ようやく完結したので投稿していきます。
機上
飛行機の窓の外には雲海が連なっている。対流圏からは外れずとも、金属の塊はほとんどの山峰よりは高く飛び、海原を遥か眼下に見渡せる。
とはいえ、今は雲の真下はうかがい知れない。曇り空か、あるいは雨か。一月の北半球に差し掛かったところだが、赤道近くの緯度で雪はきわめて怪しい。この近辺は海抜もそう高くはないはずだった。
機内は広々としていて、座席は軽い安楽椅子の如く、クッション性の背もたれと肘掛けがついている。大柄かつ長身でもゆっくりと足を伸ばして座れるだろう。脇の棚にはワインボトルやウイスキー、場に似つかわしくない発泡酒等が置かれている。多少の揺れを想定してしっかりと棚に固定されているようだ。
天井からはディスプレイが吊り下がっていた。先程まではバラエティやドラマなどを無秩序にザッピングしていたのだが、今はモノクロの無声映画が放映されている。
「吸いてェ」
ぼそりとつぶやきが落ちた。ポルトガル語である。
二mを超える巨躯を座席の中に押し込んで、足は大きく広げて通路に半ば飛び出ている。傍らにはスーツのジャケットとネクタイが無造作にハンガーにかかっていた。無声映画を観ていたはずだが、飽きたご様子。
独り言つような言葉に「……なにを?」と、怪訝げな反応が返った。
こちらも傍らにはスーツのジャケットをハンガーで掛けている。ネクタイは着けたままだが、少し緩めた形跡が見受けられた。
細身の、フレームレスの眼鏡をかけている。腕組みをして目を瞑っていたが、眠っていたわけではないらしい。巨躯の男よりも痩身かつ背も低いが、比較対象が並外れて大柄なだけで、決して貧相ではない。目尻には小じわがつき始めており、目の下には隈を飼っている。
「マリファナはやめろよ」
先んじて釘を差す言葉に「相変わらず堅っ苦しいなァ」大声の反駁が返った。
「見ろよアカシを、」
と親指でさされた先には、頭を肘掛けに凭れかけて爆睡する姿があった。
顔立ちを見れば、経年による皮膚のたるみ等から、前述の男二人よりも歳を重ねていると推察できるだろう。髪は強めにワックスをかけて、後ろに流しており、エルメスのオーダースーツ。歳を重ねてはいるが、老いていると評するには未だ若々しい。平常時ならば独特の威厳を齎したかもれない。
あいにく今はスーツは着崩れており、顔も真っ赤に火照っていた。胸元にはウイスキーの瓶を抱えている。絵に描いたように典型的な酔っ払いだ。至近距離の大声、加えて名前を呼ばれても、起きる気配が全くない。
「一頻り呑み騒いで今は寝てる」
「たしかにコイツもコイツで傍迷惑だが……それでもせいぜい騒音で済む」
言いながらも、眼鏡の男は座席から立ち上がった。眠りこける男に大股二歩半で歩み寄ると、抱え込んだ瓶を抜き取った。棚を開き、きちんと固定したのち、掛け金をかける。
「一方で君のそれは吸い方によっては同室全員がキマる。俺はヤク中になる気はねえぞ。なにより、空調の問題で下手に機長や搭乗員にまで回ってみろ、また海上軟着陸か? 二度目の等身大危機一髪がお望みなら一人で勝手に遊ぶんだな。俺が、いない、ときに」
詰る言葉は流暢で語気荒い。辟易とした言い様——さて、いったい何度言い聞かせたのかは定かではない。一度目の等身大危機一髪の詳細も不明だ。
「心配性だな」
つまらなそうに鼻を鳴らされたあたり、全く効いてないことも窺い知れた。
「だァから俺ァ船にしろっつったんだ。甲板なら換気も簡単だってのに」
「プライベートシップにするたびにそれやらかして船酔いと相まってゲロッゲロに吐き戻すの、そろそろ恒例だが、懲りてないのか?」
「今回はゼッテェ、イケた」
「自信満々だな」
こちらもまた、全く本気にしていないだろう、と察せられる口調だった。
「どちらにせよ、船は予約が入っていたからな。無理なものは無理だ」
「入れさせたの間違いだろ?」
巨躯の男は呆れたようにぐるぐると首を回したのち、肩をすくめる。
「ホテル・リゾート、
「管理を丸投げしたのは誰だろうな……」
「部下に適切に振るのはオマエの方が上手い。今回は誰だ? エル・チャポ? マジョの方か?」
「片方は去年だか一昨年だかにまた逮捕されたぞ」
「そうだっけか」
「というか今回の貸出先はCDSじゃない。今頃大西洋でも横断してるんじゃないか」
「イタリア?」
確信を持った言い方に、眼鏡の男は口角だけを上げてみせた。
「……駄々を捏ねるのも飽きてくれたか? あと三時間の辛抱だ。降りたらお好きにどうぞ」
