諸君等に一つ問いたい。
人は平等で有るか否か?
倫理学的に見て、差別や不和、格差の原因となる不平等は悪である。
しかし、人が最終的に求めるものは本当に平等であるだろうか?
先人たちが平等を叫んだのは何故か?
それは、身分制度やカースト制度の類が残っていた時代において、自身がどれだけ熱望し、労力を費やしたとしてもそれとは全く関わりのない道しか歩むことができないという不条理が罷り通っていたからである。
代々家業を継いでいくことにも安定性という利点があったのだろう。
しかし、結局人は生まれながらにして違うものだ。完全に同じ視点を共有することは不可能であり、たとえ親子であろうとも、目指す場所や求めるものは異なる。
人は自身に欠けているモノに対して、より執着する。生き方に自由の無かった彼らは自由を望んだ。生きる上で発生する様々な選択肢、そこに自身の求めるモノが含まれるように、機会の平等を求めた。
故に平等というのは必要ではあるが、それはあくまでも前提の話であり、重要なのはそれによって得られる自由と自由を最大限に活かして自身の望む道を進めるかという点である。
身分制度が撤廃され、様々な分野において自由化・平等化が進んだ現代では、全体的な傾向で生まれという初期条件はだいぶ平されたと見られる。
つまり、後悔のない人生を歩めるかは己の研鑽次第となった。
ここからは私自身の話になるのだが、私は今、己の未来を左右する時期に直面している。
高等学校への進学だ。
日本を始めとするほぼ全ての国において、社会で能力を発揮できるように基礎知識の習得、それらの活用の演習を行わせるために学校等の教育機関が存在する。日本では中学校までは義務教育であるが、高校・大学への進学は任意となっている。今日は取り敢えず高校まで進学するのが一般的となっているが。
そして、この頃になると、遅かれ早かれ自身の進路を固めなくてはいけなくなってくる。そして、数年のうちには扶養者に任せていたモノも含めて全てを自身で判断し、決定しなくてはならなくなる。それを自由と捉えて喜ぶか、私のように突然与えられた無数の選択肢に困惑するか。
というのも、本来私の人生には自身の意志や望みが反映される余地などある筈がなかったのだ。とはいえ、その生き方に不満や反発を覚えていたわけではないので、悲観はしていなかった。そもそも、私は数ヶ月前にはこの世を去っている予定だったのだが。しかし、一つのアクシデントにより予定が狂ってしまった。そのせいで、或いはおかげで私の心臓はまだ鼓動している。
本当にどうしたら良いのだろうか?私は今途方に暮れている。今まではただ言われたことをこなしていれば良いだけだったのだが、唐突に無数の可能性を示されて、処理しきれない。多少見聞を広めて自覚したのだが、私には、幼児にも出来る自身の意思で選ぶという行為の経験がなく、ハードルが高いと感じている。これからは、「1人の人間として生きる」と初めて自分の意思・願望で決めたというのに……。幸先の悪いことだ。
私は人並みの将来の目標を掲げるにはまだ至らないが、自身の境遇・現状から必要だという理由で進学先には検討をつけている。
そこに在籍する三年間は外界と隔離される点、この国の未来を担う優秀な人物が集う点、そこを卒業すれば希望する進路にほぼ100%応えると豪語するほどの教育が課される点。以上の三点が決め手になった。己の経歴ゆえに追っ手が向けられる可能性があるので、秘匿性の高い場所が好ましい。また、自身の異常性を目立たせなず溶け込むには環境自体も異常である方が良い。そして、未だ思い描くことのできない進路に関して、卒業する直前にようやく候補を固めて、準備期間が短くなったとしても、謳い文句通りなら、高い確率でその進路に進めるだろう。
やるべきことが決まったのならあとは愚直に修練を積むだけだ。修練への没頭ならば私の得意分野だ。