「くしゃん」
純丘からくしゃみが飛び出したのは、二〇〇五年の十二月三日、アルバイト終わり。時刻にして夜の八時頃のことだった。
なにせ十二月頭の野外は普通に寒い。
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、コートの右ポケットを漁って……首をひねってから、左のポケットの方を確認すれば、手持ちのティッシュが発見された。
鼻をかんで、周囲を見渡し、公園脇のゴミ箱を発見。使用済みのちり紙を放り込む。
「……ん?」
無事にゴミを放り込んで、顔を上げたタイミングで、彼は小さく声を漏らした。わずかな間逡巡してから、大きく足を踏み出す。
一歩二歩三歩……五歩めあたりで、純丘の視線の先かつ目的地、ベンチに寝転んでいた姿が動いた。身動ぎのはずみに滑り落ちかけたライダースジャケットは、着地する直前、ベンチから伸びた腕が掴み取った。
少しだけ顔を上げ、煩わしそうに目を瞬かせて、視線が周囲を泳ぐ。泳いでいた金眼が純丘をみとめて、今度こそ身を起こした。
「……また迷子か?」
「バイト帰りで道はわかっているから迷子ではないかな」
純丘は大寿に会うたびに迷子のことを擦られている。会うたびと言っても、彼らが遭遇するのは初対面を合わせて三度目だが。
「というか、それはむしろ俺の台詞」
言いながら更に歩み寄る。
「未成年が夜八時に公園のベンチで寝るなよ……冬だぞ」
冬となれば都内でも、最高気温は十度前後。夜ともなれば場合によっては氷点下を記録する。
現在の気温は七度ちょっとだがどちらにせよ外で寝る気温ではない。鍛えていて代謝が良いとしても限度があるだろう。
困ったような表情の純丘に、大寿はもう一度目を瞬かせた。どことなく焦点が合っていない。
どこからどう見ても寝起きで頭が回っていない。
「……八時?」
「……君、いつから寝てた?」
「昼食って……眠かった」
「……おそよう」
数時間は寝ていることが確定した。
一周回って普通に挨拶をする純丘に「お……」挨拶を返そうとして、そのまま大寿はぐわりと大きなあくびをこぼした。よく寝たと言わんばかりだ。
純丘の眼差しが生ぬるく温度を含む。
「……うん、帰れよ。送られたいか?」
純丘としてはプライドによる反発を見込んだ意地悪な提案だった。
しかし大寿は途端に渋い顔をした。
「……とりあえず、ここで野宿はやめたほうがいいぞ。目が覚めると物盗りと見つめ合うなんて事例は数年前の話だとしても」
「体験談か?」
「ハハハまさか」
「……野宿はしねえが、」
まで口にしてから、大寿の目が再び瞬いた。途端に、彼の面持ちがどこか硬質になった。
……これは口を滑らせたな、とは純丘の所感である。
都会の冬の夜には虫の羽音も響かない。公園に申し訳程度に植えられた木々が、思い出したようにさわさわと葉を揺らした。
「……君飯食べた?」
「は? ……飯? ひる……」
「その感じだと夜は食べてないな、今まで寝てたならそうだろうが。お兄さんが奢ってやろう」
わかりやすくおどけた口調。おもむろに財布を取り出した男に、間を置いて、大寿はつぶやいた。
「誘拐犯か?」
「君を誘拐したところで果たして俺にメリットがあるのか……」
「親父の会社はそれなりにデカい」
「そこでメリットを自らプレゼンしていくのかよ。正直俺が本気で君を誘拐しようとしても勝てる気がしないけど」
純丘は大寿よりも背が低い。なんなら体脂肪率もたぶん敵わない。
筋肉量がすべてを決めるわけではないし、未だに空手道場の手伝いアルバイトはしているが、さすがに喧嘩慣れしている男相手だと試合空手は勝てない。たぶん負けもしないが。
そもそも積極的に誘拐したいわけでもない。
断られたら、そこはそれ。フられたなと思うくらい。
「俺と飯が嫌なら、俺は一人寂しく労働終わりのラーメンを食いに行くよ」
軽やかに言った純丘に、大寿はしばし考える様子を見せた。
数秒のことだ。すぐにベンチから立ち上がる。
「なにラーメン」
「家系」
「……」
「なにか言いたげだな?」
「実は世の中には脂質ってモンがあんだが」
「コレ栄養素とか知らない前提で話されてる? ダメそうだったら他のモン頼めよ、連れてった身として責任持って金は払うぜ」
完食のち三杯目までキメていた。
純丘は最初に頼んだ大盛りもやしマシマシをつつきながらじわじわと笑っていた。食べるのに集中し過ぎて一言も会話してないぞ俺たち。
誰もがおとなになれぬまま
「ごちそうさまでしたー」
