会食の最中だというのに、不気味な橙色の光に包まれた豪華な食堂は、王の嫌らしい声と小さな少女が啜り泣く声だけで満たされていく。長方形の食卓の上には、ほんの数分のうちに沢山の料理が並べられていくが、そのうち一つが見たこともない、手の込んだ料理だった。フランス料理ともイタリア料理とも違う。サラダやパンは見覚えのあるものだが、唯一メインディッシュと思しき肉料理だけは我でさえ目にしたことのないモノだった。隣にいるレナータは銀のナイフを手に取り、僅かな音さえ立てずに、肉にナイフを入れていく。形からして辛うじて鳥の類であることだけは理解できる。が、それが何なのかまでは分からなかった。黒胡椒をはじめとした様々なスパイスがかかり、赤茶色のソースの海に横たわっているそれを、彼女はフォークで勢いよく刺し、躊躇いなく口にした。何も言わないが、表情が少しだけ和らいでいる。濃い赤身の肉は何となく牛肉を連想させるが、
「……懐かしい」
「どうした?レナータ」
「これ、鳩の……」
どうも違うようだった。その消え入りそうな声は王の耳にも入ったらしく、
「そうだよぉ。それは君が一度だけ口にした鳩のお肉さあ。どうかなぁ?君なら喜ぶと思ったんだけどぉ」
「……おいしい、ね」
そう口にしながら、彼女はちびちびと一口大に切った肉を黙々と食べ続けていた。傍にあるシーザーサラダは半分程減っているし、水が入っていたグラスは脂がうっすら浮いているとはいえ、もう二回程注ぎ足されている。水滴はグラスにびっしりと付いている訳ではなく、零れ落ち、食卓の上に小さな水たまりを作っていた。
王の趣味は全般的に悪いとはいえ、カトラリーをはじめとした食器だけは違うらしい。明らかに他所とは違う、煌びやかだが趣のあるものばかりなのだ。ただのシーザーサラダでさえ、持ち上げたら即座に割れてしまいそうな薄さの器に入っているし、パン皿一つとっても正円形である以上に、上から見ると溝が三つか四つ、刻まれるようにして皿の中心を縁取っているのだ。真っ白なそれには絵の一つでも描かれていそうなものだが、何も描かれてはいない。鳩の肉が入った皿は白く、上から覗いて見ると花のようにも見える。沢山の花弁から成る名も知れぬ花だ。我がフォークで試しにソースを退かしてみても、絵や模様は見当たらない。本当にただの『食器としての価値しかない』皿だ。我は自分の分の水が入ったグラスに少しだけ口をつけた。氷の所為だろうか、冷たくて美味しいということしか分からない。舌が氷の所為である程度麻痺しているとも云えるだろう。少なくとも薬品の臭いがしないことからして、水道水ではないことだけは確かだった。
各々が鳩の肉を食べ終えた頃、デザートだろうか。エメラルドグリーンの四角いシャーベットが運ばれてきた。シンプルな切子細工を思わせる硝子の器に入り、そのうちの二、三個には天辺の方にピックが刺さっている。安っぽいプラスチック製の、子供の弁当箱にでも使われていそうなそれは、先端に星やハートといったマーク以外にもまち針のように球があしらわれている。ピック自体は透明で、ピンクや緑、檸檬色といった鮮やかさを感じる色ばかりで、青や紫、赤といった色は見当たらない。我は自分の器から一つのシャーベットを取り、口に入れた。噛み砕いてみると、本物には遠く及ばずとも、舌先では甘いと確かに感じている。例えこれが砂糖と別の何かだけで占められていたとしても、食べる価値はあるのだ。隣に座っている少女も口元を緩めながら食べている。口にせずとも分かるが、我は敢えて
「美味いか?」
と問うた。レナータは頷くのみだった。
皆が丁度食事を終えた頃、僕は開けたばかりの赤ワインを口にしつつ、
「始めようかぁ。レナータちゃんの、人生で一番幸せだった時の話をねぇ」
目の前で泣いている少女の過去話の再開を宣言した。
倒れたアマリリスは、偶然にも通りがかった男の手によって救われた。気づいた時には大きな街屋敷の、豪華な造りの寝台の上に横たわっていたからだ。そのまま目を覚ますことはないだろうと思われた彼女は、拾われてから五日目の朝に漸く起きた。ふかふかの布団から出た時に初めて見た光景は、見知らぬ人々が彼女のことを覗き込むというものだった。そんな異様な光景にも拘らず、彼女は虚ろな目で辺りを見回すばかり。怯えさえも見せないアマリリスを見て、屋敷の主である男が口元を僅かに歪めたのを彼女は気づいていない。当然ながら、彼が新進気鋭の銃器メーカーの社長であることにも気づいてはいなかった。
