マギアレコードという舞台。
本来ならそこには人々が賑わい、あらゆる考えを持つ人が溢れるはずだった日常。一人一人に人生という名の物語があり様々な生き様があった。
しかし、今はどうだろうか。
破滅を招く者によって、そこにあったはずの日常は破壊され、人々は死に体と姿を変えた。
滅亡の光が放たれては街は炎に包まれ、人々の悲鳴が響き渡る。
それは地獄絵図と呼ぶに相応しい光景。人の道理ではあってはならない惨劇だった。
しかし、それもおかしなの話だ。
今この街ではされど一人、たった一人の男によって大虐殺が行われているのだから。
その男は、圧倒的な力で人々を殺し尽していた。その男が通り過ぎた後には、死体すら消し飛び肉片しか残らない。
光弾と光線。現実ではあり得ない常軌を逸した暴力が、その場を徹底的に滅ぼし尽くされた。
考察するのも生き延びる事さえも許されずに人々は死へと誘われる。
まさに殺戮の神。殺戮も度が過ぎれば神となるのはこのことだろうか。その姿を見た者は、誰もが彼のことをこう呼ぶことであろう。
孫悟空─────と。
肉片と化した無数の死体と、原型を留めていない瓦礫の山だけが残った神浜市工匠区のどこか。
血の海と化したその場に、マギウスの翼に属する黒羽達が走り回っていた。周囲には五人以外に誰も居らず、静寂に包まれている。
それは当然だ。先程までは大勢の人々が行き交う大都会だったが、今は違う。孫悟空と名を名乗る黒衣の男が現れた途端、地獄絵図と化し、多くの犠牲者を出したのだ。
危険を察知し一刻も早くその場から避難しようと、黒羽達は必死になって逃げた。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら走る黒羽。幸運にも魔法少女の身体能力は常人よりも遥かに高いため、其処ら辺の人間達よりは体力がある。
それでも、全力で逃げてきたので疲れるのは当たり前。
それに、恐怖で足が震えて上手く走れず、何度も転びそうになった。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。
あの男が追いかけてくるかもしれないからだ。
(死にたくない助けてとお願い死にたくない死にたくない死にたくないお願い死にたくない助けて死にたくない死にたくない嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
思考回路は既にショート寸前だ。頭の中ではその言葉ばかりがグルグルと回っている。
他の四人も、きっと同じ気持ちのはずだ。
それくらいに、孫悟空という男の存在は異質であり、恐ろしかった。
一撃一撃がビルを崩壊させる威力を誇り、人を容易く殺す光弾を放つ。
更には、人間離れした浮遊能力と瞬間移動するような速さを持つ。
どれを取っても、生身の人間では有り得ないことだ。
あれが本当に人間なのか疑いたくなる。どうみても魔法少女ではない別の存在だ。
そもそも、あんな存在が居ていいのか?自分達のような魔法少女は、あくまでキュゥべえと契約をすることで魔力を手に入れた人間に過ぎない。
対する孫悟空は、恐らく純粋な戦闘力だけで言えば、魔法少女を凌駕、或いはワルプルギスの夜にすら匹敵するのではないか。
考えれば考えるほど絶望的になる。
地球規模の災害といい、あの男は一体何者なんだ。
疑問は尽きないが、とにかく今は逃げるしかない。
そんな疑念を抱いていると、背後から瓦礫が崩れる音が聞こえ不意に後ろを振り向いてしまった。
「あ……ああぁ..……ぁ」
目線の先には、此方に向かって歩いてくる黒い影があった。
距離は数十メートル離れているはずなのに、まるで目の前にいるかのように存在感を放っている。間違いなく、孫悟空だ。しかも、ゆっくりとした速度で歩いている。
つまり、確実に近づいてきているという事だ。
実際の所は歩いている処か一歩も動かずに見ているだけだ。移動しているように見えるのは耐え難いストレスとある種の危機的本能がそうさせたのだろう。
とはいえこのままでは追いつかれるのは自明の理だ。あの黒衣の男から振り切って逃げ延びたいと祈るばかり。祈りによって後悔した者がまたもや祈りを込めるのは皮肉と言うしかないだろう。
