二限目の最中に「すみません! ここ3のCですよね!?」と駆け込んで来た顔に、見覚えがあった——具体的には毎週火曜金曜生放送(というか生舞台)の突撃三階の昼休みで見覚えがあった——時点で、純丘はある種の予感がしていた。
余話.冤罪
具体的には、今四限の半ばだし次の授業には響かねえなという冷静さ。諦めとも言い換えられる。
「純丘先輩いらっしゃいますか、あの、授業中申し訳ないんですけど……!」
「……呼ばれてますよ」
続いた言葉と教師の点呼に、教室の視線が純丘に向けられる。純丘本人は〝スよね〟という顔になっていた。板書は「主語+have」のeが書き途中で終わっている。
現在完了形の授業中に現在進行形のトラブルが舞い込んできた。
「……あー、ちなみに、うちの部の一年ども?」
「ハイ、あの、どっちも、お願いですはやく」
「せんせー席外します。堤あとでノート貸して」
「やだ」
「この俺がフられただと的なこと言った方がいいか?」
「早く行きなよ」
「ッス……」
部長に叱られた純丘は大人しく歩き出し——教室を出る間際で思い出したように一歩後退、掃除用具入れを開ける。取り出したのは、モップ、床ブラシ、あとバケツ一個。手に入れた備品を両腕に抱えて、掃除用具入れを閉めて、改めて教室を出る。
呼んだ側の一年生は、呼んだだけあって用途におおよその検討がつくので「え、なんで……?」困惑の声でつぶやいたのは、英担だけだった。
クラスメイトたちは各々のルートから〝掃除用具で制圧した同クラの純丘榎〟をご存知だ。
「純丘くん……!」
「また顧問べそか……うわトんでら」
「そうなんですほんと声も届かんくてだか、ら……純丘先輩なにして……?」
「バケツに水貯めてる。蛇口三本でも遅ェな……」
「……な、なんのために?」
「あー。……こう?」
どばっしゃん!
ぼたぼた淡い色の髪から水を垂らして、灰谷兄弟は咳き込んでいる。純丘はその間、二人がかりで嬲られていた血まみれの人間を引きずり出して、廊下の端に転がした。手際が良い。
そうして持ってきていたモップを水溜まり(と血溜まり)にかけていく。正しく活用される掃除用具。
さて純丘を呼んできた一年生は困惑の表情を浮かべていた。というかバケツは水かけるためだったんですか? そんな感情を含んでいる。
特にそんなことはなく、目潰し代わりに役に立つかなと思っていたものを急遽予定変更しただけだ。
頭をがっと振るった竜胆が怒りも顕に吐き捨てる。
「っそ、誰だよ」
「俺だよ。本日はお日柄もよく灰谷どもは今日も今日とて元気があり余っていらっしゃるようでなにより、ところないし人によりバケツ雨らしいが」
「あー変人野郎……」
垂れてきた髪をかきあげた蘭の忌々しげな声。純丘は慌てず騒がず、水を吸ったモップをとりあえず壁に立てかける。
「ほざきよるわ濡れ鼠」
「お節介ド変人クソ野郎ォ〜」
「水を差すどころか、ぶっかけられてようやく落ち着いたのはどこの誰だ? さすがに今の君らが俺に文句言う権利はねえぞ」
「説教うぜ」
「説教だってわかってンのな。……なにがあった」
割れた窓ガラスと泥汚れ、血痕が飛び散る廊下。壁の凹みを眺めて純丘は尋ねた。立てたモップの上に両手と顎を乗せている。
ちなみに、つい昨日どころか、前の休み時間中には、経年劣化以外のなんの変哲もなかった壁だ。変哲はここにあります。そんなかんじ。
「俺らなんもしてねえよ」
「そーだそーだ」
「君らがなにかをしたか、ではなく、時系列ごとに起きた出来事を尋ねて……」
言いながら純丘は次に窓に視線をすべらせる。窓枠周辺にわずかに残ったガラスの残骸。鋭利な断面が太陽光を反射して煌めいていた。本日はお日柄もよく、なんて言葉通りに輝いている。
残念ながら綺麗より先に危ねえなが感想として来る。
「……ちなみに、窓が割れた理由は把握してるか」
