TS戦線異状なし   作:ふえるわかめ16グラム

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アンナ・アレクセーエヴナ・シェウチェンコ

 深夜の山々を切り裂くような高速道路。

 もし上空から眺めることができれば、それは黒い布地に伸びる一本のステッチのように見えるかもしれない。黒い布地に、まばらなナトリウム灯の明かりがまるく浮かんでいる。そのわずかな範囲を、行き交う車たちが繫いでいく。

 そして、古びたバイクが一台。むき出しのエンジンにクラシカルなスポークホイール。ハンドルは極端に下げられ、往年のレーシングマシンを彷彿とさせる。涙滴形を半分に切ったような燃料タンクの下、中排気量の空冷単気筒エンジンは速度の割に唸りを上げ、強烈な振動を容赦無くその車体とライダーに与えている。しかしフルフェイスのヘルメットの中で、ライダーの男は満足げに微笑んだ。

 

 いつまでも居座っているように思えた残暑も過ぎ去り、全てのライダーが待ちわびた季節の到来である。彼は天気予報を確認しつつ、週末の終業後、こうして走りに出た。別段目的地はない。ある程度離れたお気に入りの海岸線でも流して、そのままとんぼ返りする予定である。彼にとってバイクとは、単純な移動手段ではない。ただただバイクへ跨り、駆け抜けることに喜びを見出す人間だった。

 

 

 彼の目論見通り、車体を操る四肢が切り裂く夜風はシンとした冷たさを保っていて、股の間で鼓動する空冷エンジンは本領を発揮している。夏のボーナスを利用し、奮発してこしらえたチタン製の排気管が焼かれて虹色に輝くところを想像して、彼はより一層スロットルを回しこむ。職人が手作業で湾曲部を手がけた逸品だ。彼の愛馬は、期待に応えるように新しい喉で咆哮を上げた。

 

「トラックか。お仕事、ご苦労様ですっと……」

 

 しばらく性能を確かめるように巡行を続けると、左曲がりの、アールの大きい弧を描く道の先。大型トラックの後部ポジションランプが彼の視界に入った。

 彼はミラーと目視による後方確認を行うと車線を変更する。より一層スロットルを引き絞ると、前方を行くトラックを追い越しにかかった。

 

 ——その時である。

 

 トラックと並走したタイミング、中央分離帯の茂みから、黒っぽい小動物が飛び出して来た。

 なんてことのない、野生の狸だった。

 あっと思った時には、彼の思考は限界まで加速していた。時間がねっとりとした粘性を帯びる。

 

(夏の狸ってめちゃくちゃスマートだな。これ前後どっちのブレーキかけても無理じゃん。参ったな、週明け提出の見積もりと前回分の請求書どうしよう。くそぉ、引き継ぎ面倒だからって属人化しすぎた、失敗だ。これ逆に、もし死ななかったら挨拶回りめんどくせえな。ていうか狸お前尻尾細いのな)

 

 とっ散らかった思考が彼の脳裏を何周か駆け巡った。しかしバイクはライダーの視線の先に進むようなきらいがある。極端なスローモーションの中、嫌な夢の中のような緩慢さで彼我の距離は縮まっていく。

 

「クソが!!」

 

 図らずしも口をついた悪態が出切らないかの瞬間、彼は右手のレバーを握りしめ、右足のペダルを踏み抜いた。前後輪のブレーキである。しかし彼の意識は加速したままだ。電子制御のない旧型のモデルのため、油圧式の前輪ブレーキは完全にロックし、車体が滑るように左側へ倒れていくのが手に取るようにわかる。彼はハンドルから咄嗟に手を離すと車体から放り出された。

 そんな中、こちらを一瞥した狸と目が合った。当の狸本人からしたら良い迷惑だったろう。困惑とも驚愕ともとれる色をくりくりとした双眸に浮かべていた。

 彼はかたいアスファルトへ、運転中、前傾姿勢だったため頭から突っ込んでいく。

 

(やっべ、プロテクター着てねえわ……)

 

 迫るアスファルト。彼は祈りすらせず、きつく目を閉じた。

 

 

 ****

 

 

 彼は、全身が溶けてしまったような感覚の中、微睡みに漂っている。なんとなくではあるが、彼は己の死を悟った。

 

(ああー、こりゃ死んだな?)

 

 春の日差しのような、思考能力を奪っていくとろりとした温もりに包まれている。しかし、彼は己が妙に縮こまった姿勢をしていることに気が付いた。まるで、カフェレーサー風にカスタマイズした愛車へ跨っているような姿勢。

 俺も往生際が悪いなぁ。あの世でもバイク乗ってる気分が抜けてないなんて、と彼は自嘲する。だが、それも悪くない。どうせ俺にはこれ(バイク)ぐらいしか趣味がなかったのだ。もしあの世を走り回れるなら、それで構わない。むしろ本望ですらあると、彼は右手でスロットルを回す想像とともに微笑んだ。

 

『見て、アーニャ笑ってる』

『本当だ』

『おかあさん、アーニャが変なうごきしてる!』

 

 頭上から、理解できない言葉で会話が降ってくる。どうやら、あの世は彼にとって外国扱いらしい。まだ幼い少年少女たちの談笑が、再び彼を眠りへと誘った。

 

(もう一眠り、するか……)

 

 

 

 彼が再び目を覚ましたのは、随分と時間が経ってからだった。

 

 アーニャことアンナは、小さな村の、小さな商店の三女としてこの世に生を受けた。特別器量好しではなかったが、父親譲りの碧眼に、母親譲りのカールした金髪がよく似合う愛嬌のある少女だ。そんな彼女は四人兄妹の末っ子として、両親と祖父母、二人の姉、一人の兄に蝶よ花よと育てられた。