だが、そんな願いは叶うはずがなかった。
刹那、まるで音が消えたように周囲が静寂になったのだ。
そして、次の瞬間には、
「これはこれは、一体何処へ行くのだね?」
黒い影が目の前に、まるで瞬間移動のように突如として現れる。
それが何を意味するのか理解した時、五人の表情は一気に青ざめた。
「ひっ!?」
悲鳴を上げる黒羽。他の四人は、声を出すことすらできなかった。
それほどまでに、孫悟空の存在そのものが恐怖そのものなのだ。
黒羽は腰を抜かし、地面に尻餅をつく。逃げなければ殺される。本能的にそう感じ取った彼女は、這ってでも逃げようとした。
「どうした、お前たちマギウスの翼共は人間よりも魔法少女は優れている理念を掲げているのだろう?ならばその人間風情の肉体など捨て、魔女の力を開放すればいいではないか。そうすればこの状況程度乗り越えられるかも知れないぞ?」
「あびぃっ!」
魔法少女らしからぬ声を上げる。
這いつくばる彼女の背中を踏みつけ、嘲笑う孫悟空。
彼の言う通り、魔法少女の身体能力は常人よりも高く、ヒトよりも優れていると謳っていることだけはある。
だが、それはあくまでも常人と比べた場合の話だ。
仮に常人が魔法少女と同じ身体能力を持っていたとしても、こんな風に踏みつけられることは無い。
魔法少女の身体能力と常人との間には、絶対的な壁が存在するのだ。
固有魔法、ドッペル、コネクト等、魔法少女の強さは多種多様だ。
だからこそ、魔法少女は常人と比べて圧倒的な力を持つ。だが、孫悟空にとってはそんなものは関係ない。
そもそもとして、彼は魔法少女、ワルプルギスの夜それらの存在処か、概念的な存在であるはずのあらゆる世界の神をも超越している。
故に、魔法少女の常識は通用しない。
複数の宇宙中の人間達を殺し尽した彼にとって、こんな世界の住人の身体強度など赤子に等しい。
そんな規格外の存在を前にして、黒羽達は怯えることしかできないのは道理であった。
そして、そんな黒羽達を追い詰めるように、孫悟空は足に力を入れていく。
「ぎあぁぁ!!お願い!やめてぇ!」
踏みつけられている黒羽の口から苦痛の声が上がる。
このままでは潰されてしまう。
だが、孫悟空が足を退かす気配はない。
「安心しろ。俺はお前らを救ってやるだけだ。魔女化から永遠に……ただし、今から行われる実験の後だがな!」
「やめ……て……い……や……助け……誰か……」
必死の叫びも虚しく、次の瞬間には足を上にあげ、そこから振り下ろされた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
骨が砕ける音と共に、断末魔の如き絶叫が響き渡る。その凄惨な光景を目の当たりにした他の黒羽達も、思わず顔を背けた。
しかし、孫悟空は容赦しない。
何度も何度も踏みつける。
頭を、腕を、足を、胸を、胴体を、脚を、腹を、肩を、脇を、太腿を、膝を、脛を、踵を、爪先を、全身の至る所をだ。
原型が分からなくなるまで、徹底的に破壊していく。
血塗れになり、内臓が飛び散り、手足が欠損し、顔の原型が残らない程に破壊された肉塊が出来上がった。
だが、死なない。
ソウルジェムが無事なら、どんな傷を負っても生存可能。抉られた肉塊が蠢きピクピクとしている。まるでゾンビのようではないかと思わせる光景が其処にはあった。
「あ、ぁぁ……ぁぁぁ」
声にならない悲鳴を上げ続ける黒羽。他の四人も、恐怖で震えていた。
次は自分の番にならないかと、ビクビクしながら怯えている。
「ほう、これだけやっても死に至らないとは。やはりこの程度では駄目か。ふむ、少々気になり始めたぞ魔法少女の生態系が」
これだけの事をやっておきながら抱いた感想は、それだけである。
されど肉体が幾ら破滅的なダメージを負おうとも、魔法少女の生命力は並外れており、魂さえ無事であれば問題なく生存できる事には感心していた。
もっとも、肉体の痛みは消えず、心にも大きな傷が残るようだが。さすがに、ここまでされてしまえばもう生きる気力など失せてしまう。
「コ、ロし……テ、オ願い……コろシテ……」
