2024/3/22:修正
2024/11/16:修正
眠れない。
エインセルは閉じていたまぶたを開いて息をついた。頭の方向がいつもと違うからか、はたまた普段寝ている場所ではないからか、つむじのあたりで奇妙な感覚がわだかまっているような気がした。
自宅の寝台の藁も片付けたため、エインセルはパブロスの宿に泊まっている。守備兵のローへのいびきはなかなかにうるさいが、それで眠れなくなるような繊細な神経はしていない。
寝付けない原因が何かなんて、そんなのは分かっている。
寝返りを打った先には、木枠に布をかぶせただけの即席の衝立が置かれている。隔てられた隣の寝台には、今日出会ったばかりの男が寝ているはずだ。
説教なんてして、あれは本当に正しかったのだろうか。
養父が自分を叱る時のように接しようとして、手酷く失敗した。エインセルは昼間のことをそう捉えている。
物入れを壊されたことは、ショックではあるがそれだけだ。片付けは新しい木箱を譲り受けて済ませた。くよくよしてても状況は変わらないし、その暇があるならさっさとするべきことを済ませたい。だから問題はそこではない。
諭しても、咎めても、声を荒げてしまった時さえも、一切の揺らぎなくこちらを頑なに見つめてくる、あの瞳。
本当に自分が伝えたいことは届いているのだろうか。謝罪も説教も、覚者だからという理由ですべてを肯定しているのではないか。あの瞳を見ていると、そんな疑念が沸き上がって晴れてくれない。
感情が希薄だといっても、何も感じていないということはないだろう。それはグッドフェローではなく、ルークと行動を共にしての実感だった。
ルークはベニータからの頼まれ事を手伝ってくれた。悪いがこちらの用事が終わるまで宿営地に行くのは待ってて欲しいと伝えたら、彼にとっては何の益もないだろうに助力を申し出てくれたのだ。それに薬の材料が揃った時はひと安心しているように見えた。彼はグッドフェローに比べ、立ち振る舞いがどこか柔軟に思える。融通が利くと言うべきなのだろうか。一見すると同じように見えるものの、彼らなりの個性は存在しているようだ。
だがそれでも、目を閉じた時に浮かぶのはあの温度のない瞳だ。
この人にとって、ポーンの人たちにとって、覚者という立場であれば誰でも同じなのだろうか。仮に私の代わりにコルテスやリカルドが生き残って心臓を奪われていたなら、あいつらも同じように扱われたのだろうか。
あの時、エインセルとコルテスの生死を分けたのは何だったのだろうか。エインセルがエルバーたちを庇って命を落とすことも、コルテスが剣を手にドラゴンを引きつけようとすることも充分に有り得ただろうに。
そしてコルテスが心臓を奪われたなら、宿営地に連れられて覚者と認められただろう。
その様子はありありと想像できた。コルテスに頭を垂れるポーンたちの姿も。コルテスはいい兄貴分で、いい漁夫だった。きっと自分よりもうまくやっていたはずだ。ルークとも、それから今隣で寝ているはずの男とも。
どうして覚者という立場に収まったのが自分なのか。その理由をエインセルは知らない。
ポーンの人たちよりも前に、私を覚者と呼んだのは……――
「……、……はぁ」
ぐちゃぐちゃとまとまらない思考を一度意識の外へぶん投げて、エインセルは寝台から起き上がった。髪もまとめず素足のまま床に降り、音を立てずに部屋の出口に向かう。数歩も歩かないうちに、背後からいびきに紛れて衣擦れと寝台が軋む音が聞こえてきた。
「覚者様。どうかなさいましたか?」
振り返った先、寝台の上で体を起こしたグッドフェローの声は平時と変わらない大きさだった。普段なら静かだが、夜に話すにはやや大きい。エインセルは人差し指を口に当ててしっと息を漏らしてから、これが果たして彼に通じるのかと疑問に思う。
「ああと、起こしてごめん。眠れないから散歩に行ってくるだけ。気にしないでいい」
「なら、お供します」
今度はグッドフェローも声を潜めた。エインセルの真似をしたのか、静かにするようにとの手振りが伝わったのか。そんなことすら、判別がつかない。
