戸が開く音と共に、室内に潮風が流れ込んだ。
パブロスはつけていた帳簿から顔を上げ、入ってきた顔なじみに手を振った。
「ああ、いらっしゃい。……あれ、ポーンを宿営地に連れてくって話じゃなかったか?」
「あー、それが。色々あって、私も徴募隊に参加することにしたんだ」
カウンターの向こうに立ったエインセルは、後ろ頭を掻きながらちらりと背後を見やる。
出掛ける前は一人だったはずの無表情の男が、どういう訳か二人に増えていた。身長や顔の造作は違うが、ポーン特有のベタ凪のような面は瓜二つだ。
宿営地に置いてくるという話だったポーンがなぜ増えたのか。
どのような経緯で徴募隊に参加することになったのか。
少し前に見張り台が騒がしかったのと関係があるのか。
パブロスは訊きたいことを飲み込み、代わりに答えやすいだろう質問を投げかけた。
「それ、村長には?」
「これから伝えるところ。あと家の整理もしなくちゃならないから、隊長さんに断って一旦帰ってきたんだ。塩とかハーブとかは全部預けちゃっていい? 使えそうなら使ってもらえたら」
「おいおい。それは構わないけどさ。そもそもあんた、一人暮らし始めてからずっとうちの宿で毎食食べてるじゃないか」
「あはは……まあ、晩酌用に色々と」
笑ってごまかし、エインセルは振り向いた。
「ええと、グッドフェローさんとルークさんは……」
「覚者様。片付けでしたら、私もお手伝いします」
二人組の片割れ、今朝パブロスが見かけたのとは別の男が口を挟んだ。エインセルよりはいくらか年上の、日に焼けていない肌の青年だ。
「えっ、うん。ええと、ならルークさんはここで待っててもらっていいですか。あんまり広い家じゃないから、三人だと逆にはかどらないと思います」
どうにも言いにくそうにしながら、エインセルは慣れない敬語を使っている。こんな辺鄙な村で敬語なんぞを使う機会は司祭様に話しかける時くらいだし、村長からきちんと教わっているエインセルに比べればパブロスはもっと拙いから何も言わないが。
「そういうわけでパブロスさん、ルークさんをここで待たせてもらっていい?」
「あいよ、大丈夫だ」
「私の家は宿の裏手だから、何かあったら呼びに来て下さい。じゃあ、グッドフェローさん」
「はい」
そうして出て行く二人を見送り、パブロスは鼻から深く息をついた。それから一人佇むポーンに声を掛ける。
「あんた、そっちの部屋に椅子があるから、座って待ってなよ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
「それとさ。……エインの奴が覚者って呼ばれてたのは、どういうことなんだ?」
そのつもりはなかったのに、声はどこか潜めたものになった。ルークと呼ばれていたポーンはしかし、凪いだ表情を一切動かすことがない。
「彼女は証を示し、我々ポーンに覚者だと認められました。それ以上のことはありません」
まったく熱を感じられない、淡々とした口調だった。そのまま奥へと引っ込む背中を眺めながら、パブロスはため息混じりにつぶやく。
「覚者、ねえ……」
ポーンは嘘をつかないから、信じがたいが真実なのだろう。
隣の家で暮らしているために、エインセルとの付き合いはまあまあ長い。彼女が一人暮らしを始めてからの数年間、飯の面倒を見る代わりに色々と力仕事を手伝ってもらっている。最近膝と腰が不安になってきたパブロスにとって、男衆と遜色のない腕力を持つエインセルの手助けはありがたいものであった。そんな相手が吟遊詩人の飯の種になるとは、世の中分からないものだ。
――いいや、とパブロスは帳簿の日付を見つめる。あの日を皮切りとして、色々なことが今までとはまるきり変わってしまったのかも知れない。
ドラゴンがカサディスの浜に降り立ってから、今日で三日になる。
エインセルのほかに何人かがドラゴンに立ち向かい、そのほとんどが命を落とした。しかし犠牲者は彼らの他には浜から逃げ遅れた数名だけで、負傷者たちは癒やし手たちの献身的な手当てによって皆快方へ向かっているという。
五十年前の襲撃では南西の城砦が壊滅したというのだから、それと比べれば被害は軽かったと言えるだろう。だからだろうか、何人かの顔なじみたちとはもう笑い合うこともできず、壊れた桟橋や家々もそのままだというのに、息苦しい空気がのしかかるせいで現実感はまだ沸く様子を見せてくれない。
その一方で、エインセルとその周囲は目まぐるしく動いているような気がした。ドラゴンが襲撃してきて、立ち向かって生き残り、彼女の前に戦徒が現れ、そして覚者として認められた。それの意味するところなど一介の宿屋の主人なんぞに理解できるはずもないが、一つだけはっきりと分かることがあった。
「村長は気が気じゃないだろうなぁ……」
パブロスはエインセルの養父のことを思う。男手一つで育ててきた二人の娘の片割れが、いつ終わるとも知れないドラゴンとの戦争に突っ込もうとしている。それに娘たちは一見正反対の性格に見えて、両方とも一度決めたら突っ走る質だ。エインセルはもう一人に比べれば突っ走りながら脇目を振る余裕を持つが、その分脇目を振った先のことまで抱え込むきらいがある。単なる隣人のパブロスでさえ心配なのだ。父親としてはなおさらだろう。
