【完結】罪状記録   作:初弦

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模範解答例

「行ってくる」

 

 と、万次郎は玄関で声を張り上げた。

 二〇〇五年、十二月二十四日のことだった。

 

「あれ、今日抗争なのは知ってたけど、もうだっけ?」

「ヤそうなんだけど、最後の幹部作戦会議」

 

 声を聞きつけて、廊下の奥からエマが顔を覗かせた。スリッパを履いているから足音がパタパタと響く。

 万次郎は言いながらも靴を履いている。

 

「そういやエマ、おまえ今日は家出ない方がいいよ」

「それもう散々言われた! ドラケンもだし三ツ谷もだし場地もだし春千夜もだし」

「え? 三途あいつ連絡してんの?」

「なんかメールで来た」

 

 ホラ、と見せられたケータイ、画面に表示されたメールの文面はたしかに三途からのもので「ふーん」と万次郎は声を漏らした。

 

 三途の天竺行きが茶番なことは、場地も万次郎も察していた——だって、アイツが、裏切る? なワケねえじゃん。幼馴染同士の内心の一致だ。加えて三ツ谷からのタレコミもあり、確定されたわけだが。

 しかしエマ個人に注意喚起を為すのは、正直なところ、意外ではあった。三途とエマは、趣向の違いと、あと三途の方が()という存在に複雑な感情を抱いているのもあって、もともと別に仲良くない。個人的な連絡もあまり交わさない。

 

「あとタケミッチも。エマちゃんとおじいさん、クリスマスの参拝は控えてくださいーって。マイキー、クリスマスの参拝のこと言った?」

 

 ぱたんとケータイを閉じて、ポケットに仕舞う。同時に投げられた問いに、万次郎は首をひねって、しばらく考え込み「……言った、カモ?」きわめて曖昧な回答だった。

 

 エマはじとっと兄を睨んだ。

 

「まァ……タケミッチぐらいなら、いいケド。そこまで言うんだったら、ちゃんと教えといてよね。ウチがいつも参拝するのはクリスマス・イブじゃなくてクリスマスなんだから、抗争の日はわざわざ出歩く予定ないって」

 

 ふんとエマは鼻を鳴らす。「わかったわかった」万次郎が雑に返答するので、更に目を吊り上げた。

 

「これだから男って。タケミッチも訂正する前にどっか行っちゃったし……なんか慌ててたみたいだけど、それにしても、人の話はちゃんと聞いてけっての。てか、ドラケンもイブにデート誘いたかったのに、東卍(トーマン)に取られちゃったの、許してないから」

「悪い悪い。イブは来年も来るからまた来年にしといて」

「マイキーほんっとわかってない! ケンちゃん中学卒業したら仕事つくんだよ? 学生同士でイブのデートするチャンスは今年が最後なの! 最後だったの!」

「ごめんって。じゃ、行ってきまーす」

「行ってらっしゃい!」

 

 怒っていても挨拶はちゃんと返してくれる妹に、万次郎は玄関の扉をしっかり閉めたのち、爆笑した。

 

「うるさい!」

「アッハッハ!」

 

 あまりの大爆笑に家の中から叱責が飛んできた。

 

 

 

「わかった、わかったってば。それよかハル兄、ちゃんと飯食ってる? そもそも今どこ住んで——き、切れた……」

 

 千咒はケータイのディスプレイと睨み合うが、無機質な切断画面はいくら念じたところで通話中に戻りやしない。やがて、いつも通りの待受画面に戻った。

 

「なに、春千夜? 珍しいな」

 

 若狭は一応仕事なのでジムにはやってきたものの、恒例の深酒により、二日酔いに支配されていた。

 本日千咒が挨拶とともに入室したときも、事務用机に突っ伏して、大声やめろと呻いたのだが。

 

 電話終了に気づいて、うろ、と彼は顔をあげる。今日の彼が咥えているのはココアシガレットだ。

 

「なんか、抗争あンだって。いつも言わねーのに」

「ああ……なんか聞ィたわ」

 

