【完結】罪状記録   作:初弦

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僕たちが償いを騙っている
亡霊よ、さようなら


 二〇〇五年十二月二十四日、九時少し前。

 

「ッア——くしゃあん!」

 

 雪降る道すがら、盛大にくしゃみが響く。

 

 ずび、と鼻を鳴らした若狭に「だから着込めって」慶三がぼやいた。コートの着用を億劫がった結果がこのザマだ。

 

「もうさみーの?」

「うるせ」

 

 軽やかに笑う千咒に、若狭は顔をしかめた。差した傘を傾ければ、積もった雪がどさどさと脇に落ちる。

 

「あのな、この氷点下でも生足出せンのは、若い奴の特権なんだよ。オマエも二十五越えた頃にはどうせこうなってンだぜ」

「ワカはその頃にはアラフォーぐらいじゃねえの?」

「ったくすっかり生意気になっちまったナ、口答えばっかり覚えちまって。昔はワカと結婚するとか言ってたクセに……」

「言ってたっけ」

「言ってねえだろなに捏造してんだ。言われてたのは(シン)な」

「言ってたっけ!?」

 

 三途が千咒に能動的に連絡をする、という事態こそが既に特異なのは、若狭に加えて慶三も同意見。クリスマスパーティーの主催は彼ら二人なので、早めの解散はこの時点で決まったも同然だった。

 最も気合を入れていた千咒は最後まで抗議をしていたが、けっきょく、八時半には解散となった。

 

 しかし本来は、朝方、日が昇ってから帰そうとしていたところを、夜に前倒しになったわけである。

 

 千咒の実力はたしかだとしても、昔から可愛がっている女の子を夜にひとりで帰すのは……と、若狭と慶三の意見が再び合致。

 世の中には、女ならばなんでもいいと宣い、少女一人で歩いているところを鴨と見る輩は、決して少なくない。境界線上で生きていた彼らは、今でもその境界を時折覗き見る彼らは、よくよく知っている。

 

 とはいえ、バイクで送り届けようにも本日の東京の天候は雪であり、かつての双璧も命は惜しい。

 というかスリップで死ぬのはさすがにダサい。

 

 三人揃って雪道をもそもそと歩く絵面はそういう経緯で爆誕した。

 

(シン)ちゃんマジでモテたんだよ。ガキに」

「隊員の妹とかによく告白されてたからな。オマエとか」

「お、覚えてねえ……」

「マァだいたい五、六歳で〝今はキムタクが好き〟って言い始めるからな」

「香取とかな」

「ジブンSMAPはあんま興味ねーんだけど」

「千壽はその頃には春千夜の真似してたから、結婚とかは言わなくなったろ」

 

 千咒はこっそり顔をしかめた。覚えてもいない昔のことを語られても困るが、微妙に覚えていることを引き合いに出されても気まずい。

 

 若狭と慶三、この二人はクリスマスパーティの最中にしっかり酒を入れていた——千咒を帰す予定もあるので控えめだったが、酒は酒。大人って呑むとすぐに昔話し始めるよな、とは千咒の辟易混じりの実体験だ。タケ兄とかさ?

 

「っかしマジでオマエらずっと跳ね回ってたからな。危なっかしかったよ、目ェ離すとすぐに勝手にバイク乗ろうとするわ」

「車体に落書きするわ」

「マフラーに砂利詰めるわ」

「エマちゃんのおもりは楽だったな〜、一番大人しくて」

「あっちはあっちでマイキーたちのイジりにブチギレたの宥めんの大変だったろーが。毎度毎度」

「そういやそだわ。てかそういや定期的に横浜(ハマ)まで連れてけとかごねてたのもあのコじゃん、全然大人しかなかったわ」

「あったな、ンなの」

「それいつまで続けんの〜……?」

 

 酒飲みのスイッチは謎が過ぎる。

 前の方から通行人が来ているのに、未だに延々と盛り上がり続けるので、千咒は少し歩調を速めた。あまりに居た堪れない。自らの傘を開いて、慶三の傘から出る。

 

「おい、あんま先行くな」

 

 目敏く慶三が声をかけた。未だ揶揄い混じりの声色だ。

 二人を振り返って、べ、と千咒は舌を出す。

 

「二人が悪いだろ! 嫌がってんのにさ、そういうトコがオッサンなんだって」

「むしろ悪ガキだろう。全く、変わっとらん」

「ホントホント、そーゆーとこ真兄のトモダチってカンジ」

 

 思わぬ援護射撃に、あれっ、と千咒はまばたきをした。前に向き直る。

 

 前の方から来ていた通行人。黒のコートの少女と、高齢の男性。

 ……どこか見覚えがある。

 

