二〇〇〇メートル逃げ切り作戦の場数を踏むため参加したJⅢマーキュリーカップも難なく制したヘリオポーズだったが、続く南部杯でユートピアに先着を許してしまう。
その南部杯でアドマイヤドンは着外四着となって歌う権利を失い、バックダンサーとなった。続くJBCクラシックでヘリオポーズがユートピアから勝利を奪い返すも、アドマイヤドンは五着に沈む。
そして、この年最後の対決であるチャンピオンズカップ。連覇を掛けて挑んだアドマイヤドンがまさかの八着と掲示板をはずし、ヘリオポーズとの対決も六勝五敗と一気に黒星を量産することになってしまった。
入れ替わるように台頭して来た留学生のパーソナルラッシュが、ヘリオポーズに挑戦状を叩きつける状況すら発生する。
そしてその年の有馬記念に出走したアドマイヤドンはヘリオアネモスとゼンノロブロイの一騎打ちの外で、十六人中十五着という大敗を喫していた。
大晦日の夜。
寮から実家のある大阪に戻っていたアドマイヤドンに突然電話がかかってくる。
「もしもし……、え、ポーズ? どうした、こんな時間に……え? 明日? 時間ならあるけど」
『デートしようぜ』
「……は?」
唐突な誘いに、間抜けな声をあげてしまう。
『は、じゃないよ。デートだよデート。は?とか言われたら流石に傷つくんだけど』
「あ、あぁ。うん、すまない。え、いやそうじゃなくて、急だな……」
『嫌なら別にいいけど』
「嫌とは言ってないだろ……ていうか、ポーズは家こっちだっけ?」
『東京』
「え、遠すぎない?」
『明日朝イチの新幹線で行くからすぐだよ。じゃあ明日朝八時半ごろ新大阪の駅まで迎えに来て。じゃ』
「急すぎる‼︎」
しかし、その訴えは届かなかった。通話終了のビジートーンが虚しく鳴り続ける。終了ボタンを押し、時計を確認した。現在二十二時。
「朝八時半なんて六時には起きて支度しないと間に合わないじゃないか、全く……」
着て行く服を選んだら何時間寝られるやら、と思うものの、「デート」という言葉が脳内をリフレインしとても寝付けそうになかったので準備だけはしておくことにした。
年始のデートって言ったら初詣か何かだろうか、とか年始からやってるお店ってあったかどうか、とか。それに合わせつつ、ダサくならず、かつ暖かい服などとやっているとあっという間に日付は変わり、意識も飛んでいた。
「ピピピピ、ピピピピ、ピピピピピピピピピピ!」
けたたましく鳴り響くアラームにびっくりして跳ね起きる。外は暗いが時計を見る限り朝六時だ。暖房が効いているため寒くはないが、ベッドの上で服を選びながら寝落ちしていたようだった。
慌てて顔を洗いに行く。ここから新大阪駅までは乗り換えやらなんやらで一時間はかかる。一時間半以内に全ての支度を済ませなければならない。
こんな急かされる原因に対して愚痴を繰り返しつつ、しかし自分に会うためだけにわざわざ始発でこっちまでくることを思うと嬉しくなってしまって、アドマイヤドンは怒ればいいのか喜べばいいのかわからなくなっていた。
「ドン、出かけるの?」
「あ、姉さん。うん、ちょっと新大阪まで」
起きて来た姉に声をかけられ、軽く濁しつつ答える。デートとはなかなか言えない。
「そう。気をつけてね」
「うん、行って来ます」
いろいろとモヤモヤもあるが、それでもウキウキとしてしまうのを隠すことはできなかった。あいつに会えると思うと心が躍る。けれども本人に知られたくはない。だから、駅に着くまでの間だけ浮かれよう、そう思うのだった。
が。
「よう、待ったか?」
改札前でソワソワしながら待っていたら、いつも見る顔と共にいつも聞く声を聞いた。
「待ってない」
「そうか、それなら何より。それはそうと悪いな、いきなり呼び出して。と思ったけど嬉しそうなドンの顔見てたら別に悪くないのかもって思えてきたよ」
「は⁉︎」
気持ちは隠せてなかった。表情も、尻尾も。
「別に、会いたかったとかそういうんじゃないし、呼び出されたから仕方なく」
「わたしはドンに会えて嬉しいけどお前は違うのか?」
「……あー、すぐまたそういうことを言う!」
過去、あまり感情を表に出して来なかったアドマイヤドンだが、気がつけば表情豊かになっていた。それを理解している者は多くない。彼女の家族やトレーナーなど身近にいる者くらいだ。