「竜胆がそこのの額割るついでに割った」
「兄貴?」
「つまりなんもしてなくはないな? ……見たところ窓は三枚割れてるが、君がやったのは一枚だけ? あとは何が原因だ?」
「俺の前に兄貴が威嚇に一枚割ってもいっこ割ってナイフにした」
「りんどォ〜?」
「どこがなんもしてないんだか」
呆れたようにつぶやく純丘を他所に「だって兄ちゃんが」「竜胆も乗っただろ」兄弟は口々に言い合う。仲良しではある。まだマシとも、ゆえにタチが悪いとも。
「というか怪我は?」
「そこで転がってんの見りゃわかンだろ、節穴か?」
「そこの子は聞く以前から保健室行き。俺は君らの怪我はっつってんの」
「……べつにィ?」
「へえ。……あとでその手ェ見せろよ蘭くん」
鋭い舌打ちには副部長は無視を決め込んだ。
このクソ変人まじでそーいうとこ、蘭はつまらなそうな顔で純丘から視線を外して、ガラスで切ってない方の手で髪の毛を弄り出した。竜胆は既にぼうっと床の血染みを眺めている。
アこの染み顔みてえ〜。
「で?」
「で?」
なに? と言わんばかりに灰谷兄弟の鸚鵡返し。
さすがに聞き方が悪かった。純丘は主語と目的語を付け足す。
「君らが窓割って脅して額も割って血まみれ作った原因は?」
「知らね〜絡んできてうぜえからボコった」
「竜胆くんの意見は」
「兄貴と変わんねえけど」
「……マジっぽいな」
純丘が兄弟の嘘と本音をどこで見分けているのか、灰谷双方もいまいちわかっていない。ただ八割の確率で正答して残りの二割は首を傾げるに留めるので、なんらかの技術を用いているだろうことだけはわかる。
床ブラシで床を掃いていけば、ガラス片はあっという間に廊下の隅に集まった。
「まあなんでもいい。落ち着いたなら教師の言うことに耳ぐらいは傾けとけ」
「は? ダル」
「シラケんだけど」
「さて君、生きてるか? 生きてるな。よし、名前は言える?」
「無視かよ〜勝手に首突っ込んどいてよ〜」
「先生ェさすがに病院連れてった方が良いっすよこれ」
「マジで無視かよ」
ダル絡みしてくる兄弟に「これでも食ってしばらく黙ってろ」携帯している飴を投げる。受け止めた蘭は、飴を少し眺めて——そうしてから、表情をどこぞに落としたような顔つきで、純丘を見つめた。
……病院行き判定を下した、その生徒をそこまで痛めつけたのは、今まさに純丘が乱雑に扱った兄弟だ。
「あの、あたしが、こいつ、崎本見てるんで……」
「ん? そう。ありがとな」
ひやひやした様子で割り入った一年生が、血まみれのクラスメイトの脇を、半ば引きずるように抱えた。純丘はすこし眉を上げて、素直にうなずいた。
「……いつもの弁当は?」
「今手元にない。ほしいなら取りに行くが……そろそろ給食だし、そっち先じゃね? 教室に戻らねえならどっか運んでもらうとかあるが、どうするよ」
尋ねる副部長は、しゃがみこんだ状態で上半身をひねって、灰谷兄弟を見つめている。
ややあって竜胆はつぶやいた。
「要らね」
「じゃ俺だけ頼むわ」
「は? ずる」
「どうしろと? 今日揚げパンだから食べたいんだよな」
「あめェじゃん」
「俺にはそれが美味しい」
ぴんと張り詰められたピアノ線、そのような緊張に気づいている。どこにあるかも見えないものを、自然な仕草で適切に避けて、絡まぬように慎重に解いて、ときにはあえて動かして、純丘はそういうことが得意な自らを理解していた。
後輩たちはあまりに危うい。同時に、純丘はそこに手を出す権利を持たない。
涙腺も教師業もガバガバな顧問が、それでも最初は現場でどうにかしようとして、耐えきれず純丘を呼ぶのは、彼以外に頼るすべがないから。
当校の教諭、その大抵は灰谷兄弟の引き起こす諸事情に関わろうともしない。教師が処理すべき事柄かと言えば確かにまた違うが——ともかく。
