ヘリオポーズは今、ドバイ国際空港にいた。
知らない言葉のアナウンスが飛び交う。アルファベットの他に、全く読めない文字が並ぶ。ウマ娘だと気付いた知らない人たちからは軽率に挨拶された。
「ほら、ぼーっと突っ立ってたら迷子になるぞ」
牧場に呼ばれ、慌ててついていく。
何も言葉が出てこない。何を言えばいいのかわからない。そもそも未だに実感がない。
ことの始まりはフェブラリーステークスのライブの後。何かを(勝手に)決意した牧場から告げられた、
「よし、次はワールドカップだ。ドバイに行くぞ」
という唐突な一言で、全ては転がっていった。
家族への報告、パスポートの準備、一週間近い旅行になるため、それに見合った大容量キャリーケースと必需品の用意。日本語で書かれたドバイのガイドブック。
フェブラリーステークスからドバイワールドカップまではおよそ五週間。しかし飛行時間と時差ボケへの対処のため早入りするので前週にはドバイ入りしなくてはならない。
「せめて心の準備をする時間をくれ……せめて半年くらい……」
知らないものに対する好奇心よりも怯えが勝る。ヘリオポーズは相変わらずビビリだった。
空港からタクシーで一路ザ・メイダン・ホテルへと向かう。このホテルはメイダンレース場に併設された高級ホテルで、レース関係者は無料で規定日数宿泊することになる。
「む、無料なの⁉︎」
「航空券もな。世界中の一流ウマ娘が招待されて走るのが、ここドバイでのレースだ。その費用はドバイのウマ娘レース団体が負担してる。ポーズも世界に名だたる一流のウマ娘として認識されたってことだな!」
高笑いする牧場だったが、ヘリオポーズはとてもそんな気になれなかった。
自分に自信がないわけではない。ウマ娘として何度かGⅠを取っているし、トップ争いをする実力がある自負もあった。しかし、である。
——いきなり世界ってのは、ちょっと一足跳びすぎるっていうか……。
眼下に広がるメイダンレース場を見下ろしながら、ヘリオポーズはため息をつくのだった。
夜、レース関係者たちで行われるパーティがあり、出席のための準備をしていたのだが。
「ドレスなんか持ってない! だから出ない!」
と駄々をこねるヘリオポーズをなんとか宥め、手配したドレスを着せての出席だった。顛末を聞いて、アドマイヤドンはお腹を抱えて笑い倒した。
「それで君はあんな変な顔をしていたのか」
「あんな顔ってどんな顔だよ」
「目がまんまるになってたよ。放心した猫みたいに」
「……」
カクテルグラスに入ったにんじんソーダを受け取りながら、アドマイヤドンは話を続ける。
「それで、どうだい? 調子は」
レースへの意気込み。前回ヘリオポーズが望んだアドマイヤドンとの再戦の機会が今回のドバイだ。ヘリオポーズが気圧されていることを知っていながら、少し意地悪く挑発している。
「わからん。もうなーんもわかんない。なんでわたしがここにいるのか、いなきゃなんないのか、もうぜーんぜんわかんない」
「おいおい、大丈夫か、そんなことで」
「でも、レースになれば話は別だ。相手が誰であろうとぶち抜くだけ。あぁ、あんまりにちっこくってドンだって気づかなかったらごめんな」
「はー、言ったな? 私に追いつけなくて泣きべそかいても知らないからな」
「だれが」
そして、夜は更けていく。
数日が経ち、いよいよその日を迎えた。
ドバイワールドカップを含め七レースが開催されるこの日は「ドバイワールドカップデー」と呼ばれている。
参加するレースは夜間に行われるため、そういう調整が必要だった。
ダート一六〇〇のGⅡゴドルフィンマイルから始まりアルクオーツスプリント、UAEダービー、ドバイゴールデンシャヒーン、ドバイターフ、ドバイシーマクラシックと来て最終レースがダート二〇〇〇メートルで行われるドバイワールドカップだ。
発走時刻は現地時間で深夜一時五〇分。日本時間では二十時五〇分である。大井レース場で行われる最終レースと同じ。だが問題は。
——うー、やっぱりアウェーは独特な緊張感があるな……やだなぁ……。
というヘリオポーズの気持ちだった。
小さい島国から出たことのない彼女にとって、大陸はあまりにも広すぎた。それは牧場も理解していたし、キャパシティオーバーであることも承知の上だった。それでも体験させねばならないという想いがあったからこそ招待を受諾し、参戦を決めたのである。
——正直なところ、今回のレースは結果を期待してはいない。入着、いや掲示板に入ろうものでも万々歳だがここでそれを求めるのも酷だろう。……本人に言えば殴られるだろうけどな。でもこれを経験してしまえば、国内のレースなんて大したプレッシャーにならなくなる。言うなれば場数のためのレースだ。あいつのレース人生先は長い。真のダート最強女王になるための、ステップだ。乗り切ってくれよ、ポーズ。
ドバイでのレースはファンファーレがない。四〇分程度の感覚で淡々と進んでいく。
それもあって、ヘリオポーズの調子はどんどん狂わされていった。
日本からドバイへの参戦はヘリオポーズ、アドマイヤドン、そしてトーホウエンペラーの三人。全十二人のウマ娘によるレースだ。
一番人気はトーホウエンペラー。二番人気にアメリカのコンガリー。
アドマイヤドンは三番人気、ヘリオポーズは六番人気だった。
——うひー、わたしでも六番人気なのか。世界で、六番目……!