彼女の本来の姿はこちらであったが、姉の境遇を知ってからあまり感情を表に出さなくなっていたのだ。姉に遠慮して。
それを当の姉も彼女たちの母も心苦しく思っていたがヘリオポーズとの出会いがそれを変えた。アドマイヤドン自身はそれについて多少の戸惑いはある。しかし、それらを払拭してしまうほどヘリオポーズは眩しかった。そしてそれと同時に、自分自身に対して影を感じることも増えた。
「腹減ったから、何か食べよう」
「元旦の朝だぞ? やってるのはコンビニくらいしかない」
「コンビニでいいよ。何か買って、食べながら歩こう」
「行儀悪いなぁ……」
と言いつつも、反対はしなかった。それはそれで楽しいものだ。
適当に買ったものを食べながら、市内を歩いた。淀川を越え、梅田へ。初詣に、と近くの神社へ寄るも
「ここ、恋愛成就の神社だぞ……」
「面白そうだしいいじゃん」
という感じで緩く新年を満喫していく。その後は電車で天王寺まで行き、駅前の天王寺公園をふらついたりした。
「お、正月から動物園やってるんだな。寄ってこうよ、ドン」
案内するどころか、どんどん先へ進んでいくヘリオポーズを見て、ふとレースでのことを思い出す。ヘリオポーズの背中がどんどん遠くなって行くあの感覚。一人取り残されるようなその薄寒い感覚は、アドマイヤドンから笑みをいとも容易く奪い去る。
今年も走るつもりではいる。しかし、ダートでも結果を残せなくなったら、そもそもヘリオポーズに追いつくことができないのならば、自分に走る意味があるのかとどうしても考えてしまうのだ。
ウマ娘としての自分の限界が目の前にあるようで、相手は見えるのに遥か遠くに感じる。先導していたはずの自分が、いつしか追いつくことさえできなくなっていることに心は掻き乱される。
もし完全に自分が走れなくなったら、この目の前にいる最大のライバルは自分のことをどう見るだろうか。道端の石と同じような扱いになるのだろうか、と。
——それが怖い。
いまが楽しいからこそ、尚のこと怖い。
「どうした?」
その問いで我に帰る。自分はいま、どんな顔をしていただろうか。
「元気ないな」
「そんなことは、ない……」
つい嘘をつく。やはり認めたくないから。
「去年の秋くらいからだな。南部杯を過ぎたあたりくらいから」
「……」
「何かあったのか?」
——あぁ、そうか。なぜ君がわざわざ大阪まで来てくれたのか、わかった……。
自分を慰めに来てくれたのか、あるいは寄り添いに来てくれたのか。どちらにせよ、それは悔しさを呼び起こすものでしかない。自分の弱さ、あるいは限界。そういったものを認めなければならないという悔しさ。
「なにも、ないよ……なにも」
弱々しい否定。だがそれが真実なのだ。何もない。何もないからこそ辛い。原因が外にあればそれを取り除くだけでまた走れる。だがそうではないのだ。
「私はもう、走れないかもしれない……」
その言葉を口にすることは、非常に困難だった。認めたくない気持ちが、溢れ出る嗚咽が邪魔をする。
「わた、しは……もう、君に、追いつけない……」
もっとたくさん一緒に走りたいのに、勝った負けたと競り合いたいのに。もうそれが叶わないかもしれない。この衰えてしまった脚によって。
恥も外聞もなく、ヘリオポーズにぶつけるしかなかった。甘えかもしれない自覚はあった。でも止めることができなかった。ライバルのこのヘリオポーズにだけは弱いところを見せたくなかったが、しかし見ても欲しかった。弱い自分を、情けない自分を。いままで前を走り続けて自惚れていたかもしれない、自分の愚かしさを。
受け止めて欲しかった。
「私はもう、君のライバルに相応しくない。それが悲しくて、悔しくて、寂しくて……つらいんだ……」
涙がぼろぼろ溢れる。どんなにどんなに拭っても、それは止まない。だからただ、嗚咽と共に気持ちをぶつけ続けるしかなかった。
「もっと一緒に走りたいのに、もっとそばで歌いたいのに、どんどん離れて行くんだ、君の背中が。私と君との間に、どんどん他の誰かが入ってくるんだ。私がいた場所に、私の場所なのに……」
どんどん奪われて行く焦燥感。独占欲以外のなにものでもないのはアドマイヤドン自身分かっていたが、口にしたのは初めてだった。思っていただけのことを改めて言葉にすると、やはり心に突き刺さる。すごく痛い。
