覚者とポーンが話すだけという、一話目と似たような内容の話となっています。ご了承ください。
再び訪れた涸離宮の迎賓室を軽く
寝台とサイドチェストがあるだけの殺風景な部屋だ。柔らかな布団や毛足の長い深紅の絨毯があったところで、この部屋に染み付いた寒々しさは消えない。暖かなはずの陽光さえ無機質な窓硝子に冷やされ、白々と室内に差し込んでいた。
専従もまた短剣を納め、エインセルの隣に立つ。
「覚者様。お
「うん? ああ。お前こそ大丈夫か、グッドフェロー」
「はい。問題ありません」
「分かった。無理はしないようにね。しかし……」
言いながら、エインセルは窓枠のそばの段差に腰掛け、兜を脱いで膝の上に置く。
雇っていたポーンたちは領都の宿に待機させ、着いてくると言って聞かなかった専従と共に涸離宮を訪れた。まるで何も起きていないかのように警備の兵たちは変わらず門を守っていたが、前の潜入時にも用いた領都兵の装備で顔を隠せば専従ごと通してくれた。彼らが何を思っているかは己の立場からは推し量れないが、少なくとも魔物の侵入を放置する程度に士気が尽きているのは間違いない。
兜をこつこつと指先で叩く。金属の鳴る音は、この空虚な部屋にひどく響いた。
「ここに何しに来たんだろうね。私は……」
今は故郷に戻っているであろう高貴な少女の姿を思い出し、エインセルは窓の外を眺めた。
世の中の汚い部分を何ひとつ知らない、純粋で無邪気な少女だった。まるでおとぎ話のお姫様だと、初めて会った時に思わず見とれたことを今でも覚えている。
だがやはり、身分の違う者同士が交わることは双方にとって良くない、という教訓を鞭打ち刑によって文字通り痛感させられたのも、彼女のお願いという名の上位者からの命令によるものである。そしてそれは、この涸離宮から抜け出す時に彼女も実感したらしかった。野の小花を庭園に植えても雑草として引っこ抜かれるが、庭園に咲く大輪も野原に植えればたちまちのうちに虫や獣に食い荒らされる。それと同じことだ、と。
この部屋に辿り着いたあの時、エインセルは初めて明確に彼女の
そう理解していたというのに、縋りつこうとする細い肩を押して引き剥がした瞬間の、愕然とした少女の顔は罪悪感と共にまだ脳裏に焼き付いている。
そして、分からなくなった。
エインセルにも
ただそれは、王妃エリノアが自分に向けていた感情とはあまりに違いすぎた。あるいは違うと思っているのは自分だけで、大した違いなどないのかも知れない。エインセルもまた、己の
エリノアは手を伸ばし、エインセルは手を下ろすことを選んだ。エリノアからの想いは、エインセルにとっては痛みと苦しみを伴う重荷になってしまった。ならエインセルが彼に向ける想いは?
それまでも悩み続けていたところにこの一件が重なり、エインセルは今の関係を崩さないことを決めた。彼はエインセルを尊重し、この身を案じてくれている。だからこそあの人の想いを
ドラゴンが穢れ山から降りてきた今、最後になるかも知れないから顔だけでも見せようと会いに行ったものの、彼の姿はどこにもなかった。用事か何かで出掛けているだけだろう、とは思うものの、妙な胸騒ぎは強くなるばかりで思考はうまくまとまらない。
戦いに集中したいのに、それを雑念だと切り捨てることもできない。我が事ながらままならない感情に、エインセルはため息をついた。
「……なんだろうね。恋ってやつは」
窓の外を眺めていたグッドフェローがエインセルの方へ振り返った。凪いだ表情の中で、きょとんとした目が見つめてくる。
「恋、ですか?」
「ああ、気にしないでいいよ。ポーンにとってはあまり興味ないことだろうし」
人間と相似した肉体を持ち、男女の体格の違いもあれど、ポーンは人間とはまったく異なる仕組みで生まれると聞いている。欲と密接に絡みついた感情は理解し難いものだろうと思っての言葉だったが、グッドフェローは首を横に振った。
「どのようなものであれ、人の感情の動きは興味深いものです。それに私も、恋という感情がどのようなものか、アダロ様から聞いたことがあります」
予想してなかった返答に、エインセルは目を瞬いた。
「なんでじいちゃんが? というか、いつそんな話を?」
「バルミロ様が出立する前夜、宿で待機していた私を酒場に誘って下さったのです。その時に」
「……どういう話題の流れだったの?」
「覚者様がバルミロ様と二人きりで飲酒をしていると聞き、楽しそうにはしゃいでいたローリック様に、アダロ様とイネス様が、あの二人の間に恋心なんて芽生えるものか、とおっしゃっていました。そこからポーンは恋をするのかと尋ねられて、恋とはどんなものかと訊き返したのです」
「……、…………いや、まあ。私とバルミロじゃそういう感じになんてならないけどさ……」