「アレ」

 

 千咒が結論を出すよりも早く、若狭が声を上げた。

 

「エマちゃんに、(シン)ちゃんのじいさん」

 

 若狭の言葉で、千咒もまた思い当たった。

 

「ひ、ひさしぶり……!?」

「久しぶり、千壽。悪ガキどももな」

 

 万作は鷹揚に挨拶し、続いてその向こうの二人に視線を向ける。ご老輩にかかれば初代黒龍(ブラックドラゴン)の双璧も未だ悪ガキのままのようだ。

 

「ガキはやめろって、ジーさん」

 

 慶三がバツが悪そうにつぶやき、それから怪訝そうに彼らを見比べた。

 

「つうか……今日はマイキーたち抗争だろ、アンタらこんなとこいて良いのか」

「それネ、ウチも思った。マイキーったら行く前も散々家出るなって念押ししてきたのに」

 

 エマは軽く溜息をつき、肩に提げていたトートバッグを掲げてみせる。

 

「今日はちょっと特別だから、真兄のトップク持って来ようとしてたのに、忘れたんだって。だからウチに持ってきてってさ。当の本人がいたいけな妹をパシらせるじゃん!」

「さすがにエマだけで出すのはな」

 

 と、万作が補足した。

 

「……へえ?」

 

 千咒はなんとなく、首をかしげた。

 

 千咒を心配することなど滅多にない(まず電話を寄越すことすらない)三途が、それでもわざわざ連絡を寄越してきたのだ。総長であり、兄妹仲も悪くない万次郎はそれ以上に妹の身辺に気を配っているものかと思っていたが、意外にも、そうでもないらしい。

 

「……エマちゃんソレ、マイキー本人からかかってきたワケ?」

 

 と、ここで尋ねたのは若狭。

 彼の眠たそうな半眼が、今は、少しだけいつもよりも開いていた。

 

「マイキーからってか、マイキーのケータイからね。電話は他の人に任せたっぽいけど」

「それでマイキーからってわかんの?」

「ウチも一瞬、なんかそういう詐欺カナ……って思ったけど、うちの家ってナンバーディスプレイ加入してて、ホラあれって電番出るじゃん? フツーにマイキーの電話だったし、あと後ろでマイキーたち話してたから。マイキーも家出るとき、抗争前の最後の幹部集会っつってたし、だったら東卍(トーマン)の人なのはほぼ確でしょ?」

 

 若狭の懸念はエマももちろん考えたようだ。安心させるようにひらひら手を振ってみせる。

 

「作戦会議で手ェ離せないからかけといて〜ってやったみたい。マイキーマジでそゆとこ」

 

 面倒だからと電話を他人に丸投げするのは、万次郎がよくやる手だった。だいたい龍宮寺が引き受けているが、適当な兵隊を捕まえて、ケータイごと押し付けていることも、珍しくはなかった。

 しかし、若狭の表情は変わらないどころか、むしろ険しくなった。慶三がじろりと相方を見下ろす。彼らは、同じ可能性に思い当たっていた。

 

「……あのさ、マイキーに一回電話してみてくんね?」

「……ええ?」

 

 エマが露骨に疑問を示した。

 

「今もケータイ持ってるだろ?」

「持ってるけど……?」

「千咒、オマエも春千夜にかけとけ」

「なんでまた」

「電話代は持ってやる」

「言ったな?」

 

 千咒の表情は明らかに、ガメてやろ! と言わんばかりだったが「良い良い」慶三は雑に頷いた。

 たかだか数分程度の電話代に色をつけたところで、そう簡単に行き詰まるような生活でもない。

 

「……なにを気にしとる」

 

 各々電話帳を呼び出す少女たち——エマの方は繋がったらしい、もしもし、と声が聞こえる——を他所に、万作は尋ねた。さすがに奇妙な要請だ。

 

「じィさん、知らねえかな。知らねえかも」

 

 若狭は言いながらも、煩わしそうにまた傘を傾けて、積もった雪を道の脇へ落とした。

 

 彼らが生きる()は、二〇〇五年。iPhoneの販売すら先のことであり、当然、LINEもないころのこと。ケータイは既に普及しつつあるが、それでも、まだ義務教育中の年齢で自らのケータイを持っている少年少女は、そう多くはない。

 単に裕福か、あるいは家庭の事情で個々人で連絡を取る必要性に迫られているか、たいていはその二択のどちらかに弁別される。万次郎やエマは前者であり、後者でもある。

 

 思い当たらなくとも無理はない。知っていたとしても、まさかこんな方法で悪用されるとも思わないだろう。

 たいていはそれこそ高齢者など、金を持っていて、すぐに電話に出られる環境にある人間を騙す手法だ。

 