だからと言って純丘が尻拭いをする必要性はない。彼とてその程度理解している。当初は、本当に部活で必要な事柄以外関わるつもりはなかった。
「ほんとに灰谷ブラザーズじゃん」
「なんでいんの?」
そんな血まみれ事件が先週のこと。今日は今日で、金曜の昼日中にも関わらず、灰谷兄弟は補導で警察署に保護されていた。
訪ねてきた副部長に竜胆は思わず胡乱げに返した。
「深夜徘徊で署に保護されてそのまんまって聞いたから」
言いながら、背負っていたリュックサックをベンチに下ろす。チャックを開き、教科書を掻き分けて取り出されたのはタッパーだ。
「顧問が電話受けてるとこ出くわして、様子見頼まれたんだよ。ここの署長谷垣さんってんだけど、顔出して聞いたら教えてくれた」
「マジで言ってる」
「まあ顧問だしな」
「そこじゃねー」
署長と知り合いで、さらっと〝聞いたら教えてくれる〟レベルの関係を構築しているところに突っ込んでいる。
そも補導対象と無関係の人間がすんなり会えているところもおかしい。なぜ〝ついでに顔見に来た〜〟なノリで警察署のバックヤードに踏み込めるのか。
「つかガッコじゃね」
「今週テストだから部活もねえの。言うて三限の音楽はフケたが」
「軽音部のくせに音楽フケんの」
「い〜けないんだ〜」
「これで俺も今日から不良だな」
「調子乗ってんじゃねえぞ」
「ゴメン」
突然ドスの効いたトーンに転じた蘭に純丘は素直に謝罪した。人が本気で取り組んでいることを軽率に茶化してはいけません。それは間違いない。
本気で不良に取り組まれても周囲は正直困るが。
「補導って飯出るんすか?」
「一応長いこといると出すけど、そこまでしっかりしたもんじゃないなあ」
「あ〜なるほど、じゃサンドイッチ持ってきたんでここで食っても?」
「……なんで仲良くなってんの?」
「仲良くなってるってか顔見知り、この人小橋さんな」
「純丘くんが見てるなら、昼休憩入ろうかな」
「いてらで〜す」
そんなことある?
虚無の表情を晒す兄弟に「
「……食う」
「俺そっちな」
「食いさしだが、良いなら……許可聞いてから取れよ。せめて」
一瞬前まで純丘が食べていたカツサンドは、蘭に掠め取られ、跡形もなく消えた。
「毎度よく食うことで」
「昼しか食わねえもん」
「家に飯ねえの?」
空になったタッパーを膝に置いたまま、次に取り出したのは水筒だ。そういうの爆発物疑いで持ち込みできなくねフツー、とはもはや兄弟すらも突っ込まなかった。
どうにでもしたんだな。以上。
「あるけど……冷えててパサついてっと食う気失せンだよ。買うのもめんどくせえ」
「あ〜……濡らしたクッキングシートに包んでチンしたら?」
「なにそれ」
「今度スーパーのキッチン用品の棚でも眺めてみろ。……もしくはちょっと水入れるといいかもな」
「それべちゃべちゃになンだろ」
「不器用か?」
「ア?」
「ノータイムで手近なものを投げんな」
すっ飛んできたラップの塊を受け止める純丘。噛みつかんばかりの勢いの竜胆を「怒るなって」あしらいながら、掌中のラップを膝の上のタッパーの中に戻す。
「許可取れさえすれば、夕飯用の弁当でも作ってやっていいぜ?」
「……過労で早死しそうなやつ」
「心底失礼だこと〜材料費と容器さえあれば、あとは家庭科部に交渉して場所借りて作れんの。ガス代も、ついでに俺のおやつ代も浮く」
「後輩に飯タカろうって?」
「人件費と言え、外食だとか中食よか安くなるし……もし作るならそうするよ」
純丘の両眼が順繰りに灰谷たちを見つめた。ゆるく目を細めた表情は、言うわりに、柔らかさがない。
……訂正しよう。
冗談を滲ませてはいない。
「その方が良いだろ」
竜胆の視線が蘭に飛ぶ。蘭は兄弟の視線を受けて、ゆるく頭を傾がせた。
「……見透かしたみてェに言うよなァ」