再びため息をついたその時であった。
「――ッウォオオオォオッ!?」
悲鳴。否、雄叫びだろうか。
思わず身を竦めたパブロスを一瞥もせずにルークが宿を飛び出していく。
「覚者様!!」
「え、あ、おい!」
パブロスも慌ててその後を追った。角を曲がった時には、ルークは破るような勢いでエインセルの家の戸を開いたところだった。
「覚者様! どうなさ――ぐあッ!?」
声は途中で
飛び出してきた何かがルークに激突し、目を丸くしたパブロスの目の前でもんどり打ちながら道端に転がる。
「うわぁー!?」
家の中からエインセルの悲鳴――今度は間違いなく悲鳴だった――が響き渡る。
その叫びでパブロスは
「おい、大丈夫か!?」
「私は問題ありません。ですが……」
ルークの隣で地面に突っ伏してうめき声を上げているのは、先ほど片付けの手伝いを申し出ていたポーンの男だ。先ほど家の中から飛んできたのは彼らしい。
「だだだ大丈夫!? ですか!?」
ばたばたと慌てた様子でエインセルも飛び出してくる。
「ごめんなさい、巻き込むつもりは……!」
その間にも、この騒ぎは一体どうしたのかと村人たちがまばらに集まってきていた。パブロスはルークを支えたままエインセルにざっと目を走らせた。
「エイン、いったい何があったんだ?」
「あー、それは……」
エインセルは目を泳がせながら、転がったままのポーンの肩を軽く叩く。起き上がって服の埃を払う男の顔は相変わらずのベタ凪面だが、身動ぎするたびに小さく呻いてみぞおちを
「…………グッドフェローさんが、ダガーを思い切り物入れに振りかぶってて、止めようとして思わず投げた」
投げた。
大の男を。
そもそも何故物入れに武器を向ける。
納得したように頷くルークはともかく、集まった人々の間に呆れたような空気が流れた。村長かキナ呼んでこい、という声も聞こえてくる。あんな大声出して騒いだ分ちょっと叱られとけとはパブロスも思うが、その前に確認したいことがあった。
「……あんたら、なにやってたんだ?」
「部屋の整理……の、はず…………」
エインセルは視線を自室へと向けた。
床には砕けた木っ端が山を作っている。説得力は、ない。
「あんた、怪我とかは大丈夫なのかい?」
「問題ありません。お気遣いなく」
「それならいいんだけど……ほら、顔とか服に土ついてるからこれで拭きなよ」
「すみません。ありがとうございます」
カウンター横の壁に寄りかかっていたルークに絞った手拭いを渡し、パブロスは入口の陰から食卓の様子を窺った。そこには村長の説教から解放されたばかりのエインセルと、その原因を作ったポーンのグッドフェローが相向かいに座っている。
厳しい顔で額を押さえるエインセルのことを、グッドフェローはただただ真剣な眼差しで見つめていた。かばっていたみぞおちは、エインセルが村長からこんこんと諭されている間に復調したらしい。
やがてエインセルは額から手を離した。
「……よし。グッドフェローさん。いいですか」
「はい」
「まず、さっきは突然投げ飛ばしてすみませんでした。まだ痛みますか?」
「気になさらないで下さい。私はポーンです。どのように扱われても何ら問題はありません」
「……ええと……」
とりつく島もないほど静かな語調だった。冒頭から話の流れをぶった切られて、エインセルは言葉を探すように視線をさまよわせる。
「気にするなと言われても、ルークさんのことだって巻き込んでしまったし、それにもっとひどい怪我をさせたかもしれないのに……」
「我々ポーンは、覚者様がリムの側にいればどのような怪我も治ります。覚者様が気に病まれる事はないのです」
答える声に温度はない。相変わらずのベタ凪面で、じっとエインセルを見つめている。
エインセルは一度口を固く引き結び、それからゆっくりと開いた。
「……分かりました。当のあなたが気にしなくていいと言うなら、私もそれに従います。ただ私の方としては、あなたが物入れを壊したことを見過ごすわけにはいきません。どうして木箱を壊したのか、理由を聞かせてもらえますか」
緊張した様子の問いかけに答える声の調子は、先ほどとまったく変わらなかった。
「木箱の中には有用な物品が隠されていることがあり、それらは覚者様のお役に立つ可能性が高いと考えられるからです」
エインセルは眉根を寄せた。目を眇め、こめかみを押さえた。
「……理由は、私のため?」
「はい」
「虫がいたとか、むしゃくしゃしていたとか、そういうことではなく?」
「はい」
こめかみを押さえたまま深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。それを何度か繰り返して、ようやくエインセルは姿勢を戻した。
「……木箱の中には有用なものが入ってることがある。確かにそうです。だがそれを入れた人間がいる、という認識が欠けていませんか。私の家に置いてある物入れを使ってるのはもちろん私です。それを壊されるのはたまったものではないし、他人のものを勝手に持ってくのは泥棒になります」