その日から再びアマリリスと呼ばれるようになった少女は彼の屋敷で暮らすことになった。目が見えていないことを程なくして知った義父が手配した専属のメイドに身の回りの世話をして貰い、金持ちの世界では安物とはいえ、綺麗な服も沢山買ってもらった。小さな胃は当初、柔らかい白パンと野菜スープ、そしてミルク以外は受け付けず、それ以外のモノを口しても吐いてしまった。満足に動き回ることも出来ず、次の誕生日まではベッドの上にいることが多かった彼女にも、義父は家庭教師を付けた。元々、他人の目を介してモノを見ることが出来るこの少女が、アルファベットの読み書きを、少なくとも母国語だけでも修めるには数ヶ月を要した。それ以外にも、ピアノやヴァイオリン、絵画や古今東西の詩といった教養を、アマリリス自身は常人を上回る速度で覚えていった。特にピアノは、多忙で滅多に屋敷には戻らない父親でさえ彼女の小さな指先が奏でる旋律には必ずと言っていい程聴き入ったという。
アマリリスが七歳の誕生日を迎えたその日、義父が熊のぬいぐるみを彼女に手渡した。耳にはタグが、首元には藍色のリボンが付いているそれを、彼女はぎゅっと抱きしめた。亜麻色の、優しい眼差しで見つめるぬいぐるみを、彼女はどんなご馳走よりも喜んだ。口数が普段から少なく、表情にも殆ど変化が見られない彼女が、この時初めてはっきり笑顔を見せたのだ。それを見た義父も微笑み、彼女の頭を撫でた。食卓の上には普段口に出来ないような鳩の肉や、デザートには見たこともないような南国の果物、そうでなくてもバターをたっぷり使い、色とりどりのベリーやオレンジが乗った華やかなケーキは小さな少女の胸をときめかせたことだろう。まだ無理は出来ない彼女であっても、この日ばかりは切り分けられたケーキをゆっくりと口へ運んでいく。グラスに注がれたジュースを除けば殆どそれ以外に手をつけてはいないのだとしても、この日だけは大人達も大目に見てくれた。
その年のクリスマスプレゼントは高価な万年筆。軸の色は紺色、クリップやペン先はメッキでもしてあるのか本物さながらの金だった。幼子には似つかわしくないモノだが、それでもアマリリスは大事そうに抱え、義父に感謝を述べ、次の授業から使い始めた。遊ぶ時、眠る時は熊のぬいぐるみといつも一緒。変わらず身体が弱いので外にはあまり出なかったが。一つ一つの言葉の意味を理解出来るようになったこともあり、お付きのメイドが語って聞かせる話でさえも、彼女は理解し、噛み締められるようになった。音楽以外には数学に興味を持ち、高度な数式を一晩で理解した時には家庭教師に驚かれたこともある。反面、絵画はあまり得意ではない。というよりも他人の目を介してモノを見ているのと、元から盲目ということもあり、形を捉えての表現が苦手というのが正しい。が、その教養の高さは、裏世界に身を置いている義父のみならず、彼を通じて裏の有力者達でさえ一目置く程だったと言われている。彼女と会ったある者は、数日前の新聞記事の話や文学の話をし、またある者は七歳にして難しい諺を交えての会話が出来ることに舌を巻いた。義父自身も、アマリリスのことは誇りに思っていた。
人と接する機会があまりにも限られている彼女は、友達一人おらず孤独だった。体調がいい時には庭で遊ぶこともあったが、そんな日は年に十日あればいい方だ。色とりどりの花達で彩られた庭にある、丸太のベンチブランコが彼女のお気に入りだった。二人座れるその遊具には、いつもメイドと彼女が座っていて、メイドの目を通して季節の花を見るのが楽しみの一つだった。その中でも好きだったのは白い薔薇と、鮮やかな桃色をしたガーベラの花だった。
秋も深まった頃のこと。その日は休日でたまたま義父が屋敷へ帰ってきているようだった。アマリリスの小さな、
「友達が欲しい」という呟きを彼は聞き逃すことはなく、その証拠に後日仔犬を部下から貰って来た。十二月十日、つまりは彼女の誕生日の夜、屋敷にやってきた雌の仔犬は、アマリリスの手で覚えたばかりのフランス語から取って『シエル』と名付けられ、遊び相手がいなかった彼女の良き友人となった。小さな少女は人生で初めて友達が出来たことを心から喜び、床の上を転げ回った。何度も義父にとびっきりの笑顔で感謝を述べ、翌日からお気に入りだった筈のぬいぐるみそっちのけで、仔犬にピアノを聴かせてやったり、一緒に昼寝をするようになった。年に十日あればいい筈の、体調のいい日も、咳が止まらない夜も、ベッドから動けない雨の日も。シエルは片時も離れることなく、小さな少女の傍にいた。
