どうしてこんなことになってしまったのか。アンナはしきりに唇だけで悪態を吐いた。
彼女の水気の足りない唇から、晩秋の冷たい大気へ吐き出された呼気。それは掘り返された黒土をバックにはっきりと白く漂う。ふと空を仰ぎ見れば、鼠色の雲が蓋をしていて、今にも雨が降り出しそうな様相であった。
彼女は塹壕から頭と小銃だけを出し、わずかばかりの草原を抜けた先に広がる、嫌に黒々とした森を睨みつけていた。ひざ下まで届く深緑の外套の裾は汚泥で濡れ、その重みはベルトとサスペンダーを通じて体をじくじくと苛む。
小銃を保持する右手が、笑えるくらい震えている。それに、意図せずして力み過ぎてしまったのだろうか。彼女は銃床を押し付けた肩に痛みを覚えた。
「どうして」
同じ形を繰り返すだけの唇から、遂に明確な言葉が紡ぎ出された。その言葉が冷たい大気へ染み込む前に、構えたままの小銃の槓桿を優しく握り、おもむろに手前へ引き出す。彼女は、解放された固定式の弾倉へ、真鍮色に輝くカートリッジが行儀よく収まっていることを確かめた。
「あたしが」
しばらく同じ形を繰り返してきた唇が、久方ぶりに新しい単語を紡ぎ出した。彼女の右手が、後退しきったボルトを前方へ押し戻すと、新たな弾薬が一発、薬室に送り込まれる。そのまま、祈りを込めるようにハンドルを下ろせば、敵を害する暴力の準備は万事整った。
「まだだ、まだ撃つなよ……」
アンナの耳へ、ひどく緊張した様子の分隊長の声が届く。たしか、彼女は三〇代後半の軍曹だったはずである。開戦以前から軍に籍を置いている、たたき上げのベテランだ。そんな、平時であれば敵より恐ろしい軍曹が、あからさまに声を固くしていた。
「こんなこと」
いつのまにか、狭い草原の向こう岸。横一列になった敵兵が森を抜け、突撃してきていた。
中隊長の少尉が笛を吹く。
「撃て!!」
アンナと同じように小銃を構える少女たちへ、軍曹が叫んだ。しかしアンナは、ろくすっぽ照準を合わせることなく引き金を引きしぼる。着剣済みの小銃から放たれた弾丸は、何者の命を奪うことなく一本の木の幹へ吸い込まれた。
アンナが身を潜める塹壕から、同じ銃声がいくつも鳴り響く。不規則なリズムで繰り返される銃声は稀にユニゾンを奏で、機関銃が通奏低音のごとく唸り声を上げる。震えの止まらない彼女の視野で、敵兵の何人かがもんどりうって斃れた。ここではないどこからか聞こえる爆発音は、夏の嵐の遠雷のようだ。
『どうして俺が! こんなことしなくちゃいけないんだよ!!』
彼女は自分自身の言葉に驚いた。
ところどころ忘れかけてきた、かつて生きていた世界の言葉が、あまりにも自然に発せられたからだ。しかし、絞り出された叫び声は、記憶の中の自分とは似ても似つかない少女の声音。無我夢中で小銃を操作する己の手は小さい。まさに少女のそれ。
そして、目の前で、すぐ隣で。命を散らしていくのは、自分自身と然程大差ない歳の女たちだった。
頭の奥が熱くなり、奥歯を力一杯噛み締めて逃げ出したくなるのを堪えた。草原の向こうからビュンビュンと飛んでくる銃弾は増え続け、ジグザグに掘られた塹壕のそこかしこから悲鳴が上がる。そのほとんどが、年端もいかぬ少女のものだ。
——本当に、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
アンナは意味のない自問を続けるが、小銃を撃つ手は止めない。六発入りの弾倉が空になれば、腰のポーチから取り出した弾薬をねじ込み、再び敵に向かって撃ち続ける。そのうち何発かは敵へしっかりと命中し、さらに何発かは確実に誰かの息の根を止めただろう。
そうして、手持ちの弾薬が尽きかけた頃。耳馴染みのないアクセントの怒号に合わせ、生き残った敵兵たちが草原の対岸へ引き返し始めた。
味方の塹壕の中に、ため息のような吐息が満ちる。そこに滲むのは、安堵か、疲労か、それとも未来への恐怖か。それはともかくとして、彼女たちは今日何度目かの敵を退けることに成功した。