 

 しかし、彼女には誰にも明かしていない秘密がある。

 

 ——物心がついた時から、いわゆる前世の記憶があったのだ。

 

 自我の芽生えと同時に、記憶を取り戻した彼女は酷く取り乱した。高速道路を走行中のバイクから放り出されたのを最後に、気が付けば全く解せぬ言語を話す世界で、赤子として目覚めたのである。

 それに、彼女の前世は男性だったのだ。その戸惑いも一入である。

 しかし、その戸惑いを表に出すようなことはしなかった。なにせ、前世の記憶があると言ったところで、子供のたわ言としてあしらわれるのが目に見えていたからだ。

 

 首が座るようになると、彼女は今生の己がどういった境遇に置かれているのかを理解していった。どうやらこの家族は、子供の足でも1時間とかからずひと回りすることができる小さな村に住んでいるらしい。村の外に広がる一面の麦畑や両親や兄妹、店に訪れる客の風体を見れば、明らかにここが日本ではないことはすぐにわかった。ほとんどの道路は舗装されておらず、木材をふんだんに利用した家屋がポツポツと建ち並ぶ。異国情緒あふれる環境に心が踊ったのもつかの間、この村には、電気・ガス・水道などのインフラがなかったのだ。共用の井戸や小川の水を使い、薪や炭を燃やして暖をとる、昔ながらの生活。見渡す限りの草原や畑に、ところどころ森や林がこんもりとあるだけの田舎である。現代日本で生きてきた記憶を持つ彼女は、その不便さに辟易することとなった。

 

 

 ****

 

 

 そして、ここは自分の知っている世界ではないと確信したのは、彼女が四歳になった時だった。長姉のオリガと店番をしている際、わずかに陳列された書籍の中に覚えたての単語を見つけたのだ。アルファベットによく似た文字で『世界地図』と印刷された本を、姉にねだって見せてもらおうとする。

 

 アンナは棚の前に陣取り、若干埃をかぶった背表紙を指差した。

 

「オリガ(ねえ)、あれ、とーって」

 

 アンナは言葉の遅い子だった。同じ年頃の子に比べて言葉を喋り出すのも遅く、発音もいまだに拙い。それもこれも、彼女に前世の記憶があるためだった。第一言語が日本語なのである。前世でも特に語学に堪能ということはなく、こちらの言葉を理解するのは大変な苦労であった。その分、文字を読めるようになった今は、本さえ与えておけば手のかからない子供と評判である。

 

「あれって、どれ?」

 

 オリガが、大体のあたりをつけた本の上に指を置く。家庭料理のレシピだろうか、パンのイラストが背表紙に印刷されている。

 

「ううーん。となりの」

「これ? 地図よ?」

「うん。みせーてー」

「変なものが気になるのね……」

 

 アンナは末っ子で、家族から若干甘やかされていることを自覚している。今回も、存分にその特権を利用した。

 

 そして、薄々感づいてはいたが、それが決定打となった。

 開かれた本には、見知らぬ世界地図が印刷されていたのだ。

 

「うぉおん」

 

 当初、彼女はここがヨーロッパにある小国のどこかではないかと思っていた。しかし、開かれたページには、若干似通っているところもあるが、明らかに前世のものとは異なる地図が描かれていた。

 

(なにこれきもちわる……。なんか見覚えあるのに違和感がすごい……。ずいぶんと潮通しのよさそうな地中海だなあ。それにイタリア? のあたりもなんだかずんぐりむっくり……)

 

「アンナたち、どこ?」

 

 アンナは後ろで見守るオリガを振り返り、地図上の適当なところに人差し指を立てて訊く。長姉のオリガは今年で十八になる。義務教育はとっくに修了し、両親とともに家業を切り盛りしている。いずれ婿を取り、この店を継ぐはずだ。彼女なら、アンナが生まれ落ちたこの場所くらい、即答できるだろう。

 

「ええとね、ここよ」

 

 アンナに文字が読めるような角度から、彼女は地図上の一点を指差す。アンナの記憶では、中欧や東欧と呼ばれていたあたりだ。大陸のど真ん中、周囲を他の国に囲まれた国。国土の南側の一部はわずかに内海に面している。高校地理程度の内容がわかれば前世との比較もできたろうが、最早遠い記憶となってしまったためそれも叶わない。

 

「ゔぅー、ゔぃ……ゔぃく……?」

「ヴィクライ共和国。私たちはここに住んでるの。そして、村はこのあたり、かな」

 

 地図の上で、彼女の指が東へするりと移動する。縮尺の小さい地図だからか、指先には地名などの表記はない。つまり、それだけ小さな村だということだった。

 

「この国はね、私が生まれるちょっと前に帝国から独立したのよ。……って、こんなこと言ってもわからないか」

 

 彼女は追加の情報をこぼすと小さく自嘲するように笑い、アンナの手から本を抜き取り、元の棚に戻す。

 その間、アンナは惚けた顔で「はぇぇえ」と唸っていた。

 

(オリガ姉が生まれるちょっと前に独立、えっと、二〇年くらい前か。そんで帝国から? どの帝国よ。ああークソ、もっと真面目に世界史勉強しとけばよかった。そしたらなんか、こう、いろいろ推察する材料になったかもしれねえのになあ……)

 

「あの子よくあの顔するのよね」

 

 オリガは、ついでに棚へ積もった埃を掃除しながら、唸り続けるアンナを眺めて微笑んだ。好奇心旺盛で、頭のいい子だ。立派に育つだろうと思う。

 

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