そんな日が七年近く続き、シエルは犬というよりは狼にさえ見えるような精悍な体つきに成長していた。目つきはまるで、獲物を狩ろうとする獅子のようにさえ見えるが、アマリリスは変わらず可愛がり続けていた。義父が帰って来た時には写真屋を呼び、三人揃って写真を撮って貰ったこともある。春の穏やかな日差しの中、蒲公英の綿毛が空に舞い、小鳥の囀りが聞こえてくるような日々だった。しかし、そんな穏やかな日々は何者かの手によって突如壊されることになる。
一八八四年十二月二十五日の深夜。外では粉雪が降り積もる中、屋敷の窓硝子が割れたのだ。絨毯の上に散らばった硝子の破片と銃声は、招かれざる客が銃の使い手であることを
示唆していた。この音は余りにも大きかったのか、当然アマリリスの耳にも入り、先程まで眠っていた寝台から立ち上がると、恐る恐る扉を開けて冷たい廊下に出た。父親と愛犬を探す為に。この日は彼女にしか懐いていない筈のシエルが父親の傍から離れなかった、珍しい日だった。何故アマリリスの傍にいないのか、彼女はこの時まだ理解出来ていなかったのだ。部屋に向かう途中、銃声と、父親の悲鳴と愛犬の悲しい断末魔が聞こえてくる。彼女が扉の目の前に着く頃には、二人とも最期の言葉さえ言うことなくこと切れていた。部屋の中に入った時、二人は冷たくなり、義父は瞳孔を見開きながら、額や口を紅く染めていた。下ろした長い黒髪は紅く濡れ、シーツの上には紅い水溜りが出来ている。地面に横たわる犬は苦しそうな表情を浮かべながら口を紅く染めている。彼女は気づいていなかったが、義父の額と愛犬の腹の辺りには弾痕があった。部屋の中には屈強な体格をした、アマリリスより一、二歳年上と見受けられる、ガスマスク姿にボロボロの黒いコートを纏った少年の姿が見える。彼は黒光りしている狙撃銃を抱え、怯える少女の方を一瞥すると、
「……お前は、殺さない。生きるか死ぬかはお前次第だ」とだけ告げた。彼女はぶつけられた言葉に応えることはなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。
少年の姿はいつの間にかなく、後には少女の姿だけが残された。まるで呪いにも似た彼の言葉を噛み砕き、飲み込むには数分かかった。意味を知った時には時既に遅く、彼女は叫び、号泣し、暫くしてから部屋の壁に掛けられている楕円形の鏡の側に歩み寄る。そこからは白く強い光が放たれ、次の瞬間、彼女は吸い込まれるようにして消えてしまった。少女が来たのは沢山の鏡が浮かぶ摩訶不思議な空間。床を歩くとペタペタ音がするものの、床そのものは大理石で出来ているという訳ではない。ぼんやりとしたまま銀色の、飾り一つない長方形の大きな鏡に触れると、そのまま意識を失ってしまった。小さな胸の中に、愛されなかった記憶と愛した者達を奪ったあの銃声を刻みながら。
「で、気づいたら君は本来の名前も記憶も失っていたんでしょう?ねぇ、レナータちゃん」
語り終えた王は、やはりねっとりとした若い男の声で少女に問いかける。彼の席の丁度対岸にいて、兎に慰められ続ける小さな少女は声をあげて泣き出してしまった。クロをぎゅっと抱きしめ、さっきよりも大きな声で。同時に、俺の胸が張り裂けそうなくらいに皮肉めいた真実が頭の中を駆け巡る。俺は知らぬ間にレナータのトラウマを抉っていたのだろうか。だとすれば彼女があの夜に、ああ言ったことにも少しだけ合点がいく。只、身体が大きいだけではなく、こんな銃(モノ)の所為で俺は怖がられていたのだと。受け入れ始めた矢先に目頭が熱くなり、俺はいつの間にか叫んでいた。空になり、底に僅かな量の赤ワインが残ったグラスが震え、水色髪の少女を除いたチビ達は耳を塞いでいる。いつだって悪いのは俺の方なのだろう。それでも、どれだけ拒まれようと、俺はレナータもアマリリスも同じくらい想い続けているのに。今だってその気持ちは少しも変わらない。あの小さな少女には俺がこれからも必要だろうし、何より半ば仕組まれたものだろうと、彼女との紲はそう簡単に断てるものか。発狂しつつある俺に、
「レナータちゃんはもう僕のお姫様になっても可笑しくないんだよぉ。大丈夫、悪いようにはしないからさぁ」
心底愉しそうに囁き、彼は呆然としている少女を魔法か何かで浮かせてから抱えて出て行った。すぐ後にクロも耳で飛びながら追いつこうとする。その場に残った俺達はただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
レナータちゃんとこゆきちゃん、どっち派?
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レナータちゃん
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こゆきちゃん