しかしアンナは、打ち尽くした小銃を構えたまま、敵が潜んでいるはずの黒い森を睨み続けていた。もし一瞬でも気を抜いたら、その瞬間に敵が己を殺しにくるように思えたのだ。そうして、一分か、五分か。微動だにせず立ち尽くしたアンナの両耳が、ようやく周囲の喧騒をとらえ始めた。
戦友の名前を、衛生兵を呼ぶ叫び声。被害の状況を上官へ報告する怒声。弾薬や手榴弾を求める声。
「レーナ……弾余ってたりしない——?」
アンナは小銃を下ろすと、すぐ隣を守っていたはずの戦友へ声をかけた。春先の雪解け水の如く染み出してきた安堵を、ハグでもして分かち合おうと思ったのだ。
しかし、彼女の瞳に映ったのは、顔面から塹壕の盛り土へ倒れ込んだ少女の姿だった。鉄製のヘルメットはどこかへ吹き飛び、後頭部には握りこぶしがすっぽりと入ってしまうような大穴が口を開けている。本来その大穴に収まっているはずの、彼女を彼女たらしめる器官は、冷たい黒土へぶちまけられていた。
「…………そんな」
ちょうどこの辺りが地元だという少女が、無惨な死体になっていた。この前線に配置されて知り合った、ひとつ年上の少女だった。ブラウンの柔らかな髪に、目を細めて朗らかに笑う様が魅力的だった、レーナという少女。
少なからず良く思っていた相手の最期に、一切気づくことができなかったことを、アンナは恐怖した。
数歩足を動かせば、肩に触れることができる距離の死に気づけなかったのだ。同じ前線の、少し離れた地点に配置された親友のことを思い浮かべる。自分と同じクソ田舎の村で育ったとはまるで思えない、とびきり美人の親友。凸凹コンビとして名を馳せた無二の親友が物言わぬ姿になり、野に打ち捨てられる。そんな光景がふつふつと頭に浮かび上がり、血の気が引いていく。
命令を飛ばしたり、伝令から報告を受けせわしなく動き回っていた軍曹が、呆然としていたアンナの肩を叩いた。
「シェウチェンコ、トカチュークの認識票を回収してやれ」
「……はい……軍曹」
返事だけはしっかりと返したアンナに彼女は頷くと、周囲をぐるりと見まわして声を張り上げる。
「貴様らよく聞け!」
彼女は眉間に深い皺を刻み込んだまま、たっぷりと息を吐いた。
「……西の方が突破されたそうだ。残念だが、我々はこの陣地を放棄。持てる武器弾薬を持って撤退する! 敵が引いた今のうちだぞ、走れ走れ!」
軍曹は号令を飛ばすと、いまだに呆然としている少女たちの尻を蹴飛ばし始めた。
アンナは発破をかけながら去っていく軍曹を見届けると、うつ伏せに倒れたままの遺体を転がし、仰向けにしてやった。地面から解放された戦友の顔には、わずかに土が付いて汚れていたが、目立つ傷は右目の少し上に銃創があるだけ。恐怖に目を見開き、苦痛に口元を歪ませるようなことはなかった。アンナが想像していたより、よほど穏やかな表情をしている。短い付き合いではあるが「村にいたころ、たまに鳥を撃ってたの」と笑いながら小銃を構えていた時と、さほど変わらない死に顔であった。
「ごめんよ……」
アンナは小さく呟くと、彼女の外套のボタンを外し、首にかけられた認識票を取り外した。最後に、胸ポケットに仕舞われていた手帳を抜き取ると、ボタンを元どおりに留めていく。残念だが、彼女を埋葬している時間はないし、周りを見回せば、いたる所に敵味方の亡骸が転がっている。そもそも、次、いつ敵が再び攻めてくるかわからないのだ。生き残った味方はすでに後方への移動を開始している。アンナは無意識に両手を合わせる——日本人として染み付いていた習慣の名残である——と、認識票と手帳をポケットへ仕舞い立ち上がった。
**
ジグザグに、複雑に掘られた塹壕線の真っ只中。他の味方より出遅れてしまったアンナは道に迷ってしまっていた。というのも、攻撃の前と後では、まるで景色が違って見えたのだ。几帳面に積まれていたはずの土嚢は所々吹き飛び、砲撃や爆発によって崩れた壁が道幅を狭めている。どうやら、自分が守っていた箇所は攻勢が弱かったらしいということを、アンナは無残な姿に成り果てた塹壕を見て実感した。
そうやって、自分の今いる位置すらわからぬまま走り抜け、とある曲がり角を駆け抜けた先で。
濃灰色の外套を纏った少女と目が合った。
——敵だ!
