八月になり、ヘリオスフィアはトレーニングの成果を見せようと北海道は札幌にいた。
ダート一七〇〇メートルの戦い、GⅢエルムステークスである。
ゴールドプルーフ、マキバスナイパーらに押され五番人気となってはいたが、ヘリオスフィアはやれるだけやってみるつもりでいた。
力を出し切って、どこまで届くか。何よりもその見極めが大事だ。それで新たなデータが得られれば、未知数が減り勝利を掴むための方程式を組み上げて行きやすくなる。
一学年下のアグネスタキオンも、どうやらデータ主義らしいというのは噂で聞いたことがある。だが、屈腱炎のためしばらく学園でも見かけていなかった。彼女のように才能があっても、それを活かすための頭脳があっても、硝子のような脚はどうすることもできなかったということか、などとそんな他人事ではない皮肉をうっすらと感じていた。
自分はどうなのか。自分の才能を見限って、小手先の作戦とやらに傾きすぎてやいないか。自分では気づかないだけで、他人から見てそうだったとしたらなんて皮肉で愚かしいことか。
そんなモヤモヤが影響したのかはわからない。結果は十着と惨敗だった。
ヘリオシースのGⅢ制覇の余波を受け、気を取り直してもう一度チャレンジした重賞レース、白山大賞典。二一〇〇メートルは得意な距離、のはずだった。
——初めて走る金沢だから……? ううん、違う……明らかに、脚が、重い……!
体調はよく、トレーニングの結果も悪くなかった。むしろ調子は良かったはずだ。だが、レースも中盤早々に脚が重くなり始め、最後の直線では明らかに失速した。
なんとか踏ん張って八着。
重賞レースだからとか、そんな理由ではなかった。トレーナーも予期していたようで、驚愕ではなく不安が的中したような顔をしていた。
「故障とかでは、ないんですね?」
念のため医師に診察してもらったものの、やはり異常はなく健康そのものだった。そこから導き出される結果は自ずと限られてくる。
「念のために一度、タイムを測ってもらえますか?」
無茶はするなとの釘を刺されたが、もしそういうことであれば全力を出してみなければ意味がない。学園内のいつものトラックを使用し、現在できうる限りの全力をもってタイムアタックを図る。
脚の運び、フォームなどの走法、物理的特性を意識したコーナリング。可能な限りの全部載せをその走りに込めた。
一周し、計測が終わる。
「はぁ、はぁ、……トレーナー、タイムは」
トレーナーは答えなかった。言葉にできない、そんな表情でストップウォッチを見せてくる。
「そんなはずは……、トレーナー、もう一度お願いします」
トレーナーの静止を聞かず、何度もリトライを繰り返す。タイムはその度に落ちていった。
「まぁ、ただのスランプって可能性もあるにはある。次のブラジルカップの結果を見て、改めて考えよう。去年は君が勝っているレースだ。走り方も熟知しているだろう。それでも明らかな結果が現れた場合は」
何も怪我をしたわけじゃないから走ることはできる。だがレーススピードを維持できない。レースに出られないウマ娘に、何が残るというのか。
「ははは、ばかみたい。レースに出れても、私には何もなかったじゃない……」
失うも何も、レースで積み上げたものなど無に等しかった。いままで上げた勝利はオープンレースが四勝、残りは最低限の出走条件をクリアしたレースでの勝利。重賞では三着好走が一度のみで、着外五回。そんな自分に、何が残っているというのか。
それでも。
「もう少し、走りたかったな……」
ヘリオシースのいないところで、ヘリオスフィアは静かに嗚咽を漏らした。
十月、秋華賞のレースを前に、テレビでは特集が組まれた。
GⅠを二度制したヘリオシースは女帝の二つ名で呼ばれ、ローズバド、レディパステル、ダイヤモンドビコーを抑えトップ人気となっていた。
「あたし、そんな女帝って柄じゃないんだけどなー」
「堂々としてたらいいじゃない、GⅠ二勝してるんだし。次も勝ったら三勝なのよ? 風格も必要でしょ」
「風格ー?」
ヘリオシースはやおら腕を組んだかと思うと、神妙な表情を作り