「……わかったふりされんのは俺も不快だ。そこはごめん。それはそれとして、君らは〝特に見返りは要らないから受け取っとけ〟とか言っても、信頼するようには思えないんだよな」
純丘の口調は淡々としている。おふざけを含まない平坦さ。
「人であれものであれ仕組みであれ——なんであれ、結局本人の使いようだ。正しくなくてもいいから、賢く使えよ。少なくとも俺はそうしてる」
「どうだか」
「最低限、自分がやりたいようにやれるよう。……この際明言すると、俺が君らに関わるのも、ある種その一環だ。たとえば音楽の試験をフケても〝面倒見の良い先輩だから〟で目こぼししてくれるように」
その眼差しを覗き返したところで、普段と変わらぬブラウンが見返すだけだ。
「純丘くんは試験一個でもサボれたらそれで良かったんだろうね。というか、先生の印象を上げながら、点数落とせるなら」
灰谷兄弟は、所属する軽音楽部で、意外と可もなく不可もない関係性を築いている。数少ない部員たちは結構気のつくタイプで、地雷を丁寧に避けていく。灰谷兄弟側が危害を加えることは純丘が許さない。仲はそこまで深くないが、少なくとも、険悪ではない。
珍しく——というかこれが初めて——放課後の部活に灰谷兄弟は顔を出した。
純丘は宣言通り、放課後は不在。
冒頭の言葉を言うときも、軽音楽部部長はいつも通り、気のない口調だった。
「彼が音楽にさして興味ないのは、元からだけど。軽音楽部も、私に付き合って転部しただけ。人数合わせで」
「お前らやっぱデキてんの?」
「付き合って、はただの言い回し」
「てことはあいつ、透かしたツラで片恋かよ。面白」
「それこそまさか」
短く堤は否定した。静かな視線は楽譜のおたまじゃくしを辿っている。
「私は純丘くんとの恋愛には興味ないし、純丘くんは恋愛はしない。今までも、これからも」
「お似合いだと思うんですけど〜」
「御門ちゃんはよく言うよね、それ。……純丘くんに聞いてみたら。私の話を伏せても、彼は、否定するよ」
「へえ……」
「……ちなみにもうすぐ文化祭のタイミングで、あなたたちはここに来たわけだけど。出る気あるなら楽譜渡すよ? 大丈夫まだ三日あるから死ぬ気で叩き込めば間に合う」
「じゃーな」
灰谷兄弟は部室を辞した。
閉まった扉越しに盛大な舌打ちが聞こえて、二人は顔を見合わせた。どちらも〝副部長がアレなら部長もコレって感じだよな〜〟と言わんばかりの表情だ。
「あー……いつも堤のやつ、他のパート全部一人で
「狂ってんの?」
「好きだからどこまでもやれるんだろ。……ただ、さすがに手間なのも事実なんだろ」
「お前はやんねーワケ」
「そういう条件で転部したんでね。照明ぐらいは弄ってっけど」
放課後の家庭科室は家庭科部の領域だ。月曜と金曜の放課後ばかりは、調理台のひとつを、軽音楽部が陣取っていた。純丘が野菜をザクザクと切り刻む手際は非常に早い。
うち一山は、プラスチックバッグに、浅漬けのもととともに突っ込んでいる。もう一山は、軽く炒めて味噌と顆粒出汁とめんつゆで味付ける。残りは、ラップを敷いたボウルの中、ひき肉と一緒に混ぜて丸めて茹でる。
淡々と出来上がっていく料理。それを眺める灰谷兄弟の心地は、どこか新鮮なものだった。家庭料理の経過を観察する機会は、彼らには滅多にない。
「てかマジでデキてねえの?」
「……なにが?」
「オマエ」
「……誰と? まさか堤? 俺あいつに恋するぐらいなら舌噛んで死ぬけど」
「そこまで言うかよ」
竜胆は笑った。心持ちとしては正直引き気味だった。
「堤が嫌いなんじゃねえけど……それこそ、そういうのじゃない、みたいな? あいつもそう」
朝方、空き教室でタレに漬けて、保健室の冷蔵庫に保存していた肉。それらをフライパンに並べて焼いていく。
「てか堤、好きなやついるから」
「へー誰」
「興味ないなら聞くな。興味あるなら本人に聞け」