「わりと最近。振り込め詐欺の手口で、電番の偽装表示ってのが流行ったワケ」

 

 海外の通信事業者を経由することで、発信者番号を偽装する。110番や119番、あるいは自宅の電話番号などを表示し、発信者を誤認させ、信頼させる手法。

 

「今年ン春にチェックが厳しくなったから、けっこう駆逐されたっぽいけど、まァ、目ェ掻い潜るやつはいるモンだわな。俺らの昔の仲間でもタチ悪ィやつは手ェ出してるっぽくて、そういうの回ってくんだけど——」

「——え、だってマイキーが言ったんじゃないの?」

 

 言葉尻にほとんど被さるタイミングでのエマの問いかけ。電話向こうの声までは聞こえないが、おそらく、回答は最悪の方向で予想通りだ。

 

 若狭がうすく舌打ちをこぼした、その直後である。

 

「ァあ? 女と、いてせいぜいじーさんって話じゃなかったのかよ」

 

 ——高らかにも、下卑た声が響く。

 

 ぞろぞろと立ち並ぶ者共は、お世辞にも育ちが良いようには見えなかった。ざっと最低二十人、一様に鉄パイプだの、木製のバットだの、なにかしらの武器を手にしており、その服装は赤い長ラン。

 

 南朝天竺、と腕には記されている。

 

「しょうがねえな。イザナくん、男も殺したらそのぶん買ってくれっか?」

「……千咒、コレ持ってろ」

 

 慶三がビニール傘を閉じて千咒の腕に引っ掛ける。

 

「俺のぶんはいーワ」

 

 若狭もまた傘を閉じたものの、こちらは軽く振り回すようにして、自らの肩に担いだ。

 ケータイのコール音を待ちながら——三途が妹の電話を無視しがちなのは、いつものことだ——千咒が二人を振り返る。

 

「ちょ、喧嘩すんの!? ならジブンも!」

「さっき言ったろ、寒ィんだって。身体あっためるにはちょうどいい」

「わしも出るか」

「じィさんはマジで引っ込んでな、滑って腰やるぜ、この雪」

 

 雪は未だ降り止まない。体温で融けた雪がつめたくもしみる。

 エマと万作を背後に押しやり、二人は冷静に周囲を俯瞰した。

 

「……天竺な。八代目の手だと思うか?」

「そう、と、言いたいトコだけど……違ェ気がする」

 

 慶三の問いに、若狭は首を横に振った。

 

「知識はある。金もある。手足を集める手立てもあんだろ。ただ……あいつが(シン)ちゃんを理由に使うとは思えねえ」

「そりゃ同意見だ。ついでに、仕掛けるにしたってわざわざ自分のとこのトップク着せたままはあり得ねえな」

「そーね」

 

 ただ、そうだとすれば——彼ら二人にも理解できた。

 今日の抗争。東京卍會と黒龍(ブラックドラゴン)の同盟と、南朝天竺の争いの裏で、第三者の思惑が進んでいる。

 

 少なくとも、万次郎のケータイの電話番号を把握し、真一郎の存在を知り、南朝天竺の特攻服を入手できる立場の人間だ。

 

 

「イッ……テェな!」

 

 大きなくしゃみと、純丘の悪態が響いたのは、ほとんど同時刻だ。

 カッターナイフの刃先が、ガードに突き出した彼の手の甲を削った。片方の手を囮に、もう片方の前腕で、凶器を持った腕を遮った。

 

 日向は呆然と見上げて、それからはっとした顔で、震える足で立ち上がる。暴漢に遭遇するだけなら、彼女もまた、8・3抗争ですでに経験していた。動けない状態が一番まずいと理解していた。

 

 加減をつけて拮抗しながら——下手に弾くと軌道が読みにくい、拘束も兼ねている——しくじったな、と、純丘は内心ぼやく。

 初手で得物を叩き落とせなかったのはかなりまずい。初撃が既に為されていれば、当然、ひとは次を警戒する。

 

 純丘ひとりだけならそれでもよかった。しかし、今は、後ろに人を庇っている。全くなにが理由かは純丘には判別つかないが、おそらく、狙われたのは日向だった——日向はまだ気づいてもいないだろうが。

 純丘は、だから咄嗟に突き飛ばした。丁寧に逃がしていたのでは間に合わない。

 

 そして純丘がこれ以上の下手をやらかしたとして、ひどい目に遭うのは彼ではなく日向である。

 

「ごめん橘ちゃん警察呼んできてくんね!?」

 

 ともあれ純丘は声を張り上げる。増援と——それ以上に、襲撃者の本命を逃すために。

 