「わたしはシンボリルドルフだ。本校は、全国ウマ娘トレーニング施設の中でも最大規模、じゅうぜんじゅうびのかりきゅらむでぇ」
ヘリオスフィアは思わず吹き出した。
「なに、それ、ふはっ……ルドルフ会長?」
「似てた?」
得意げにして見せるヘリオシースに頭を抱えながらも
「悔しいけどちょっと似てた」
「わーい、やったね」
「でも、そういうことじゃ、ないから」
笑うヘリオスフィアを嬉しそうに眺めて、ヘリオシースは静かに宣言する。
「でも、秋華賞も勝つよ、あたし」
一瞬見せる貫禄。やはりヘリオシースはGⅠウマ娘なのだ。
「そうだね。次勝てばティアラ二冠。すごいよ」
「スフィア?」
「あ、その、シースは自慢の親友だってこと。私はまだGⅢすら勝ててないから」
「大丈夫、スフィアはあたしと違って頭いいんだしさ。次はきっと行けるよ」
「そう、かな……?」
「あたしはスフィアはやるって信じてるよ? スフィアが自分を信じなくてどうするのさ」
「あはは、それもそっか」
笑う。極力自然に。ヘリオシースはいま大変な時期だから、余計な心配はさせたくない。レースに集中していて欲しい。ましてや……彼女が去年トレーナーから言われたことなど。
ヘリオシースはまだ、きっとまだ……。
その願いを込めて、ヘリオスフィアは笑った。
ヘリオシースは宣言通り、秋華賞の勝利をもぎ取り新たなトロフィーを持ち帰った。これで今年のティアラ三冠のうち二冠を奪取することに成功。
次のエリザベス女王杯を控え、ヘリオシースとローズバドの戦いはまるで天井知らずのようにヒートアップしていた。負けられない戦いを、彼女はしている。
そしてヘリオスフィアも、自分の人生を賭けた戦いをこれからするのだ。
リステッド競走、ブラジルカップ。
昨年はヘリオスフィアが制した。今年はどうか。
せめて、戦えることを証明しなければならない。掲示板ではダメだ。せめて三着以内。これがマストだろう。
でなければ、終わりを認めなくてはならない。
作戦は去年と同じ、後ろから。
走り慣れたコース、走り慣れた戦術で、慢心がなければミスの可能性はない。それほど習熟した自覚はある。
だから、きっとやれるはず。
ヘリオスフィアは、そう信じようとした。
人気は二番人気。一番人気は同じシニア級同学年のメジロソニアだ。
距離は前回の白山大賞典と同じ二一〇〇。
一枠のため有利な内枠。だが後追いでは内枠の恩恵は得られにくい。
——ひょっとしたら後半、バ群に飲まれるかもしれない。注意しないと……。
スタートし、一コーナーまではバ群の中程にいたヘリオスフィア。しかし、二コーナーを抜けたところで最後尾についた。
——え、ペース速い? そこまで後ろにつくつもりないんだけど。
このままでは埋もれてしまうため、それを嫌って少し外に寄る。向こう正面、先頭から十バ身以上離された。縦長の展開だが、どうにもバラけている。
大ケヤキを抜け、最終コーナーを抜けてもヘリオスフィアは最後尾だった。
府中の直線はダートコースでも比較的長い。ラストスパートにかける。
残り二〇〇メートルを切ってもなお、ヘリオスフィアは後方だった。途中力尽きたウマ娘を幾人か追い抜いたが、入賞どころの話ではなく掲示板にすら届かない。
そして、ヘリオスフィアは全力を出し切り——八着でレースを終えた。
バ群の中、砂煙に塗れた顔で自覚する。終わったんだと。自分にはもう、競争力がない。どう足掻いても、衰えてしまった。去年の自分にすら、もはや届かないのだと。
道中のペースが速いわけでもなんでもない。タイムを見ればわかる。去年と大差ない時計。
つまり。単に自分の脚が恐ろしいほど使い物にならなくなってしまった。スピードも、瞬発力も、スタミナも何もかもがウマ娘のレースで役に立たない。レースが成り立たない。血の気が引いていく。
「ほんとうに……終わってしまった……」
一着のウマ娘が祝福される中で、埒にもたれながらヘリオスフィアはその残酷な現実を必死に受け止めようともがいていた。ヘリオシースはきっと今日も応援に来てくれている。でも——顔を見れない。
