ゴールデンウィークの船橋レース場は人でいっぱいだった。
交流重賞JⅠかしわ記念。この日行われるメインレースである。
十一人のウマ娘たちの中、ヘリオポーズは二番人気。一番人気はノボトゥルーだった。
小雨が降り稍重になったバ場。これ以上荒れる前に逃げを打つか迷ったが結局いつもの作戦を選ぶ。
スマートボーイのペースメイクで進むレースを制したのはノボトゥルーだったが、それ以上に困った事態が起きていた。レース中盤まで中団につけていたヘリオポーズだったのだが、後ろから追い上げてくるリージェントブラフに押し上げられる形でスパートを開始。直線に出たところでリージェントブラフに弾き出され失速し、三着に終わった。
——着内での入線ではあったものの、人気よりも順位は落としたし、なにより後ろのリージェントブラフにビビってたな。あれは自分のタイミングでのスパートじゃない、恐怖から逃げるためのスパートだ。逃げ切れるもんじゃない。
変なトラウマを植え付けてしまったかと頭を抱える牧場だったが、まだドバイ行きが失敗だったとは言い切れない。そう気を持ち直し、労いの言葉をかけに向かうのだった。
「わたしが思うに、だ。やっぱ一六〇〇って違うと思うんだ」
翌日の部室。
入室するなり牧場にそう告げたのはヘリオポーズである。
「違うって、何が?」
「走り方だよ。まだ具体的に何がどうってわかんないんだけど、何かが違うんだ。それを見つける必要がある気がする」
言われてみれば確かに、と牧場は思った。ファイルを取り出す。
「過去の君のレース結果だ。たしかに、一六〇〇のレースでは一度も勝っていない。でもスタミナの限界の向こう側にあるってわけでもないし、能力的に渡り合えるはずなんだとは俺も思っていた。何かが足りない、と言うより、どこかが掛け違えているみたいな」
過去参加した一六〇〇メートルのレースは三回。全日本ジュニア優駿、フェブラリーステークス、そして前回のかしわ記念。全てダートのGⅠだ。
結果は三着、二着、三着。適正内にある距離ではないものの、何かが変われば覆る予感はしていた。たとえ相手があのアドマイヤドンであったとしても。
「それを証明するためにさ、次の帝王賞は勝つから」
次の帝王賞は二〇〇〇メートル。今回と同じく、ノボトゥルーとリージェントブラフも出走登録をしている。
「大丈夫か?」
思わず聞き返してしまった。勝てるかどうかではなく昨日のあのことについて。
「いちいちプライドを引っ掻くよな、トレーナー。まーでも言いたいことはわかるよ。あの時ビビっちまったことは認める。でも次はない。あいつは、コンガリーじゃないからな」
ビビリのくせに負けず嫌い。何度倒れても立ち上がろうとする頑固者がヘリオポーズというウマ娘だった。強い意志をその瞳に見た牧場は、ヘリオポーズを信じてト
レーニングすることを誓う。
「一六〇〇の走り方についてだが、少し時間をくれ。こっちでもいろいろ検証してみる。ポーズはポーズなりに試してみてくれ。帝王賞の次は一六〇〇の南部杯。そこにはアドマイヤドンも出てくるしな」
ドバイの後、アドマイヤドンは長期の休暇に入っていた。次走は札幌のGⅢエルムステークス。その次が南部杯だ。
打倒アドマイヤドンを掲げ、まずはと走った帝王杯。
宣言通りノボトゥルー、リージェントブラフを退け二番人気からの二バ身差で一着。勝利を手にした。
七月。
中央校のウマ娘たちは、学園主催の夏合宿に毎年参加する。
普段のトレーニングよりも疲労は溜まるが、効率的に鍛えられる。長所を伸ばしたり弱点を軽減したりとその方針はさまざまだが、ヘリオの娘たちを抱える牧場は例外の一人を除き、彼女たちの弱点である精神力の弱さを鍛えるつもりでいた。
「なんでトレーニング内容に、肝試しが入ってんだよトレーナー」
「クラシック二冠バに子供騙しをさせる気?」
不満を隠そうともしないヘリオポーズに、苦笑しながらヘリオアネモスも同意する。
「ほらっ」
牧場の投げた三対の足っぽい何かが生えた黒っぽい何かが、ヘリオポーズの顔に張り付く。
「おわっわああああああああああああああああ⁉︎」
慌てて振り払い、全速力で浜辺へ逃げ出すヘリオポーズ。さすがダートウマ娘、速い。などと思っていたヘリオアネモスにひっついて、彼女も奇声をあげて飛び出すように駆けて行った。
