万作の病状は、慢性的なものだが、安定しているようだった。多少調査すればすぐにわかることだ。海の向こうから指示を出すのはなかなかやりづらいが、日本にいるのであればそう大した手間でもない。
痩せたな、というのが、純丘の最初の感想だった。
ベッドの上にて、なにやら難しい顔で端末と睨み合っていた老人は、ふとおもてを上げた。ぱちぱちとまばたきをしたのちに目を丸くする。サイドテーブルに端末を伏せて、尋ねた。
「……榎だな?」
「はい、純丘榎です」
折り目を正した礼。
顔を上げた純丘は、礼儀として、ついでに懐かしさから、すこし微笑んだ。
「万作さん、ご無沙汰しております」
「そうだな、十二年ぶりか。ろくに連絡も寄越さず」
「……あー……」
「弟子で一番真面目だったお前が、とんだ悪ガキになったようだ」
さっそくチクッと刺されて純丘の微笑みがちょっぴり引き攣った。
その節はどうも、とか言ってられない立場だ。とんだビフォーアフターだった自覚はある。
「言われてんな」
「君もだ、イザナくん。ニュースでたびたび天竺の名前を見かけるぞ、全く」
「……」
「二人揃って負けてる……」
信じられないものを見た、とばかりにつぶやく鶴蝶——俺であれば口にした瞬間平手が入るだろうに贔屓は残酷だ、遠い目をする純丘。イザナの平手は下手なハリセンより痛い。
「君は見ない顔だな。はじめまして」
「ご挨拶が遅れました、鶴蝶と申します。お初にお目にかかります」
こういうところで礼儀正しい男、鶴蝶の本領発揮。極悪の世代と長らくつるんできた人間とは思えない。
これはこれはご丁寧に、と万作も気を良くした様子だ。
「イザナくんに雰囲気が似ている。弟くんかな」
「違う」
「違ェっす」
気を良くした様子でそのまま迅速にピンポイントで地雷を踏んだ。
こ、このジジイ、真一郎のジイさんなだけあるわ。イザナの顔も引き攣った。
なまじ悪意がないのでたちが悪い。孫が孫なら祖父も祖父だ。
「家族兼部下だそうです」
「なるほど」
「純丘」
「凄むな。君たちがきちんと詳らかに話したいというなら、出過ぎた真似をしたが?」
下僕云々は知らぬ他人は大概面食らい、万作もさすがに困惑はするだろう。かといって特有の関係を誤解のないように説明するには、前提条件が多すぎる。イザナは舌打ちひとつで矛を収めた。
「てか、マジでピンピンしてんなジジイ。ボケてねえし」
「まだボケるような歳ではない!」
「そこは……個人差というか……」
認知症は日頃の生活習慣と運が大きく寄与するので歳は正直そこまで関係ない。
「初曽孫が成人式を迎えるまでは見届けねば」
「まだ生まれてねーだろ」
「二十年はありますね」
純丘は無難な感想を述べた。イザナもエマに子どもが宿ったことは把握しているようだ、など、指摘する方が野暮である。
……しかし、本当に元気そうだ。
こっそりと胸を撫で下ろす。
万次郎がYouTube越しに万作の入院を話題に出した時には、その容態についてはほとんど触れなかった。当初の純丘は本当に峠の可能性も見込んでいたぐらいだ。墓参りであってもおかしくはない、と。
「それで、老い先短い老人に、何の用だ?」
「老い先短い老人は二十年も生きるとか言わねえ」
イザナはうんざりした様子で突っぱねた。
「なに言っとる。老い先短いからこそ言うんだ」万作は堪えきれないように笑った。
「現に、まだ若いお前たちは言わん」
「……」
「お前たちとて、そうだろう。十二年も顔を出さなかったのは、迷惑をかけるつもりがないからだ。そして、迷惑をかけるならまだ老い先短い老人の方がマシ、というわけだな。万次郎やエマのところには寄ってもない」
「……知ったふうな口効いてんじゃねえよ。俺らがあんたを殺すとか、思わねえわけ?」
「イザナくんが殺す気があるときはもっと殺気立っとるな。圭介の方が詳しいやもしれんが」
万作は静かに述べた。
イザナは無言でしかめ面を示した。
