真面目に治療に専念したおかげで早期に完治し、メイクデビューに向けての調整は余裕を持って万全に行われた。
元々中等部にしては恵まれた体格と規格外と言っていい類稀なパワーを有していたし、瞬発力、賢さにおいても平均以上のものを持っていた。
あとは——
「うわっ! ゴっ、でたでたでた! うわわーーーー」
「よ、よしまかせろ。くらえ」
後ろに回り込んだヘリオポーズを庇いつつ、殺虫剤を吹きかけで標的を倒——
「うぎゃーーーーーーーー飛んできたーーーーーー!」
というような有様で。
——虫を見ただけでビビり散らかすこの精神力をどうにかせんといかんかもなぁ。
時折、自分の影にさえ驚くのである。
「ん? なんだこのテープみたいなやつ」
「それはシャドーロールと言ってな、鼻の上につけるんだ」
「あー、ブライアン先輩と同じやつか。なんかわんぱくコゾーみたいだな、これ」
牧場にとって、ヘリオポーズが感想を述べるだけで、文句も言わずつけてくれるのはありがたかった。これで少しはマシになるはずだ。ビビり解消のためだなんて言ったら、彼女はきっとムキになるだろう。
「あと、これ。高松先生から預かってきた。レースの時は必ずつけてくれとのことだ」
「バンテージ? ん、わかったよ」
「まぁソックスで隠れるだろうし、衣装の邪魔にはならないはずだけど」
「走りにくくならなければそれでいいよ。それに」
「それに?」
「これ巻くと先生に見守られてる気がして、なんか勇気出そうだなって」
意外とジンクスを大事にするタイプかもしれない、牧場はそう思った。余談だが学園にはジンクスブレイカーの新入生が一人いたことをなんとなく思い出す。
「で、トレーナー。メイクデビューは結局いつ、どこでなんだ?」
「あぁ、そうだな。それを伝えようと思ってたんだ」
資料を見せる。
「記念すべき初戦は新潟。ダートの一二〇〇だ。コースは左回り。来週末だから、ちゃんと準備しておけよ」
「オッケー。軽くねじ伏せてきてやるよ。みてな、トレーナー」
「よし、その意気だ」
そしてメイクデビュー当日。
『向こう正面、第三コーナー!
ヤマニンアッティラ、一気に先頭にたちまし、おおっと!
ヘリオポーズ仕掛けてきた!
第三コーナーで早くもヘリオポーズが仕掛けてきた!
四コーナー手前で先頭に立ったヘリオポーズ!
そのままグングン加速していくぞ、後続とは既に三バ身以上か!
残り二〇〇メートル!
しかし後続ははるか後方だ!
ヘリオポーズこのまま押し切る!
ヘリオポーズ、今ゴールイン!
ヘリオポーズ完勝、完勝です!
圧倒的な強さで一番人気に応えました!』
終わってみれば六バ身差。完璧なレースだった。
作戦は差し。一二〇〇はヘリオポーズにとっては適性距離の半分しかない短いレース。いつどこで仕掛けるべきかの難しい判断、しかし頭のいい彼女にとっては朝飯前だったようだ。
「トレーナー、宣言通り軽くねじ伏せてきたよ」
「おう、よく頑張ったな。この調子でウイニングライブも決めてこい」
「任せろ!」
ヘリオポーズにとって初めてのウイニングライブはセンター。牧場にとって、それはあの走りを見た時から分かり切っていたことだった。
問題はこの先。どのように進むかで誰と当たり勝ち負けがどのようになるかが決まるし、そして何より、トゥインクルシリーズの三年間を走りきってURAファイナルズへと進めるかが決まる。
舵取りを間違えず、しっかり走り勝つこと。
それが二人にとっての課題となる。
ヘリオポーズのライブを見ながら、今後のレース計画を練る牧場だった。
