アヤベさんは恋を知る 作:雨川
「――天体観測に付き合ってほしい?」
俺のオウム返しのような聞き返しに、アドマイヤベガ――俺の担当ウマ娘は控え目に、小さく頷いた。
「URAファイナルズも終わって、出る予定のレースもしばらく無いでしょう? だから、その......明日の夜に。......あなたさえ良ければ、だけれど」
少し自信が無さげにアヤベの目線が下がる。
珍しい、と思ったが――口にするのは無粋な気がしたので、言わない事にする。
折角アヤベの方から『やりたい事』を言ってくれたのだから、トレーナーとして彼女の気持ちを尊重したい。
「良いよ、行こう。俺も前から興味あったし、良い機会だ」
「!」
俺の二つ返事を聞いたアヤベは目を見開き、無意識か彼女のウサギのように大きな耳がピンと立ち上がった。
「...――」
ほんの少し、彼女の口元が柔かに綻んだ。
一秒ほどの僅かな間、嚙みしめるような無言の後、再びアヤベが口を開く。
「......必要な物は私が用意しておくわ。あなたは夕方――そうね。七時になったら寮に迎えに来てちょうだい」
「分かった。俺も準備するものとかあるかな」
「別に構わないわ。......私が、やっておく」
「?」
アヤベの真摯な眼差しが、真っ直ぐに見つめてくる。
けれど、気のせいだろうか。俺が見た彼女の顔には僅かに緊張の色が垣間見えた。
「......じゃあ、また明日」
「あ、ああ。また明日」
パタン、と丁寧に扉が閉じられた部屋で一人、椅子の背もたれに背中を預け天井を見上げる。
ふと、あの日――菊花賞の後。オペラオー達と浜辺で夜明けを迎えたあの日を思い出した。
『妹の自慢のお姉ちゃんになる』
真昼の太陽の下、新たな標を胸に自分の人生を歩み出したアヤベ。
これまで目を逸らし続けてきた自分自身と向き合うようになれた彼女を見守り、二年の時が経っていた。デビュー前に出会った時から数えると、まる四年の付き合いになる。
「ほんと、早いもんだ。アヤベも随分と丸くなって......いや、優しいのは元からか」
出会った当初は誰に対しても壁を作り、必要以上に他者と関わろうとしなかったアヤベだったが、今はナリタトップロードをはじめ多くの友人に囲まれる日々を送っている。本人にその気がなくともそれほど愛されているのは、紛れもなく彼女の人柄が故だろう。
口ではなんだかんだ言いながら面倒見がよくて、困っている人を放っておけない。クールでストイックな、けれど少し天然なところもある彼女のことが、初めから皆大好きだったのだ。
変わったのは、彼女の生き方だけだ。きっと。
「でも――そうか。もう四年かぁ」
改めて彼女と過ごした時間を思い返してみると、本当に成長したなと感慨深くなる。
レース競技者としては勿論、人としても――女性としても。
「......二一歳、か」
クラシック期に高等部を修了したアヤベは現在、学園の大学課程で勉学に励んでいる。世で言うところの、華の大学生という奴だ。
昔に比べて顔つきも大人っぽくなったし、身長も出会った頃より少し伸びた。
華奢でありながらスタイルの良さは変わりなく、むしろ彼女の儚げな美しさは一層磨きがかっている。
トレーナー贔屓と言われればそこまでだが、それほどアヤベは魅力的な女性に成長していた。
学園を卒業し社会に出たら、世の男性はきっと彼女を放っておかないだろう。
――そんな
それも、二人きりで。
「(......俺が今、二七歳だから......六つ差か――)」
ふと、頭にそんな数字が過ぎってしまった。
「――いや、違う。俺にそんな下心なんて無い。断じて無い、無いんだ」
誰に対して言い訳をしているのやら。ひとしきり独り言をいった後、心に虚しい隙間風が差し込んだ。何とも言い難い空気に耐えられず溜息をつく。
長らく女性とそういった付き合いが無いままに
「......そろそろそっちの相手探しも始めた方が良いんだろうか? 成人してるとはいえ、万が一教え子に手を出したなんて事になったら、アヤベのキャリアに傷が......それ以前の問題か」