純丘はちらと腕時計に視線を落とす。
入室からここまで五分。あまり時間をかけてもいられない。
「……本題に入りますね。万作さん、真一郎さんが死ぬ前、黒川くんへの手紙を書いていませんでしたか」
「……イザナくんへの手紙。……それこそ榎が仲介していたんじゃなかったか?」
「そうですね。ただ、八月の分は俺は真一郎さんから預かっていません。書いていた様子はありましたか? もしくは、書きかけの手紙は遺品の中にはありませんでしたか?」
純丘の問いかけに、万作はしばし眉を寄せて、視線を斜め上に向けた。記憶を探ったようだった。
「……見当たらなかった、ように思う」
「確実に?」
「見かけていたら十月の時に渡しとる。あとから出てきたとしても、榎に預けるか」
そうだろうなと純丘も思った。
なにせ当時、通夜の連絡とて、純丘を経由してイザナに届けられた。イザナは佐野家との直接的な関わりを避けに避けた。当時も、今も。
「万次郎かエマが見つけていたら、わしにはわからんが」
「テメエが持ってきた案件だ、俺はこれ以上あの兄妹には近寄らねえぞ」
イザナの過敏な牽制もまた読めたことだ。
純丘は顎を引くようにして頷いた。
「必要があれば俺の方で手を考える。万作さん、もうひとつ良いですか」
「構わんが、真一郎のことか?」
話の流れを考えれば、さすがに、ある程度読めるだろう。
「はい」
純丘は素直に肯定した。
「真一郎さん、死ぬ少し前に、フィリピン旅行へ行っていたでしょう」
「たしかに、そんなこともあったな」
「それで……フィリピンから帰国して、死ぬ前までの間、なにか、彼に変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと……」
「覚えている範囲で、ごく些細なことでも」
「ウム……」
純丘の問いに、万作は目をつむるようにして考え込んだ。記憶を慎重になぞるように、ゆっくりとした口調で言った。
「真一郎は……よく出来た孫だったが、あいつはたまによく突拍子もなかったからなあ。お前を小脇に抱えて、開業届の書き方を教えろとか言ってきたときとか」
「そんなこともありましたね」
「そんなこともあったのかよ」
「こと突拍子もなさで言えばわしの孫全員そうじゃが」
「それは本当にそうですね」
「佐野の家はどんな教育してんだよ」
合いの手を入れる二人もよっぽど突拍子もないのでは? 果たして他人のことを言える立場なのか? 鶴蝶はひそかに訝しんだ。
そんな鶴蝶本人も他人のことを言える立場ではない。トレーニングでヤクザの事務所にカチ込む中学生がいてたまるか。
「……七月の末、榎も覚えとるだろうが。万次郎が原付をぶん投げて破壊して帰ってきた日があったろ」
「ああ、ホーク丸」
「ああて、オマエまで。……ホーク丸?」
「ぶん投げられた原付の名前がホーク丸」
純丘は端的に説明した。
「意味わっかんね」
イザナはシンプルにドン引きした。
「あの日、真一郎のやつやけに万次郎の後ろから離れんくてな。万次郎に鬱陶しがられて、終いには綺麗に投げられとった」
「キモ……」
「心配したエマにも縋り付くから悲鳴を上げられて万次郎に成敗されとった」
「マジでキモ……」
「わしにも長生きしてくれと懇願しとったな。寄ってくる前に万次郎に蹴られていたが」
「様子がおかしい」
一頻り辛辣に評したのち、イザナはちらりと純丘を見た。
純丘は自らの足元を見つめていた。フレームレスのレンズの奥で、瞳が何度か瞬いた。指先が眼鏡のつるを無意味にこすっている。
彼は二十代後半から眼鏡をかけ始めた。ギャングたる同僚たちからは〝賢しく見える〟〝悪どそうだ〟と好評(?)な一方で、天竺の幹部陣からは〝死ぬほど胡散臭い〟〝テメエの弟を思い出す〟とボロクソにこき下ろされている。
純丘は考えるときに手遊びをする癖がある。机の木目を延々となぞったり、口元を覆ったり。
眼鏡をかけ始めてからは、その顔の装飾品をもてあそぶことが増えた。