彼のことを何も知らない。そう、痛感する。
「村から出るわけじゃないから、別に……」
思い直して言葉を切る。
たとえ聞きにくいことであっても、知らないのなら直接彼に訊いて疑念を晴らした方がずっといい。
「いや、興味があるならついてきなよ。体が冷えるから、上になにか羽織った方がいい」
「しかし、覚者様の分がありません。あなたが風邪をひいてしまう」
生真面目な顔で渡しておいたクロークを差し出してくるグッドフェローに向けて、エインセルは首を小さく振った。
「頭を冷やしたい気分なんだ。それに夜の散歩には慣れてるからいらないよ」
半分に欠けた月は、ようやく東の端に浮かび始めたところだった。
穏やかに打ち寄せる波の泡が、緩やかな紋様を描く砂が、月の光を受け止めて淡い白に輝いている。青く落ちた影を踏みながら、エインセルは冷えた風の中を歩いていく。
聞こえるのは波と風の音。そして重さの違う二人分の足音だけだ。
後ろを歩くグッドフェローが、さざなみに紛れるようにつぶやいた。
「……静か、ですね」
「そうだね。みんな寝てる。起きてるのは私たちだけだ」
そんな会話すら、静寂を破るには至らない。
村のすべてが眠りについていている中で、自分だけが起きている。この時間がエインセルは好きだった。このひとときだけは、自分を縛るものは何もない。
カサディスの皆が与えてくれる暖かなしがらみは、何にも代え難い大切な宝物だ。みなしごの赤ん坊など見捨てても誰も何も言わないだろうに、養父のアダロは男手ひとつでここまで育ててくれた。アダロだけではない。ベニータも、イオーラも、ローリックも、それからメリンとマイラ、エルバーとアレッタも、今は御許に旅立ってしまったキナの両親も、ほかの皆も。当たり前だと笑いながらいつだって助けてくれた。だからエインセルも同じように皆を助けてきたし、そんなの当たり前だと信じて疑っていない。
だが。たまにどうしようもなく、何もかもから抜け出して独りになりたくなる。
足に絡む砂を蹴りながら、そっと後ろを窺った。グッドフェローは浜に打ち寄せる波を目で追いかけているらしく、視線と共に顔が上下に揺れている。物心ついてない子供のようなことを真面目くさった顔でやっているものだから、何だか拍子抜けしてしまった。
何も考えてないならいっそ楽なのに。
中途半端に小賢しいから、いつも無駄に悩む羽目になるんだと分かっているのに。
それは誰を貶しているのだろう。自問自答したところで、分かりきった答えしか返ってこない。
風に翻る髪を押さえて歩みを進める。少し間を置いて、背後で立ち止まっていた足音が小走りについてきた。
浜辺の奥にある岩のアーチをくぐり、小さな入り江へと足を踏み入れる。浜の奥にひっそりと置き去りにされた木箱に腰掛け、隣を叩いてグッドフェローを呼ぶと、彼は少し距離を空けて腰を下ろした。
見上げた先には岩壁に切り取られた暗い夜空があった。その中でぽつぽつと、飛び石のような星が揺らぎまたたいている。さざ波の音が満たす静寂に少しばかり耳を済ませてから、エインセルは隣に座る男の顔を見た。
「とりあえず、話を聞いてもらっていいかな」
「分かりました」
グッドフェローはクロークの前を掻き合わせながら頷いた。
「ルークさんもグッドフェローさんも、私を覚者様なんて呼ぶけど。私はここで育った根っからの平民で、様とか付けられるような立場になったことは一度もない。覚者がどうのこうのってこともいまいち実感がないし、グッドフェローさんたちが従ってくれる理由も理解できてない。そもそも戦徒なんてこんな辺鄙な田舎に来る人たちじゃないから、直接話したのはルークさんが初めてだ」
宿の裏手にあるリムにしても、その役割を知る前はなんか変な岩があるとしか思っていなかった。ポーンの民とはそれくらい縁遠いものだったのだ。
そんな相手が突然現れて、その上自分に従うという。ドラゴンの襲撃からこちら、山のようなあれこれが押し寄せてきてただでさえ手いっぱいどころか取りこぼしそうなのに、初対面の相手のことまで抱えていられない。そんな風に思ったところで、当のグッドフェローはヒヨコの如くエインセルの後ろをついて回りたがるのだが。