「おーおー。さすがクラシック二冠バ。速いねぇ」
牧場の投げたものは昆虫のおもちゃである。本物ではない。
笑い転げるヘリオフロガとドン引きするヘリオプロミネンス。いうまでもなく、彼女も虫が嫌いだ。お化けはもっと嫌いだ。
「ねーねー、トレーナー。私のトレーニングメニューに肝試しないんだけど?」
「フロガには必要ないだろ。それに心配しなくても、君にはちゃんと別メニューがある」
指差すのは峠道。浜辺のそばにある小高い山で、頂上には神社がある。そこと合宿所を繋ぐ峠道は結構きつめの傾斜がついていた。
「あれを毎日登るの?」
げんなりして聞けば首を横に振られる。
「登るというか、強いて言えば下るんだ。ダウンヒルだな。登りは体力を温存してジョギング程度でいい。だが下りはレーススピードで降りろ。重力が働くから普段よりスピードが出る。それを体に叩き込むんだ。平地でも出せるようにな。トモの動きを意識しろ」
ヘリオフロガは笑顔で思った。
——ばかなのかな?
真っ直ぐな下りではなく、いくつものうねるようなカーブのある峠道である。
「コーナーで減速できなかったら?」
「減速は考えるな、気合いで曲がれ」
——ちょっとぉ?
「なに大丈夫、怪我しないような対策は準備してある。
お前はスピードさえつけば敵なんていなくなるんだ。期待してるからな!」
そんな無茶苦茶な先輩の限界メニューに、ヘリオプロミネンスは入るチームを間違えたと真剣に思い始めていた。
砂浜でのダッシュ、遠泳などを他チームのウマ娘たちと一緒に一通りこなしながら、空き時間にビーチバレーをしたり、日光浴をしたり、森林浴をしたり。キャンプカレー大会では、牧場のチームエリカのみヘリオポーズの意向でスープカレーを作ることになったり。
「いいか、カレーはな。飲み物なんだ。スープが命なんだよ」
などとよくわからない意見をゴリ押し、理解を得られぬまま進行しつつも完成したそれは、意外にも美味しいと評判だった。
「普通のカレーも嫌いじゃないけどさ、そんなん作ったって普通じゃん? スープカレーこそ至高」
「ドヤるポーズちゃんも可愛いと思うよ」
「ちゃんをつけるな、ちゃんを」
日が暮れて、運命の時間。
「ルートわかる? 間違えちゃダメよ? 迷子になったらちょっと危険だから、絶対逸れないでね?」
ヘリオフロガの指示のもと、三人は地図を片手に握りしめ、空いた手で別の一人の服を握りしめ、誰一人動こうとしなかった。
「スタートしていいよ?」
「わわわかってる、今スタートする。けどほら、プロミがわたしを掴んで動けなくって」
「いいいいいいいやいやいやいや、アタっアタっアタシも、アネモス先輩に掴まれてて」
「へぇ、この私に罪をなすりつけようってのかい、プロミ」
「こら、凄んでもビビってるの丸わかりだぞ、モスちゃん。やる気ないんならあたし先行くからね?」
「置いてくなー! 置いてかないでくれ‼︎」
という有様で、騒々しく賑やかに肝試しがはじまったのである。
ちなみに、ヘリオフロガは参加者ではなく運営側。案内係のような役所だったが、言うなれば仕掛ける側である。
「ポーズさん、なんでアタシが前なんですかぁ」
泣きそうな声で訴えるが。
「昼間しっかり下見してきたわたしだから、プロミが逸れそうになったらすぐわかる、って寸法よ。大丈夫、いつでも助けてやる」
「えぇ……、腰引けててイケてないしぃ……。それにそれ先輩が前歩いた方が確実な気がしますけど」
「私もそう思うからポーズ姉さん前出なよ。年長だし」
「はぁ? 年長者の言うことが聞けないのかオォン?」
「それは横暴」「です」
そんなやりとりをしていて、ふと気づく。
「あれ、フロガどこいった?」
「え、あれ? さっきまでそこにいたはずなのに……」
「え、まさか逸れた?」
「え、うそ、やばいじゃん、た助けに行かないと」
ビビりながらも心配しはじめるが
「いや、ちょっと待て、何かおかしい」
とヘリオポーズ。
あたりを見渡す三人。どことなく、さっきと雰囲気が異なるように感じる——気がする。
「え、もしかして、もしかしてですけど……」
ヘリオプロミネンスが恐る恐る思い至った可能性を口にする。
「逸れたのってまさか……」
——自分たちの方……
その可能性に思い至ったとき、不意に思い出されるヘリオフロガの言葉。
「ルートわかる? 間違えちゃダメよ?