「……なるほど」
ぽつりと男はつぶやいた。
万作はベッドで半身だけを起こしたまま、純丘を眺めている。
「なにか思いついたのか?」
「……ひとまず、参考になりました。ありがとうございます」
「それならよかった。うん、お前の質問にも答えたことだし、わしも尋ねてよいか」
「どうぞ」
質問をされること自体は、もちろん純丘は想定していた。少なくとも、なにを調べているのか、とは確実に聞かれると思っていた。
真一郎のこと。タイムリープのこと。どこまでを話して、どこから伏せて、架空の話を語るべきか、事前のシミュレーションは考えていた。
「ちゃんと寝ているのか? 隈が濃いように見える」
この質問は想定していなかった。
「——寝て。……いますよ」
うっかりと純丘の言葉はつっかえた。
最近は、ちょっとしたトラブルやタイムリープの件により、あまり睡眠時間を取れていなかったが。もとより純丘は日頃から健康には気を遣っている方だ。
言葉がつっかえた理由はそこにはない。
「飯は食っとるか?」
「三食食べるようにはしています。俺も若さで押し切れる歳ではなくなってきたので」
「三十路がなにを言う。イザナくんはどうだ」
「……ジイさんさあ、俺らより、血ィ繋がった孫の心配してろよ」
イザナの声からも若干覇気が消えた。
「血の繋がりの有無で心配してはいけない謂れもあるまい」
万作の回答はシンプルだった。
本当に、あの孫(たち)にしてこの祖父あり、だ。
「それより、本当に食っとるんだろうな?」
「お節介……」
「イザナはたまに面倒がって食事抜いてます」
余計なことを告げ口した鶴蝶は、己の主人によって頭蓋骨を危うく片手で握り割られかけた。
「ちゃんと食べなさい」
「ッチ……」
「榎も、三食取れているからといって、栄養食やサプリばかりで済まさんように。お前はカロリーメイトとやらで終わらせそうだからな」
「……昨日は鍋でしたよ」
「普段の話をしとる! 全く、本当にお前は嘘がつけんな」
猫被ってるだけだろ。
イザナは内心つぶやいた。
純丘榎は嘘を特別好む方ではないが、嘘を吐くことを躊躇する人間ではない。
そも何故彼が嘘を見破るのが得意かって、うまい嘘のつき方を知っているからだ。必要に応じてなめらかに嘘を吐き、人を騙すことにも長けている。
嘘がつけないのではなく、万作には、嘘をつきたくないだけだ。
そして、平然と嘘を吐ける側面を見せたくないだけだ。
イザナはそれを〝猫被ってる〟と評する。人によっては別の形容を当てはめることもあるだろう。
やれやれとばかりに嘆息して、万作はまたおもてを上げた。
己の前に並ぶ男たちを、順繰りに、見つめた。
「お前たち、今の稼業から足を洗う気は、ないのか」
「俺にはありません」
純丘の回答はほぼ即答だった。
「気が向いたらな」
イザナは露骨に興味もなさそうだ。
「……十二年前、万次郎たちがごたついた件は、榎、お前の弟が原因だったと聞いておる。天竺でもなく、お前でもなく」
「誤解しないでいただきたい、万作さん」
純丘は努めて柔らかな声で、しかし意識して、言葉を遮った。
「俺には、黒川くんたちの動機にまで言及する権限はありませんが」
「オマエ本当に面倒くさいな……」
「君が言えたことか——俺は、無用な責任を取るつもりは、今も当時も皆無です。だから……当時も今も、都合が良いからそうしたに過ぎません」
「しかし、お前は人を傷つけることを好まない男だった」
万作はなおも続けた。翁の視線は注意深く、彼らを観察しているようだった。
純丘は——すでに彼は、万作のもとで励み、働いていた頃のような、青年でなくなった——すっかり歳を取った道場の師にして雇い主を見下ろしている。
ふと息を吐いた。
「……真一郎さんが、当時どうして俺に塾の開業を薦めたのか、あなたには話しましたか」
「……親御さんと、祖父君との関係じゃろう。真一郎は、なるべく早く家を出られるようにと言っておった」