「なんというか……ずっと足元がおぼついていない気がするんだ。ドラゴンに立ち向かったのも、サイクロプスを討ち倒したのも、確かにそのつもりで挑んだはずなのに。今までの日常と全然違いすぎて、本当に自分でやったのか実感が湧かない。なんだかさ、岸から沖へ向かう強い潮の流れに、知らないうちに捕まったような気分なんだ」
ポーンの民もその流れの一つである。
エインセルが宿営地に向かったきっかけは、ポーンの民が現れたことだ。彼は主体的に宿営地に向かい、ただの付き添いだったはずのエインセルをリムの前へと誘導した。それが自身に課せられた役目だとでもいうかのように。
そしてリムから聞こえた声はあなたを待っていた、と言っていた。エインセルが覚者だという確信を得ていたかのように、その証を示せ、と。
引っかかりを覚えたのはその時だった。
「でも。これからはそのままじゃ駄目だとも思ってる。流されるままでは、きっと野垂れ死ぬだけだ」
鼓動なき胸を押さえる。リムの声の主より前に、エインセルを覚者と呼んだ者はひとりしかいない。胸の空洞に響くように聞こえた声が誰のものか、はっきりとした確信があった。
――我が眷属は、牙なき者の声は聞かぬ。
武器を取れと促され、しかしそれよりも村の様子が心配になって外に出ようとした時に聞こえた窘めるような言葉。眷属とは何を――
――“弛まぬ向上心”こそ、我らを繋ぐ絆。どうかお示し下さい。
リムの声はエインセルに戦うことを望んだ。証を示す以前から、ルーク以外のポーンたちは今は契約かなわないとだけ言った。戦えることを、牙があることを示したその時から、ポーンたちは恭順の意を明らかにした。
いったい自分は何に巻き込まれたというのだ。
ドラゴンが教会が言うとおりの邪悪なら、なぜ覚者に武器を取るよう促し、自らの元へ来いと語りかける。
そしてなんの根拠があって、ポーンの民はエインセルに向けて覚者の証を示せと言った。ドラゴンの他は誰もそうとは認識せず、当の本人にさえその自覚が一切なかったというのに。
櫂を失った小舟で沖を漂っているかのような不安が消えてくれない。同時に、冷静であらねばならないという直感もまた、肩にのしかかっていた。
「何を考えてるのかは分からないが、ドラゴンは確かに私を呼んでいる。あいつの元に辿り着くためにも、私はもっと戦い方を知らないといけない。ポーンの人たちが力を貸してくれるというなら、共に戦ってくれるあなたたちのことをもっと知らないといけないんだ。あなたたちを信頼して背中を預けるために」
ドラゴンは無傷でやり過ごせるような存在ではないことは、相対したからこそ身に染みて理解している。加えて魔物どもが活性化し始めた現状、くよくよしていても状況は悪くなる一方だろう。そんな暇があるなら、自ら突っ込んで道を切り開いていく方がよっぽどマシだ。
それを強い意志と勇気と呼ぶのかは知らない。だがどのような理由であれ、手を貸してくれるとの申し出はありがたく受け取るつもりだった。
だからこそ、ポーンの民の真意を知らなければいけない。
「グッドフェローさん。あなたに訊きたいことがあるんだが、いいか」
「何でしょうか」
見つめた先で、温度のない凪いだ瞳がじっと見返してくる。揺らぎない視線を受け止め、エインセルは覚悟を決めた。
ポーンの民の裏切りは心配していない。何せ領王エドマンという頼もしい先達がいるのだ。
同時に、疑心を抱いたままで相手に命を預けられるほど、自暴自棄にもなってはいない。
ポーンの民は何を望んでいるのか。何のために覚者に従うのか。――ドラゴンとどのような関係にあるのか。
この場で答えが提示されることはないだろう。それでも、今は少しでも手がかりが欲しかった。