迷子になったらどう危険なのか説明はなかったが、絶対逸れてはいけないと言う念押しが、その危険の意味を示している気がしてならなかった。
「異界に迷い込んで帰って来れなくなるとか、行方不明になるとか、神隠しに遭うとか……」
「ポーズ姉さん、それ全部同じことだよ……」
「ええっ、じゃあアタシたち、異界に迷い込んじゃってる、ってコト⁉︎」
その時、生ぬるい風が通り抜け、近くの茂みが音を立てて揺れ始めた。
ビクッとする三人。
茂みに隠れるのは妖怪か化け物か。賢さに秀でた三人は、恐怖のあまり知性が極限まで低下していた。
がさがさっ‼︎
その音にびっくりして、三者三様我先にと駆け出していく。
「うわわああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎」
地図を手にしている事実を忘れ、現在地の確認という基本ももはや頭にはなく、ただひたすらがむしゃらに走り続けて数分後、ようやく見えてきた灯りと見知った顔の集団にホッとしたのか泣きながら合流するのだった。
「えっえっ、なんでそっちからきたの? ルートあっちなのにって、え、なになに、ガチ泣きしてるじゃん……うわぁ……」
ヘリオフロガもちょっと引いた。
汗と涙と鼻水とよだれでとんでもないことになっていた三人は、とても人に見せられないような顔でへたり込み嗚咽を漏らし始める。
ヘリオフロガは道中こっそり抜け出して、最短距離でゴール地点にたどり着いていた。わざわざ道中で脅かす役はなく、規定のルートを冷静に回ればものの数分で辿り着けるはずだったのだが、三人は我を見失い、道も見失い、ずいぶん遠回りしてゴール地点へとたどり着いたのである。人好きな野良猫を引き連れて。
本来であれば、ヘリオフロガは初めからここにいたことにしてスタート地点でのやり取りに齟齬を発生させ、三人の肝を冷やさせそうかと思っていたのだが、目の前の三人があまりにも哀れすぎてそれをするのはやめておいた。
「ねえトレーナー。このトレーニング、あの子達に効果あると思う?」
その問いに、濡れタオルとスポーツドリンクを手渡しながら牧場は答えた。
「まぁ、今日のこの体験より怖いGⅠの大舞台なんて、ないんじゃないかな」
とだけ答えるのだった。
夏合宿の最終日には近所のお祭りに参加し、花火大会をし、辛く苦しいトレーニングも終わりを告げた。
ヘリオポーズは心身ともに少し成長し、引き換えに先輩としての威厳を少し失った。
帰りの車の中、爆睡する彼女たちをミラー越しに見ながら牧場が考えるのは次のレースのこと。十月の南部杯
である。
ヘリオポーズにおけるマイル攻略の鍵はまだ見つかってはいなかった。トライ&エラーを繰り返し、見つけ出していくしかないがその場合いくつかのレースを落とすことになる。できれば、最小限に食い止めたい。
マイルと言われるレースは、一四〇〇から一八〇〇の間。それより短ければ短距離になり長ければ中距離だ。そのため、南部杯以降のレースも、マイルの範疇に入るレースを組もうと考えていた。
二〇〇〇で行われるJBCクラシックではなく一八〇〇のJBCレディスクラシック。そして去年勝ちをもぎ取ったチャンピオンズカップ。できればそれまでに、マイルの鍵を見つけておきたい、牧場はそう思っていた。