 切れ長の瞳が細められて、虚空を睨みつける。

 

「聞いたってなに?」

 

 千咒はケータイを閉じて、鞄にしまった。彼女は過去に、キックの練習中にうっかりケータイを吹っ飛ばした挙句叩き折ったことがある。

 

横浜(ハマ)と千葉シメたツラよご……じゃなくて、八代目——あー——とにかく野郎どもが、東卍(トーマン)にふっかけてきて、東卍(トーマン)黒龍(ブラックドラゴン)と同盟組んでるとか」

「エ!?」

 

 千咒の声のトーンが跳ね上がった。思いっきり頭に響いて、若狭は小さく唸った。

 

「めっちゃすごくないか、それ。歴史に残るんじゃね!?」

「まァ規模デケェしな……」

「てか黒龍(ブラックドラゴン)ってアレだろ、ワカとかベンケイとか(シン)兄とか、あとタケ兄がいたチーム」

「あとって……ついでみたいな言い方してやんな。テメェの兄貴が副総長だったんだぜ」

「それで借金まみれンなってたら世話ねえじゃん?」

「……」

 

 明司の長兄は、末っ子に今日も元気に嘗められていた。

 

 昔は横暴な振る舞いに萎縮していたはずだが、とはいえ、武臣の首がいよいよ回らなくなった頃合いに、春千夜の家出事件(あれはもう事件だろう。さすがに絶句したあと、若狭は手を叩いて笑った)が発生したので、相手がそこまで偉くないことに千咒も気づいてしまったらしい。

 

 なんなら、今の千咒はおそらく若狭や慶三よりも強い。当然ながら武臣よりも強い。まァでもいざとなったらコイツ殴って逃げられるしな……と思える精神的余裕もあるのだろう。

 しらんけど。

 

「……にしても、」

 

 不毛な思考を打ち切って、若狭は話を戻した。

 

「ヘンではあンな。アイツがオマエのこと素直に心配するとか、珍しい」

「そうそう。てか心配自体おかしい、ハル兄ジブンのこと嫌いだし」

「……」

 

 あれは嫌いってか、なんつうか……若狭は言うかどうか一瞬迷った。やめた。

 

 明司家の事情はなかなかに複雑であり、下手につっついて三途にキレられるとしたらまず武臣で次に千咒、それから若狭と慶三だ。

 

「……アイツがわざわざ忠告寄越すほどヤベェんかな」

 

 どちらにせよ、三途の行動が珍しいことに変わりはない。

 

「今日のクリパ早めに切り上げるか」

「はぁー!? ワカ、まじで言ってんの!?」

 

 途端に千咒が駄々をこねだした。

 

「マジマジ」

 

 若狭は適当に相槌を打った。きんと響いた声が二日酔いの頭痛を呼び覚まし、ふたたび机に突っ伏すかどうか、彼はしばし真剣に悩んだ。

 

「だっ、だって、めちゃくちゃ準備してきたじゃん! オールって話だったじゃん!」

「マァそうだけど……」

 

 若狭は言いながらも立ち上がる。脇の扉を無遠慮に開け、戸棚を物色する。

 五条ジムには慶三の寝床が併設しているので、彼の居住スペースにはキッチンがあるし、なんなら若狭や千咒がちょくちょく私物を持ち込んで便利に発展している。

 

 彼の目当てのものはすぐに見つかった。

 電気ケトルと、インスタントしじみ汁のパッケージと、汁椀。あとウコン。……いい加減二日酔い対策を打つことにしたのである。

 

「来年もやればいいだろ」

「来年はジブン受験なんだけど!? 十二月にンな気合入った準備できねーもん内申とかあるし!」

「オマエに内申って概念あったのナ」

「ワカにはなさそうだよな」

「ウン、なかった」

 

 神妙な顔で頷く若狭。頷く仕草で頭がぶれて、ガンガンと痛み、顔をしかめた。

 