「そこまでですか」
「あいつを責めるなよ、妙な態度に聞き出したのはわしじゃ」
「そうではありません」
純丘は首を横に振った。
「その様子だと真一郎さんは、俺が一家心中寸前まで思い詰めたことまでは、話さなかったようですね」
「……なに?」
「真一郎さんは俺の命の恩人です。あの人に止められなければ、俺は二十年も前に、とっくに手を汚していたかもしれなかった」
聞いていたのか? 鶴蝶がイザナに目配せする。
純丘がさらりと述べた自白に、しかし、イザナにはまるで驚いた様子もなかった。
肩を竦め、イザナは首を横に振った。否定の意図である。
実際イザナは初耳だ。純丘は世の中の善悪をわきまえている部類の人間で、前科があったとしても、それを誇るのではなく隠すだろう。親しい相手だとしても、すべてを詳らかにする男ではない。
〝妬ましいんだ〟
……察せられることはあったが。
「——けれど、万作さん、十二年前の事件。俺はなにも気づいていませんでした。実の弟がなにかを企んでいるなんて思いもしませんでした。土壇場に至るまで、全く、なにも、止められませんでした」
「お前たちを責めるつもりはない」
「俺も、誰かに責められるとは思っていません。ただ——俺は当時、思ったんです。ようやく、今更、気づいてしまったときに」
純丘は嘆息するようにつぶやいた。
「あのとき殺しておけばと」
万作の視線が鋭く尖った。
「区外でも、都外でも、とにかく、俺はこの場所とあいつから離れておくべきでした。一刻も早く。国外を選んだ理由は、リスクは限りなく低くなるからで、あなたがたが想定するおおよそどのような理由よりも陳腐でしょう。きわめて短絡的な思考です」
「リスク……実の弟を手にかけかねない、と?」
「いいえ」
言葉の先を読んだ万作に、しかし、純丘はごく短く否定を返した。
「俺がこれ以上、自らの、醜い部分を直視するリスクです。あいつの心身どちらにしろ、元凶を慮る余裕など、あのときの俺にはなかった。今は……」
「純丘」
一言。
純丘はちらりとイザナを見た。イザナは呆れたように、壁の時計に目配せをした。
時計の長針は、すでに、角度を七十度ほど傾けていた。純丘の腕時計も同じ時刻を指し示している。
「……ノーベル賞受賞者、日本が誇る頭脳を殺しにかかるほど俺は耄碌していませんよ。利より害の方が大きい」
どこか早口に述べて、純丘は話を畳んだ。
「さて十分は経ちましたね、そろそろ御暇しましょう」
「待ちなさい」
「そのタブレット、俺は電子機器には詳しくありませんが、明司が最新だと自慢していた機種に形状が似ています。最近のああいうものは機種によっては電話もできるそうで」
万作が直前まで見ていたタブレット端末は、病床脇の、サイドテーブルに伏せられたままだった。ケースの外寸の問題で天板と画面との間にわずかな隙間が空いている。
隙間から光が漏れている。
画面は点灯したままだ。
スリープ状態にするのを忘れただけかもしれない。
……などと信じ込めるほど、純丘も能天気ではない。
「通話先は警察かな、万次郎かも。誰であろうと、追いつかれるとおそらくこちらも都合が悪いので」
コートの襟を正して純丘は一礼した。
彼は、所作は丁寧なくせに、ついぞ外套を脱ぐことはなかった。
長居しないとわかっていた。長居できる身分ではないと弁えていた。外套を脱ぐ手間も惜しむほどに。
「久しぶりにお話できて、良かったです。さようなら。こんな稼業ですから、できることなら、二度と会わないことを願います」
「お時間を割いてくださり、ありがとうございました——純丘くん俺からも話がありま、おい、待てアンタだいぶ足速いな!? 蘭の先輩なだけある……!」
「後片付けぐらい、言い出した野郎がしてけよ……あいつもあんなに焦るモンか、意外と人間だな」
次々に退室していく。