「一番近い交番たしかこっから右の道!」

「こ、交番……でも榎さん、」

「頼む、早く!」

「……はい!」

 

 途端、カッターナイフを握り直して日向を追おうとする少年に「待て待て」純丘はすぐに立ちふさがった。

 わざと怪我を負って血がにじんでも怖気づく様子はなし。警察をちらつかせても引く気はなく、むしろ、襲撃の意思はさらに固められたようだ。……やはり、ただの無差別な通り魔ではない。

 

 脇を通り抜けんと狙う瞳をしっかりと認識しながら、なだめるように笑みを浮かべる。彼の頬はかすかに引き攣っていた。

 

「なァ君、橘ちゃんは喧嘩もしないような女の子だ。カッターなんぞ振り回して話す相手じゃねえぞ」

 

 道場の生徒たちと組手をしたことがある。万次郎のような悪ガキたちと取っ組み合ったことがある。灰谷兄弟と、かつて、命のやり取りを交わしたことがある。

 

 ただ、純丘榎は、それでも一般人だ。

 品行方正な優等生、とまでは最近はいかないが、ごくごく一般的に法律を守り日常を送るただの人間だ。

 

 武道を習っていることは決して喧嘩慣れと等号ではない。警察官や自衛官のような特殊な訓練を受けているわけでもない。怪我は痛い。死ぬのは怖い。

 なにより、自分以外を狙う人間に立ち向かったことはない。——己が狙われたならばまだよかった。

 この場を突破されてはいけない。立ち回りを誤れば、幼い頃から顔見知りの、ごくふつうの、無辜の少女が被害に遭う。

 

 そんなプレッシャーをかけられたことなんぞ、一度も、なかった。

 

「代わりに俺とお話ししようぜ? ——ひとつ言おうか、俺は君のことを知っている」

 

 眼差しがふっと純丘の顔へと向けられた。「君が知っているかどうかはわからないが」純丘はゆっくりと言葉を続けた。

 

 一挙一動に気を配り、加えて言葉を編んでいく。

 どうすれば注意を引けるか。どうすれば、この場を丸く収められるか。丸く収められなくても、せめて、知り合いの少女にできるだけ傷を残さぬように。

 

 斬りつけられた手の甲から血が滴っている。雪を赤く染め、さしたる間もなく酸化して、黒く変化する。

 

「春樹の親友だ。……君にとっては、親友だった、なのかな。でも春樹は君のことを大切にしていたし、今でも大切にしている。覚えているよ。うん、生活圏も被ってるしな。渋谷駅とかでも、見かけた……わざわざ話しかけはしなかったけど」

 

 林田とともに頭を下げに行ったあの日を覚えている。病院で入院していたあの日。

 綺麗に治るかどうかはわからない、後遺症が残るかもしれないと言われていた。

 

「……そこまで動けるくらい、回復してたんだな。それはよかった」

 

 カッターナイフを握った手が震えている。寒さか、動揺か、その他の感情か。

 雪はちらつき、灯りといえば街灯ぐらい、レインコートを目深にかぶっていて、表情が読みにくい。純丘お得意の人心掌握も、会話すらしたことがない相手で、加えてこの環境下では、精度が低い。

 

「それで、そんな君が、なんで橘ちゃんを狙う? あの子は、東卍(トーマン)の隊長の彼女だ。いや、東卍(トーマン)に恨みがあるならわからんでもないが……そいつが東卍(トーマン)の隊長になったのは、今年の十一月だぜ」

 

 純丘には、本当に、心底訳がわからなかった。

 

 日向と眼前の襲撃者を結びつけるものといえば、それこそ東京卍會くらいだろう。とはいえそもそもあの事件は、愛美愛主(メビウス)の当てつけから始まった、と純丘は聞いている。

 

 東京卍會と関わりがあるから狙われた——なるほど確かに事実だろう。その点から逆算するならば、恨まれてもおかしくはない。

 がそれはそれで、日向が狙われるのはとんだ見当違いだと、少なくとも純丘は思った。花垣が東京卍會の隊長になったのは、場地の代打であり、もっと言えば加入した時期すら8・3抗争のあとだ。純丘は知っている。

 

「第一……君が恨むとしたら、まず愛美愛主(メビウス)のメンバーじゃないのか。というか、」

 

 純丘は常に、不良事とは一線を引いていた。已むを得ず知った場合、関わった場合、それ以外の情報を意図的に入れないようにしていた。

 その()()に当たることがあまりにも多かったから、中途半端に知っているけれど、知らないことの方が圧倒的に多い。

 