第二戦は阪神の野路菊ステークスに出走した。芝適性を図るためだったが、十八人中四番人気で結局四着。
適性があれば勝つこともできたろうが、やはり彼女の脚はダートに向いているとわかった。適性のなさを、身体能力でカバーしてもぎ取った掲示板だ。
「まぁ、無敗にこだわる必要はない。バ場の適正は今後のレース選びに必要だったしな。不得意な芝のオープン
戦で四着に入ったのは、むしろすごいと言える」
「それでもわたしは勝ちたかったんだ! くそ、トレーナー。次のレースだ! 次を走らせてくれ!」
ヘリオポーズの負けん気の強さは、トレーナーにとっても望むところだった。能力があり、気持ちもある。怪我の種も治療し調子もいい、となればあとは存分に走らせてやるだけだ。
「よし、いいだろう。だがトゥインクルシリーズに重賞のダートレースは少ない。だから我々は、遠征する必要がある」
「遠征?」
「北海道だ!」
次走は門別レース場で行われる、交流重賞。
「GⅢクラスのJBCジュニア優駿! 地方のウマ娘たちの中からも強豪が集まってくる。ダートは基本、交流重賞を軸に進めていくことになるから、地方の実力を見るのにもいい機会だ」
「北海道にもスープカレーあるかな」
「ん? 魚介とか乳製品とかじゃなく、か?」
「スープカレーがないとさ、やる気が出ないんだよ」
まさか北海道にまで遠征する羽目になるとは思ってなかったのか。牧場は笑いながらフォローする。
「大丈夫、実は旨いスープカレーの店はもう探してあるんだ。ほら、ここ」
スマートフォンで見せるスープカレー店のサイト。ヘリオポーズの目が輝く。
「北海道はスープカレーの本場だからな、野菜もゴロゴロ入ってて美味そうだろ。幸い札幌市内だから門別レース場からは一〇〇キロ圏内だし、帰りの新千歳空港も同じ方面だ。札幌まで少し足を伸ばして千歳市にUターンすればいいだけ」
「交流重賞も鎧袖一触にしてやるよ! 待ってろよ、スープカレー!」
——単純というかなんというか。
苦笑しつつも、やる気を維持してくれるのはありがたいことだった。
十月の最終週。
門別レース場は夜間のレースということもあり、曇り空が肌寒さを感じさせる気温となっていた。しかしやはりウマ娘のレース、特に交流重賞というレースの熱気は凄まじく、ジャケットが暑く感じてしまうほどだった。
バ場は良。総勢十三人のウマ娘によるGⅢである。
『さぁ、本日の主役たちを紹介しましょう! 登場したのは三番人気、一枠一番のワインバリアー!』
大きな歓声が上がる。
『続いて一番人気、船橋の雄、ラヴァリーフリッグ!』
一層大きな歓声が上がる。大外枠十三番の実力者だ。堂々とした表情で歓声に応える。
『出てきたのは四番人気、六枠九番のヘリオポーズ!』
表情を見る。
——大丈夫、いつもと変わりない。気圧されている様子もない。やれる。
彼女の能力はここでも上位のはずだった。前走が四着だったことで人気は負けているが、実力で負けているわけではない。
『さぁ、出てまいりました! 首領の名を持つウマ娘! 一番人気はこの子、アドマイヤドン!』
大歓声に静かに応えるその姿。牧場は感じた。この場で一番警戒すべきは彼女だということを。落ち着き払った静かなその瞳には、確かな闘志が感じられる。
——追い比べてみるまではわからんが、ヘリオポーズと対等か、あるいはそれ以上の何か。得体のしれなさを感じる……。頑張れよ、ヘリオポーズ……!
ファンファーレが鳴り、ウマ娘たちがゲートへと入っていく。
大外枠ラヴァリーフリッグが悠々とゲートに入り、開く!