日本でこの人気だったら確実に不満だったはずだ。それが少し舞い上がり気味になっている。そわそわしたその姿を見て、アドマイヤドンは昨年のJBCクラシックのことを思い出していた。
最終レース、ドバイワールドカップのゲートインが開始される。
アドマイヤドン、五枠五番。
トーホウエンペラー、その隣五枠六番。
ヘリオポーズ、六枠八番。
コンガリー、七枠十番。
『大外枠のマッチアンセム、ゲートインが完了です。
今スタートしました。
トーホウエンペラー、勢いよく飛び出してハナに立ちました。
その後ろから十一番シャインアゲイン、上がって行きます。
さらにアドマイヤドン、四番ジェネラルチャレンジ、すぐ後ろにはレイジングフィーバー。
この辺りで各ウマ娘、第一コーナーへと向かって行きます』
スタートは混乱もなく、淀みのない展開でレースは進む。
『ファルブラヴ、その外にハーランズホリデイ。二番人気、コンガリーはすぐ後ろ。
その後ろにマッチアンセム。並んでヘリオポーズ。
すぐ後ろにサラヴァ、最後方はユーとなっています』
先頭は相変わらずトーホウエンペラー。今日のレースは彼女がペースを作っていた。
ジェネラルチャレンジが離されまいと追い縋る。
アドマイヤドンとシャインアゲインはその後ろから様子を見ていた。見ればトーホウエンペラーのペースが少し速い気がする。二バ身から三バ身ほどのリードを確保しているが、
——最後まで持つかは疑問だな。
とシャインアゲインは感じていた。同じ先行バとされている日本のアドマイヤドンが抑えているのを見て確信する。
——なら奴は勝手に落ちてくる。ノせられたジェネラルチャレンジと一緒にな。最後の直線で楽に前に出られるだろう。今日のレースはもらったわ!
そんなシャインアゲインよりも、アドマイヤドンは自分のすぐ隣にいる何者かにプレッシャーを感じていた。チラッと振り返る。
——いつの間に……。
コンガリーだった。先ほどまで後方につけていたコンガリーが、第三コーナーを前にしてほぼ先団まで上がってきている。彼女がどんな脚力を持っているのかアドマイヤドンは知らない。だが、その雰囲気はアドマイヤドンをもってしても気圧されるほどの威圧感。
退かねば殺される、そんな錯覚すら覚えかねない並ならぬ気迫。
——こんな闘争心を持っていたのか。ビリビリくる。けど!
アドマイヤドンは一歩も引かず、内埒そばを駆け抜けていく。
しかし、コンガリーにとってそれはなんの意味もなさなかった。
「キュートなポニーちゃんたちに教えてあげる。これはワタシの勝ちパターンなの!」
第四コーナーを抜けて立ち上がったときには、コンガリーは二番手となっていた。アドマイヤドンが徐々に引き離されていく。
——バカなっ、なんて脚!