「グッドフェローさんは、どんな理由があって私を覚者だと思う? 宿営地に着く前からそう呼んでくる奴はいた。リムから語りかけてきた声も、宿営地にいた他のポーンたちも、証を示す前から私がそうだとの確信は得ていたようだった。だけど私にはその理由が、なにを以て覚者と判断したのかが分からない。根拠はなんだ?」
グッドフェローは数度まばたきを繰り返した。考え込むように目を伏せ、やがて小首を傾げてエインセルを見た。
「根拠はないのですが、疑いようもないほどに強い確信があるのです。あなたは覚者であり、あなたと運命を共にする事こそが私の使命であると」
「それはポーンとしての本能のようなものか?」
「本能……そうですね。我々ポーンには人のような生老病死とそれにまつわる欲求はありませんが、この身に刻まれた使命はポーンにとっての本能なのかも知れません」
「かといって人間の欲求と違い、覚者に従うことはポーンの生きたり増えたりだのには一切関わらないはずだ。……その使命をグッドフェローさんに与えたのは誰だ?」
「……誰、か……」
グッドフェローは目蓋を微かに震わせた。また視線を自身の手元に落とす。しばらくの沈黙を経たのちに吐き出された声は、どこか力をなくしていた。
「……特定の存在から与えられたものではない、とは、思います。私は私という意識を得た時点で、そうすべきだと考えていました。ですが、何故そう考えたのか、私はその理由を疑ったことがありません」
そう言って、グッドフェローは頭を下げた。
「曖昧にしかお答えできず、申し訳ありません」
「いや、確認したいことについてはだいたい分かったよ。ありがとう。悪かったな、答えづらい質問ばかりで」
あくまで反応を見るための問いかけだから、はっきりとした答えが返ってこないことは想定の範囲内である。
即答はしなかった。それに演技ができるほど器用だとは思えない。仮に自覚がある上で事実を隠しているのだとしても、当面は彼らが裏切らないという事実に重きを置くよりないだろう。ドラゴンの元へ向かうという目的は一致しているのだから。
エインセルが静かに見つめる先で、グッドフェローは俯いたまま小さく
「……もしかしたら。確証は何もないのですが……私が覚者様に仕えたいと思うのは……眩しい、から、かも知れません」
「眩しい?」
「はい。この表現が適切かは分かりませんし、使命を与えたのは誰かという問いの答えではありませんが……」
話しながら考えをまとめているのだろう。今までよりずっと頼りない声で、訥々と言葉を連ねていく。
「私は、私一人では何をすればいいのか、何も分かりません。あなたの……いいえ、覚者様のため、という動機がなければ、何もできません。我々ポーンには老いも死もなく、存在し続けるために何かしらの活動を行う必要はない。なのに私はここにいて、覚者様のお役に立つという使命を除外してしまうと、何も、本当に何一つ、目的も、したいこともなくて……恐らくこれが不安という感情なのだと思います。でもその、ぼんやりとした感情を解消したいとは特に思えない。自分自身を、行動の動機にできません」
聞きながら、エインセルは昼間に養父が言っていたことを思い出していた。ポーンたちは感情や意思が希薄で、人間が導いてやることで目的を持って行動できるのだという。あの場では、他人から指示されないと動き出さないような奴は人間にもいるだろう、という程度にしか考えていなかったし、当のポーンであるルークも主体的に宿営地を目指していたから大して気にしていなかった。
だが、と、隣に座るグッドフェローの横顔を見つめた。
生きる意志すら示さない彼らから覚者に従うという使命を抜き取った時、一体何が残るのだろう。自信がなさそうに俯くこの男に、何かが残るというのだろうか。
「ですが、覚者様は我々ポーンとは違う。覚者は立ち向かって戦うことができる。何をしたいのか、何をすべきなのか、選び取ることができる。だから、私にはない、確かな意志を示すことのできる覚者様に……焦がれている、のだと、思います。それはこの身に刻まれた使命と合致するから、体を動かす原動力になる。世界に根を張れず漂うしかない我々にとって、覚者が前に進もうと示す意志は一筋の光のように感じられる」
