病み男とストーカー少女   作:足洗

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境界で

 

 

 

 パートから帰って来た母が風呂釜に沈んだ男を見付け、すぐ救急車を呼んだ。

 十分足らずでアパートに駆け付けた救急隊員は、風呂場と男の様子を見て取るや低く呻き、部屋を出て行った。

 救急隊員が通報したのだろう、警察がアパート前に大挙して、水底から引き揚げられた男の死骸を検分する。裸のまま放置される男が、本当にどうしてか俺は少し、少しだけ憐れだと感じた。

 本来その時、俺が思うべきことはそんな他人事のような憐憫などではなかった筈だ。警察の目が光り、検視と検死が行われる光景に俺が感じるべきだったのは、不安と恐怖である筈だ。

 俺は怖れ慄いて、真相が、俺の犯行が露見しないことを震えながら祈っていて然るべきだった筈だ。だのに。

 俺はただ呆としていた。

 古びたアパートの薄汚れた狭苦しい一室で、忙しく出入りする捜査員や刑事達と事務的に処理されていく人の死とかいうものを眺めた。

 非現実的だった。いや、単に少し非日常的なだけだ。そう丁度、引っ越しのような空気だった。運び出すものが家財道具か死骸かの違いしかない。

 重い箪笥を苦労して部屋から運び出し、車の荷台に載せるのと同じ。

 男の死骸は袋に梱包され担架に固定され、救急車に積載され、搬送されていった。

 そんな光景をよく覚えている。感慨はない。映像記憶は無機質であり、淡々としていて、それだけに忘れることもない。

 ただ、個々の作業風景や家に訪れた警察官の顔までなんの意味もなく覚えているのに。

 俺は思い出せない。

 その時、母がどうしていたのかを思い出せない。

 いや、傍にいたのだ。母はずっと片時も俺の傍を離れなかった。手を握られていたような気がする。警察と受け答えする間も、母は俺に寄り添っていた。

 それなのに、何故か、俺はどうしても思い出せなかった。

 その時、母がどんな顔をしていたのか。

 思い出せない。

 それがどうしても、思い出せないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この部屋に時計はない。

 この部屋に窓はない。

 白い壁が四方を囲い、白い照明の固い光が降り注ぐ。白で満たされた部屋。それ以外にない、死腔。

 閉塞感は否めず、時間感覚は次第次第に消失していく。拠り所があるとすれば、腕に刺さった針。そこから伸びるチューブの先、スタンドに吊られた輸液パックと、繋がった点滴筒の中に落ちる滴が、一定間隔に刻むリズムくらい。

 ただ、鳥の囀りだけが壁のどこかから漏れ聞こえてきていた。

 時刻を佐原に尋ねると朝の七時だという。

 

「ごはんにしましょっか」

 

 彼女は晴れやかに言った。

 そうしてスカートの裾をひらりと翻し、部屋の隅に置かれた台車へ向かう。ワンピースタイプの白いナースウェア。間違いなく見馴れた恰好なのだろうが、病棟で彼女はいつもズボンだった。薄い白のストッキングを穿いた脚が嫌に(たお)やかで、少し居た堪れなくなる。

 俺は正面の白い壁を見た。眼球に壁の白色がこびり付くまでに。

 佐原が盆を持って戻って来る。

 ベッドの上に渡された介護用テーブルに朝食が置かれた。五分粥、シイタケと麩の吸い物、よく炊かれた肉じゃが、キュウリの酢の物、白身魚の煮つけ。いずれもプラスチックの白い器に盛られている。だからか、妙に病院食然として見える。

 傍らにそっと置かれた食器入れ(カトラリーケース)には、フォークとスプーンが一揃え。どちらもシリコンゴム製だった。

 粥の椀を手に取って、佐原がスプーンでそれを掬う。

 

「ふぅ、ふぅ……はい、あーん」

「……」

 

 断りの文言が幾らか喉の奥に浮かぶ。

 両手は自由で、握力も健在だ。失血と過眠によって体力は落ちているだろうが、食事の介助を必要とするほどではない。

 不要な行為だった。

 

「必要なことッスよ」

飯事(ままごと)、ですか」

「辛辣ぅ~。愛情表現って言ってくださいよぅ」

 

 子供のように、彼女は大袈裟におどけて見せた。実際少女のような外見にその所作は釣り合っているように思う。

 

「こうしないと尾上さん、餓死するまでなにも食べてくれないでしょ」

「まさか」

 

 それは流石に懸念が過ぎる。

 生物であるからには栄養を摂取しなければならない。そこに否も応もありはしない。

 佐原は無言でこちらを見詰める。じっと、穴が空きそうなほど、皮膚の下の奥底まで覗き込むような目だった。

 

「尾上さん」

「あ、い」

「尾上さんッ!!」

 

 突如、彼女は俺に覆い被さる。一体何事かと俺は戸惑う。

 その両手が顔に、俺の頬を掴み、指が唇を割り裂いて歯を開かせ口中へ捻じ込まれた。

 彼女の指は冷たく、そして柔らかかった。

 開きっぱなしの口の端から唾液と、それ以外のものが零れ落ちて白いシーツに落ちる。染める。穢す。赤黒い血がぼだぼだと垂れ流れてくる。

 彼女の指と鉄錆の味が味蕾に拡がった。

 ああ、なるほど。

 俺はふと納得する。彼女の行動の意図に思い至る。

 俺が舌を噛み切ろうとしたのを彼女が察知して阻止したのだ。

 彼女の目が訴えてくる。

 俺はそれを汲み、顎から力を抜いた。

 数秒、無音の間。それは逡巡か、警戒か……怖れか。佐原は口からそっと指を引き抜く。

 血と涎で汚れた手を拭いもせず、佐原は俺のシャツに縋って項垂れた。

 

「は、はは、ははははは……尾上さん、貴方、貴方は、もう……ホントに、本当に、もう、もう、限界なんですね……!」

「……」

 

 涙に声が滲む。嗚咽と濁った笑声が、無機質な白い部屋に響く。虚しい、物悲しい声だった。

 なんと言ってよいものか、咄嗟には浮かばず。開き掛けた口から異音が鳴って断念する。舌が上手く動かなかった。

 彼女の項を見下ろしながら、少し。

 申し訳ないな、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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