物心つく前からの幼なじみであり、旅に出る前は同じ漁夫として働く仲間だった相手だ。恋なんてものをするには、お互いにだらしないところを知りすぎている。あちらとて苦笑しながら同じように否定するだろう。だからといって外野にやいのやいの言われるのはなんかイヤだ。
言いたいことは色々あったが、散々に言ってくれたアダロ達ではなく聞き役だったグッドフェローに言っても仕方ない。
「それで、じいちゃんは恋のことをなんて言ってたの?」
「ざっくりした内容になると前置きした上で、欲しいと願う心のことだ、と説明してくださいました。特定の誰かにそばにいて欲しい。自分だけを見て欲しい。大切にして欲しい。それは時に自分を律しきれなくなるほど、そして想う相手に危害すら加えてしまうほど、強い感情なのだと」
「……危害、か」
「はい。そのように聞いています」
言いながら、グッドフェローは不思議そうに首を傾げていた。
「うまく想像できませんが、そういうことであれば、我々ポーンは人に恋をすることはないでしょう、とお伝えしました。特定の誰かと過ごす時間が欲しいと、そう思うことがありません。それは相手が覚者様であってもです。私のために、わざわざ覚者様に時間を割いていただきたいとは思いませんから」
そりゃそうだろう、とエインセルは曖昧に相づちを打った。グッドフェローに限らず、ポーンたちに欲望はない。好き嫌いや快不快は確かに感じているようなのだが、それが行動に繋がることがほぼないのだ。主人から心を移してもらったセレナすら、その使い方を知るまでにずいぶんな時間が掛かっていた。いわんや普通のポーンであれば、過ごしたひとときに楽しさを覚えても同じようにもう一度過ごしたい、と願い行動することはないのだろう。それに一抹の寂しさを覚えるのは人間のエゴに過ぎない。
「ですが、今は少し違うように思います」
「え?」
言葉を続けたグッドフェローの顔を、エインセルは虚を突かれて見つめた。
「あなたと過ごす時間を、私はとても得難いものだと感じています。あなたとだけではなく、今までの旅で出会った人々との時間もです」
エインセルは目を見開いたまま、専従の静かな視線を受け止める。
「あなたにリムから引き出された時、私は何も知らなくて、何を知らないのかも知りませんでした。この身には使命だけがあり、そしてそれ以外はほとんど何もなかったのだと、あなたに指摘されるまで自覚すらしていませんでした」
グッドフェローは一度言葉を切った。凪いだ顔の中、温度のない瞳が何かを探すように揺れた。
「……星降り浜であなたと過ごしたあの夜のことは、今でもありありと思い出せます。そしてあなたと共に旅をして、様々な人に接する機会を得た今は、動機に使命としてではない別の理由も混じっているように感じるのです。それはきっと……私の中に積み重ねられた記憶が、あなたと共に過ごした日々が、よいものだからだと思います」
胸に手を当て、彼は言葉のひとつひとつを噛みしめる。
「あなたの時間を独占したいとは思いません。ですが、この時間がいつまでも続いてほしいという願いは、私の中にあります。そういう意味では、私は恋をしているのかも知れません。あなたと共に旅をしている、この時間に」
まっすぐに見つめてくるグッドフェローの顔は普段通りに凪いでいる。だがその下には、色とりどりの感情が隠れていることをエインセルは既に知っていた。
自然と口元に笑みが浮かんだ。見た目は変わらずとも、この弟分もまた成長しているのだと強く実感する。――妙な胸騒ぎは、いつの間にか落ち着いていた。
「なんというか、すこし驚いたよ。お前がそんな風に思ってくれてるとは考えてもみなかったから」
「覚者様。私の所感は、あなたの負担になっていないでしょうか」
「大丈夫、心配しないで。お前の気持ちはとても嬉しいよ」
エインセルは腰を上げ、グッドフェローの名を呼んだ。握り拳を作り、彼の胸の中心を軽く叩く。
「お前が私の相棒で良かったよ」
「ありがとうございます。ですが、どうして今それを?」
「これからもよろしく頼むってこと。お前がいるから、私も見栄を張り続けられる」
恋というものが怖かった。自分が傷つけられたから、自分もまたあの人を傷つけていたのではないかと恐れた。
だがこの、くすぐったくなるほど優しい気持ちも恋と呼ぶならば。恐れで狭まっていた視界が拓けた、そんな感覚があった。
「……そうだね、頑張ろうか。私は覚者だから」
あの人ほどエインセルを覚者として見ている者はいない。それは領都の人々が持つ偏見とは異なり、覚者という存在のあり方を知っているがゆえの静かな目だ。だからこそ、あの人の前では肩肘を張らずにいられた。覚者と呼びながら、ただのエインセルを見てくれていた。それにどれほど救われただろう。