黒羽は涙を流し、懇願する。
こんな辛い思いをするくらいなら、いっそ死んだ方がマシだと。そんな彼女に孫悟空は、願いを叶えるためにトドメを刺すことにした。
指先に光を集め、それを光線にして放つ。光は一瞬にして黒羽のソウルジェムを貫き、彼女の命を奪った。
残るは後四人。
「さて、次は誰にしようかな?抵抗したければやっても構わんぞ」
「あ、ああああああ!!!」
仲間の死を目撃してしまった四人の黒羽は、絶望に満ちた悲鳴を上げた。
孫悟空が一歩ずつ近づいてくる度に、彼女達は後ろに後退る。
「来ないで!来ないでよぉ!!」
一人の黒羽が金切り声で叫ぶ。
形振り構わず固有魔法を発動させようとする。マギウスの翼に属する証明である黒いフードが剥がれ、素顔が露出してもこの際どうでも良かった。今を生きるために全身全霊で目の前の男に抵抗すべく力を振り絞る。
だが、孫悟空の前では全く無意味だった。
至って単純、彼に対して魔法は効かないからだ。
あらゆる魔法は質量の桁が違う彼には通じないし、そもそもとして一個人による魔法の概念すらはね除ける。故に孫悟空はただ歩くだけで、全ての魔法少女を無力化してしまう。
つまり単純な実力差で言えば、蟻と恐竜。
一匹のアリが一体のティラノサウルスに酸を掛けるようなもの。
そんな相手に勝負を挑むのは無謀であり、自殺行為以外の何物でもない。ましてや今の彼女は、魔法少女といえど思考が正常ではないのだ。
乱れた思考で正しい判断などできようはずもなかった。
そのような者が孫悟空に勝てるわけがない。
結果として、孫悟空に目を付けられた時点で詰みなのだ。
黒衣の男は拳を握り締め、固有魔法で抵抗しようとした一人の黒羽に向かって勢いよく振り下ろす。
その瞬間、彼女の上半身は粉々になって吹き飛んだ。
まるで爆発でも起きたかのように、彼女の身体の一部が四方八方に散らばる。
下半身は、血渋きを撒き散らし地面に何が起こったか分からないようにそのまま倒れる。自分が死した事さえ分からないまま死に体となった。
残り三人。
訳が分からない。意味が分からない。何故自分たちがこんな目に遭わなければならないのか。
ただ魔法少女の運命から解放されたかっただけなのにどうしてこんな酷い目に遭うのだろう。
そもそも、自分は魔女になる運命から逃れたいがためにマギウスの翼に属したのだ。
それなのにどうしてここで理不尽に殺されなければならないんだ。そんな疑問ばかりが頭に浮かび上がり、何も考えられなくなる。
一人の黒羽は恐怖と混乱のあまり、その場で腰を抜かしてしまった。
「いやぁぁ!お母さんやめて!やめてよおかあさん!おかあさん!!死にたくなぃ!!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!もうしません良い子でいるから!!」
泣き喚く黒羽。
死に際にしては随分と情けない姿である。人間よりも優れている理念を掲げておきながら、いざ死の間際になるとこれだ。
本当に笑わせてくれる。
「やれやれ、神浜の魔法少女というのは皆こうなのか?まあいい。死ね」
そう言って彼は泣き喚く彼女に手をかざすと、黒羽の身体がまるで空気を入れた風船のように膨らんでいき、ソウルジェムもろともやがて破裂した。
残ったのは二人。
一人は尻餅をつき、ガタガタ震えていた。もう一人はというと、黒羽の死体を見て嘔吐していた。黒羽のグロテスクな死体を間近で見てしまい、精神的ショックが大きかったようだ。
魔法少女にとっての死体とは時々見かける程度のものである。魔女の結界内で使い魔に食い散らかした跡が残っていれば、それは死んでいる証拠になる。目の前で助けられなっかた人間の死体を見る経験はあろうとも、このように惨殺された死体を見ることなど滅多にないだろう。
無理もないことだ。
突然、仲間の惨たらしい最期を目の当たりにして、平常心を保てる者などそういまい。むしろ今まで正気を保っていたことが奇跡と言える。
だが、孫悟空にとってそれはどうでもいいことなので無視する。そんな奇跡もここまでだと言わんばかりに、黒衣の男は嘔吐する黒羽の下に歩く。