「うるせえ、どうした」

 

 居住スペースの扉を開けていたせいで、千咒の糾弾が完全に貫通したらしい。あくびを噛み殺しつつ、慶三も現れた。

 

 

 二〇〇五年十二月二十四日。

 クリスマス・イブと呼ばれる日。

 

 彼らの運命の基点は、わずかな変化をもって、たしかに訪れかけている。

 

 

 

  模範解答例

 

 

 

 そうして——確実に同時には起こり得ないこととして。

 しかし物語としては、並行して。

 

 十二年後。

 二〇一七年のクリスマス・イブの出来事も、語られるべき話のひとつだ。

 

 

「ハロー、鉄太くん。灰谷でェす」

「ご挨拶だな」

「そっちこそご挨拶じゃん? 挨拶には挨拶で返せよ、礼儀だろ」

 

 うすっぺらく笑みを浮かべた蘭と、つんと指摘した竜胆に「礼儀を語るかよ、オマエらが」稀咲は失笑した。

 

「半間はしぶといぜ、ただでさえ手負いの望月、今頃死んでんじゃねえのか」

「そりゃおまえの腹心だもんな? まともに相手取れば死んでもおかしかねえよ」

 

 意味深に匂わせた蘭に、稀咲はわずかに顔をしかめたが「ともあれだ、それこそご挨拶なんざこんぐらいでいいだろ」とくに長引かせる様子もなく、前口上を打ち切った。

 

 灰谷兄弟はおおよそいつも、一見異なる装いをしながらも、顔立ちが似通っているから、同じ表情をすると本当にそっくりだと示される。

 蘭の笑みがぬるりと抜け落ちて、竜胆の顔からいつもの気さくさが消えて、能面のような無表情が二つ並んだので、改めて、稀咲は彼らが血縁であることを実感した。

 

「本題と行こうか。テメェに死んでもらうために来たわけだ、こっちはな」

「……殺しに来んなら、イザナの方とばかり思ってたが」

 

 稀咲は会話を続けたいようだが——時間稼ぎの目的だ——目つきは変わらず油断もない。彼の言葉に、たしかに、と竜胆も相槌を打つ。

 

「正直俺らも大将が譲ってくれるなんて思ってなかったし。っぱ日頃の行いって大事なんだな」

「だいたい、オマエらが復讐するようなタマか? イザナの代行にしたって」

「んー、違ェな。俺たちがフクブ、あー、純丘榎のこと。おまえの兄貴って言やわかる?」

 

 稀咲はわずかな間、口を閉ざした。

 眼鏡のレンズ越しに瞳がわずかにぶれたのを、竜胆は目ざとく見止めた。

 

「……兄貴?」

「あいつ中学ン頃、軽音部の副部長やってたんだぜ、あーんなゴミセンスなのに」

 

 純丘榎という男が、音楽に対しての才能がからきしだと知るまでには、そこそこの時間をかける。本人が自覚しているので披露しようとしないからだ。

 

「……だとして、なんで俺だ?」

 

 なるほど、兄と親しかったのは事実らしい——稀咲は意識して頬を引き上げて、笑みのような表情を浮かべる。

 であれば純粋に、尚更、意味がわからなかった。

 

 当時の稀咲ですら、全く予想だにしない訃報だった。心底驚愕したことを覚えている。十二年も経った今でも。

 

「兄貴が死んだのは、俺が指示したんじゃねえぜ」

「あァ他のは指示したわけね」

 

 動揺から漏れた言葉端を拾って「マどうでもいいんだけど」無造作に竜胆は放り投げた。

 なんせ他の悲劇なんぞ灰谷兄弟には関係ない。そもそも、ここまで来てしまえば、もはや薄々わかっていたことだ。

 

「てか主語勝手に勘違いしねェでくれる? だから、オマエへの復讐じゃねえの。フクブにな、これ」

「兄貴、に——」

 