己が抱える気持ちはグッドフェローのそれとは違う。だが、あの人と過ごした時間は、エインセルにとってかけがえのないものだ。それを恐れで曇らせることをあの人は望まないだろう。「“弛まぬ向上心”こそ、我らを繋ぐ絆」――あの日、宿営地のリム越しに彼自身がそう言っていたのだから。
たとえ想いが叶わないとしても、好きな人の前では、できるだけ格好をつけたい。そんなことも分からなくなるくらいには迷走していたようだ。
エインセルは自身の頬を軽く張った。段差から腰を上げ、兜を再び装着する。
「よし、もう行こうか。寄り道に付き合ってくれてありがとうね」
「お役に立てたのなら喜ばしい限りです。……おや」
頷いたグッドフェローの視線が寝台へと向かう。軽い身のこなしで寝台に上がり、枕の下に手を突っ込んだ。
「何かありますよ」
むんずと掴みあげたものを見て、エインセルは思考が吹っ飛ぶという感覚をまざまざと味わった。
グッドフェローの右手から小さな布切れがはみ出していた。暗い色に染められたその端から細い紐が垂れ下がっている。その布の色と特徴には見覚えがあった。マデリンに勧められて買ってはみたものの、どうも自分には合わないと倉庫に突っ込んだ覚えがある。それを話したら、「やあねえ。ああいうのは普段使いするものじゃなくて、ここぞという勝負の時に着けるものよ。あなた、そういうところはまだまだお子様ね」と笑われたことも記憶に新しい。
「……ねえ、それ」
「女性用の下着と思われます」
即座にグッドフェローの手から下着をひったくった。どうやら新品であるらしいことに胸をなで下ろし、そんなことを確認する自分に嫌気が差す。なんで自分はこんなところでこんなことをしてるのか。
「? 覚者様がお持ちの下着と同じものですよね」
なんてことのないように言い放ったその頭に拳骨を落としたい、という衝動を必死に押さえているエインセルを見つめ、当のグッドフェローは小さく首を傾げた。
「覚者様。申し訳ないのですが、私はあなたが何故怒っているのか、どうしてそこまで
「そうか……そうか。その説明からか……いやそうだよね。ごめんね、私もあまり気にしていられなかったもんね……」
頭が痛い。
ポーンにとってはただの布切れなのか。下着と羞恥心の関係を、おしべめしべ云々が通用しない相手にどう説明すればいい。
そもそもなんで下着だけこんなところに放置してあるのか。エリノアは何を考えていたんだ。貴族の風習か、それともまくらの下に下着を隠すおまじないか何かなのか。単にだらしないだけかもしれない。
思考は乱れまとまらない。先ほどまでのうじうじ悩んでいた時とはまた違う。
やがてエインセルは下着を腰のポーチに突っ込んだ。そう、使ってないならただの布切れだ。エリノアの馬鹿。
「……後にしよう。というか私には説明が難しすぎるから、別の人にお願いしよう」
「分かりました。後でバーナビーに訊いてみます」
行動に反映されないとはいえ、ポーンも嫌なものは嫌と感じる。あの常に穏やかなギルドの看視人であっても、内心で頭を抱える話題であろうことは容易に想像できた。かと言って頼らないという選択肢はないのだが。
「帰ってきたらお礼用に、魚のいいの見繕わないとだね」
「彼は魚料理が好きですからね」
「カサディスに招待できたらいいんだろうけど、あの人も仕事が大変だからね」
「ギルド運営をしている以上は難しいでしょうね。でももしパブロス様の料理を食べられたら、バーナビーもきっと喜びます。パブロス様の香草焼きと野菜煮込みはとてもおいしいですから」
そんなことを話しながら、エインセルとグッドフェローは迎賓室を後にする。敷居を跨ぎ、エインセルは振り返った。そこにあるのは寒々しい部屋だ。俯いていた少女の姿は、思い出の中にしかない。
エリノアのことは嫌いではなかった。ポーンとはまた違った意味で世間擦れしていなくて、花壇を背にたたずむ姿はとても綺麗で。傷とたこ、潰れた
関わる中で痛い思いもしたし、どうしてこんな目にと恨み言をこぼしたこともあった。それでも彼女のことを好ましく思っていたし、脱獄した後もずっとその身を案じていた。
「覚者様、どうかなさいましたか?」
立ち止まってこちらを見る専従の声に前を向く。
「なんでもない。……いつか、全部終わった後で。あの子と笑いながら話せたらいいなって、そう思っただけだよ」
もし再会するようなことがあれば、今度は“戦士さま”としてではなく、ただのカサディスのエインセルとして恋の話でもしてみたい。
小さく笑い、エインセルは再び歩き出した。
「あと布きれの苦情も入れなきゃならん。どういう教育をしとるんだ、全く」
「……やはりバーナビーに訊いてみなければ。私には理解が難しいようです」