そして、彼女が着ている黒いフードを捕んだと思いきや、そのまま信じられない程の化物じみた力で遥か彼方まで投げ飛ばした。
黒羽は悲鳴を上げる事すら許されぬまま、凄まじい速度で上空へ上昇せていく。
孫悟空の圧倒的なまでのパワーによって投げ飛ばされたことで、彼女の身体は音速を超えていた。
この速度では普通の人間は助からない。全身の骨が砕け散り、肉片となって四散するだけだ。
だが、彼女は魔法少女なのだ。ソウルジェムさえ無事ならば、肉体がどれだけ破壊されようと再生が可能だ。
しかし、ソウルジェムが無事であろうと、この速度では空気抵抗に耐え切れず、肉体が千切れてしまう。それでも彼女は生きていた。
ただし、全身血塗れになりながらも。
当然であろう。肉体がバラバラになろうとも、魂さえ無事なら問題はない魔法少女の性質を利用して彼は投げたのだ。
上昇は止まらず、高く、より高く、遥か遠くまで。遥か彼方より見下ろした僅かに残った彼女の視界の先には、それを見てしまった。
黒衣の男が――孫悟空が指先から光線を放ち、自分を撃ち抜こうとする光景を。まるで的当てゲームのように狙い撃ちする男の姿を。遥か遠くの彼女の視界はそれは見えない筈だが、魂にはしっかりと焼き付いていた。
自分が死ぬ光景を、走馬灯のように。
その瞬間、黒羽は悟った。
もうどうにもならない事を。自分はこのまま殺されることを。黒羽は、もう生きることを許されない。
だから、黒羽は最後に叫んだ。
大声で、涙を流しながら、必死になって。黒羽は、孫悟空に対して憎悪を込めて叫ぶ。
「お前なんか!お前みたいな奴がいるから!魔法少女は!魔法少女は救われないんだぁぁあああああああああ!!」
良く言えば、魔法少女への想いを込めた叫び。悪く言えば、在り来たりな台詞。
マギウスの翼に所属する魔法少女は、ただの女の子に戻りたいだけなのに。何故、その願いが叶わないのか。
どうして魔法少女が幸せになれないのか。それが理解できなかった。
そんな魔法少女の悲痛な思いは、邪神に届くことはずがなく。彼の放った光に飲み込まれて身体の内側から膨張するように膨れ上がり、そのまま風船が破裂するような音と共にまるで花火のような紅い血を撒き散らし、彼女はこの世から去った。
こうして残りは一人となった。
孫悟空が視線を向けると、彼女は怯えるように後退る。だが、逃げ場などどこにもなく、彼女はすぐに壁にぶつかった。
「く、来るな!化け物!!」
「大した小娘だな、まだそんな口が叩ける精神があるとは。だが身体の方は正直みたいだぞ?神の正義にひれ伏し慄くがいい」
孫悟空は感心したように言うと、黒衣の男はゆっくりと歩き出した。
一歩ずつ、ゆっくり、確実に近づいてくる。
彼女の身体は震えている。
それは、孫悟空に対する恐怖からくるものではなく、これから起こるかもしれない未来を想像してのもの。
もし仮にここで逃げ出したとしても、黒衣の男からは逃れられない。それどころか、逃げた先で待ち構えている他の黒羽達をも皆殺すだろう。
つまり、彼女に残された選択肢は一つしかなかった。
黒羽は覚悟を決める。
命を落とすことになるのは嫌だ。明日を生きるためにマギウス翼に入ったのに、こんなところで死にたくない。でも、ここで抵抗しなければもっと酷い目に遭う。
故に対処の手段は一つのみ。
穢れを貯めてドッペルを発現させ、この男を殺すしかない。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
黒羽は絶叫すると、ソウルジェムが急激に濁りおぞましい色へと変色していく。同時に彼女の周囲に禍々しい泥が溢れ出す。
力の制御などできない。意識も何もかもを力に変えて、文字通り全身全霊の力を使って生み出した、神浜のみ行使できる魔法少女の新たな力だ。
ドッペル。
正式名はドッペル・ウィッチと呼ばれる力。
神浜市で魔法少女がソウルジェムの穢れを溜め込み、限界まで至ると、変身能力と強力な力を得る。だが場合によっては人格が崩壊し暴走する現象であり、魔法少女の力を解放するための証明でもある。そして、魔法少女としての運命から逃れるための最終手段だ。
力の源は、負の感情。