「ンドクセ……じゃいいや」
そうだろ。純丘は気のない声で言う。心底どうでも良さそうだ。
「そういや君ら文化祭どうする」
「七月末とかめんどいよな〜」
「俺も正直文化祭は九月以降のが楽だわ。……顔出すなら、俺のとこ近寄らねえ方がいいかも」
「ハ? なんで」
「親が来る」
端的な返答だった。
「親の前でも良い子ちゃんしてんの?」
蘭は詠うように尋ねる。わずかに悪意の籠もった声で。
「そうだよ」
純丘の口調は相変わらず平坦だ。
「無闇矢鱈干渉されない、最低限の自衛だ。あいにく悪さすると放っといてくれないもんで……」
「……まるで家族嫌いみたいな言い方じゃん」
「家族じゃねえよ」
「親っつったろ」
「伝わりやすいからそう称した。製造元と言った方がいいか?」
声色に感情はない。不自然なぐらいに。
調理台の白いテーブルに、竜胆は顎をつけている。
「……私生児? 養子とか?」
「いいや。血も戸籍も繋がってる。塾に行かせて、習い事に通わせて、家事を教えて、よく育ててくれたとも」
「あー……武道関連はだいたい、だっけ?」
「そうだな。あとピアノとか、バイオリン」
「似合わね〜」
蘭の直截な言葉に「実際楽器はセンスなくて辞めたし」純丘はようやく笑った。
「立派で、真っ当な人だ。世間的に見ても」
「オマエみたいだな」
純丘の手元のきゅうりは、メトロノームのように乱れないリズムで、きっかり五㎜刻みにされている。
「——そうかもしれないな」
けれども声色がわずかに震えた。わずかで、一瞬のことだった。
ほとんど気づかないような刹那だ。
「勿体無い言葉だ」
ごとんと音が響く。
包丁とまな板がぶつかった。
——純丘榎が意味深な言動をしている間にも、あるいは軽音楽部の部員が好きなことを好き勝手している間にも、時間は回る。日が三回上がって沈めば、もう文化祭の開催だ。
「あれもう軽音楽部じゃなくて別モンじゃね?」
「私が一番思ってる。来たの?」
「先輩の晴れ舞台観にィ♡」
「……どうも」
あからさまに不満げな顔をした部長に「大概怖いモンなしだよな」「チクられるってわかってなきゃ殴ってる」「わかる」灰谷兄弟は口々に言う。チクられなくても殴るな。わかるな。
「新入りズ、公演は終わってんですけど?」
「知ってるゥ」
「うわムカつく……ホント今年の一年って生意気ですね! 堤センパイ!」
「御門ちゃんが言うことじゃないよ」
「え……」
「はしご外されてや〜んの」
愕然とした顔の御門を、馬鹿にした笑い方で揶揄う蘭。竜胆はといえば、かるく視線を走らせて、独り言のようにつぶやいた。
「一人足りねえけど」
「純丘くんは彼のお父さんと一緒。あなたたちは行かない方がいいよ」
「それあいつにも言われた」
「だろうね」
「ちなみにどのへん?」
物言いたげな視線を注ぐ堤。あっけらかんと竜胆は言う。
「うっかり鉢合わせしねェように、場所把握したいんだけど」
「……ほんとに行かない?」
「行かねえって」
「……せめて大人しくしてね」
「信用なさすぎんだろ。行かねえし首突っ込まねえって」
「……展示物回るって」
「竜胆三年の展示物どこ?」
「ホールんとこと理科室だろ」
「よ〜し行くぞ」
「ほら……」
それ見たことか、そんな様子の堤を置いて「俺が聞き出したのに」先を行く蘭の背を、竜胆が追いかける。
「あ、いた」
笑い混じりの声を聞いて、純丘はあからさまに顔を顰めた。なんならしっしと手で払うジェスチャーをするので、喧嘩を売る代わり、いかにも無害そうに微笑む灰谷兄弟。
こいつら何企んでんの? 物言いたげな顔の純丘。先程から露骨に顔に出ている。
「お前の友達か?」
「……後輩ですよ。部活の」
「初めましてェ」
「いつも息子さんにはお世話になってまァす」
にこやかで平和的な灰谷兄弟の挨拶に、いよいよ純丘の顔が引き攣っていく。二の腕を擦る仕草——本気で鳥肌が立っている。