少女は鉄帽の庇の下、澄んだ青い瞳を驚きに見開いて、俄に口を開こうとする。
だが、その直前。
駆け足の勢いのまま、アンナは少女の喉元目がけ銃剣を突き立てた。
青い瞳の少女は、切っ先を避けようとして咄嗟に手のひらを突き出した。
正しい構えもクソもない苦し紛れの刺突だったが、白く柔らかそうな少女の手を貫くには十分だった。
『——!!』
少女は驚きと痛みに叫び声を上げる。アンナは小銃から手を離すと、すかさず彼女へ頭突きを食らわせた。同世代の平均身長よりわずかに背の低いアンナと、おおよそ同じくらいの背丈か。ちょうど、アンナの脳天が少女の鼻面に直撃した。その衝撃で飛んでいく少女のヘルメット。黒土と鼠色の空を背景に、線の細い金髪がまろび出た。
アンナは頭突きの勢いそのままに、倒れた少女へ馬乗りになる。
「ク、ソ、がぁッ!」
きつく握りしめた右の拳を、少女の顔面目掛け振り下ろす。
鼻たらしの幼年時代、隣村のガキ大将を殴りつけたときより、はるかに拳を固くして。
『ギャッ!』
年頃の少女が上げるには、いささかけだものじみた叫び——最初にアンナが食らわせた頭突きによって鼻の骨が砕けていたからだ——が塹壕に反響する。
秋の空のような青色の瞳を血走らせたアンナは、無我夢中で腕を振り下ろす。
何度も、何度も殴りつける。時たま下敷きになった少女の腕がアンナを叩くが、アドレナリンが支配する彼女にはちっとも通じない。何度も、何度も殴りつけた右の拳の皮膚は、いつのまにか破れていた。
抵抗らしい抵抗ができなくなった少女の形貌は、もうすっかり変わり果てている。目や鼻は潰れ、顔中を青黒く腫らした少女を見下ろすアンナは、ベルトに下げた鞘からナイフを抜き払った。
故郷に残った、幼馴染の家に伝わる古い形のナイフだ。そのよく研がれた刃が、ぬらりと剣呑な輝きを放つ。出征の折に、お守りとしてプレゼントされたものだった。
アンナは逆手で握り込んだナイフを、少女の心臓へ振り下ろした。
切っ先が、厚い外套の繊維を断ち切る感触。
一度骨か何かに当たる。
その、金属とも木材とも異なる硬質な感触の後。
一瞬の柔らかさ。
薄い抵抗を突き破る感触。
重い手応え。なにかが、アンナを拒む。
「ああぁぁああああッ!!」
アンナは、ナイフの柄を通して伝わる感触に身の毛を粟立たせながら絶叫した。
握りを変えて、刃を、少女へねじ込む。
持てる限りの力を持って、全体重を乗せるように。
ここで必ず息の根を止めねばと、更に押し込む。
アンナの下、胸元を貫かれた少女の四肢が何度か激しく痙攣した。腰だめに、体重をナイフに乗せているせいで、ほとんど覆いかぶさるような姿勢。まるで親密な友人と、あいさつのキスを交わすかのような距離。
少女を兵士だと示す外套に包まれた四肢は華奢で、厚い布地の上からでも肉の柔らかさを主張する。その少女の傷口からは、一定の間隔を開けて血液が溢れ出た。顔面や体で血飛沫を受け止めたアンナは、少女が生命を喪失していく様を、至近距離でありありと目の当たりにした。アンナの耳元に響く、ブフーッ、ブフーッと水っぽく
少女の青い瞳は激しい殴打で潰れて、口元には赤黒い泡がまとわりついていた。
「……うぅッ」
だんだんと熱を失っていく少女の肉体の上、荒い息を吐くアンナの喉元に、酸っぱいものがこみ上げる。咄嗟に喉元と口を両手で抑えると、手のひらにひどくぬめる感触がした。