『今スタート! 勢いよく飛び出したのはテンダーフォーム!』
ヘリオポーズもいいスタートを切った。差しの作戦だが、スタートでいい位置につければ最後の追い上げが楽になる。
ダッシュよく飛び出したテンダーフォームに続くのはアドマイヤドン。
「アドマイヤドンは先行か」
得体のしれない相手を後ろにするより、視界の中に入れた方がまだ気楽だ。ヘリオポーズはバ群の最後方のイン側に位置取り、前を伺いながらのレースに徹する。
——そうだ、それでいい。レースは一八〇〇。焦る必要はない。
バ群は固まったまま、第一コーナーへと雪崩れ込んでいく。
向こう正面に入り、先頭はテンダーフォーム。一バ身から二バ身後ろ外側にカットラスシャープがつけ、その内側にアドマイヤドンが続いている。
さらに二バ身離れてウマ娘たちが集団を形成し、ラヴァリーフリッグは中団の外側を、ヘリオポーズは最後尾内埒ギリギリを追走していた。
——前の人数は多いけど、横にばらけてるからバ場は荒れてない。最初のコーナーで前の連中のコーナーワークの下手さはわかった。この勝負、もらった!
ヘリオポーズは勝利を確信する。ゴールまでの直線は三〇〇。仕掛けのタイミングさえ合えばメイクデビュー
のような完璧なレースができる。
そして第三コーナー。
『さぁ、先頭はまだテンダーフォーム、粘っています。
ヘリオポーズ、伸びてきた!
開いた内側から一気に伸びてきた、ヘリオポーズ!』
ヘリオポーズの仕掛けのタイミングは完璧だった。
完璧のはずだった。
『先頭に立ったのはアドマイヤドン!
後続との差は二バ身から三バ身!
グングン突き放していくぞ! これは強い!』
——なんだあいつ……! 差が、縮まらない!
『残り二〇〇メートル!
アドマイヤドン、脚色は衰えない!
二番手ヘリオポーズも必死で追いかけるがこれは届かないか!
アドマイヤドン、差を広げていく!
アドマイヤドン、アドマイヤドンだ!
勝ったのはアドマイヤドン!
二着はヘリオポーズ、一番人気ラヴァリーフリッグは四着に沈みました!』
全力で走り切ったヘリオポーズ。しかし三バ身半届かなかった。後ろとの差は半バ身。
これはアドマイヤドンの完勝であり、二人の力の差を表していた。
牧場はヘリオポーズのもとへと急ぐ。
——初の重賞競走だ。こういうことも起こる。しょげてなければいいんだが。
「ヘリオポーズ!」
「お、トレーナー」
コースとパドックを繋ぐ地下道。ウイニングライブの控室はその道中にあるため、そこまで駆けていく牧場。その姿を見てヘリオポーズは想定外のものを見たかのような表情で答える。
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
「はぁはぁ。いや、その、心配できたんだよ」
「心配? あぁ、脚のことか。この通り、何も異常ないよ。この後のライブもしっかりこなせる」
——そういうことではないんだが。
そう思うだけで別の言葉をかける。
「残念だったな。でもよく頑張った」
「ん? あぁ。ありがと。まぁわたしにかかければさ、交流重賞くらいどうってことないよ」
とはいうものの、どこか元気がない。
いや、元気がないのではない。溢れ出る闘志をなんとか抑え込んでいる、そんな印象だった。
「なぁ、トレーナー。次のレースはさ……」
彼女の言わんとしていることは分かっていた。
「分かってる。アドマイヤドンのレースに合わせよう。まぁ、彼女がダートを走るならって条件はつくが」
期待していた返事に思わず高揚の笑みがこぼれる。
「頼んだよ、トレーナー。あいつにてっぺんを譲ってやるのは今回だけだ。へへへ、じゃ行ってくる!」
牧場は安堵した。初めての本格的な敗北に心が折れるウマ娘は少なくない。実力があればあるほど、心のどこかにある自惚と挫折の落差は、簡単にその鼻っ柱をへし折ってしまう。生易しいものじゃない。
身体的にはトップクラスのヘリオポーズも精神的にはまだまだ未熟で、無視できないウィークポイントだ。
対する相手は強靭な精神力を持っているアドマイヤドン。彼女に勝つためには、やはり精神面も磨かなくてはならない。次に向けての一歩を踏み出すための準備段階として、やる気に満ちているということが大事だったがどうやらその点は心配無用だった。これならすぐに次のトレーニングに入れる。
ライブが終われば一度ホテルへと戻り、東京に戻るのは明日になる。それまでトレーニングメニューを考えつつ、札幌で英気を養うことにした。