怒りや憎しみ、悲しみといった強い負の意思によって生み出される。
それの度合いが大きければ大きいほど、より強力で凶悪な姿へと変貌する。ただし強い依存性と副作用を持つ麻薬のようなもので、一度使えば全能感に浸り多用してしまい二度と元に戻れないケースもある。また、理性を失い欲望のままに暴れ狂う危険性もある。そうなれば、もう手遅れだ。
だがこの黒羽はある意味で、功を奏していた。
黒衣の男に殺されかけた事で、溜まりに溜まった彼女の中に眠る全ての負の感情が一気に爆発したのだ。
その結果、黒羽は彼女の生涯における最高の純度を誇る凶悪なドッペルを発現した。彼女のソウルジェムから黒き泥が溢れ出し、まるで海のように広がっていく。
禍々しい泥が噴出されこの場に居る仲間の死体を飲み込み、神浜市全域に広がりかねない勢いが孫悟空に襲いかかる。
まさに災害の如く。あの大海に飲み込れたが最期、如何なる存在でも肉体総てが朽ち果てるまで溺れ続けるだろう。まるで生物の消化器官が――胃の中にいる微生物の消化液のように。
だが、
例えどれほど強大な力を持っていようとも。例え世界を滅ぼすほどの怪物であろうとも。魔法少女は魔法少女なのだ。その本質は、少女であることに変わりはない。
故に、孫悟空にとっては脅威ではない。やることは依然として変わらず黒衣の男は、そのまま黒羽に向かって突進する。
泥を浴びながらも、黒衣の男の身体には傷一つ付いていない。まるで液体窒素を浴びたかのように凍てつくだけで、それ以上の効果は見受けられない。
つまり、力の格差がドッペルをも凌駕するほどあるということだ。最早どう足掻こうが、勝ち目などないということ――初めから勝利する道などな無かったのだ。
黒羽の目の前にまで来た時、孫悟空は拳を振り上げ命中する。それは黒羽の身体から噴き出る黒い泥の根源たるソウルジェムに拳が触れた感覚だった。
───────────────────────────
意識が朦朧とする中、黒羽は目が覚める。ドッペルを行使させた影響で、彼女の意識は混濁し、記憶が曖昧になっていた。
ただ、はっきりと覚えているのは、孫悟空と名乗る黒衣の男を殺す為にドッペルを発現させた途端、身体の奥底から湧き出てくる憎悪と殺意。それに突き動かされるように、彼女は全力を出し尽くした事だけだ。
頭がクラクラする、視界が霞む。
今にも倒れそうだ。
それでも、なんとか身体を起こし立ち上がる。ふらつきながら顔を上げると、崩壊したビル群と瓦礫の海が広がっていた。
黒羽は辺りを見回すと、彼女の近くには誰もいなかった。他の皆は、もう居なかった。いや、そもそも自分以外の人間は誰一人として生き残ってはいなかった。その事実を改めて認識して、ようやく彼女は今の状況を呑み込むことができた。
そして、自分の手に握られている物に気付く。
それは、穢れが無くどこまでも純粋な色をしたソウルジェム。そのソウルジェムは綺麗な紫色に染まっており、ドッペルを発現する前の美しい輝きにさえ見えた。黒羽は自分の身体を見下ろす。
どこも怪我をしていないし、汚れてもいない。ただ着ている黒いフードがボロボロなだけだった。
どうして自分は生きているんだろうと不思議に思う。しかし、すぐに思い直す。自分が生きていたのは奇跡でもなんでもなく、きっとドッペルのおかげだろうと。
だから黒羽は感謝した。心の底から。自分を救ってくれたことに。ドッペルシステムを開発したマギウスに。そうでなければ、今頃は黒羽も仲間たちと同じ末路を辿っていただろうから。
抱いた思いは安堵からくるものだった。
良かった。これで自分も再び日常へと戻れると。
もう何も考えなくていい。
辛いことも苦しいこともない。
もう怯えることも、絶望することも、悲観することも無い。
全てが終わったのだと。
お姉ちゃん頑張ったよ、生きていたら抱きしめて欲しかったなぁ。
なのに、何故だろう。
心残りがあるとすれば、どうして背後から誰かの視線を感じるのだろうか。
振り返ると、そこには当たり前のように孫悟空が立っていた。心のどこかでは分かっていたはずだ、あの程度で死ぬ存在ではないと。だがそれを受け入れてしまったら理性が壊れてしまいそうな思考があった。
