病み男とストーカー少女   作:足洗

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拒絶

 

 

 

 

 

 

 

 水の中の目が俺を見ている。

 水の中からじっと俺を見上げている。

 水面に激しく波が立つ。像が崩れて輪郭が揺らぐ。

 ぐらぐら、ゆらゆら、こちらを向いた男の顔が。

 苦悶、驚愕、そして恐怖、そうして薄く────笑った。

 

 何故

 

 左腕に残った痛み。骨が潰れそうなほど強く握り締められ、皮膚に赤くこびりついた手形。文字通り死の淵から伸ばされた死に物狂いの命乞いが。

 縋る手はゆっくりと沈んでいく。

 光の無い目が、ガラス玉の目が、水底へ。

 ゆっくりと沈んでいく。

 

 

 

 

 喉奥に呻きを呑む。

 一瞬、呼吸が止まったことで肉体は宿主の意識を慌てて叩き起こした。

 

「はぁっ、はぁ、はぁ、はぁ」

 

 早鐘を打つ心臓。暴れ回る血流が耳孔に響きひどく喧しい。

 じっとりと全身に汗が滲む。皮膚が粟立つ。

 与えられた私室のベッドの上で、大の男が一人悪夢から立ち戻った。

 夢。

 夢であるものか。

 記憶。事実。あれは真実、己が為したことだ。俺が、俺の意志で、俺の憎悪で。

 

「ぐ、おっ……」

 

 込み上げてきた吐き気を無理矢理飲み下す。喉元までせり上がった汚穢を胃の腑へ押し戻す。

 罪業を。

 罪。

 殺人罪。しかして未だ量刑なし。

 左腕に圧迫感を覚えた。実体無き感触。痛みを。

 おそるおそるスウェットの袖を捲る。その下にあったのは。

 手形だ。

 手が。

 今も俺の腕を掴んでいた。

 

「ひっ」

 

 強く強く握り締めて、死の恐怖を、命乞いを、助けてくれと訴えて。

 あの男が今も。今も、ここに。

 左腕を掻いた。爪を立て皮を剥がし肉を殺いだ。

 払う。感触を。手を。

 取れない。いくらやっても。血が滑る。暖かな血が、肉が、シーツを汚していく。

 取れない。どうやっても、離れない。

 当然だ。

 これが、この醜態こそ当然の報いから逃れた者の有り様だ。

 

 ────ゆるして、あげて

 

「……それじゃあ駄目なんだよ、母さん」

 

 本当は駄目だったんだ。でも、俺は、それでも俺は母を支えたかった。助けなければいけない。

 その為に。

 人を、殺した。

 罪から逃げた。自由と社会参画の権利にしがみ付く為。

 母に人殺しの親という汚名を着せない為。

 労働者として賃金を得、母に真っ当な生活を送ってもらう為。母に、楽になって欲しかったから。

 母の存在を、人殺しの理由に使って、殺人罪の言い逃れに利用して。

 卑劣で邪悪な逃避を己に許容してきた。今までも、今この瞬間も。

 

「あぁ……」

 

 左腕は赤く染まる。もうこれが痛いのかどうかもよくわからない。

 腕の一本くらい切り落とすべきだろうか。いつかの時代には、盗みを働いた者はその場で利き腕を切断されたという。

 それに則って俺も。

 少しずつ罪を清算していくべきだろう。

 命一つを絶つのは容易い。実に安易だ。それより身体の機能を徐々に殺ぎ落としていく方が苦痛は何倍にも高まる。

 せめて痛みを。せめて安穏とした生を後悔するだけの痛みを。

 せめて、そのくらいしないと、帳尻が合わない。

 肘の関節を握り込んだその時、そっと白く細い手が重なる。

 一体いつから彼女は部屋の中にいたのだろう。

 

「カゲユキさん」

「……」

 

 花宮カナミがベッドに上がる。

 腕をタオルで拭い。既に用意していた救急箱からガーゼと白帯を取り出し、傷口に巻き付けていく。

 手際がよかった。器用でそつがない。この少女はきっと何をさせても常人以上の結果を出すのだろう。

 静かに涙を滂沱させる黒い瞳を見やった。

 少女は縋るようにこちらを見返す。

 器用万能と言って差し支えない才覚の人。それがこんなにも脆く、儚い貌をする。

 彼女はまだ幼い子供なのだと思い知らされる。

 子供の前で周章狼狽を晒すのは、恥じ入るよりまず取り繕うべきだ。真っ当な大人であるなら、それ相応の年齢になったのだから、子供を不安にさせないよう配慮を巡らせるのが最低限の義務、いや作法だろう。