未練がましくまだ、悔しいなんて思ってしまっているから。
こんな情けなく醜い脚で生まれてきてしまったから。
こんなにも早くウマ娘としての寿命が尽きてしまうようなか細い運命だったから。
自分が情けなくて情けなくて、輝くヘリオシースが眩しすぎて。
ヘリオスフィアははじめて、ライブ後に誰にも会わず誰とも話さずに寮へと戻った。
その夜。
扉をノックする音が小さく響く。
今日ルームメイトは地方に遠征中だから、部屋にはヘリオスフィアしかいない。尋ねてくる相手の予想はできていた。
少しだけ逡巡してから
「どうぞ」
と小さく答える。
「入るね」
やはり、聞きなれたいつもの声。怖くて逃げてしまったのに、聞けば安心してしまうヘリオシースの声だ。
「スフィア、夕ご飯は食べた?」
なにを言われるかと思えば。
力無く苦笑する。
「まだ……」
「よかった。そう思って買ってきたんだ」
食欲が湧かない、と続けようとしたが先を越されてしまった。コンビニの袋にサンドイッチや菓子パンが色々
と入っている。
「どれなら食べられるかわからなくて、いろいろ買ってきちゃった。あたしもまだだからさ、よかったら一緒に食べない?」
どこまで気が利くのやら。ヘリオシースの器量に舌を巻く。
ヘリオシースは、ベッドを背に預けカーペットの上に腰掛けるヘリオスフィアの隣に座り、袋の中のものをひとつひとつ広げていく。
——さて、どれなら胃に入るか。あまり重たくないものがいい。
そう思いつつ、ヘリオスフィアはにんじんたまごサンドに手を伸ばした。
「あ、やっぱりそれ食べる? 美味しいよね、にんじんたまごサンド。いろいろとしんどい時にはぴったり」
「そういえば、あなたが初めて挑戦したGⅠで負けた時も、にんじんたまごサンド食べたってトレーナーが言ってた」
「えー、トレーナーそんなこといつスフィアにバラしたの?」
「え、もしかして隠してた?」
パッケージを開ける手を止め、ヘリオシースを見る。が、ヘリオシースは笑っていた。
「隠してはないけど、トレーナーってちょっと口軽いよね」
聞いてはいけないことを聞いたわけではないと知り、ホッとする。まぁ、それもそうかと。落ち込んでにんじんたまごサンドを食べた事実を知られたくない、なんてことは。普通に考えてあり得ない。
しかし、ふとトレーナーについての評価が引っかかった。
にんじんたまごサンドを齧ろうとして手が止まる。
「シース……」
「なに?」
「あなた、もしかして」
トレーナーに何か聞いたのか、もし聞いたとしたならなにを、どこまで?
皆まで語らずとも、ヘリオスフィアの聞きたいことはわかった。だから、ヘリオシースは正直に答える。
「実はね、トレーナーに聞いたんだ。というか、問いただしたというのが正解かな」
「なにを?」
「最近、スフィアの様子が少しおかしかったから、もしかしたら怪我でもして隠してるんじゃないかって、思ってた。最初トレーナーはしらを切ってたけど、そのうち白状したんだ。スフィアの、ウマ娘としてのレース寿命のこと」
「……」
「そして、去年言われたことをふと思い出した。あたし自身のこと。それも合わせて、はっきりと、トレーナーの口から確認したんだ。スフィアとあたしが、あとどれくらいレースに出られるのか。トレーナーの思う、正直なところをね」
「シース……」
重たい空気を察したのか、ヘリオシースは務めて明るく振る舞う。
「あーもー、食べて食べて。こーいうのは、楽しく話しながらの方がいいんだよ」
促されるまま、にんじんたまごサンドを齧る。優しい味がする。
「あたしだけスフィアのこと知ってるのはずるいから、あたしのことも教えるね。あたしの寿命はおそらく、今年いっぱいだろうってことらしいよ」
「え——」
思わず声に詰まる。今年ってまだ、ヘリオシースはクラシック級であり、シニア級にもなっていない。メイクデビューから一年半だ。才能に恵まれなかった自分でさえ二年走れた。それが、GⅠを三つも制した才能と希望の塊のようなヘリオシースが、今年で終わり……?