移動に加えて黙々とラーメンを啜る食事時間を合算して、時刻は十時を回っていた。
ラーメン店アルバイターの、ありがとうございましたー、の声を背に自動ドアが閉まる。
彼らが訪れたラーメン店は、飲み屋街に店を構えている。街にはネオンサインが輝いて、これからが集客の本番だ。
「アイス食べたいな」
出し抜けに純丘はつぶやいた。
ちなみにこの時点で気温は更に下がり、五度に差し掛かっている。
「ピノ」
大寿が答えた。脂質に躊躇っていたのが嘘のようだ。
「ピノならコンビニで売ってそうだな」
うなずいた純丘が足の向きを変える。目指すはお近くのコンビニだ。
二十四時間営業って、ありがたいことですね。
「この気温なら大して溶けないだろ。箱で買おうぜ、箱で。君アーモンド味いける?」
「アーモンド味なんてあんのかよ」
「初めてか。それだと……アレルギーなにがある? アーモンド以外でも、思いつく限り」
「……出たことがねえ」
「チャレンジしてみるか」
夜勤に差し掛かるコンビニ店員が微妙に怯えているのを他所に、喧々諤々、討論を重ねた末にピノを箱ごととパルムの箱を買った。
「うま」
長身の男二人が各々ピノとパルムの箱を抱えて歩き、時折箱に手を突っ込んでは新しいアイスを取り出して口に放り込む図。職質こそかけられていないが、飲み屋街から離れるにつれ、数も少なくなってきた通行人には明らかに遠巻きにされている。
人避けに便利だなこの状況、純丘はのんきに思った。
「……なにがしてェんだ?」
「うーんとな」
大寿がそう尋ねたのは、途中で箱がぜんぶ空になったので、路端のセブンイレブン(24h営業)に寄ったタイミングである。空箱とゴミを捨て、新たなアイスを補充し、ついでに柿ピーとスルメもゲット。
コンビニの壁にかかった時計は、十一時過ぎを指している。
「明日日曜だろ」
「……あァ?」
「最近は特定の週は日曜のバイトがなくてな、たとえば明日とか」
具体的には林田春樹の家庭教師アルバイトが一時中断している。生徒本人が少年院に収監されているので。
「であれば今日の俺は夜更かしができるわけだが、一人だと読書かゲームか試験勉強か資格勉強の四択でな……」
「……まあまあ択あるだろ」
「ひとつの物事に一日費やせるほど俺は集中力はないから、だいたい毎回ぜんぶやる」
「……」
「そして繰り返してると飽きが来る」
そこまで言ってから、純丘は愉快げに笑った。
「君わりと顔に出るよな〜」
顔をしかめた大寿が自らの頬をこする——パルムの箱を抱えた男はこのようにのたまうが、べつに大寿は顔に出るタイプではない。
単に純丘が息をするように意図を読むせいで、彼の悪癖を知っている周囲が、彼の前ではできるだけ表情のコントロールを意識しているだけだ。
「普段こういうの付き合ってくれるやつから最近ちょっと絶交されちゃったし、新規開拓しようかなと」
「俺は今からオマエの人間性を疑うべきか」
「……パルム要る?」
誤魔化す方法がだいぶ雑だった。差し出されたパルム——プラスチックの個包装の端をつまんで、眼前に掲げる差し出し方——と見つめ合うこと、三秒。
大寿はパルムを受け取った。
「スルメちょうだい」
「……どうぞ」
「ありがとう」
パッケージから一本引き出したスルメをかじる。酒は頑として買わなかったので、酒が飲める成人済としてはちょっと物足りない。
スルメってなるとビールほしくね? サントリーのザ・プレミアム・モルツで。異論は認める。
渡されたパルムを迅速に咀嚼し終えた大寿は、店員に追加で入れてもらったレジ袋の方にゴミを入れた。
「……青少年保護育成条例っつうのがあるな」
出し抜けに、大寿はそう言った。十八歳未満の青少年たちの健全な保護や育成のために制定された条例のことで、東京都にはきちんと設置されている。
純丘は大寿をちらりと見て「知ってる」と頷いた。なんなら深夜外出する青少年たちに帰宅を促さなければいけないことも知っているし、連れ回すなど以ての外なことも知っている。
ちなみにこの条例でいう〝深夜〟とは夜の十一時から早朝四時までを指すため、既に該当時間に突入している。
「俺が今からそこらの交番に出向いたところで、マァテメエはなんだかんだ言いくるめて勝つんだろうが」
「うん確かに勝てるけどできればやめてほしいな?」
いくら大寿が暴走族の総長を務めていて、深夜外出なんのそのだろうと、今主導して連れ回しているのは二十歳も越えた純丘榎だ。
すなわちただの事実だった。