 話せば話すだけ謎が深まる。喉がやけに渇いて、稀咲は唾を嚥下した。

 冬の乾燥した空気は、呼吸のたび、気管にはりつくようだった。

 

「兄貴は、恨みでも買うようなこと、しないだろ」

「してねえよ。しなかったんだよ。だからこそだろ。……しょうがねえなあ、冥土の土産にお話ししてやるよ」

 

 猫撫で声、甘い声色、獲物を誘う蜜の気配。会話に乗ったと思わせて、むしろ、はじめから話すつもりだったのだろう。稀咲は直感した。

 おそらくは、稀咲の方から問いかけられるかたちを作りたかっただけだ。

 

 蘭が無造作に距離を詰める。角縁の眼鏡の鼻先で、端正な顔が稀咲を見下ろした。

 背が高い男であるからして、一見柔和な雰囲気を作ったとしても、威圧感は隠せない。威嚇目的ならば尚更に。

 

「なァ鉄太クン。考えてみろよ、そのできの良いおつむでよ」

 

 と、彼は謳った。

 淡い色の双眸は、まっすぐに稀咲を直視していた。

 

「なんで、テメエの兄貴は殺されたんだと思う?」

「……逆恨みだろ」

 

 稀咲は答えた。

 会話は時間稼ぎの目的だが、しかし、あまりに異様な空気がぬぐえない。殺しに来ている、と端的にまとめるだけでは済まされない。なんらかの圧力。

 

愛美愛主(メビウス)に襲われた野郎が、長内はとっくに林田に刺されてたから、あとは、元愛美愛主(メビウス)の俺にも復讐しようとした。兄貴を選んで、殺した」

「二十五点」

 

 すぐさま評価付けしたのは竜胆だ。「赤点ってやつ?」余計なことまで付け加える。

 

「おまえが理由だったのは、そう。でも考えてみろよ、なんでフクブを襲うわけ? あンときもう、フクブが家出て五年ぐらい経ってたろ。兄弟っつったってろくに交流もねえなら、ほぼ他人じゃん」

 

 ぱっとてのひらを開いて、わざとらしく、竜胆は指を一本畳んだ。

 

「フクブ自身、なァんかやたらいろんな武術齧ってたし。空手教室のバイトもしてたし。今のオマエよりも体格良かったな。俺には負けるけど」

「身長だと未だにフクブの勝ちじゃね?」

 

 蘭がつぶやいた。竜胆は視界の端で、兄をひとにらみした。

 二本目の指を畳む。

 

「……とにかく。そんな野郎にカッターたったの一本で立ち向かうの、フツーに馬鹿じゃん? 運良かったから、ってか良すぎちゃったからあいつは殺されたけどさあ。フツウ、制圧されんのがせいぜいだろ。だったらオマエ本人狙った方がまだマシだね、少なくとも俺なら、フクブを狙うぐらいならそうする」

 

 加害者としての視点から、実感こもった発言だ。嫌な説得力がある。

 

「……兄貴を殺した犯人は、本人もだが、ヨメも襲われてた。だから、関係者を襲おうとしたんじゃねえのか」

「いい線いってるけど、まだ足りねえ」

 

 三本目の指を畳みながら、竜胆は、わざとらしく首を横に振った。パフォーマンスとしての大ぶりな表現。

 稀咲は一瞬イラッとして、それから、己が場の空気にほとんど飲まれかけていたことに気がついた。

 

「フクブに拘る必要ねえだろ。オマエの親父、お袋、なんかたしか爺さんもいたっけ? 女子供と高齢者は狙いやすいってのが鉄板だ。わざわざ難易度高い方に行く理由がねえ」

 

 そのラインナップの中でも、一際仲良く見えたから——ではない。

 稀咲の兄は、灰谷兄弟が言うように、とっくのとうに家を出ていた。稀咲もほとんどやり取りをしていなかった。関係こそ悪くなかったが、部外者には伝わるはずもない。

 

「……まだわからねえか」

 