普段を考えればそれもそう。
「そうか……」
朴訥とした印象の男だ。息子たる純丘は、中三にしてそれなりの長身だが——堤の言を考慮すれば、父親と見るのがスマート——男は更に背が高い。
「……彼らの髪は、校則に引っかかるんじゃないか?」
「クラスの出し物で仮装したみたいです」
あまりに根も葉もない嘘を「ロミオとジュリエットやったんです」即座に竜胆が補強した。笑顔のままの蘭が「そうそう」同意しつつ、気づかれないように竜胆の脹脛を蹴り飛ばした。その言い方だと髪の長い俺がジュリエット扱いされそうじゃん。
兄の横暴に、しかし他人の目前のため、しゃがみ込むのも顔を顰めるのもかろうじて堪えた竜胆である。えらいね。
これだから兄ちゃん嫌。彼は心中でそう嘆いた。
ちなみに彼らが通う中学で明るい髪色は地毛すら校則違反扱いだが、灰谷兄弟が普通に怖くて誰も突っ込まない。突っ込む度胸がある純丘は義務もないので突っ込まない。
そこで突っ込む気があったら、まず刺青の方に突っ込んでいる。
「なるほど……学校は楽しめているようだ」
「そうですね」
相槌に話を広げる気が微塵も感じられない。
「……君たち、息子とよくしてくれているのかな」
ダークブラウンの瞳は日本人にはよくあるそれ。鼻の形似てるもんだなあと蘭の方はのんびり観察している。竜胆はまだ蹴りを入れられた鈍痛で若干気が散っている。
「マ、それなりに?」
「息子は、面倒見がいいだろう。誰彼構わず世話を焼いてしまう性質でね」
「人前でやめてください」
「お前は自分の身を疎かにしてしまうところがあるから、心配なんだ。周りに支えてもらうことも覚えなさい」
ただの子煩悩の台詞に聞こえる。内容はもちろん、声色も、表情も。
……そのはずだ。
「この間の定期試験でも、満点を取れなかっただろう。中学のテストだというのに、百点も……」
「……人前でやめてくださいと申し上げましたが」
「学校の問題児に——ハイヤマ、だったか?——なにかと便宜を図っていると、先生方から聞いたよ。定期試験の点数もそのせいだと。このまま成績が上がらないでいると、本当に、母さんは許してくれなくなるぞ」
「……そうなると思いますよ」
純丘の声は、平坦で、無機質だ。ふざけるときどころか、普段のような抑揚はない。高低の機微も読み取れない。
——彼らが通う中学で、音楽の試験は百点満点で採点される。
「そうだとして……初対面の人間を巻き込んでする話では、ないでしょう」
「……下の子が、近頃、幼い頃のお前に負けず劣らずの成績を出し始めた。母さんの期待はいよいよそちらに傾いている」
「近頃どころか、最初から、ずっと優秀でしたが」
拳を撫でられたことに気がついた蘭が、視線を落とす。純丘はもう一度、親指以外の指先が握り込まれた表面を撫でて、指先だけでぺしっと叩いた。
そうして手を下ろした。
「母さんは確かに厳しすぎるきらいがあると、俺も思う。それでも……お前は子どもだ、なにもそこまで反抗することないだろう。このまま意地を張っていると、本当に、勘当されてもおかしくない」
息を吐き出した。困ったような音だ。わかりやすく伝わるぐらいの——それこそ、呆れを含んだときの純丘に似ている。
「一人でなにもかもしようとしないで……なにがそこまで気に入らないのか、父さんに話してみる気はないのか? 以前のお前は試験をすっぽかすなんてこと」
「てかフクブ、この話まだかかる?」
しびれを切らしたように尋ねたのは竜胆だ。間違いなく話の途中だ。
掌は自らの脹脛をさすって、それでいて、純丘をその紫が見つめてる。
「御門が呼んでたぜ」
「もう終わらせる。失礼しますね、続きがあるなら文化祭のあとにお願いします」