一度意識してしまうと、頭がその事で一杯になって仕事に集中できなくなってしまった。思春期の男子中高生でもあるまいに、我ながらバ鹿らしい。
時計を見上げると、時刻は午後五時半。
いつもなら早くても六時半に退勤していたが、どうも今日はそんな気になれなかった。
「......今日は早めに切り上げよう。うん」
こんな浮ついた頭ではこなせる仕事もこなせない。
久しぶりにゆっくり風呂にでも浸かって、身心を休めるとしよう。
俺は起動していたノートPCをシャットダウンさせ、茜色のトレーナー室を後にした。
☆
――翌日。
アヤベとの約束通り、俺は寮へ彼女を迎えに来た。
「うーん。ちょっと早かったか?」
スマホで時間を確認すると、時刻はまだ六時半を越えた頃。昨晩からずっとソワソワしっぱなしで、落ち着かないあまり予定より早くトレーナー寮を飛び出してしまった。先走り過ぎたような気がしないでもないが、遅刻するよりはマシとしておこう。
とはいえ、ここで時間を待つのは流石に良くない。夜に成人男性が女子寮の前で呆けて立っていては、不審がられて通報されるのが目に見えている。
俺自身も妙な、デパートで女性の下着売り場に迷い込んでしまったような肩身の狭さを感じていた。
「とはいえ、早めに着いたって連絡するのも急かすようで悪いしな」
その辺を適当に散歩して時間を潰そうか。
そう思って寮の前から立ち去ろうとすると、持っていたスマホからオルゴールの『きらきら星』が流れ出した。いつだったか彼女が鼻歌で唄っていたのを聞いて設定した着信音だ。
確認すると、まさかのアヤベからの着信だった。
「見計らったみたいなタイミングだな......もしもし、アヤベ?」
『トレーナーさん。もう来たのね』
「恥ずかしながら、気が逸りすぎてな。ところで、どうして俺が来たって分かったんだ?」
『部屋の窓から見えたのよ。寮の前で右往左往するトレーナーさんの姿が』
「え!?」
言われてすぐ反射的に寮を見上げるが、当然彼女の姿を見つける事はできない。
『言っておくけれど、どこから見ているか詮索するような真似はやめてちょうだい。プライバシーの侵害だし、なにより私の部屋はカレンさんの部屋でもあるのだから』
「あっ! す、すまないっ!」
スマホの向こうからアヤベの溜息が聞こえる。
また呆れさせてしまった――そう肩を落とすが、その後彼女の「ふふ」と小さく笑う声が、耳元をくすぐった。
すると突然、電話口の向こうから以外な人物の声が聞こえてきた。
『――終わりましたよ、アヤベ先輩』
『......どうもありがとう、シチーさん』
「(ゴールドシチーがアヤベと? なんでまた......)」
以前にアヤベがゴールドシチーのヘッドスパを受けたりするなど、多少交流はあったが、部屋に招き招かれな間柄ではなかった筈だ。前と同じようにカレンチャンが引き合わせたと考える方が自然だろう。
なら、一体なんの為に? そこに考えを巡らせるより早く、スマホの向こうに居るアヤベが再び話しかけてきた。
『――今からそっちに向かうから、待っていて』
「もう準備できたのか?」
『ええ。それに、いつまでも待たせた挙句あなたが通報されては、出かけるどころではないでしょう』
「はは......仰る通りで」
分かっていた事だが、彼女の言葉で聞かされると耳が痛い。堪らず乾いた笑いが漏れる。
『ともかく、すぐに行くわ。それじゃ』
そう言って、俺が返事をする間も無くアヤベは通話を切ってしまった。
......気のせいだろうか。電話口から聞いたアヤベの声はまるで焦っている――というよりは緊張しているような、少し硬い声色のようだった。
昨日の時もいつもと様子が違っていたし、何か思う所があるのかもしれない。
「(悩んで、いるんだろうか)」
ここ数日の彼女を見て、そう言った様子は特に無かった......と、思う。
しかし、俺の見ていないところではどうだろう? 例えば同室のカレンチャンや友人のナリタトップロード達と一緒に居る時は?
