死体の時点で心配するだろ」
それは、そう。
もしくは見えない未来の件
「……行きましょう」
「……俺たち二人、三ツ谷くんも合わせれば三人だ。今から行けば助けられる可能性もあるんじゃねえかな」
「佐野万次郎が多対一であればなんとかできるなら、もしくは本当に一人なら、柴大寿も柴柚葉も素通りさせずに足止めしたでしょう。そうでないなら、できない事情があったということ——行きますよ」
直人は花垣のパーカーの袖を強く握りしめ、リードを引くように引きずっていく。
「君を失ったらやり直せません。なにひとつ。ここまでして得た情報も、すべて無駄になります」
生きる義務がある。
生かす義務がある。
花垣はタイムリーパーであり、直人はトリガーであり、日向を未だ救えていない。二人の初めの目的で、目標だ。
花垣の話を通して、改変された世界を通じて、本人の過去を直接聞いて、直人にとっての姉の仇は、血の通った人間になってしまった。見捨てている自覚が芽生えてしまった。
けれど、まだ足を止めて振り返ることはできない。
まだ進み続けなければならない。
辿り着いた控室は無人だった。【非常階段】と記された金属製の扉を開けると、三ツ谷が述べていた通り、屋内階段が繋がっている。二人は早足に駆け下りていった。
——途中の階の扉は、三階、二階と、いずれも鍵がかかっていた。初めて無錠状態だったのは、一階の、外に続く非常口だ。
先頭の直人が扉をごく慎重に、細く開けて様子を窺い、すぐに閉める。
直人の背後の花垣も、扉の向こうを一瞬垣間見たが、閉め直した理由はよくわかった。
「囲まれてますね」
「見たことない人しかいねえ〜……」
「東京卍會は、新興の半グレやヤクザの旧家も吸収し連携して成長していった組織です。十二年も経てば当然人員は様変わりするでしょう。ここをスルーして地下階へ降りるにしても張られてるとみて、果たしてどちらがマシか……」
そこで一度口を閉ざした。耳を澄ませば、上階からバタバタバタと足音がする。音の高さと頻度が違うので、確実に複数。
……近づいている。
逡巡は刹那の間。直人は素早く決断を下す。
「ここから逃げます」
「マジで? 外いっぱいいるけど」
「囲まれてますからね」
そうだがそうではなく。
「地下駐車場には、柱の他には、僕たちが乗ってきたワゴン車ぐらいしか遮蔽物はありませんでした。そもそも出入口前で待ち構えられていない以上、地上に直で出られる方がまだマシです」
「ウソじゃん……ア~もう、わかったよ」
花垣は迅速に諦めた。
彼らが意見を擦り合わせている間にも、上階の足音は近づいている。反論している間に追いつかれたらそれこそ終いだろう。
「武道くんはできるだけ僕の後ろにいるように、場合によっては誤射しかねないので」
「そういう理由?」
フレンドリーファイアはゲームの中でも罵倒の対象だが、いわんや現実なれば本来有り得ざるべきであろう。
花垣も味方に撃たれて死にかけたくもない。言いながら屈んで、靴紐を結び直す。
直人は拳銃のセーフティを外して、両手で構えた。本当に撃つとしたら警察学校での射撃訓練以来だ、直人とて射撃の成績は悪くもなかったが——日本の警察官は早々発砲しないし、できない。
花垣にかけた言葉は冗談でもなく真実だ。
「三秒数えたら出ます。サン、ニ、イチ」
「カウント速——」
「待て」
音もなかった。
直人の握る拳銃をてのひらが上から押さえつけた。
「そっから逃げられると困る。ようやく抑えたってのにまた追えなくなる」
二の腕には墨が這っている。指先がセーフティを抑えつけている。
花垣は靴紐をきちんと結び直して、今まさに走り出さんと姿勢を整えたところだった。つまり立ち上がっていた。
直人の背後を取った人影を振り返って見ることができた。
大柄な男である。二mとまではいかないが見上げるほどにある。
ゴツく厳つい顔立ち、日に焼けたというよりは元から褐色の肌。遺伝や体質もあるだろうが、明らかに意図的に鍛えたからこその筋骨隆々。腕だけでなく、胸元にも入れ墨が走っている。
花垣は中学の頃だって弱かった。二〇一七年には喧嘩から離れてずいぶんと久しく、立ち向かえるわけもない。
直人は警官の最低限程度には動けるが、体格ですら不利な鍛えた相手に勝てるかどうかで言うと——
色の薄い瞳がぎらりと輝いて、ふたりを見下ろす。
花垣は、彼に見覚えがあった。
とはいっても東京卍會関連で巡り合った人間ではない。どころか、タイムリープなんて能力がこの世にあると知る前から、己の能力を自覚する前から、知っている。
「ベンケイ……!?」
「ホントに誰ですか!?」
「プ、プロレスラーの、えェと荒師慶三」
タイムリープに全力投球する以前の花垣は、しがない中卒フリーターとして、アルバイター生活に勤しんでいた。彼のたまの休みの過ごし方は、アルバイト先からレンタルしたビデオを視聴するか、テレビを無作為にザッピングするか、くらいの侘しい日々。ニュースで日向の死を知ったときのように。
ともかく——彼が好んで観ていたある番組、格闘技大会の中継にて、度々見かけた顔だった。
「プロレスラーが何故ここに!?」
「俺が知ってると思う!?」
きわめて妥当な直人の疑問と、これまたきわめて妥当な花垣の反論。
「一階はうちの分店だ。匿ってやる」
匿ってやると言いつつほとんど引きずっている。
半ば誘拐じみた強引さ(本日二度目)に、直人は抵抗するか一瞬考え「……わかりました」恭順を選択した。