最後に残ったイザナは、愚痴とともに、手元から紐状のものを放りだした。半ばから切断された橙色のコード——万作が今まさに鳴らしかけて、しかしうんともすんとも言わなかったナースコールに繋がっていたはずだ。
彼もまた病室の外へ足を踏み出しかけて、ふと、最後に振り返った。
「爺さんも、これに懲りたら誰彼構わず情なんざ傾けねえほうがいいぜ。どうしようもできないやつはいる。俺らはたまたまそうだった」
「イザナくん、わしらは本当に君と家族になれると思っていた。血なんぞ繋がっていなくとも」
「わかってる。ずっと前から。べつにもう、あんたらが憎いわけでもねえ。なにか違ったら、もしかしたら俺は、血が繋がってなくてもあんたらを家族だと思えてたのかもな」
イザナは笑った。思わず漏れたものだった。
そんなこと、それこそ、とっくのとうに知っていたのだ。
「でも、あんたらは血が繫がってる同士で、しかもちゃんと仲良く家族やれてるんだ。あんたらが俺をどう思っていようと、俺はあんたらと同じ目線で家族とか言える気がしねえ。この件はあんたらは悪くねえよ。もちろん俺だって、なんにも悪かねえけどナ?」
悪びれぬ様子で肩をすくめ、イザナは今度こそ扉に手をかけた。
「せいぜい長生きしろよ。薄情な奴らのことなんざ、とっとと忘れちまった方が楽だぜ」
イザナはつらつらと述べながら、かつてのことを思い返した。
たとえば、真一郎に線香を上げた帰り、別れの言葉を述べたことを思い返した。たとえば、都会の濁った海に面した埠頭で、万次郎に突きつけた訣別を思い返した。
彼ら佐野家とは——真一郎とは——家族には、なれない。
別に、もう、それでいい。
追憶
自らの王様を置いてまで純丘を追いかけた鶴蝶。早足がほとんど競歩の男に、院内を小走りになり、裏口を出たところでようやく「純丘くん、」と呼びかける。
歩みは止めることなく、視線だけを向けた純丘が、少し不思議そうに首を傾げた。
「黒川くんはいいのか」
「それよりさっきのアンタの言い草の方が優先だ」
ぴしゃんと言い放った男に、純丘は片眉を上げてみせた。
「言い草」
「〝あのとき殺しておけば〟」
鶴蝶は先程の発言を繰り返した。
「ああ」
純丘は途端に関心をなくしたようだった。鶴蝶から視線を切って、さらに足を速める。
鶴蝶も歩調を加速させた。もはやどちらも、半ば走りかけている。
「……当時は本気でそう考えていた。それだけの話だ」
「アンタがタイムリープなんて妙な話に食いついた理由も、そこにあるんじゃねえっすか」
「……俺はそこまで馬鹿だと思われているのか?」
「相手が真剣に尋ねている時に答えを茶化して誤魔化すのは不誠実で信用ならない。アンタ本人が、俺たちに再三そうやって説いてきたことのひとつだろ。そうやってとぼけないでください」
「君らが不利益を被るような行動はとらない」
純丘は露骨なほどに明言を避けた。
「俺は……俺たちへの不利益なんざ聞いてねえ。タイムリープに食いついた理由、まさかとは思うが……」
鶴蝶はとうとう純丘を追い越して、彼の目の前に回り込んだ。
進路を塞がれては進むこともできない。純丘も足を止めざるを得なくなった。
「まさか?」
続きを促すように繰り返す。
眼鏡の向こうの瞳が鶴蝶を観察するように俯瞰して、またたく。
「……本当にタイムリープなんてあると思ってんのかよ、よりによってアンタが。俺が知ってる中で一番頭が良いくせに、ンな漫画みたいな……さっきのマイキーのお祖父さんの話だって、俺にはどこがタイムリープなんてのに繋がんのかさっぱりだった」
ヘテロクロミアが空中を彷徨って、純丘に据えられた。
「明司が酒の肴に話した程度のあやふやなモンにどうしてアンタが飛びつくんだ? あいつはなにを話した? それに、アンタの〝ある種の勘〟ってのはそんなに信用できる〝根拠〟なのか?」
鶴蝶は早口に問い詰める。
「〝あのとき殺しておけば〟って、今でも本気で実行しようとしてんじゃねえんすか」
純丘は無表情に、鶴蝶を真っ直ぐに見つめ返していた。
その顔立ちは、たしかに、かつての