「まぁ、そんなとこじゃねーかなとは思ってたよ」
その言葉と共に、肩を引き寄せられた。自然と胸元に顔を埋める形になる。涙と鼻水で服を汚してしまうと思って離れようとするが
「今だけ貸してやるよ、お前の気持ちは、わからなくはないからな」
と言われ思い出す。自分がクラシック三冠を目指すために、ダートから芝に移った時のこと。その時のヘリオポーズのことを。
ダート専門の自分には届かない芝のレースに、ライバルが戦場を移してしまった時の悔しさと寂しさ。ヘリオポーズはそういう形で経験していたのだ。二年も前に。
「う、うぁぁぁぁあああああああああああああ」
もう、言葉を発することはできなかった。泣き疲れるまで、ただひたすら子供のように泣くことしかできなかった。
心が苦しい時、撫でてくれる相手がいるのはなんて幸せなことなんだろうとアドマイヤドンは考えていた。
日が暮れ始めて帰路に着く。ヘリオポーズを見送るため、新大阪へと向かう途中だった。
「ドン、聞いてくれるか」
「……なに?」
「今年の目標だよ。わたしの」
「ポーズのことだから、すごいことをしそうだな」
「ん、そうだな。多分すごいと思うよ。達成できればね」
一呼吸おいて、静かに宣言する。
「わたしは今年、国内のすべてのダートGⅠに勝つ。二月初めの川崎記念から始まって年末の東京大賞典まで。交流重賞を含めた八つのGⅠを、全部勝つ」
冷たい冬の風が頬を撫でる。目が覚めるほどの高い目標。
「そ、それは……私ですら思い付かなかったよ……」
「まぁ、芝とダート行き来してるドンじゃ、スケジュール的にも選択肢に入んないだろうさ」
と言って笑う。
「でもさ、これはドンの成し遂げた偉業から思いついたんだよ」
「……え」
ヘリオポーズは説明する。アドマイヤドンの偉業、春秋ダート制覇やクラシック三冠への挑戦がそのきっかけだったことを。
「もしドンがいなければ、わたしはここまで来れなかったと思うんだ。GⅠに何個か勝てればよかった程度だったかもしれない。もしかしたら、一つも勝てなかった可能性だってある。いつもいつも前を走り去って行く憎たらしい背中があったからこそ、わたしは前だけを見て走ってこれた。それは、今までもこれからも変わらない」
「ポーズ……」
「一応今年も走るんだろ? どこまでやれるかわからないけど、走るからにはやれるだけのことはやろうよ。んで、その上でやっぱりどうしても無理だと思ったら」
「……思ったら?」
刹那の逡巡。
「やめるときにさ、その髪留めくれよ。レースの時につけて走るから」
「この、蹄鉄型の髪留めを?」
アドマイヤドンの前髪を留めている髪留めを指す。
「そう、それ。これをさ」
と言って勝手に外す。
「あ、こら」
「こうつければ、アルファベットのDに見えるだろ?」
「……そっちは逆だよ。Cに見える」
「お、こっちか。とにかく、ドンのDだ。もしその時が来たら、わたしがお前の髪留めと一緒に走るよ。そして勝ち続ける。ずっと一番前だ。先頭だ。相手が誰であろうと、全力で抜き去ってやる。ダートである限り」
髪留めを外し、ライバルの前髪に戻す。
「まるで形見みたいだな」
「んー、嫌ならいいけど」
「嫌とは言ってないだろ」
苦笑して、改めて返答する。
「いいよ、その時が来たら。この髪留めを君に託すよ」
「え、まじで」
弾かれたように笑顔になるライバルを見て、思わず笑い出した。
「笑うなって。これでも断られたらどうしようって、心配だったんだからな」
安堵のため息を漏らすヘリオポーズに、容赦なく正論で殴りつける。
「ふふふ、そんなに怖いのにどうして求めたのさ」
それにはすぐに答えず、そっぽを向いてから
「わたしだって寂しいからだよ。お前がいないと」
なんて答えるものだから、アドマイヤドンは照れ臭さと恥ずかしさから固まるのだった。
「気をつけて、ポーズ」
「おう。ドンもな」
「……なんていうか、応援するよ。今年の目標。全力で阻みに行くけど」
「全力で引き離してやるよ。ドンの泣き顔って可愛いからさ、また見せてくれ」
「ンンッ!」
そんなやり取りのあと、拳を突き合わせて別れた。発車のベルが鳴り、ドアが閉まる。二人は互いに見えなくなるまで、ずっとその場を動こうとしなかった。
それぞれの想いを乗せ、新たな一年が始まる。