シンプルに怪しい。何故助力されているのかまるでわからない。
けれどもどうにせよ、既にこの近距離まで肉薄されている。たとえ拳銃を抑えられていなくても、狙って撃つより殴られる方が遥かに早い。
ましてや暴力に慣れていないどころか、花垣曰くのプロレスラー。殴られるだけならまだいいが、抵抗している間に上階から追いつかれるか、外の人員に気づかれるか、どちらもより悪い未来であろう——
一階フロアと直結した方の扉を開いて、三人とも転がり込み次第、すぐに閉めた。慶三は加えて鍵をかけた——さほどまもなく、扉の向こうでバタバタと足音、そして内容までは聞き取れないが怒号がうすく響き始めた。
上階からの追手が一階にたどり着いたらしい。間一髪だった。
肝を冷やしつつ、一方慶三のあとについてフロアの奥まで進めば、彼の言う「分店」の意味が察せられた。
非常口に掲げられた誘導灯の、みどりの光が、うっすらと内部を照らしている。トレーニングの機材や吊り下げられたサンドバッグも同様に。
「スポーツジム……」
「レスラーには、ベンケイの教え子もちょいちょいいんだよ」
「やけに詳しいですね」
「フツーに有名。逆に直人知らねえの?」
「……悪いですか?」
オカルト趣味から派生して、SFフィクションや超自然現象の研究、未確認生物、都市伝説のたぐいならよく知っているが、格闘技の有名選手には微塵も詳しくないのが橘直人。場地にも似たようなことを言われて喧嘩になったのが、何度か。
いやあれはレスラーの話ではなく猫の種類だったかもしれない。
一方花垣武道は広く浅くの典型例だ。あらゆるジャンルで有名所はなんとなく知っているが、そこまで深くも興味がないタイプ。すなわちミーハー。
花垣の記憶では〝ベンケイ〟はプロ歴十数年のベテランで、大会でも何度か優勝を飾っていた。
「もう俺は教えなくなって長ェが。……明かりはつけるなよ、まだ様子見てるはずだ」
慶三の言葉尻に被さるようにケータイが鳴る。花垣のポケットからだ——途端に青ざめた二人の顔色はさすがに暗くて見えなかっただろうが「連絡は好きにしろ」と、慶三は特に気にした様子もなく続ける。
「元々ジムのために防音は固めてる。声を張れば聞こえちまうからそこは抑えろ」
「ア、ざっす……?」
——ありがたい、ありがたいけど、ここまで親切にしてもらってる理由がなにひとつ分からねえ!
『ヤバい状況だったら返事しなくていいけどいけそうなら今の状況教えて。ていうかほんとに無事? 三ツ谷は身体張って逃がすだろうけどさ、』
「柚葉!」
気を揉んでいた相手がとりあえず喋れる状態なことが判明した。
かろうじて理性が上回ったので、声を抑えながらも、花垣は安堵の様子を見せる。
「こっちは、三ツ谷くんは……だけど、俺と直人無事っつうか、二人とも匿ってもらってる。そっちは……無事? 大寿くんは?」
『なら、最悪じゃあないね。アタシたちはどっちも生きてるよ。ここまで生き残ってきたぶん、悪運だけは一人前……てか、匿ってもらってる? 誰に?』
途端に柚葉が訝しむ。
実際、幸運だったが何故匿われているのか花垣にも全くわからないので「アー」と一旦フィラーを置いた。
「柚葉って、ベンケイわかる? 荒師慶三——」
『は?』
「ピッ」
大寿の言葉を借りるなら、元ギャルが出ている。うっかり花垣は怯んだ。
『なん……ねえ! 大寿! ちょっと!』
『うるせえ叫ばなくても聞こえるなんだ』
『初代が花垣に接触してんだけど!?』
『……ハ?』
「……初代?」
花垣武道は不良史に疎い。当時の不良界隈のことだって、不良辞典こと山岸に呆れられつつ詳しい解説を貰っていた。
本来あるべきだった未来では、大寿から説明されなければ、佐野真一郎が
当時の
「
慶三は否定もなく補足して「なるほど」とどこか納得した素振りを見せた。
『ホント妙なとこで知らないね? ベンケイは初代
柚葉の説明は一歩遅かったが、それだけではなかった。
『そもそも
「やくざ」
『うち、ベンケイは本部長』
「ほんぶちょう」
「候補な」
……プロレス興行とヤクザは確かに近しいといわれがちだ。
けれども花垣は、プロレスラーのベンケイがそれらと繋がっているとは聞いたことがない。本部長など尚更。
「確かに立場としちゃ
花垣に歩み寄った慶三が、今まさに通話状態のケータイに、至近距離から声を吹き込んだ。
「匿ったからには危害は加えねえし、突き出さねえよ。個人的な用もある」
『……その個人的な用ってやつは、ワカの方が俺らに接触したのと関係が?』
「そうだな……与太話の根拠がひとつ取れた。よく働いてくれたよ、十代目。また贔屓にさせてもらう」
ついでに勝手に電話を切った。
切られた……の顔をした花垣に「さて」慶三は向き直る。
「協力してやる代わりに——話を聞かせろよ、
日本の警察官は早々発砲しない
:一発のために書類が山程必要になるとかなんとか
フィラー
:「アー」「えっと」「まあ」のように発話の前や間に挟む意味のない声
プレゼンではできるだけ減らすように指導される場合が多い
ただ世間話等の場合は、フィラーのトーンである程度次の言葉の内容を予測できるため、これがある方が会話が円滑に進みやすい らしい
本部長
:ヤクザの立場のひとつ
プロレス興行とヤクザは〜
:普通にめっちゃ身体鍛えてきた一般人もいらっしゃる
族上がりとか、ちょっとそのへん足洗った方々もいらっしゃる
現在進行形の場合もたま〜に(たまに)ある