もしかしたら彼女達にのみ悩みを相談していた、という話もあり得る。
だったら彼女達に事情を――と、そこまで思い至り、両手で頬を軽く叩く。心配や緊張で考えが纏まらず暴走しだした時、こうすると一旦思考をリセットできる。
「(落ち着け落ち着けっ。そこまで首を突っ込まれるのは、アヤベも嫌がるだろう!)」
例えば自分の親がクラスメイトに「あの子から悩み事を相談されていないか」と勝手に聞き込みをしていたと知ったら、どう思うだろうか。感じ方は人によるだろうが、アヤベはきっと嫌がる。いや、元々他人に詮索されるのを厭うタイプなのだから、確実に嫌がる。
調子が悪かったりトレーニングへの影響も無いのだし、今日だけはおとなしく彼女と過ごす時間を楽しむ事だけに専念しよう。杞憂ならばそれで良し。本当に悩みがあったなら、その時はその時だ。
ともかく自分はいつも通りを徹すればいい。
そうしてほんの二分ほど待っていると、寮の方からトートバッグを下げた誰かが歩いて来るのが見えた。
辺りは暗く、その人が寮の明かりを背にしているのもあって顔はハッキリとしないが、背丈と縦に長い耳のおかげですぐにアヤベだとわかった。
「お、アヤベ! ごめんな、急かしちゃ......て......」
明瞭になった彼女の姿を見て――一瞬、言葉を失った。
「......あ、アヤベその髪、髪型っ!?」
「――別に。シチーさんに整えてもらっただけよ」
目の前に居るアヤベの姿は、俺が普段目にするものとは違っていた。
いつもはシンプルな一つ結びで纏められていたアヤベの長髪。それが今は解き放たれ、綺麗なストレートヘアに......いや、違う。一見すると手が加えられていないように見えるが、よく見ると側頭部の髪の毛が後ろで纏められハーフアップになっている。
服装も――上は馴染みのあるシアンブルーのセーターだが、下には白のフレアスカートが揺らめいている。こう言ってはなんだが、とても垢抜けた印象を受けた。
「見違えたよアヤベ。っ――とても似合ってるぞ!」
衝動のままに飛び出しそうな言葉を、寸前で飲み込む。
いつになく着飾ったアヤベが、ひどく大人びて見えて――思わず、トレーナーと教え子という関係を忘れてしまいそうだった。
「......そう」
言葉少なに返し顔を逸らしたアヤベだが、彼女の長いウマ耳はピコピコと忙しなく動いて、感情を表してくれている。
そして合点もいった。ゴールドシチーがアヤベの部屋にいたのは彼女の髪のセットを手伝うためだったのだろう。ことスタイリングに関して彼女に並ぶ生徒はそうそう居ない。
「......っ、ちょっと。いつまで見ているつもり?」
口を尖らせたアヤベの言葉で、まじまじと彼女の姿を見ていたのを自覚しハッとする。
値踏みするつもりは無いとはいえ、流石に不躾すぎただろうか。
「ごめんっ! 普段と違うアヤベが新鮮なものだから、つい......」
「もう......ほら、行きましょう」
「あ、ああ」
アヤベに促され、夜の道路へ足を踏み出す。
いつも出かけた時は、俺が先を行くアヤベの歩調に合わせていたが、今はアヤベの方が俺に合わせてくれている。そのためだろうか。俺の歩幅に合わせようとするあまり、ゆっくり歩いたり早歩きになったりと、アヤベの歩き方が少しぎこちない。
雑談をして歩きながらそんな彼女を横目に見守っていると、もの言いたげな視線を向けるアヤベと目が合った。
「...なにかしら?」
「......なんでもないよ」
「...なら、ちゃんと前を見て歩いて。よそ見をしてたら危ないでしょうが」
「うん。そうだな」
『無理に合わせなくてもいいぞ』
そう言おうとしたが、やめた。
どういう意図で俺に合わせているかはわからないが、そうしているのは、きっとアヤベの意思だ。アヤベ自身がそうしようと思っての行動なら、俺が口を挟むのは無粋にすぎる。
それにアヤベが――独りではなく、一人であの三年間を走り抜けたあのアドマイヤベガが、他者と歩幅を合わせようとしているのだから。彼女を見守ると決めた以上、邪魔をする理由はどこにもない。
けれど、このまま自分のペースに彼女をつき合わせるのも悪い。ので、歩く間隔を少し緩めることにした。露骨すぎないように、出来る限りさりげなく。
けれど聡い彼女にはすぐに気付かれてしまったようだ。
「っ......ちょっと、あなた。私に合わせる必要は――」
「折角ならゆっくり行こうかなと思って。たまにはいいだろ?」
「......やっぱりおかしな人だわ、あなた」
彼女の何度目かの溜息が静かな夜へ溶けていく。
街灯に照らされた展望台へ続く道。彼女と並んで歩くこの道が少しでも長く続いていてほしい――などと、らしくない事を考えた。
言うべきことはただ一つ
ハーフアップが好きなんです。