 

「もう大丈夫です。お手数を掛けます。もう遅いですから早く休んでください」

 

 定型句を並べる。義務感に動かされた口には一向に感情というものが含まれなかった。

 噴き出した汗が身体を冷却し情緒まで凍らせたのかと。愚昧なことを思う。

 

「明日も学校でしょう。弁当、作ります。花宮さんが嫌でなかったら」

「はい、いつも、いつも楽しみにしてます」

「シーツ、取り換えないと」

「買い替えればいいですよ」

「もったいないですから、きちんと洗いますから。きちんと」

「そう、ですか」

「住まわせていただいている身ですから」

「それは……」

 

 この口が並べ立てる日常会話のなんと白々しいことか。

 中身がないからだ。内に篭るなにも、誠意も、真心も、なにも、なにも。

 

「貴女には恩がある。職場のことも、なにより母のことも。俺がここにいることで、それが返せるとは思えないが、それでも多少なりと貴女の望みに()()なら、もう少しこちらで御厄介になります」

「これからもです。これからもずっと、です」

「……」

「……なんで、黙っちゃうんですか」

 

 嘘を吐ける人間は明晰である。

 他者を慮ってみても、それを安んじるだけの嘘を捻出できない己が劣悪なのだ。

 

「解放なんてしませんから。これから先も、カゲユキさんのお、お母様が、亡くなっても……!」

「…………」

「絶対逝かせませんから! きっと、生きたいって思わせますから、だから……一緒にいてください。こんなこともうしないって、約束してください」

 

 守れぬ約束などできない。

 

「なら、せめて……一緒に」

「!」

 

 回された細腕を振り払い、少女の体を突き飛ばす。

 ベッドの上で花宮は尻餅をついた。

 呆然と、その目は俺を、今自身を押し退けた俺の手を見上げる。まさかこんなことをされるなどと思ってもみなかったのだろう。

 俺にこんな真似ができるなどと微塵も思えなかったに違いない。

 あるいは。

 

「カゲユキ、さん……?」

 

 信頼への裏切りが、心無いその拒絶が、深く。

 深く少女を傷付けて。

 再三、その情緒が未成熟で、その心が幼く、無垢であると認めていながら俺は。

 それでも俺は許さない。

 

「俺は、一緒になってはやれない。貴女の望みに近付くことはできても、叶えることはできない」

「カゲユキさん」

「一緒には生きられない」

「カゲユキさん!!」

「俺は一人で逝く。心中なんてまっぴら御免だ」

 

 独り惨めに、卑小に、醜悪に、薄汚い罪人として死に失せる。

 未来ある子。美しい少女。その生涯に数多の善悪と禍福を生み出せるだろうこの人を、断じて道連れになどできない。

 

「俺に縋るな」

 

 不要だ。貴女の人生にこれは邪魔だ。

 

「俺に夢を見るな」

 

 価値も、希望も、欠片の救いも与えてやれないこんな不甲斐ない大人に、どうか縛られないでください。

 色の無い顔。ただ静かに涙を流す、自失した美しい少女の能面を見る。

 俺は薄ら笑った。なるべく無慈悲に、残酷に、悪辣に。

 

「おやすみなさい」

「カゲ……」

「今までありがとう。近く、お別れです。きっと、もう間もなく」

 

 

 

 

 

 

 朝、玄関から出て行く少女を見送る。学業と経営者という二足の草鞋を履きこなす少女に、拙い弁当を差し出して。

 厚顔無恥に、(のたま)うのだ。

 

「いってらっしゃい」

「……いって、きます」

 

 ぎこちない笑みが、労しかった。

 キッチンに戻り朝食の食器を洗う。水回りの軽い清掃も終えて、身支度を整える。

 今日も母の見舞いに行く。

 幾許もない時間を共にする為に。

 その時を、看取る為に。

 インターホンが鳴った。

 背広を着て、結局ネクタイをしないまま玄関に赴く。

 無数の錠が次々に下り、開かれた扉の先では黒いスーツ姿の男性が立っていた。

 

「尾上様、お迎えに参りました。ご準備はよろしいですか?」

「おはようございます、藤堂さん。本日もよろしくお願いします」

 

 

 

 

 

 

 

 

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