「あはは、スフィア。多分それ、トレーナーに聞いた時のあたしと同じ顔してるよ」
なにがおかしいのか、笑い転げるヘリオシース。いやなにもおかしくなんてない。笑うところじゃないのだ。ヘリオシースは、わかっていてあえて笑っている。
「世の中って不思議だよねー。なんでこう、もっと上手くいかないかなーってことが、たくさんあるよね。スフ
ィアがさ、頑張って頑張って届かなかった時の悔しさとかさ、今すごくよくわかるんだ。あたしは……」
そこまでいって、急に言葉が途切れる。シースの顔はひどくぐちゃぐちゃになっていた。溢れる涙を抑えようとして抑えられず、嗚咽は止めようとすればするほど暴れ出す。泣きじゃくるヘリオシースの肩を、ヘリオスフィアは抱きしめることしかできなかった。そして、しばらく一緒に泣いた。
散々泣き続けて、泣き疲れて、時間は消灯時刻を過ぎてしまっていた。施錠もされているだろう。流石にもう今から自分の寮へは戻れない。
幸い、ヘリオシースはルームメイトに行き先を告げていたから、騒ぎになることはないだろう。明日は寮長に怒られるかもしれないが、大したことじゃない。
なので、ヘリオシースはヘリオスフィアの部屋に泊まることにした。流石にルームメイトのベッドを勝手に使うことはできないので、ヘリオスフィアのベッドで二人で寝る。
「二人だとちょっと狭いね」
「でも、暖かい」
「うん、一人の時よりも、すごく暖かい」
ベッドの中で、ぎゅっと手を握る。
「ねぇ、スフィア」
「なに?」
「考えたんだけどさ、あたしのウマ娘人生はまだ終わってないわけじゃん」
「うん」
「だからさ、燃え尽きて全てが終わるその時まで、勝ち続けることにするよ。次のエリザベス女王杯、その次のチャレンジカップ。そこでまだいけそうなら、有馬記念にも出てみようと思うんだ」
親友の、とてつもなく高い目標を聞き——ヘリオスフィアは全身の毛が逆立つのを感じた。これはとんでもないことだ。エリザベス女王杯を制したら、それこそ最強女王の座を手にする。その勢いなら、続くGⅢなどただのステップ、今年最強のウマ娘を決める締めくくりの有馬記念だって、ひょっとしたらひょっとしちゃうかもしれない。
「もし走るとしたら、オペラオーさんはもとよりカフェにドトウさん、もしかしたらリョテイさんも出てくるかもしれない。相手は強いのばっかりで勝つのはとても大変だけど、ほら。あたし一度オペラオーさんには勝ってるから」
そう、雨の宝塚記念で、ヘリオシースはテイエムオペラオーを抑え僅差ではあるものの競り勝っているのだ。
「あながち、届かない夢じゃないと思うんだ」
「そうかもしれない。シースなら、届いちゃうかもしれない」
「だからね、あたし。次のエリザベス女王杯絶対勝って最強女王になるから。スフィアも見にきて。スフィアがいれば絶対勝てるから」
「うん、必ず応援しに行く」
「約束ね」
「うん、約束」
「で、もしあたしが勝ったらー」
「もー、またあれ飲ませる気なの⁉︎ 私あれ好きでもなんでもないんだからね⁉︎」
緊張は解け、いつしか二人は眠りに落ちていた。
翌朝、二人はベッドの下で目が覚める。
——ま、まさか、シースの寝相がこんなにも悪いとは……。