「今の稀咲には手を出せねえ。昔の稀咲はとっくにやらかしたあとで、アンタも実際に殺すまでは行かなかった。だから今、タイムリープして、まだなにもしていない稀咲を……実の弟を、殺そうとでもしてるんですか」
「なるほど」
相槌はきわめて投げやりだった。
「良いアイディアだな」
「だからとぼけんなって、」
「たとえそうだったとして、君ら天竺になにかしら不利益をもたらすのか?」
眼鏡のブリッジを押し上げて、純丘はふと天を振り仰いだ。
この病院の裏口はいくつかある。彼らが今いるポイントは、駐車場には微妙に遠く、表や受付に回るにも地味に歩くので、あまり使用されない。清掃の際に出入りするには適しているため、封鎖もされず、未だ残されている。
純丘はもちろん調べてきた。
「元凶がいなくなれば傷ついた人々もいなくなる。願ったり叶ったりじゃないか。なにも問題ないと思うが」
「本気で言ってんのか」
「どのあたりを? タイムリープが非現実的であること? 俺が人を殺すことに躊躇いもないこと?」
矢継ぎ早に問いかけておきながら「後者なら今更だ」純丘は答えを欲する様子もない。
「直接的には手を出していないだけでそれなりにやることはやっている」
「……俺は今でも、天竺のメンバーが殺しをやるのだって、反対の立場だ。できるだけ被害のないように、アンタのやり口はたしかに毎度正気を疑うが、」
「正気を疑われていたのか……」
「ッ俺は真面目に話してる!」
鶴蝶が怒鳴った。
純丘は大人しく口を閉ざした。
「いつも被害が一番少ない方を、道理が通っている方を、探していたアンタが……それを捨てたら終わりだろう」
一月の関東は、ほとんど常に晴れ渡っているが、乾燥していて寒々しい。本日もそうだった。
寒風が吹き抜けた。
しばらく沈黙が続いた。
「昔の話だ」
やがて純丘は端的に述べた。
「純丘くん」
「それで鶴蝶くん、時間稼ぎにはこのぐらいで充分だろうか」
鶴蝶の顔が明確にこわばった。
純丘がそれを視界に入れることはなかった。彼は空を見上げている。正確には、頭上を通る機体や、周囲の背の高い建築物を観察している。
——狙撃部隊は連れてきていない。ヘリコプターの音もない。車両が複数台押し寄せる気配もない。
——これ以上の増援はなしか。
「君は黒川くんが佐野家と関わるとき、滅多に介入しない。今日ついてきたことも不思議だった。万作さんがタブレットを操作していたのは、俺たちが入室する前だ。……先に連絡が回っていた。黒川くんと俺を引き離しつつ足止めをする係」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、純丘は少し肩をすぼめた。
リオ・デ・ジャネイロに十二年も暮らしていれば、そちらの気候に慣れもする。純丘はもともと寒がりなのだ。
「グローバル事業を展開するギャングの幹部級。ブラジルの現地警察でも、案外インターポールでも、手土産にはなるだろう。外交は重要だ」
「……わかってて乗ったんですか」
「わからないと思われていたのか? 天竺を見逃して存続させることを取引の条件にでも出されたと思ったよ。まァ、君はつい先だってまで協力を迷っていたようにも見えるが……」
とぼけたような物言いだ。
鶴蝶は油断なく純丘を見据えている。
「……アンタと灰谷兄弟の関わりは、いまだに悪くなく続いてる。それにイザナと佐野の一家の関係は、最悪の状況になってもおかしくなかった。イザナの、自分のルーツへの向き合い方が変わったのは、俺は、少なからずはアンタの影響だと思ってます」
「買い被るな」
相槌はやはり素っ気ない。
「純丘くん、アンタとは敵対したくなかった。けど……ことここに至って、なにをしたいのかはぼかしてますよね。信用できない相手と、天竺は、組ませらンねえんです。二度と」
十二年前、
二度とない奇跡だろう。
「……俺も今のところ決定打がなくてな。渡りに船というか」