 蘭は、ふと、つぶやいた。「時間切れだ」彼はそうも続けた。

 感情のこもらない視線が、変わらず稀咲を射抜いて、縫い止めている。

 

「カンタン——そもそも、狙われたのは、フクブじゃなかった。あいつは巻き込まれた側だ」

 

 今までの情報を踏まえれば、たしかに、辻褄は合う。しかしそれでは奇妙だと稀咲は思った。

 

 それこそ、稀咲へ復讐するとしてだ。

 そも稀咲は親愛、友愛、その他人間の信頼や情に基づく関係などという幻想を、ほとんど信じていない。兄のように常日頃から愛想良くしていたわけでもなく、利用する目的以外では、交友関係を維持するのに尽力したことはない。

 兄よりも狙われるに値する知り合いに、稀咲には、とんと心当たりがなかった。

 

 

「次の問題な。なら、本当は誰が狙われたんだと思う?」

 

 

 ——二〇〇五年十二月二十四日。

 夜、八時半。

 

 雪降る道を純丘は歩いていた。普段のバイト終わりよりも二時間以上早かった。

 

 本日の東京は雪の勢いが強すぎて——首都圏において、積雪が五㎝も観測されれば、それはもう東京の公共交通機関の大半が死に絶えたも同然だ——アルバイト先の塾が臨時休講を言い渡し、バイトとして先に出勤していた純丘も、当然ながら帰されることになった。

 無理やり雪をおして登校することもできなくもないだろうが、普通に危険である。受験は命には替えられない。替えられないがしかし、純丘は、消えたバイト代に思いを馳せた。わざわざ出勤したのにな……ともちょっと思った。

 

 そんな折。

 

 曲がり角にて、死角から走り込んできた人間に「うおあ」しこたま衝突した。お互いの傘が吹っ飛び、純丘は咄嗟に、相手を庇うようにして倒れ込んだ。尻をわりと盛大に打った。

 

「ご、ごめんなさい! すみません、お怪我は」

「ない、ないよ。ないけど、あー、橘ちゃん……?」

 

 衝突したのは知人だった。咄嗟に、相手を庇う姿勢で倒れ込んだ理由でもある——純丘はおそるおそる、日向に声をかけた。

 

 日向のまつげは濡れて、頬はぺかぺかと光っていて、雪の天候を差し引いても、明らかに泣いていたとわかる。

 

「……君こそ、大丈夫?」

「大丈夫です、大丈夫、だいじょうぶ……」

 

 言いながらもぼろぼろとこぼれる涙。誰がどう見ても全く大丈夫ではなかった。

 

 しょうがないなあと純丘は思い、彼女に手を差し伸べて立ち上がった。転がった傘をふたりぶん拾って、日向の傘を彼女に返す。打ち付けた尻は痛いし、雪が溶けて染みて地味に冷たいが、知り合いを見捨てて帰ろうと思うレベルでもない。

 ちょうど、すぐ脇の路地を入ったところ、自販機がこうこうと光っている。

 

「ハンカチある? 貸すか?」

「あ、あります、あの、」

「好きなの選びな。お兄さんが奢ってやろう……タケミッチくんには内緒な、マジで嫉妬されそう」

 

 場を和ませるつもりで純丘はぼやいたのだが、途端にまたぼろぼろとあふれた涙に、ぎょっと目を見開いた。

 

「……あー……」

「ご、ごめんなさ、あの、おかしい、ですよね。と、止まんなくて……」

「いやいや良い良い気にすんな、気なんぞ遣わんでいい」

 

 日向がまた涙を拭おうとして、ハンカチを取り落とした。花の刺繍が泥と雪にまみれた。今度はコートの袖で擦ろうとするので、さすがに純丘は制した。

 まずは日向の傘を畳ませる。代わりに純丘自身の傘を傾けて、彼女を入れた。ポケットから取り出したハンカチを彼女に渡した。道場の生徒や、塾生だの、年下の世話には慣れていた。

 