グッドフェローは考え込むように目を伏せた。やがて顔を上げ、まっすぐにエインセルを見つめる。
「元々覚者様のものなら、問題ないのでは?」
「大ありだから叱ってんだろがよお前はよ」
若い女の喉から出ているとは思えないドスの効いた声だった。気を取り直すように、エインセルは咳払いを一つする。
「失礼しました。入っていたものもそうですが、木箱自体にも価値があります。しばらく帰ってこれないから、日用品を整理してあの中に入れて、埃が被らないようにしておくつもりだったんです。それを壊されるととても困ります。それはいいですか?」
「はい」
「それに今回は私のものだったからまだ良かったものの、もし他人の家で同じようなことをした場合、泥棒扱いで最悪兵士に突き出されます。そうでなくとも壊したものの弁償は免れないでしょう」
「はい」
「グッドフェローさんの動機が私のため、ということはこちらも理解しました。野山に捨て置かれているような木箱なら、咎めてくる相手もいないでしょう。ですが街中では得られる利より損の方が大きくなります。今後は控えて欲しいのですが、納得してもらえますか?」
「了解しました。そのようにします」
グッドフェローは眉一つ動かさず、真面目くさった顔でただ頷いている。彼が果たして反省しているのかいないのか、パブロスには全く判別がつかなかった。
短い沈黙の後、エインセルは深く息をつきながら肩の力を抜いた。
「……理解してくれたのであれば、それで結構です。私は片付けに戻るので、ここで待ってて下さい」
「片付けなら私も――」
「ここで、待ってて、下さい」
グッドフェローの言葉を強い口調で遮り、エインセルは席を立った。振り向こうともしないその背中に、グッドフェローは淡々と返事をする。
「分かりました」
そうして席に座ったまま微動だにしない。パブロスはカウンターの内側に戻ると、肘をついて鼻から深くため息をついた。
何を考えているのか分からない。ポーンを語る時によく出てくる言葉だ。戦徒や異界渡りと呼ばれる彼らは、感情が希薄で人間のような欲がないという。なまじっか人間と変わらぬなりをしているせいで、その差異はどうにも薄気味悪く思えるのだ、と誰かが言っていたのを覚えている。
先の二人のやり取りはまさにその通りだ。パブロスは無意識に二の腕をさすっていた。
物入れを壊したことと、止めるためとはいえぶん投げたこと。エインセルはルークを巻き込んでしまった分を自分の過失に足した上で話をつけようとしたようだ。だがグッドフェローはそもそもどちらも過失とすら思っていなかったようだ。自分がしでかしたことも、自分がされたことも。
人間であればものを壊せば気まずく思うだろう。故意に他人の持ち物を壊そうというなら、大抵の場合は相手への害意があるものだろう。そしていくらなんでも担いで投げられれば、怒り出すなり逃げ出すなりするだろう。グッドフェローはそのどれでもない。エインセルの役に立とうとして彼女の私物を壊し、仕打ちにも一切の不満を言わない。
パブロスは宿を出て行くエインセルの横顔が強張っていたことを思い出す。長年の付き合いの中で、同じ表情を見たのは片手で数えられるくらいだ。そのどれも、彼女の養父や義姉が怪我や病を得た時だったと記憶している。
あれは怒りではない。強い不安に苛まれている時の顔だ。
「……大丈夫なのかねえ」
エインセルと、グッドフェロー。
パブロスには、二人の相性が良いようには全く思えなかった。
ため息をまたひとつついて帳簿に目を落とす。その時、頭上から影が差した。顔を上げればそこにいたのはポーンの片割れだ。
「パブロス様。ありがとうございました」
「ん? ああ……」
ルークは畳んだ手ぬぐいをカウンターに置き、食卓の方を一瞥した。
「彼らなら心配はいらないでしょう」
「いやぁ、僕にはとてもそうは思えないけど……」
あれを見て心配いらないとはとても言えない。しかしルークは表情と語気を一切変えずに淡々と言葉を続けた。
「彼はリムから引き出されて間もない。人との接し方も最低限しか知りません。そして覚者様……エインセル様も、我々ポーンについては何も知らないと仰られていました。我々と人との違いに戸惑われるのも無理はないでしょう」
ですが、と付け足す凪いだ表情の中で、静かな瞳が閃くように光った。
「エインセル様であれば、たとえ問題があっても乗り越えていけると私は考えています。短い間ではありますが、あの方の人となりは見せていただきましたから」
ルークはそう言うものの、パブロスとしては半信半疑である。
その後、エインセルが宿に戻ってきたのは夕方の遅い時間だった。部屋の片付けを終えた後、いろいろと村人たちからの頼まれ事をこなしていたという。
その間、グッドフェローは席に座り続けていた。気まずい空気の中で夕食を取り、エインセルに二階の寝台で眠るよう促されるまで、ずっと。
距離を開けたまま階段を昇っていく二人を見送り、大丈夫かね、とパブロスは帳簿を閉じながら何度目かのため息をついた。