「橘ちゃん、不良ではないんだよ。ただの一般人だ。カタギとか、パンピーとか、そういう……」

 

 たとえば、純丘は灰谷兄弟がいつも()()と称して行う悪事を、ほとんど知らない。たとえば、純丘は寺野南が人を殺していることを知らない。たとえば、純丘は半間修二が名乗った〝死神〟という名前が通り名であることを知らない。たとえば、純丘はイザナがうっかり稀咲を殺しかけたことを知らない。

 

 たとえば、純丘は実弟が東京卍會であることは知っていても、参番隊の隊長であることを知らない。

 その前にどのチームにいたのかを知らない。

 

 龍宮寺を殺さんと目論み、場地を排除せんと企み、柴大寿を屠ろうとしたことを、知らない。

 

「君ならわかるだろ?」

 

 だから、彼は、彼が知っていることを引き合いに出した。焦燥が生んだ、咄嗟の選択だった。

 

「無関係の彼女が痛い目に遭うことのつらさ、わかるだろ? どうして、」

 

 ——いつかの未来。

 純丘榎が殺されるきっかけが、日向を庇ったことにあるなら。

 

 殺されるに至った決定打は、この台詞だ。

 

「ぁ、んたが」

 

 眼前の人物が声を絞り出したから、純丘は言葉を止めた。

 カッターナイフを握る手が震えている。肩を大きく上下するようにして、呼吸をしている。まるで、なにかを耐え忍ばんとするように。単なる震えか——激情?

 

「あんたが、それを、」

 

 引き攣るように頬の筋肉を動かす。雪がはりついて固まった筋肉が、無理やり、引きずられる。

 

「あんたがそれを、言うのかよ! あんたが! おまえが! おまえのせいで、ちがう、おまえじゃないけど、でも——キサキが!」

 

 絶叫。

 あるいは慟哭。

 

 純丘は足を半歩だけ引いた。無意識だった。

 

 宥めるため、相手を刺激せぬよう浮かべていた、かすかな笑みが消えた。

 

「キサキ」

 

 小さな声での復唱。

 純丘の思考が、やにわに動き出す。

 

「止めるくせに、俺を止めるくせに、止めようとするくせに、じゃあ、じゃあ、最初から、それは……最初から、さいしょから止めろって、」

 

 明らかに先程までとは様子が異なっていた。言葉は要領を得ず、どころか呂律も回っていない。頬は紅潮し、白目が充血している。

 寒さだけではなく、興奮によって。

 

「俺だって、俺だって! なんでって思ったよ! 思ったんだよぉおお!」

 

 カッターナイフがみたび振り上げられる。防御姿勢はほとんど反射だ、純丘はその腕を受け止める——しかし押し負けた。

 興奮状態の人間は、時折、人体としての限界を超えて、驚くべき能力を発揮する。

 

 そして、それだけでもなかった。

 

 純丘は確かに気を取られたのだ。襲撃者の言葉に。

 

 

 

  亡霊よ、さようなら

 

 

 

 稀咲は、にわかには信じがたかった。

 

 ——稀咲鉄太への復讐に、仕返しに、橘日向が狙われた?

 

「そんな話、聞いてねえ」

「当たり前だろ」

 

 すぐさま、蘭が冷たくはねつけた。

 

「テメエは当時、ずいぶん周到に立ち回った。愛美愛主(メビウス)の件だって長内どもの一派が暴走したことになってた。稀咲鉄太を理由にしたあの野郎は、無事に、逆恨みってことになった」

「そもそもオマエと、ヒナタバチチャン? ほとんど絡みなかったしな。それこそ彼氏ってか元カレのハナガキならまだしも、すげー言いがかりで狙われてるって思ったらしいぜ」

 

 自らの横髪をいじりつつ、竜胆が補足する。その瞳に温度はなく、感情はなく、声色もまた同様だ。

 

「だからなかったことになった。親父さんが警察だったから多少周囲も同情したし、なによりフクブの実家の口添えもあったし、丸ごとな。狙われたのはフクブの方。原因は逆恨み。終わり終わり、解決、おしまーいッ」

「俺らだってしばらくは気づいてなかったんだぜ? 警察の方の調書はほとんど消されて、なんなら調書取ったやつには箝口令まで敷かれて、唯一の目撃者——つまり、ホントの本命だったわけだけど——にだって、真相はまるごと伏せられた。多感な時期の娘さんに突きつけるコトでもないってな。……とんだお笑い草だ」

「だっ、たら、テメエらの捏造だろ。そんなん、」

「ところがどっこい。オマエさあ、堤あかりって覚えてる?」

 

 突然挙げられた名前に稀咲は顔をしかめた。「覚えてそうだな」竜胆が目敏く気づいて、つぶやいた。

 