「日本で吸うのは場所が限られてんだよ」
「十二年目にしてようやく覚えてくれたようで、なによりだ。……さておき、ようやく酔っ払いも静かになったんだ。いい加減俺も寝る」
くぁとあくびをこぼした彼は眼鏡を外すと、畳み、ケースに仕舞って「起こすなよ。オヤスミ」挨拶ののち、座席に深く身を沈めた。
「……今回の純丘の睡眠時間は三時間、と」
鼻で笑って、リモコンを取り、収録映画のラインナップを適当に確認する。目録が貧相だし、次の買収は映画会社だな、などと彼は勝手に考えていた。
機上
〝だから昔、俺は、言っただろう〟
鮮明に焼き付いた声。諦観と失望を注ぎ入れて、半端に撹拌したあとのそれ。
ああ見離されたのだとあの瞬間に確信した。
〝俺みたいになるなよ、って〟
目を開ける。
二、三度、まばたき。首を横に振るようにして、眠気を飛ばす。
二列前の席の人間にはCAが飲み物の要望を尋ねているようだ。コーヒー、ストレートティー、オレンジジュース——額に汗が滲んでいたことに今更気づいた。ハンカチを取り出して、拭う。
機内は空調が効いている。北半球は真冬の季節だが、室温はおおよそ二十℃前後。
懐から眼鏡ケースを取り出して、眼鏡を掛ける。ポケットからスマートフォンを取り出して、画面を点灯させた。四時五十七分。空港から旅立つ時点で日本時間に合わせている。到着時刻を考えれば、残り三時間は空の旅を味わう必要がある。
窓の外は暗く、ろくに様子もうかがえない。このあたりは未だ日の出には遠いらしい。航路を踏まえれば現在地は海上のはずなので、たとえ明るく晴れていたとしても、海原ぐらいしか見えなかっただろう。
頭上のナイトランプの明かりにより、窓には自身の顔が反射していた。髪はかつてとは異なり、七三に分けている。うたた寝をしている間に少し乱れたようだ。ほつれた毛先が額にかかっている。
日本史上最年少ノーベル賞受賞者として、昨今話題に出される男。
かつては、稀咲と名乗る少年。だった者。
鉄太、と便宜上表記しよう。
「なにかお飲み物は——」
「必要ありません」
食い気味に、素気なく断った鉄太。世渡りが下手とまでは評されないだろうが、対人コストを極限までカットした物言いはあまり褒められはしない。
「失礼しました」
CAはさすがに仕事だ。無愛想な客にも、愛想を崩すことはなく、すぐさま引き下がった。
巨悪東京卍會の幹部、日本の裏社会のフィクサーとして君臨した二〇一七年にて、稀咲鉄太と呼ばれた男は、常日頃から愛想よく振る舞った。円滑な人間関係、良い印象の構築は、相手を操作するため、都合よく物事を運ぶため、必要不可欠だった。
冷たい態度は、たしかに、適度に振るえば恐怖による恭順を喚起するだろう。しかしその他の場面では、損なわれる信用、失望のデメリットの方が大きい。そういう環境に生きていた。そういう環境を作っていた。
もはや消えた可能性、本人すらも覚えていない、枝葉の未来である。
稀咲と呼ばれなくなった彼は、そういう世渡りや交渉のリソースのほとんどを用いなくなった。
稀咲であってもなくても、鉄太は元来極端な男である。
「……」
眠気は飛んでしまった。ろくな夢ではなかったせいかもしれない。
うすい嘆息ののち、鉄太は、スマートフォンの画面を手繰った。ロックを解除して、指をすべらせ、通知欄を表示する。海外と日本を何度も行来する以上、機内Wi-Fiサービスには金を払う価値がある。
通知欄に表示される通り、メールが何件も——というか、何十件も——届いていた。
ほとんどはノーベル賞を取った研究に関するメール、そうでなくても研究者、学者としての鉄太にコンタクトを求める人々。用途や相手ごとに各フォルダに振り分けているが、通知欄ではそうもいかない。利用しているサブスクリプションからの定期連絡が埋もれる有様だ。
メールアプリを開いて、適時文面の精査と、返信の作成、下書き保存を行なっていく。日本ではない国からのメールは加えて時差を計算し、問題のない時間帯であれば、そのまま送信する。処理済のメールにはタグ付けを行なっておく。
サブスクリプションサービスからのメールは、目を通すだけに留め——真新しい情報は見受けられない——しいて言えば、スパムと思しきものは、アドレスを迷惑メールとして登録する。他のフォルダも、ほとんどは流れ作業だ。
既読。返信。返信予定。既読。既読。返信、
手を止めた。
メールの送信者の名前には【半間修二】とあった。