純丘はようやく、コートのポケットから手を引き抜いた。
小ぶりの折り畳み傘——カバーはかかっておらず、ネームさえ留められていなかった。几帳面な純丘にしては珍しいことに——を片手で開く。
「つまり、君が連れてくる人の反応を見たかった」
紺色の防水布の向こう、病院の壁と植木の狭間で直人が舌打ちをした。
あえて傘に開けた小さな穴から様子を窺って「見覚えがあるな」純丘はつぶやいた。
「橘ちゃんの弟だ。今は巡査部長だったか」
「手を下ろして、その場に膝をついて! 投降してください!」
「……本国内で危害を加えた覚えは、現状ないが。撃てると思うなら撃ってくれて構わない」
直人の方へ向けられた傘。遮られた視界では、明確に頭部を狙えるかは、きわめて怪しい。
純丘は今日はコートを一度も脱いでいないので、その下に防護服を着ていないとも限らない。
「我ながら防護方法にしては間抜けな絵面だ」
彼は独り言つ。
「それにしても、この場にいるメンバーが俺だけとはいえ、海外ギャングの幹部相手に巡査部長一人はないだろう。日本警察がそこまでケチるとは思えないが、増援の気配もない……独断かな」
「純丘榎、あなたは——今更、佐野真一郎の事件を追っている。なにを仕出かすにしても、素直に遂行できると思っていたんですか」
直人は銃を構えたままだ。
純丘は瞬きをして、ようやく、鶴蝶に視線を戻した。鶴蝶もまた、既に懐に手を忍ばせていた。
二方向から拳銃はさすがに防ぐ術がない。
「……万作さんとの電話、繋がっていた先は彼か? それでいて、俺と君の会話は、少なくとも中頃は聞いていないようで」
「……俺に聞いてんすか?」
尋ねる鶴蝶。
「君はできる限りフェアな状況を望むだろう」
純丘の物言いは、信用や信頼の域ではなく、かといって盲信や過信のそれでもない。まるで当然とばかりの言い方だった。
「だからアンタは正気じゃねえと思われンだろ……」
鶴蝶はぼやいた。
「……俺も、警察に動向が筒抜けなのは、都合が悪かったので」
「まァ君の立場だと、黒川くんのことまで自動的に貫通するからな。ただそうなると……なるほど」
純丘は納得した素振りで、幾度か頷いた。
「おおよそわかった」
「なにを」
「橘くん、佐野真一郎を調べられると都合が悪いか?」
鶴蝶の問いかけは意図的に無視された。
眼鏡の奥の視線は、傘布越しに、直人に向けられている。
「君の同僚にも言えないほどに? 超能力なんぞ、まるで荒唐無稽だからか? 他にも理由があるか?」
「ッあなたは本当にタイムリープを、」
「君は何度失敗した?」
純丘は問答無用で畳み掛けた。
直人の瞼の裏で記憶がちらつく。
押し潰された車と黒焦げた姉の死体。葬式の参列客たち。千冬からの最後の連絡。雑居ビルの階段を足早に駆け下りた。料亭を舞台にした銃撃戦。
既に消えた過去。
それでも未だ半月前。
「何度殺されかけた?」
埃っぽい倉庫。
「あるいは本当に——」
「目を閉じろ!」
振りかぶられた鉄材。
オッドアイの色合いを覚えている。
「——殺されたのか?」
銃声、
続けて破砕音。
それ以上に大きな爆音。
目もくらむような閃光の中、折り畳み傘が吹き飛んでいった。開いたままの傘は骨が折れて、穴がふたつ空いている。銃弾によるものだ。
「
「……悪い、君が喋っているのはわかるが今ほとんど聞こえない」
「しょうがねえな」
閃光弾を目隠しに、病院内に引きずりこんだ寺野がやれやれと肩をすくめる。歩みは止めないので純丘はほとんど引きずられる状態で走り出した。今しがた純丘が足早に抜けた通路を、今度は駆け足に引き返す。
職員用の通路の入口には車が停めてあり、寺野は純丘を放り込んで自身も乗り込んだ。
「日本でやらかすのはやめろと再三言ってたやつが大規模コンサート、面白ェな! 公安はガス爆発とでも発表するか? それとも俺らのテロ行為?」
「聞こえないのに話すの、なんだ? 俺が聞こえてない方が都合が良い話か?」