 たしかに、稀咲はその名前は覚えている。家ぐるみで付き合いのある、兄と同い年の幼馴染だ。

 もっとも歳が離れていた上に、性差もあり、稀咲はもっぱら、兄を経由した付き合いしかなかった。あちらもあちらで実家とは相性が悪かったようで、兄が家を出たころから交流もほとんど途絶えた。今ではろくな音沙汰も知らない。

 

「あいつね、俺らと同じ部の部長。だから俺ら、あの頃は、顔合わせたら話すぐらいのことはしてたわけ。……あいつ、わざわざ自分の実家にゴマ擦ってまで聞き出したらしいぜ? 純丘くんがソレで死ぬの、変じゃないかって、ただそれだけで」

 

 竜胆はやわく微笑む。

 

「そーゆーとこフクブと似てんだよなあ? それで、あいつ——こんなことも知ってた。橘日向がオマエの初恋ってこと」

 

 ……バレていてもおかしくはない。稀咲は冷静に思考した。

 

 稀咲の兄は人の機微によく気のつく方で、実際、稀咲が日向に向けていた想いにも勘づいていたようだ。そんな兄とつるんでいたのだから、少なからずその傾向はあっただろう。

 

「初恋、初恋だってよ? 甘酸っぱい恋愛、いじらしい駆け引き、レモン味のキスってやつだろ? 世間ウケがいいよな、なにが良いのかさっぱりわかんねえけど。少なくとも稀咲、テメエには似合わねえ話だと思ったよ、つくづくな」

「まるで根も葉もねえと思ったんだよ、それこそ言いがかりだ。そう思ったんだぜ? そのときは俺たちだって思ったさ。……数年前、テメエが橘日向に近づくまでは」

 

 いっそわざとかのように何度も何度も、橘日向の名前を間違えていた二人が、ここに来て、彼女のフルネームをなめらかに口に出す。

 嘲笑のように高らかに歌って、揶揄うようにつぶやいて、いつも通りのようでしかし、明確に普段とは異なった。噴出しかけている激情にただ蓋をしているだけの如く。

 

「マジだったんだろ」

 

 蘭が尋ねた。

 尋ねるとは言うが、ほとんど断定だった。

 

「だからフクブは死んだ。テメエの初恋なんぞを守るために」

 

 革靴が床をこする音。

 

 稀咲は返答できなかった。整えられた爪すらもてのひらに食い込むほど、強く握り込んでいる。

 

「だからテメエは橘日向を殺した。フラれるたびに、殺した」

 

 日向への告白は無惨に砕け散り、だから彼は初恋を殺すことに決めた。かつてのヒーロー、しかし今はただのうだつの上がらぬ男、花垣を殺すことに決めた。

 

「……ハハ、ウケる、橘直人が言ってたらしーじゃん? オマエは毎回、橘日向を殺してる。それこそずっとフラれてんだろ、毎回な」

 

 ところがどうにもこうにも思い通りにいかない。

 そもそも、龍宮寺を殺すまで十年もかかった。場地はなんならいまだに警察として動いている。柴大寿もなんとか引退まで追いやれど、死には至らない。

 関東事変から十二年間、傘下として大人しく収まっていたはずの天竺が、ここにきて反旗を翻した。

 

 まさかと思い、タイムリープの探りを入れればなんとどんぴしゃりだ。

 だからタイムリープの能力を欲することに決めた。手に入れることに決めた。

 

 己が擲ったすべてのために。

 

「ああ馬鹿野郎だ、クソ野郎だ、本当にお笑い草だ。テメエの想い人なんぞのために、叶わない初恋なんぞのために、あいつ勝手に死にやがったんだぜ。どうせ命と引き換えに守ったそいつだって、いずれテメエに殺されるってのにな……単に、遅いか早いかの違いじゃねえか」

 

 蘭は、喉を鳴らすようにして笑う。

 

「つくづく無駄なことしやがって」

 

 ひどくつめたい声色だ。感情はなく、温度はなく、その眼差しは稀咲から離れない。

 

「ああちなみに、とっくに、テメエのご執心のハナガキは過去に飛んでったよ。あいつが上手くやれば、次の未来じゃ、フクブは生きてる。……マァ? テメエがだぁいすきなヒナバタタチちゃんが生きてるかどうかは、知ったこっちゃねえけど?」

「そんで、これが俺らの、フクブへの復讐。あいつが無駄に命投げて守ったもん全部壊して、そうすりゃ、いい加減あの世で後悔ぐらいしてんだろ。そろそろ懲りといてくんねえかなあ」

 