グッドフェローは顔を上げてエインセルを見つめた。その瞳に揺らぎはない。ひとかけらの不安も見いだせはしなかった。
苦々しい気持ちで見つめ返す。出会ってまだ一日も経っていない中で、彼の前で意志を示したことなど一度もないはずだ。
「仮に私が、あなたを手酷く扱い辱めるような輩だとしても?」
「それは使命にとって関係ありません。覚者様の意向に従うことができればそれで良いのですから。手酷く扱われても、そしてそのまま漂泊の世界に戻り、二度と呼び出されることがなかったとしても。それが覚者となった方の望みであるなら従うだけです」
「使命を抜きにした場合、グッドフェローさん自身はそのことをどう思っている?」
「……判断がつきかねます。誤解を恐れず言うなら、私は私のことをどうでもいいと思っています。人とは違う、死のないこの身がどのように扱われようが、大した問題ではないのです」
「そう」
エインセルはグッドフェローから視線を外し、波打ち際をぼんやりと眺めた。
彼らポーンに使命以外の衝動がないのであれば、そしてリムの声が言っていた「弛まぬ向上心こそが絆」が真なら、エインセルが前進を諦め戦いを放棄すればポーンたちは覚者にあらずと見切りをつけて離れていくだろう。それが分かれは充分だった。
結局、覚者という立場にあるなら誰でもいいのだ。品行方正な騎士でも、ごろつき崩れでも、辺境の漁村の漁夫でも、彼らポーンにとって違いはない。どんな性根を持っていようが、覚者の為すことならポーンはすべて受け入れる。覚者が向上心を捨てて安寧を選ばない限りは。
同じように、グッドフェローの信頼は覚者という立場に向けてのもので、エインセルの人となりを見てのものではない。当たり前だ。グッドフェロー個人に信用してもらえるようなことをした覚えは何一つないのだから。
薄々分かっていたはずだ。それでも落胆を覚えるのは――
「ですが、あなたがどのような方かも知らずにそんなことを言うのは、覚者という立場の誰かであれば良くて、あなた自身については何も知ろうとしていないということでもあるのでしょうね」
ぽつりと付け足された言葉に、空っぽの胸の内が軋んだような気がした。
勝手な期待を抱いて勝手に幻滅しようとしていたことへの罪悪感と、彼が自覚していたことへの安堵。顔を上げると凪いだ瞳がエインセルのことをじっと見ていた。
「……そう、思ってくれるの」
「はい。ただ、だからといってどうすればいいのか、私には分からないのです。あなたに倣って質問をすればいいのだろう、ということは分かるのですが、具体的にどのような質問をすればいいのか、私はそのための知識を持っていません」
「どんな質問なんて、そんなこと……」
答えようとして、言葉に詰まる。どんな質問に答えれば、自分のことを知ってもらえたと納得できるのだろう。
「……ごめんね。私もよく分からない」
「そうですか」
何も読み取れない凪いだ顔から目を逸らした。
切り込んだ収穫はあった。ポーンの民がどういった思考で行動しているのかを聞き出せたのは大きい。
だが、それで互いの間にある溝が埋まったとはとても言えなかった。
今更になって慚愧の念が湧き出してくる。こんな相手の領分に踏み込むような質問ばかりして、まさに手酷く扱い辱めているようなものじゃないか。
「その、変なことばかり聞いて本当にごめんなさい」
「どうか気になさらないでください」
答える声は静かだ。彼の不安を呼び起こしてしまったのに、それに対して気分を害した様子はない。
グッドフェローのことを何も考えずに一方的に問い詰めたことを謝って、それから今後の付き合い方を模索したかった。でも謝罪してもグッドフェローは許してくれない。彼にとって覚者の行動はすべて受け入れるものだから、許す以前の問題だ。
もう少し穏便な出会い方であれば、もっと穏やかに交流できただろうか。
それがひどく残念だった。
信頼を築くにはあまりに急で、しかし信用を得る努力は必要ない。こんな歪にならざるを得ない関係を、先人たちはどう乗り越えたのだろう。それとも、そういうものだと割り切って、そのまま進み続けたのだろうか。