「それを踏まえて今からの話を他言無用としろ」
「脅されなくても好き好んで言いふらさねえよ……」
右の奥歯に力を込めて、スルメをゆっくりとちぎる。硬い干物を純丘は咀嚼している。
「——殺意を抱いたことはあるか?」
大寿は尋ねた。
「あるよ」
ほとんど即答だった。「……俺が言ってんのは、物の弾みだとか、冗談レベルじゃねえ」「だから、あるよ」補足を加える大寿の言葉尻を遮って、純丘は繰り返した。
「それで?」
「……」
完全に出鼻をくじかれた。
無言で、腕の中の箱から再びピノを拾い上げる大寿——チョコ味——彼に一瞥をやって、純丘は再びスルメに意識を戻す。硬いよコレ。
大寿はピノを噛み砕いた。冷えた感触と、チョコレートの甘ったるさ。どこか鼻にくる濃密さを含んでいる。
「……すべての人間は、罪人だ。罪人だから罪を冒す。原罪を背負い、意図しなくとも主に背き、生きている」
独り言じみた言葉だった。
純丘は黙ったまま、歩調ももちろん同じ速度で、ただ歯にはさまったスルメと格闘していた。力加減を間違えて奥歯の方に食い込んでしまった。
「罪人たる自覚を持つべきだ。自覚を持って、自分を律するべきだ。俺は。……父はそうして、」
神を父と呼び変えるのは、キリスト教に限らず、多くの宗教でみられる傾向だ。純丘は自分の記憶からそんな知識を引っ張り出して、それからかすかに首を傾げた。
大寿が言う
「強くならねばならない。間違わないことができなくても、気をつけて生きなければならない。人間同士で罪を濯ぐことは、できない」
「……」
聞いたことのある言葉だ。何年か前、それこそ純丘が度々大寿に迷子と揶揄されるきっかけ。
散々迷って辿り着いたのが教会な上に、司祭でもなんでもない大寿に信心と正しさについて尋ねたとくれば、そりゃあ揶揄われもするだろう。材料が揃いすぎている。
「御子は我々の代わりに贖罪を行った。俺は……罪人で、メシアには到底向かねえ。罪の肩代わりは奇跡の御業だ。自覚しろ、悔い改めろと促すしかねえ」
大寿はそこまで言って、もうひとつピノを取り出した。パッケージを見ることもなく指で裂き、口に放り込む。今度はアーモンド味だ。
二人で一箱消費していれば、そろそろアーモンド味の区別もつく。
「その果てに殺されたって、べつによかった。強くなった結果なら、俺のやることは、間違ってねえ」
無感情な声色だ。なんらかの暗喩か、言葉通りの意味か。それすら推し量るのは難しい。
しかし——最初の問いはそれか。
純丘は、しばらく黙り込んでいた。その間にも、彼らは黙々とアイスを消費し、柿ピーを消費し、スルメと格闘した。
このスルメやけに噛みづらいな……と大寿が気づいた頃だった。
純丘が口を開いたのは。
「君の話は、キリスト教の教典に即している部分が多い」
今度は、大寿が純丘を一瞥した。純丘の歯に挟まったスルメは先程、無事救出されたところだった。
「ところで、カインとアベルの話があるのは旧約聖書だったか」
「……」
「アベルが神に献上した捧げ物は受け入れられた。一方、カインは捧げ物をする際に不信心を見抜かれて、突き返された。神様はカインを諭して、悔い改める機会を提示したけれど、カインはむしろ捧げ物を受け入れられたアベルを逆恨みして、殺した」
純丘は自らの記憶を辿って、思い出せる限りの内容を連ねる。
その間の大寿は、歯に挟まったスルメが気持ち悪く、舌で突いて押し出そうとしていた。
「そのあと、神はカインにアベルの行方を尋ねた。カインは知らないと嘘をついた。カインは弟を殺した罪で、エデンの東、ノデへと追放された。と、いうかんじの内容だったと思うが」
「……オマエなんか知ってんのか?」
「漠然としすぎだろ。聖書の内容は一般教養程度に知っているくらいだ。君の事情は本当に知らない。正直興味もない」
ちなみに大寿はこの時点でスルメを諦めた。
「さて。……俺がキリスト教信者じゃないことも、君の言葉が漠然としているのも、すべて差し引いたとしてだ。それでも俺にとって、君はずいぶん不思議なことを言う」
喉が渇いたので、純丘は大寿を軽く小突いてから、道路脇の自動販売機に歩み寄る。
百円玉を三枚入れてまずは麦茶を一本。一二〇円。大寿を見ると、意味を汲み取った彼も自販機の陳列を眺めて、炭酸を押した。一三〇円。
お釣りのレバーを引けば、けたたましく音を立てて小銭が転がり落ちる。