短く応じた純丘が、断りを入れて踵を返す。「……わかった」応じた男の声は、既に距離が空いていて、遠かった。ほとんど早足で廊下を歩き去る純丘は、明らかな無表情を維持していた。灰谷たちは観察気分であとを追った。
歩調が緩まったのは、五十mほど歩いてから。
その足が角度を変えて、止まったのは、廊下の流し台の前。
ひねった蛇口、ドバドバあふれる冷水に頭を突っ込む先輩に「あ〜あ」蘭が気の抜けた声を上げる。四方八方水が飛び散る様を、灰谷兄弟は珍しくなにをするでもなく眺めていた。
そりゃあまあ、脇腹くすぐったら面白ェかなぐらいは思ったけれど。
「……はー……」
「凉めたかよ?」
「まあまあ」
しばらく経って。
蛇口の水を止めたその手で、純丘は、ハンカチを取り出して乱雑に頭を拭いた。
目立った水気を粗方取り除き、雑に絞ったハンカチをポケットに入れる。
「……てかフクブって俺のことで良かったか?」
「合ってんぜ」
頷いたのは竜胆だ。
なんだかんだ純丘は、灰谷兄弟には二人称や三人称でしか呼ばれたことがなかった。
フクブってこた副部長の略称かな、純丘はどこか遠くを見るような心地で、眼前の兄弟を眺めている。冷や水(物理)を浴びた頭、拭いてもまだ湿っている髪先が、頬にぺたりと貼り付いてもいた。
「聞いたならこっちも聞いていいよな?」
「どーぞ」
「あいつのこと嫌いなんだ?」
「嫌いだな」
ほとんど即答だ。迷う素振りも見せない。
前回の問いかけでも、否定を返したのは〝家族〟の部分だけだった。それとて逡巡すら挟まなかった。
「立派っつったくせに」
「立派な人だと思うことと、俺の個人的な好き嫌いに、因果関係はないだろ」
「……そもそも、あれって、立派なワケ?」
「少なくとも子育てに関わらない部分はそうだし、子育ても称賛されるであろう点は多い。俺も、素直に好きで、言う事聞いてた時代もあったんだよ……今は嫌いだが」
「嫌いなんだ」
「心底嫌いだな」
修飾語が増えた。
「ちなみに御門が呼んでたってのは」
「ウッソでぇす」
「……アリガト」
途端に不貞腐れたような表情を浮かべる灰谷兄弟。思わず苦笑する純丘。
「素直に受け取れよ」
「だってメーワクかけてんだろ」
「君らそういうの気にするような神経してたわけ? 蹴るな蹴るな、蹴るにしても本気で蹴るな」
口より先に手が出る二人。慌てず騒がず(叱りはするが)蹴ってくる足を逆に蹴り返して除け、流れるように腕を捻り上げる。
ぎゃんぎゃん喚く兄弟に「てかほんとに気にするような神経してた?」純丘は首をかしげた。
「そうじゃねえと思ったから、言われた以上に構ってたけど。そんぐらいの悪評は人件費だろうし」
「最悪なんだよな」
「品行方正な優等生の定義マジで狂ってんだよ」
「はははは。……それともやっぱり、施しが嫌か? あるいは利用されてること?」
のんびりと尋ねながら、キメていた腕を離す。肩をさすった竜胆が嫌そうな顔で純丘を見上げた。
「それ嫌っつったらやめんの?」
「卒業までは付き合わせらァよ」
「ア〜早く惨たらしく死んでくれ〜」
「七十年ぐらいあとに布団の上で老衰してやるからそれまで我慢しろ〜」
「希望叶える気なさすぎるだろ」
彼らとて、この時点では卒業後も続くとは思ってもみなかった。
原因
:財布盗んだ等の嫌疑がかけられていたが微塵も聞いていなかったので本当に把握していない
声量がだんだん上がってきてウザくなったのでボコった
どこで見分けているのか
:視線の揺れと指先の動きと口元の筋肉のブレを注視しつつ声色の微細な違いを聞き分けて、あとは勘
そんなことある?
:ほぼ確実にない
昼しか
:「給食しか」と評すのが実は正確
爆発物疑いで
:実際そういう事件がある
実行はしないでください
責任は負いません
恋愛はしない
:おうち関連でいろいろあった
好きなやつ
:ガチ
百点も
:何気に他教科満点とかいうバケモノ
下の子
:弟