冷えた風が互いの間をすり抜けていった。風の音が止み、潮騒のしじまの中でグッドフェローはぽつりと呟いた。
「……私は、私のことはどうでもいいと思っているはずなのに、その私のことであなたに負担をかけてばかりですね」
「そんなことないよ。気にしないで。私だってグッドフェローさんが本来考えなくてもいいような問いかけをして悩ませた」
「いいえ。今だけでなく、昼間のこともそうです。あなたの役に立ちたいと勝手な行動を取り、結果としてあなたの手を煩わせてしまいました。自我を得て間もないことは言い訳にもなりません。迷惑ばかり掛けてしまっています」
「……ちょっと、待って。自我を得て間もないってどういう……」
単語の意味は拾えても、文章の意味が分からない。グッドフェローは小首を傾げてエインセルを見た。
「私はあなたの意志によって、漂泊の世界からリムを通じ、明確な意識と形を得た状態でこの世界に引き出されました。戦徒として最低限必要な知識や常識は備えていますが、経験の蓄積はほとんどありません」
グッドフェローの発言を、頭の中で咀嚼する。自我を得て間もない。経験の蓄積はない。それを自分に理解しやすい言葉に直すと。
「つまり……グッドフェローさんは、ポーンの赤ちゃんってこと?」
「自立した生存をはじめたばかりという意味であれば、そうです。我々には人のような肉体の成長や老化はありませんが」
「……えっと、でも、そうか。そうだよね。寿命による死はないって言ってたもんね。寿命がないんだから歳を取らないってことで、その見た目で、私が呼び出したってことはまだ生まれて一日経ってない、ってことだから……」
しどろもどろに言いながら、グッドフェローとルークの立ち振る舞いに差違があった理由を悟る。ルークの方が柔軟に思えたのはグッドフェローより経験を積んでいるからだったのだろう。
グッドフェローは上げていた視線をまた伏せた。
「……私はこれからも、経験の欠如のせいで覚者様にご迷惑をお掛けすることがあるかも知れません。極力独断専行は避けますが……」
表情は変わらずとも顔は俯き、声ははっきりと力ない。今日の夕方、似た様子の相手を見た記憶がある。司祭様の教典を興味本位で持ち出してなくしてしまったルイスが浮かない顔で同じような挙動をしていた。教典を探してやって、臆病なことを言うルイスを諭して、一緒に司祭様に返して謝って、持ち出した理由を伝えて、司祭様は教典の内容を教えてくれると約束してくれて、それでようやく晴れた顔だ。
理解できない違和感が、すとんと腑に落ちた。そんな感覚があった。
人の子供とはまるで違えど、彼の精神は幼子のように柔らかい。
今、グッドフェローは表面に現れるほどの、とても苦々しい気持ちに苛まれているのだろう。相手のためを思っての行動が、当の相手を怒らせた。そしてその気持ちをどのように消化すればいいのかが分からないのだろう。
見た目はエインセルよりも年上で、ともすればふてぶてしいと感じるほどの無表情さだ。それはポーンである以上に、生まれたばかりで自分自身の感情との付き合い方を知らないがゆえに思えた。使命にひたすら忠実であろうとするのも、何もかも経験したことのない中で、唯一はっきりとした指針だからだとしたら。
そんな相手に詰問して、萎縮させるなんて、自分は何をやっているのか。エインセルは奥歯を噛み締めた。
謝るだけではグッドフェローの不安は晴らせない。彼は自分自身に価値を見いだせていないから、傷つけられたことより縋る相手に謝られたことを気に病んでいる。
なら、自分にできることは。
忸怩たる思いを顔に出ないよう飲み込み、俯いた頭に手を伸ばして村のちび共にやるようにくしゃくしゃと撫でる。髪は細い猫っ毛で、その柔らかさもまるで子供のようだった。
「……覚者様?」
さすがに驚いた様子で、グッドフェローはきょとんとしてエインセルを見た。凪いだ瞳の奥を見つめて、伝えたい言葉を噛みしめながら声に載せていく。