 途端、兄弟は軽い口調に引き戻る。彼らの拳銃はきちんと弾が装填されていることを稀咲は既に知っていた。

 

「じゃーな弟クン。安心しろよ、オマエのことは微塵も恨んでねえから、特に苦しませたりもしねえ」

 

 ——望月が、痛む肩と足と腹を庇いながらも顔を出した時には、灰谷兄弟は既に、稀咲の死体を前にふたりして真剣に考え込んでいた。

 

「オマエら……無事なら連絡寄越せ、油売ってんじゃねえよ」

 

 思わず彼は罵声を浴びせた。「あれ望月(モッチー)」「生きてたん?」兄弟はそっくりな顔をそっくりにきょとんとさせて、口々に言った。

 

 稀咲自体は弱いがあの男が何重もの策を弄するのは今に始まったことでもない。

 まさか助力が必要かと懸念して、怪我を押してまで様子を見に来たというのに、当然のようになんなら望月よりピンピンしている。

 

「てか潰せた? 半間」

「自爆装置出したから、たぶんな……」

「自爆装置出しといて生きてるオマエはなーに? 幽霊?」

「オマエらマジでふざけんなよ。……瓦礫がいい感じに落ちてきて助かったっつーかアバラと左足はイッた」

「ヤベー、肩撃たれてそう経ってねえのにソレ? もう働かねえ方が良くない?」

「しゃあねえなあ。獅音の方は俺らが行ってやるよ、親切だから」

「ほざけ」

 

 悪態を吐けば折れたての肋骨が軋んだ。ドーパミンによるセルフ痛み止めが効いているのも時間の問題だろう。

 じろりと横目に死体を見て、まァそこそこ満足できたようで、と、望月は思う。

 

 灰谷兄弟はずっと、元副部長に怒っていた。ちゃんと手を離してやったのに、距離を取ってやったのに、くだらないことで勝手に死んだと怒っていた。

 倫理観とか常識とか良識とかそういうものが相変わらず極悪の方に振り切れっぱなしの言い分だが、とはいえ、彼らなりに元副部長をそれなりに大切にしていたのだ。

 

 正しくなくても賢く使え、とはどこぞの故人の口癖である。

 灰谷兄弟にとってこれは、彼らの元副部長への復讐だった。

 

 それで——これが、彼らなりの弔いで、心の整理の付け方だ。

 

「……ところでコレどうする?」

「イザナに回したらそれなりに使い道考えるんじゃねえか」

「アリだな。なら持ってくか」

 

 よっこいしょと竜胆が死体を肩に担ぎ(望月はわりと満身創痍、蘭が担ぐ選択肢は最初からない)彼らは揃って足を踏み出す。歩調はてんでバラバラで、歩く速度もまるで別物。

 蘭などまるで気も遣わずに先を歩くので、弟と腐れ縁両方から罵られ、スカした様子で肩をすくめてみせた。

 

「じゃ、あとは東卍(トーマン)制圧RTAってことで」

 

 

 

 一方その頃、膠着状態だった斑目と九井&乾の睨み合いの現場では。

 

 天井が落ちてきたところだった。

 比喩でもなく文字通りの意味である。轟音とともに上のフロアが崩落した。

 

 受け身に加えて風圧でも半ば吹き飛ばされたが、乾はすぐに跳ね起きた。なんらかの策略か、と、先ほどまで天井があったはずの位置を見上げる。

 

 高層のオフィスビルよろしく、一面ガラス張りの窓を完全に破砕し、デスクがあたりに倒壊し、ヘリコプターが一機突き刺さっていた。

 そんなことある? 乾は素で思った。

 

「は?」

 

 咄嗟に乾が庇った相棒、九井も頓狂な声を上げた。

 こちらはヘリコプターが突き刺さっていたことにも驚いたが、それだけでもない。ヘリコプターから命からがら飛び出してきた人影にも気を取られた。

 

「ハァイ、援軍の宅配先はここで合ってるゥ?」

「大寿ホント、C-4調達依頼といいヘリでの危険運転といい、なんでアンタの関係はこんな頭オカシイ奴ばっかなの!?」

「風評被害だ! コイツは九井(ココ)のストーカーで俺の管轄じゃねえ!」

「怪物まで相手取んのはいよいよムリ」

 

 咄嗟に転がって防御姿勢をとったは良いが、斑目は顔を引き攣らせた。死ななくたってせめて気絶していたかったかもしれない。

 柴兄妹と、彼ら曰くの〝頭オカシイ奴〟〝九井のストーカー〟つまり、ある故人の師匠、アオサギのご登場である——マジで無理だって。

 