「単に俺が話好きなだけだな」
「寺野くんの場合は裏もなく話したいから話してそうでもあるが……」
「よく御存知だ!」
的確に当てられて、寺野は機嫌よくゲラゲラと笑った。
「まァ俺も、オマエがそこまで意地を張った理由が気にならねえと言ったら嘘になる」
「……意地ねえ」
「お、鼓膜復活か」
「若干ぼけてるが……」
茶化された純丘、眉間にしわを寄せて、手のひらで耳元をこすった。
「死ぬよりマシだろ?」
「それは間違いない。ありがとう」
礼をしながらも耳元を擦っている。違和感がこびりついている。
意地ね、と純丘は再びつぶやいた。
「……俺は単に、確認したかっただけだ」
「病院まで巻き込んで?」
「……死者が出ないように調整はしたんだが」
「オマエは本当にそういうところだ」
「君こそいつもそれを言うが」
かつて、稀咲榎が目論んだ一家心中計画は、真一郎に止められた。止められなくても大した被害は出なかっただろう、と純丘は当時の己の杜撰さを評価しているが、とにかく、止められた。
あのとき真一郎は、まだ手段はあるだろう、と別の選択肢を提示した。
彼は、純丘の殺意を否定はしなかった。その行いの是非は論じなかった。
人殺しの善悪について、口にはしなかった。
「……タイムリープは、本当だろうな。嫌なことに……」
純丘は、車のシートに身を深く預けて、目を瞑る。肩から力を抜いて、深呼吸をする。
隣で大人しくなった同僚に、寺野は鼻を鳴らして、運転手に行き先を指示した。
その頃、閃光弾に目と耳をやられた二名は、未だ病院の裏口に取り残されていた。
「ッう……おい、」
咄嗟に防御姿勢を取っていた鶴蝶(手榴弾を想定したものの、結果的には過剰な警戒だったので取り逃がしてしまった)とりあえず身を起こして、大股に、かの警察官へと歩み寄る。
「橘。あの話は聞いてな——大丈夫か?」
直人の顔色は明らかに血の気が引いて、青ざめていた。
死に際の記憶のフラッシュバック。加えて、光と音の強い刺激。神経が馬鹿になっても不思議ではない。
「……この人に気遣われると脳みそが分裂している気分だ」
「悪い、今耳が少し……小さい声だと聞こえない。もっと大声で喋ってくれ」
「独り言です」
「……そうか」
つとめて冷静さを意識して、深呼吸をする。
少なくとも、直人も花垣も今は生きている。少なくとも目の前の男は、今は敵ではない。
ようやく顔を上げた直人が途端に顔を引き攣らせた。
尋常ではない表情に、振り返ろうとした鶴蝶。
の肩を掴む手のひら。
「そんで? 純丘は捕まえられたのか? ダメそうだな?」
「……あー……イザナ……」
「鶴蝶オマエ、隠し事下手だよな」
イザナは爽やかな笑顔で言った。
鶴蝶は内心死を覚悟した。
「……それ純丘くんと比べてないか?」
「あいつは灰谷には貫通するからカウント外。
「どっちかっつっと灰谷兄弟経由で聞き出せるイザナが例外だと思うけど……?」
「んで、そいつはポリ公?」
大人しくなった下僕に満足したように頷いて、王様は続いて、顎でしゃくる。
直人は本当に嫌そうな顔をしていたが、彼とてこの至近距離でまさか逃げ出せるとも思っていない。
「……橘直人です」
「ああ、組対の。俺らもずらかるから、来いよ。言い訳は車内で聞いてやる」
嫌だな〜……とは直人の紛うことなき本音だ。前回と今回は全く地続きではないにしても、直人は彼らに殺された。
しかし断れる状況でもない。この世はとんだクソ。
認知症
:若年性認知症だとかは最近名が知れてきたように思う(体感)
圭介の方が詳しいやもしれんが
:許しきれない「3 months ago」より
成人式
:二〇一八年時点なのでまだ成人年齢は二十歳の時代
開業届
:抱えきれない「6 months ago」より
振りかぶられた鉄材
:拒んでいる「もういないあなたへ」より
閃光弾
:閃光手榴弾、スタングレネードとも
死ぬリスクは限りなく低いが、難聴や火傷のリスクは高め