「気にしすぎることじゃない。理由は私のためだったんだよね」
「はい。ですが……」
「やったことはああいう結果になったけど、その気持ちは嬉しいものだよ。それに今回のことで何が悪かったのか、グッドフェローさんはちゃんと考えて受け入れてくれた。また同じことを繰り返したりしないって約束してくれた。それでいいんだよ。それだけでいい」
養父のアダロならそう諭すだろう。幾度となく叱ってくれて、落ち込んでいる時は頭を撫でて、どうすればいいのか一緒に考えてくれた。鬱陶しく思った時期もあったが、今のエインセルがあるのはあの人が育ててくれたお陰だ。同じようにしてやりたかった。
互いの間に溝があって、相手はその状態でも気にしないなら、自分から歩み寄る。やる前にくよくよするのではなく、まず自分にできることを考えてみる。エインセルにそう教えてくれたのも養父だった。
「グッドフェローさんが私を助けてくれた時はお礼を言うし、逆に困るようなことだったらきちんと理由を言う。取り返しのつかないことやあまりに度が過ぎているようなら、今日みたいに怒る時もあるとは思う。でもグッドフェローさんが誰かを困らせたいなんて思わないことは、今日だけでちゃんと分かった。だから大丈夫だよ」
生まれたばかりというなら、知らないことだらけで当たり前なのだ。それを悪いことだなんて思ってほしくないし、そう思わせるような行動は取ってはならないと思う。そして思わせてしまった以上は、悪くないから大丈夫だと伝え続けることが責任だとも。
「それにさ。私は遠出したことがないから、旅の知識はほとんどない。必要な知識は持ってるっていうグッドフェローさんの判断の方が絶対的確だよ。だからその時は教えて欲しい。これからしばらくは一緒に行動することになるんだから」
「一緒に……いいのですか?」
「うん。あなたが私を手助けしたいって思ってくれてることは、信じてもいいんでしょう?」
疑念自体は晴れていない。ドラゴンと再び相まみえる時まで答えが出ることはないだろう。ポーンの民の真意がどこにあるのか、その判断を下すには情報が足りなすぎた。
それでも、今こうして隣に迷子のような顔をしている奴がいるのに、放っておくなんてできない。
「リムの声の人も、弛まぬ向上心こそが絆、って言ってたしね。明日宿営地に着いたら、バーンさんに訓練をつけてもらおう」
エインセルは彼の頭から手を離し、安心させるための笑顔を作ってみせる。その先で、グッドフェローは引き結んでいた口をゆっくりと開いた。
「……覚者様。私は未熟です。それでもあなたのお役に立てるようになりたい。それは使命だからでもありますが、それだけではなくて……」
凪いだ表情の中で、温度のない瞳が揺れた。
「……どのような言葉に直せば、所感を適切に表せるのかが分かりません。ですが、そう思ったのです」
「うん。いつか、ぴったりの言葉を見つけた時は教えてね」
「はい。必ず」
感情が希薄だからといってまるきり感じていないわけではないのだ。きっといつか、彼自身が答えを見つけるだろう。
エインセルは木箱から腰を上げた。今日はとりあえず、寝て英気を養った方がいい。
「今晩は付き合ってくれてありがとう。宿に戻ろうか」
「はい」
差し出した手をグッドフェローはしっかりと握る。冷えた風が流れていく中で、手のひらに伝わる温かさは確かなものだった。
袖を鼻に近づける。嗅がずとも漂ってくる濃い水と血の臭いに、エインセルはげんなりした。
今は使われていない古井戸の底から何らかの唸り声が聞こえた、との話を守備兵のポールから聞き、てこでも動こうとしない彼の代わりに様子を見に行った結果である。リザードマンの群れとの大立ち回りで濡れた服はとりあえず乾かしたが、染み付いてしまった臭いは取れない。
「……これで宿営地に行ったら文句言われるかな」
「気になるなら水浴びしてく?」
「うーん、服の方に臭いがついちゃってるからいいや。旅装になりそうなのはこれくらいしか持ってないし。事情を話してみる」