「どうして……」
黒羽は疑問を口にすると、孫悟空は何も言わず、無言で近寄ってくる。
「どうして……」
再び同じ言葉を繰り返すが孫悟空は答えない。
それは耐えがたい現実。夢ならばどれ程よかったのだろうか。早く醒めて欲しいと願うも、一向に覚めてくれない。
理不尽な存在。規格外の化け物。恐怖が再び湧き上がる。
どう足掻こうが覆しようがない存在の違い。そんな相手が目の前に立っている、だからこそ何故あんなものが魔法少女ではなく、よりによって男の姿なのか理解できなかった。
アリナグレイ。
里見灯花。
柊ねむ。
マギウスの翼を創った三人の少女と出会った時、黒羽は確信した。彼女たちは普通の魔法少女ではないと。
女としての勘で分かった。彼女達は何かしらの秘密を隠し持っていると。
けれど、それを知りたいとは思わなかった。知りたくもなかった。
知ったところで、どうせろくなことにはならないのは目に見えていたから。
圧倒的な存在格差。彼女がマギウスに抱いたのは、羨望でもなく、嫉妬でもなく、諦念だった。
彼女達に着いていけば、あるいは自分を魔女になる運命から解放してくれるかもしれない。そう思ったこともある。それが超越者たる少女達への憧れであり希望でもあったからだ。
だが、今は違う。
目の前に居る孫悟空と比較したら、そんなものは塵だと悟ってしまった。
黒羽には分かる。
目の前にいる存在が、どれほど恐ろしいのか。
黒衣の男が発する威圧感はマギウスと比べものにならないほど、邪悪過ぎる。この男は、この世に存在してはいけない。
この世に存在するあらゆるものを蹂躙し、破滅させる災厄そのものだと、故に──
「どうしてそんなにも私達を殺したいのッ!!」
心からの魂からの叫び声は必然だった。それは少女の吐き出した嘆き。神罰と称しあらゆるモノを蹂躙して何を為そうとしていたのか。その動機が分からない以上、黒羽には孫悟空の事が恐ろしくて堪らなかった。
そしたらようやくそこで黒衣の男は歩みを止めた。
止めたが故、じっと見つめるだけ。まるで、黒羽の心の内を全て見透かすように。そして──
「ほう、そうか。妹が魔女に成ったのだな」
彼の黒い眼光が黒羽を射抜いた。彼女の内心を見抜き、孫悟空は黒羽が歩んで来た物語を瞬時に把握した。
彼女が抱えてきた苦しみや悲しみ、憎しみ、怒り、恨み。その全てを孫悟空は感じ取とる。
「世界を愁いていただろう。この運命に呪われ、キュゥべえに翻弄された人生に絶望し、お前は救われたいと。安寧な日々を過ごしたいと切に願っていただろう。そして妹が目の前で魔女に成り果てたことを後悔し、自分を責め続けている。どうしてあの時助けられ無かったのかと。何故、自分は無力だったのかと──そうだな?」
マギウスの翼がどういう組織なのかを解剖する。ただ蹂躙するだけでは飽きたらず、彼は理解を深めた上で殺すつもりらしい。だから、敢えて一人だけこうして生かしたのだ。
故に黒羽は黙って孫悟空の言葉を聞いている以外の選択肢など無いのも同然。だが否定する気はなかった。彼女の胸中は孫悟空が語った通りだ。
運命は残酷で、所詮物語の脇役でしかない有象無象の黒羽の一人なのだ。そんな黒羽が世界を救う英雄である筈もない。そこら辺の少女が力を得ただけの存在だ。黒羽がいくら頑張ったところで、キュゥべえの思惑を越え、この黒羽の妹が救えるわけがなかった。
例えドッペルシステムの開発が進もうが、ウワサの効率化を図ろうが、最後の最後で表舞台の役者に踏み台にされる。そういう役回りでしかないのが落ちだ。故に必ず失敗してしまう。キラキラとした主役には勝てない。
黒羽達はどんなに努力しても報われることはないのが世界の定め。ネームドの役者によって体のいいサンドバッグにされ、最後には見放され、結果として忘れ去られてしまう。
結局の所、黒羽はただの悲劇を彩る舞台装置に過ぎないのだ。物語がより循環する為に用意された使い捨ての存在が楯突くことなど許されなかった。
どれもこれもが男が存在しない未来での筋書き。
しかし、それが黒羽の生きる道。残酷で悲惨な末路しか用意されていない哀れな黒羽の人生に過ぎない。