その名の持ち主が、ひょろ長い身体に特攻服を羽織っていたのは、もはやかつての話だ。
今は世界を駆け巡るフォトグラファー。世界有数の絶景、芸能ゴシップのすっぱ抜き、政治家の汚職スキャンダル、紛争地域の炊き出しの様子、彼が捉えるものは実に幅広い。
鉄太自身は、半間のカメラとは一度も向き合っていないが、元東京卍會の面々でさえ、各々の職業の取材時に半間と再会した、というシチュエーションも珍しくもなかったようだ。
一年半前にはリオ・デ・ジャネイロ開催の夏季オリンピックついで、南米諸国を巡っていた——
——カメラのレンズが切り取った光景。連写のうち何枚かをピックアップしたのだろう。プライベートジェットか、小さな航空機に乗り込む様子。護衛らしき人影が複数名と、その中央に三人。
飛び抜けて巨躯な男は、首筋に入れ墨の痕跡が見える。部下と何事か話しているのか、いずれの写真でも常にカメラには背を向けている。
コートらしき布束を脇に抱えた中年は、何枚かの写真の中で振り返って、辟易とした表情を浮かべた。そしてカメラを指さした。
フレームレスの眼鏡をかけた痩躯の男が、指差された方向を振り返り、カメラに向かって手を挙げる様子まで——振っている? 追い払おうとしている?——鮮明な写真だ。
【
怒られた笑
にしても、一月のリオで冬服とか、正気じゃねえ笑笑
】
メールの本文には端的なコメントが記されていた。添付写真よりよっぽど
リオ・デ・ジャネイロから勢力を伸ばし、今ではブラジルを牛耳るギャングで最も巨大な一派、その最高幹部たちを盗撮した現場を押さえられておいて、怒られた、で済ませるあたりが半間である。半間修二はそういうことが上手かった。相手の懐にするりと入って、なあなあに取りなし、本格的にシメられる前にぬるっと抜け出す。
〝俺みたいになるなよ〟
かつてそう述べた鉄太の兄、稀咲の名前を嫌った男。いまだ純丘榎と名乗る者。
稀咲鉄太が犯した罪の数々を、純丘榎として積み上げた信頼すべて放り投げて、稀咲榎の名を明かすことで、彼が積み重ねた実績や信用とともに掠め取って行った。
本来ならば刑事罰が科せられるレベルの行いすら混じっていたが、証拠不備により、いずれも起訴には至らなかった。
証拠もなにもあるはずがない。もともと稀咲榎は犯人でもなんでもなく、彼が行なったのは周囲の情報操作であり、自白ではない。真犯人たる稀咲鉄太は、己が摘発されぬよう細心の注意を払っていた。証拠を残しはしなかった。
なにより、純丘は関東事変の騒ぎを目眩しにでもするように、ひっそりと、いつのまにか、行方をくらませた。
同時期、週刊誌やテレビ局による報道も極端に(あるいは、不自然に)下火となり、やがて忘れ去られた。
ブラジルのファヴェーラ、うち一角を統括するギャングの幹部として、その名が挙げられるようになったのは、事件から数年後の話になる。
北関東で度々暴れていたと聞く寺野南、初代
兄が鉄太についてなにひとつ知らなかったように。
回顧にも満たない想起を打ち消す。
プライベートジェットを用いた移動。リオ・デ・ジャネイロの、しかも一月に見合わない厚着の用意。南極大陸などでもなければ目的地は北半球と見るべきだろう。候補は数多あれど、半間がわざわざ連絡してきた事実から、行き先には容易に見当がつく。
日本でも九州くんだりならばいざ知らず、関東周辺は、コートのひとつも羽織らなければ外を歩けもしない。現在帰国する途上の鉄太も、着陸後すぐに羽織れるよう、トレンチコートを脇に畳んでいる。
「……あー……」
不良少年として暴走族のチームに関わっていた記憶は、すでに昔、もはやアラサーに差し掛かる年頃。相応に経験を重ね、留学先で飛び級ののちに博士号を取り、挙げ句の果てにノーベル賞。
今の鉄太の内心を端的に表すなら、こうだ。
——仕事サボれねえかな。
一度目の等身大危機一髪
:ブラジルに飛んで二年目ぐらいのギャング同士の抗争にて、搭乗していたヘリごと撃墜☆墜落死しかけた
エル・チャポ
:本名ホアキン・グスマン
メキシコを拠点とする犯罪組織シナロア・カルテル(略称CDS)の設立者
実在している
二〇一五年逮捕から脱獄していない
エル・マジョ
:CDS最高幹部
実在している
二〇二四年現在捕まっていない
機内Wi-Fiサービス
:当初は国内線でも有料のサービスだった
二〇二四年六月にJALが無料化を発表
二〇一八年四月にANAも無料化
国際線だと二〇二四年時点でも有料