アンナは吐き気を堪えながら、少女の遺体の上から這いずり逃げ出だそうとした。がたがたと震えながら、借り物のように言うことの聞かない四肢を動かす。四つん這いになり、少女の亡骸から己を引き剥がすことに成功した時、塹壕の奥から誰かの名前を呼ぶ声が響いた。しかし、アンナの耳にその声は届かない。
果たして、アンナが走ってきた反対の方向から姿を表したのは、濃灰色のコートを身に纏った少女だった。
『——ッ!?』
そばかすのせいか随分と幼く見える少女は、緑の瞳を何度か瞬かせると、何事かを叫びながら肩にかけていた小銃を構えようとした。
きっと、ちょうど今刺し殺した、青い目の少女の名前とかだろう。
悪いことをしてしまった。
自分は今まさに、殺されてもしょうがないことをしてしまったのだ。戦争に来て、そんなに経っていないけれど、今度は自分の番なのだ。吐き気で朦朧とするアンナの頭の隅に、因果応報という言葉がよぎった。
粘性を増した世界の中、ゆっくりと銃口が真円に近づく。
一発の銃声がして。
——目の前の少女が倒れた。
「アンナ! なにやってんのこの馬鹿!」
アンナを罵る、悲鳴じみた怒声。這いつくばったまま、血と泥に塗れたアンナは、ひどく緩慢な身動きでその声の主へ振り向く。
そこには、小銃を構えたまま顔を強ばらせた幼馴染の姿があった。
「エリザヴェータ……」
アンナがエリザヴェータと呼んだ少女は、凛とした印象を与えるアーモンド型の大きな瞳でアンナを睨みつけながら詰め寄った。
「大丈夫? 立てる? 怪我は?」
アンナとは対照的にスラリとした、衣装さえ着替えればすぐにでもバレリーナやモデルになれそうな彼女は、塹壕の底へ溜まった汚泥に躊躇することなくアンナの目の前に膝をつく。彼女は震えるアンナの肩を抱くと、傍に転がった敵兵二人分の遺体を一瞥した。
「あたし……殺して……。ひ、人を、殺してしまった……」
ぬかるみ始めた地面を凝視したアンナが言葉を絞り出す。その声は蚊の鳴くような声だ。
「……しょうがないでしょう、戦争なんだから」
全身を煤や泥で汚したエリザヴェータは、つまらない問答だと当たり障りのない返事をする。
「ちがう、この手で、あたしは、刺して」
「ハァ……」
エリザヴェータはあからさまに肩を落とすと、アンナの顔を覗き込みながら言葉を続けた。
「銃で撃つのと、ナイフで刺すの、その何が違うのよ」
「で、でも、こんな、まだ子供みたいな……」
彼女の鉄拳がアンナへ炸裂した。
「いい加減にしなさいよアンナ! 立て、ほら!!」
激昂したエリザヴェータが、アンナの外套の襟元を掴みあげる。痩身に見えるエリザヴェータだが、軍人として鍛えられた膂力は他の兵隊となんら遜色はない。怯えの色を滲ませた両目の端に涙を浮かべたアンナは、己を叱咤するエリザヴェータを見つめた。
「よく聞けよ、馬鹿。……こんなところで無駄死になんて私が許さない。絶対に」
「リーザ」
震えるアンナの唇から、エリザヴェータの愛称がこぼれた。
「ふるさとを、村のみんなを、家族を、
「うん、うん」
エリザヴェータの語りかけに頷くアンナの瞳に涙が滲む。それはあっという間に溢れ出し、洟水とともに垂れ流しになった。
「たぶん、ここはもう危ないから。走れる?」
頷くアンナの手を、エリザヴェータがそっと握りしめる。
「走れ、アーニャ! 泣くのは後、もっかいぶん殴るよ!」
「それはっ、やだあ!」
彼女たちを打ち砕く暴力が、いよいよこの塹壕へ手をかけようとしている。
アンナとエリザヴェータは遮二無二駆け出した。敵味方の亡骸と、少女だったものに突き立った、お守りのナイフを塹壕の底に残して。
その半日後、彼女たちは後方に引き直された防衛線まで撤退を成し遂げた。