貴族と奴隷の関係性。絶対的な支配関係。支配者にとっての家畜でしかない存在は、搾取されることが宿命であり、その運命から逃れることはできない。
どれだけの正義が正しくても、貴族の正しさでは奴隷は決して救われない。
奴隷達の辛さをどれだけ訴えようと貴族の心には届きやしない、鼻で嘲笑われるだけだ。
「安心するがいい、弱者も強者も俺の手によって蹂躙してやろう。世界の美しさの何たるかを知らず、己の正しさを疑わず、自らの行いが正しいと思い込み、他者の救済を偽善で塗り固め、自己満足の為に他者に人間の正義押し付ける蔓延る強者ども──すなわち神浜市内の代表者と称する魔法少女にも裁きの鉄槌を下す。偉大なる神の正義が如何なるものなのか、徹底的に教え込んでやる」
だからこそ、
そもそも、孫悟空は魔法少女の存在を否定している。それどころか、魔法少女を魔法少女として認めていない節さえある。魔法少女が魔法少女であるというだけで悪であり、魔法少女が魔法少女であることを赦さない。
願いを叶え、道理をねじ曲げて、宇宙の秩序を乱さんとするもの。弱者も強者も彼からすれば関係ない。皆等しく魔法少女とは、即ちインキュベーターの傀儡でしかない塵だと断じていた。
そんな理不尽極まりない男によって、黒羽の物語は終わりを迎える。弱者が虐げられるのは世の常とはいえ、ここまで理不尽な最期があるだろうか。
否、弱者も強者も彼からすれば関係ない。
かつて、十二の宇宙で人間ゼロ計画を完遂一歩手前まで行った男にとってすれば、魔法少女は等しく同じ存在でしかなかった。
愚か者が愚か者を殺め、それを正しいと信じ込む。
ならば孫悟空は、そんな者達に正義という名の制裁を与える。
この黒羽にとって孫悟空の言う正義が何かは分からない。けれど、彼が口にする正義がどれだけ身勝手なものかは理解できた。どこまでも自分の都合良く解釈し、他人の事なんて考えていない。
人間は一人では生きては行けないと言うが、黒衣の男は明らかに違う。この男は孤独に苛まれる何て思ってはいない。彼は独りでも生きていけるし、寧ろこの世界を美しくする為に他人が居れば邪魔だと切り捨てるような存在だ。故に彼はこの世界に生きている全ての生き物を自分の都合で蹂躙するつもりだ。
人間も魔法少女もキュゥべえも何もかも。この世に生きとし生けるもの全てを殺し尽くすまで止まらない。
その先に待っているものは、神による蹂躙劇しかない。
「みんなを……殺して何をするの」
最早諦めの境地だった。この男が居る限り、自分が助かる望みはない。
「決まっている。美しい理想郷を作るのだ。平和な世界を実現し、神が住まう楽園を創り上げる。その為にはまず、魔法少女をキュゥべえを皆殺しにする。奴らは醜い害虫だからな。一匹残らず駆除しなければならない」
「…………」
「この世界にあの世の概念はあるかは知らんが、先程殺した黒羽共と同様後を追わせてやろう。そこで妹と仲良く暮らすといい。それでもなお、グリーフシードをキュゥべえに飲ませた場合は知らんがな」
「……ぁっ……」
孫悟空の掌から闇色の光弾が生成される。それはみんなを皆殺しにした気功波と同じモノだった。
「さよならだ」
そう言って、孫悟空は無慈悲に黒羽に別れを告げる。
もう二度と顔を見ることは無いだろう。黒羽は孫悟空が放つ破滅の輝きを見つめながら、死を受け入れようとした。
別れの言葉と共に告げた闇色の破滅が放たれた瞬間、波動と化して空間ごと消し飛ばす程の衝撃波が黒羽を襲う。
迫り来る死の恐怖に黒羽は何を思っていたのだろう。
絶望していたのか、悲観に暮れていたのか、あるいは死にたくないと思っていたのか。
いずれにせよ、この黒羽の物語はここで幕を閉じる。だが、最期に思ったのは──
(あぁ、せめて最後にもう一度だけ──)
妹の顔を見たかったという後悔だった。目の前に居る男に恐怖はせず、黒羽はただ無感情に終焉を受け入れる。死んだらあの世で妹と会えるかもしれない。そんな希望を抱きつつ、ただ黒羽は静かに目を閉じた。
どのENDが見てみたい?
-
滅亡END(全王も円環の理も総て抹殺)
-
ハッピーEND
-
ノーマルEND
-
バッドEND