「罪人の自覚を持って、律して罪を冒さぬようにし、それでも為してしまう罪を悔い改めることで、最後に神に赦されるのだったかな。……カインがアベルを殺害したのは神にとって罪だった。そうでなくとも立法は殺人罪を規定している。君は、罪の自覚を持たせるために、罪を冒させるのか?」
「もとより罪人だ」
「それでも、できるだけ罪を冒さないようにさせる必要はあると思ってるんだろ」
「……順番の問題だ」
べこ、と音がする。
大寿は炭酸が入ったペットボトルを握りしめている。かすかに容器が歪んでいた。
「自覚は早くあるべきだ。信仰に至らなくとも、律せられるなら、それで」
「なるほど」
素気なく相槌を打って「ところで」と純丘は言葉を続けた。
膝を畳んで手を伸ばし、麦茶と、落ちてきた小銭を掴み取る。
「〝その果てに殺されたって、べつによかった〟と言ったな。殺される可能性を考慮して、黙認したなら、未必の故意からの教唆にも近いかもな? 危険性を視野に入れていたのに、行った。罪を冒すように唆した」
「そいつは——」
「もちろん程度にもよるだろう。けれど、殺される可能性があるような行為を、わかった上で行うのは、罪には該当しないのか?」
純丘は大寿の事情などほとんど知らない。
ただ、純丘は、八戒の言葉を聞いたことがある。理想の兄として三ツ谷に憧れる少年の話を——聞いたことがある。
それだけだ。
「自覚させる、ためだ」
「自覚させるためか」
大寿の回答を、純丘は意味ありげに繰り返した。
五〇円を財布に戻して、膝を伸ばして立ち上がる。眉を上げた大寿のその目を、意図を以て見つめ返す。
「罪人の自覚を持たせるために、罪に当たる行いを、罪だとわかっていて行う。それってある種の罪の肩代わりじゃないのか? 君の言葉を借りるなら、奇跡の御業だな」
「——」
「……それで、君、そういうことを自分でも思ってるな? マァ俺の言葉まんまでもないだろうが。揺らいでるから聞いたんだろ」
今度は純丘は、意図的に視線を外した。こういうやり取り、鶴蝶くんともした気がするな〜と遠くに思いを馳せた。
正解のない問いの分析は向いていないと常々自覚していて、口にも出しているのだが、マァ度々そんな役回りが巡り巡ってくる。
なんだろうね、向いてそうにでも見える?
「君の意図を一旦置いて。別の見方の切片として、俺の言葉をくれてやるとしたら、そうだな。……さっき答えたように、俺は諸々あって、人を殺したいと本気で思ったことがある。罪だとわかって、自覚して、その上で、だ」
これは——純丘榎にとっても、稀咲榎にとっても、佐野真一郎以外の誰にも明かしたことのない話だ。
佐野真一郎が故人である今、純丘榎しか知らなかった話だ。
「そのための方法を具体的に考えた。半分くらい実行にまで移した。……結局、いろいろあってやめたが。いろいろ諸々そのへんは言うつもりもないが」
そこで一度切って、純丘は言葉を探した。
ほんとうに、数年来で掘り起こす感情だ。他の誰にも打ち明けてこなかった。打ち明ける理由がなかった。
なにより、打ち明ける気がなかった。
見つめ直したことは幾度もある。言葉にしたことは、ない。
真一郎は、純丘に
「殺したいと思った。だからこそ……殺したいなんて、思いたくなかった。今でも、思いたくないよ。俺にとって殺意はそれなりに重い荷物だ」
大寿は無言で、純丘の後頭部を見つめた。身長差のせいでつむじが見える。
「本当に殺していたら……その荷物が重くなったのか、軽くなったのかは、わからないが。荷物のままではあっただろう」
ひとつひとつを見つめ返す。ひとつひとつを手にとって、かたちを確かめる。ひとつひとつ、言葉を並べる。
純丘は不意に笑った。
「君は荷物になりたかったか? 今も、なりたいか?」
体験談か?
:半分盛ってる
半分は盛ってない
ピノ
:1976年誕生
1992年にアーモンド味が誕生
アソートパック(バニラ、アーモンド、チョコの3種類が個包装で入った箱売りピノ)が発売されたのも1992年
パルム
:2005年4月発売開始
ザ・プレミアム・モルツ
:元は樽生限定品だった
2000年に21世紀記念で缶販売がされる
2003年5月20日から現在の名称で常時販売され続けている
「あるよ」
:「抱えきれない」6 months agoより
聞いたことのある言葉
:「許しきれない」2 months agoより
カインとアベル
:旧約聖書「創世記」の第4章
未必の故意
:さすがにこの場合適用されないので、単なるもののたとえ
鶴蝶くんとも
:「贖いの動機」嵐の前の静けさの前の嵐より