「泣けるときに泣いたほうがいいぜ」

「ありがとうございま。……す」

「ウン、落ち着いてからお礼はたっぷり聞きます」

 

 片手では傘を差し掛けて、片手では器用にコーヒーのプルタブを開ける。ホットコーヒーを袖口で握って、純丘は一口ふくんだ。身体が温まった。

 

「……」

 

 前をろくに見ていないほどの号泣、恋人の名前が出た瞬間に号泣、そもそもクリスマス・イブに号泣。

 役満である。確実にフラれたか浮気で泣いている。

 

 傘越しに天を仰いで、誰か助けてくれー、純丘は内心嘆いた。純丘榎と名乗るこの男、色恋沙汰は本当に向いてないのだ、いや本当に。

 

「……橘ちゃん、とりあえず、ご自宅まで送っていこうか」

「ヤ、大丈夫です! お気持ちだけで!」

 

 奢られたホットレモンを握りしめ、日向は激しく首を横に振った。「うーん」純丘は間延びした声を漏らした。

 

「俺が怪しいとかならマァそりゃしょうがないっつーか、」

「ちがいます!?」

 

 けっこう食い気味の返答だった。

 

「……あとは俺と一緒にいるの見られると気まずい人がいるとか」

 

 今度は明らかにきょとん顔を晒された。

 

 ……信頼されないような挙動をした覚えはないけれど、しかし、なんで君らはそんなに俺を信頼するんだ? 純丘はよっぽど聞きたかったがかろうじて耐えた。今言うことでもない。

 

「単に俺の手間を気遣ってるだけなら、気にしないでくれ。というか、今の状態の君を一人で帰すほうが心配で気に病む。今日眠れなくなる」

「そ、そこまで……」

 

 日向はしばらく渋っていたが、結局、押し負けた。何年も前、弟のついでになんとなく送迎を担当していたので、家を把握していることが一番効いただろう。

 

 純丘は彼女を押し切ってから、花垣に〝寄り道せずに〟ときつく言われていたことを思い出した。

 とはいえ今回ばかりは緊急事態だ、そもそも彼が言い聞かせられるような治安であるならば、日向をひとり帰すのも、やはり不安だった。

 

「さて、行こうか」

 

 改めて傘を差し直して、日向の家へ帰る道路へと出る。ふたりとも傘を差している時点で、道路に横並びになるのはたいへん邪魔なので、純丘が先頭、日向が次。二人共傘を差しているので二歩ぶん距離を開けている。

 彼らは、道中でとくになにを喋ることもなく、黙々と歩いていた。ちらつく雪は音を吸い込んで、消し去っていく。

 

 しばらくして。Y字路に差し掛かったときのことだ。

 純丘の視線はふと、カーブミラーに吸い寄せられた。

 

 後方、すこし離れたところに、レインコートを羽織った人影が確認できた。

 雪かつクリスマス・イブとはいえ、純丘のようにいつも通りの日常を送る人間がいれば、日向のように特別だからこそ外出した人間もいる。道中でもひとりふたりは既にすれ違っていた。さて、ただの通行人——

 

  あ、

   ちがう、

 

 純丘のそれは、ほとんど直感だった。

 

「橘ちゃんちょっ」

「は」

 

 傘を放り投げ、後ろの日向を突き飛ばす。アスファルトに尻餅をついた彼女を、しかし慮る余裕もなく、突然距離を詰めた人影の手首を純丘は強めに弾いた。

 ——金属特有の輝き。刃物だ。

 

 視認できた顔に、純丘は目を見開いた。

 

「春樹の、」

 

 カッターナイフが振り上げられた。




言った、カモ?
:言ってない 濡れ衣
 どっかで言ったかもな……で片付けられた

恒例の深酒
:東リベキャラ名鑑、今牛若狭の項目より

五条ジムには慶三の寝床が併設している
::東リベキャラ名鑑、プライベートルーム間取り大公開の項目より

インスタントしじみ汁
:二日酔いに効く

ウコン
:二日酔いに効くとは言われている
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