そんなやり取りをして、エインセルは見送りに来た養父と義姉に向かい合った。
ほかの村人たちには先に挨拶回りを済ませたため、この場にいるのは二人だけだ。ポーンの二人は離れた場所で佇み、ついでに宿営地までの護衛を頼んできた行商人のマデリンは手持ち無沙汰そうにその辺をぶらぶらしていた。
キナはエインセルの手を両手で包み込み、握りしめた。細くしなやかで、うっすらとあかぎれやささくれの跡が残る指は、エインセルの傷だらけで節ばったものとは違う、傷を癒すために磨かれた手だ。
「私、あなたの胸の傷について調べてみるつもり。何もできないかもしれないけど……でも何もしないのもいやなの」
「ええと、その気持ちだけでうれしいよ。だからあんまり無茶したら駄目だよ。私がこんなことになってるのに、その上キナまで突っ走り始めたら、じいちゃん心労が祟って倒れかねないから」
やんわりと制したつもりだが、キナの思い詰めた顔は変わらなかった。これは久々にやらかすかもしれないが、今は魔物が活性化しているからさすがに踏みとどまってくれると信じたい。
助勢を求めて義父を見つめたが、返ってきたのは苦笑まじりのため息だった。
「まったく、お前は人のことを言えた義理ではないだろう。何度わしが心配させられたか……」
「あはは……」
足の指を使っても数え切れないくらいの自覚はある。未だに悪ガキ呼ばわりされるのを甘んじて受け入れる程度には。
誤魔化し笑いに付き合ってアダロも静かに笑う。その声がふっと途切れた。エインセルはキナの手を離して、改めて真剣な様子の義父に向き直る。
「無茶をするなと言っても聞くようなお前ではない、か」
「うん。……ごめん」
「謝ることはない。だが、いつだってお前を案じておる者のこと、忘れるな」
「うん。分かってるつもりだよ」
答えながら、エインセルは頭の片隅で追憶を巡らせた。――あんなに大きくていつも見上げていた養父の、そのつむじが目線より下に来るようになったのは、果たしていつからだっただろう。
「じいちゃん。私のこと育ててくれて、本当にありがとう」
そんなことを言えば、アダロはわなわなと目を見開いた。
「そんな、縁起でもない……!」
「あはは、そんな風に言わないでよ」
茶化してみても、養父の顔に浮かんだ動揺と不安は拭えなかった。
罪悪感がこみ上げる。それでも伝えられないままの方が耐えられない。感謝も伝えられずに、いつ死ぬともしれない戦いに身を投じるなど。
「でも、今言わせてほしい。それにね、ドラゴンとのことが済んで帰ってきたら、旅に出てる間心配してくれてありがとうって言うよ。それから、これからもよろしくお願いしますって。絶対に、絶対に言うから」
まだ何も親孝行できてない。育ててくれた恩を何一つ返せていない。
内心を隠すように口の端を上げて笑顔を作る。
「心配しないで。必ず帰ってくるよ。約束する」
たとえ何があろうと、どのような果てに至ったとしても。
「ねぇ、まだー? 早く行きましょうよ」
マデリンの声が門の外から聞こえた。待つのにもいい加減飽きてきたらしい。
エインセルは荷物を背負い直し、体を門の方へと向けた。
「じゃあ行ってくる。頑張ってくるよ」
「ああ、行っておいで。ドラゴンのことが片づかなくても、疲れたらいつだって帰ってきていい。お前が健やかであることが、わしにとっての何よりの幸せなのだから。……それと」
アダロの目がエインセルの後ろにいたグッドフェローへと移る。
「グッドフェロー、だったか」
「はい。なんでしょうか」
普段通りの静かな声で答える彼に向けて、アダロは頭を下げる。
「エインセルのことを頼む。この子は自分のことを顧みないで他人を助けるきらいがある。どうか、代わりにこの子のことを気にしてやってほしい。支えてやってほしい」
カサディスの暖かな日差しに照らされて、グッドフェローは凪いだ表情のまま手を胸に当てて頷く。答える声はそれまでとは異なる響きと重さを含んでいた。
「――お任せ下さい。今はまだ未熟ですが、覚者様のこと、支えられるようになってみせます」