先頭をひた走るトーホウエンペラーもすぐに追いつかれた。ラストスパートの伸びが違う。
残り二〇〇メートルでコンガリーがあっさり先頭に立つ。
それに食らいつこうと粘るトーホウエンペラー。
しかし一バ身、二バ身と引き離され、ゴールラインを通過したときには四バ身。
さらに一バ身ほど離されてサラヴァが入着、首差でアドマイヤドンは四着だった。
「ポーズはっ⁉︎」
振り向く。いた。自分から六馬身後ろの八着。
ペースを落として、クールダウンに入るヘリオポーズによっていくアドマイヤドン。
「大丈夫?」
ヘリオポーズは気づいていないのか答えない。
「ポーズ!」
強めに呼びかけて、ようやく反応があった。
「大丈夫か?」
「大丈夫だよ。別に怪我したわけでもないし。ただ」
「ただ?」
「いったいなんなんだあいつ……」
ヘリオポーズの言うあいつとは、間違いなくコンガリーのことだ。向こう正面からのスパート。三コーナー手前で先団まで登り、四コーナーを抜けた先で一気に加速していく。恐るべき末脚。
そして何よりも恐ろしいのは、今見せている人懐っこい笑顔からは想像できないほどの、レース中の気迫。
ヘリオポーズは後方で、すでにコンガリーに喰われていた。それでも立ち直り、なんとかかけたスパートでようやく八着。まるで、咆哮で獲物を萎縮させるモンスターのような走り。ヘリオポーズは日本でまだ、そんな相手と戦ったことがなかった。
——わかるよ、ポーズ。私も去年、クリスと戦って同じことを感じたから。
先行バにとって、鬼のような末脚の直線一気ほどプレッシャーを受けるウマ娘はいない。世界にはとんでもない奴がいる。そんなことを感じたアドマイヤドンはひとり静かに、言い知れぬ歓喜に震えていた。
ちなみに、シャインアゲインはヘリオポーズのさらにその後ろでのゴールだった。
「ななななんなんだよ、あいつはヨォ……」
レース後、ドバイで一日を過ごした後、一行は日本へと帰国した。
羽田空港のロビーでは、ヘリオアネモスとヘリオフロガ、そして新しく入部していたヘリオプロミネンスが出迎えに来ていた。
「おかえり、ポーズ姉」
ヘリオアネモスが最初に声をかける。「ポーズ姉」呼びをしているが、ヘリオアネモスの方が背は少し高い。
「おう、出迎えご苦労」
偉そうに仰々しく振る舞うヘリオポーズ。それもそのはず、「ヘリオ」の中で初の海外遠征に出たウマ娘だ。偉ぶりたくもなる。
「ドンちゃんドンちゃん、ポーズちゃん向こうでどうだった? ビビり散らかしてなかった?」
一緒に出てきたアドマイヤドンにも声をかけるヘリオフロガ。巻き込まれる形で会話に参加することになったアドマイヤドンだが、川奈トレーナーが駐車場で待っているといって時間をくれたので少し混ざることにした。
「ポーズはな」
真顔で続けようとしたが無理だった。思わず吹き出してしまう。
「パ、パーティーで、あはは……借りてきた猫みたいな顔、してた……まんまるな、目をして、くはっはっはっはっはっは」
「おい、いい加減なことを言うな、笑うな!」
笑い転げるアドマイヤドンを黙らせようとあの手この手を尽くすヘリオポーズだったが、後輩たちは
「笑い転げるドン先輩を初めて見た」
という衝撃で一致していた。彼女は普段、姉に似て物静かで笑い転げることはない。
「まぁ、結果は残念だったが、いろいろ収穫はあった。俺もポーズも、そこで笑い転げてるライバルさんもな」
「トレーナー、お土産という収穫は?」
「ある。車の中で配ってやるから、お前ら荷物運ぶの手伝え。ほらほら」
駐車場にて。
「コンガリー、思った以上でしたね、川奈トレーナー」
「全くです。まさかあそこまでとは」
ライバルは共に戦った戦友でもある。戦いが終わり感想や考察を述べ合うのも、共に戦う者の勤めだ。
「いつぞやのモンジューを思い出します。今回は芝ではありませんが」
「世界で同じダートを走る限り、いつかまたあいまみえることもあるでしょう。その時こそは撃ち落とせるように、準備をしておくつもりですよ」
それはまさに、アドマイヤドンに世界を、という意気込み。
「さすがですね。頑張ってください。うちのポーズにはまだちょっと早いようなので、彼女の成長を見てまた考えます」
「そうですか。それでは、我々はこの辺で」
「お気をつけて。またどこかのレース場で」
走り去る川奈トレーナーとアドマイヤドンを見送り、牧場は自分の車に戻った。
「よーし、うちらも帰るぞ。シートベルト締めろな」
少女たちからのボロ車買い替えの要求は無視する。
「あー、無視するならいい車に乗ってる川奈トレーナーのところに移籍しようかなー」
「勘弁しろ。俺の給料でそうそう車を買い替えてられないんだって。ボロって言うけど、まだ買って十年だぞ」
「もう十年の間違いでは?」
きゃっきゃする少女たちを背に車を走らせ、一路府中のトレセン学園へと向かう。
運転に集中しつつも、牧場は今回の遠征をどのように活かすかについて思案していた。