「あァ九代目クン? 生きてるじゃあん? まァ君に言いたいことやりたいことがあるかどうかで言うといっぱいあるけどぉ」

 

 笑みを浮かべてのたまったアオサギが、ふっと視線を振った。眼差しは九井に固定されている。

 

「安心してねえ。僕たちは君の援軍で来たんだよ、今回、九井クンと乾クンは敵だねえ」

「……ビル突っ込んで頭打ったか?」

「あいにく正気ぃ」

 

 しらっとした答えにますます訝しげな顔をする斑目。

 気持ちはわかる、大寿が頷いた。あれだけ九井に過保護に策を打っていた人間が、今更掌を返す理由が不明だ。

 

「……アンタの協力は、もともと期待してねえけど」

 

 と、これは乾。

 彼は、ぽた、ぽた、と響く水音にも気づいていた——水道管にヒビが入った、というだけならまだマシだ。突っ込んできたヘリコプターのガソリンが漏れていたら、まずい。

 ……未だ消えぬ、炎の記憶。脳裏に蘇る。火災報知器の音を灰谷兄弟に悪用されたのだって、つい数日前の話だ。

 

「そっちに協力されんのは困る」

「今回はお金積まれても動かないよぉ」

「赤音を救うためっつったら、乗るか?」

 

 今はアオサギと名乗る人間と、乾青宗の初対面は、ずいぶんと前だ。姉の友人として一度だけ紹介された。

 当時からろくでもないにおいがしていたので、乾個人は、全く交流を深めなかったが。ただ姉をきちんと友として尊重していたので、その点は黙認した。

 

「んー……」

 

 乾の勧誘に、相手は小首をかしげてみせた。

 

「ソレって、大火傷で何ヶ月も苦しんで死んだ僕の友達じゃないよね」

「同じだ」

「ちがうよぉ、ぜんぜん違う。あのねえ、赤音はけっきょくあそこで死んだの。助けたいとかの次元じゃなくて、助けられなかったの。君はスワンプマンを同一人物だと信じられるタイプ? 僕はムリ」

 

 途中から、だんだんと口調から間延びした部分が取れていく。こそげ落ちていく。そして、会話しながらも後ろ手でしっしと手を振る仕草。

 大寿が気づいて、妹や先代とともに何歩か下がる。

 

「なにより僕、十何年も前に死んだトモダチのためだけに今の人生捨てられるほど、懐古主義じゃあないのね」

「……薄情だな」

「そんな君はずいぶんな献身じゃない」

 

 嫌味で返した乾に、動揺もなく切り返す。

 

「赤音を助けるったって、君はあの火事で赤音の代わりに助かったはずだけど。今度は自分が死ぬとでも?」

 

 乾家の火事の全貌を、この人間がきわめて正確に把握していることについては、誰も疑問を示さなかった。どこから知ったのか、そう思うような出来事まで把握しているのは、今に始まったことではない。

 

 ただし、眉一つ動かなかった乾に対し、わずかな動揺を見せたのが九井だ。

 

「なにか悪いか?」

「悪かないけど、そのへん九井クンとすり合わせできてんの? まずはオハナシアイしてから来たらど〜お? そんじゃね!」

 

 発砲音。

 

 銃弾は乾や九井に当たることなく、ただ目標物に正確には当たった。つまり、ヘリコプターの燃料タンクだ。

 火柱が上がる。炎が床に落ちて舐めていく。トラウマだと知っていて火を熾す——もちろん、炎に巻かれれば死ぬ、という条件は誰しも同じこと、尻尾巻いて逃げ出さねばならない。

 

「炎上は二度三度も要らねーよ!」

「どっかで一度目あったのかよ」

「二度あった」

「う〜ん、三番煎じかぁ。次は奇を衒うねえ?」

「ほんとやめて」

 

 彼らの物語はただの蛇足。

 花垣武道のタイムリープが確定し、上書きされるまでの、ちょっとしたお遊びである。




SMAP
:1988年結成
 2016年解散

マフラーに砂利
:微妙に笑い話にできないタイプの悪戯

ナンバーディスプレイ
:NTTが1998年から日本全国へサービス提供開始した

電番の偽装表示
:当時実際に頻発し、2005年3月に携帯電話事業者各社のテコ入れが入った

林田とともに頭を下げに行ったあの日
:「贖いの意味」on7.20より

C-4
:ばくだん
 「もういないあなたへ」で武藤がしれっと依頼していた
 届くの早いね
 ちなみに今回の望月の自爆装置がそれ

スワンプマン
:泥から生まれた男の話
 思考実験のひとつ

ちょっとしたお遊び
:書き換えられると知っている余白
 どうせすべからく滅びるならば、盛大に散っておしまい
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