◇サントス
扉を開けた瞬間、妙に落ち着き払ったような声が耳に入った。あの時、館の廊下を無邪気に駆け回っていた少女の声が。だが、それは性差のない声こそ変わってはおらずとも、闇を帯びている。大切な者を失った苦しみから絞り出された声、という訳では無さそうだ。己を包む闇そのものではないだろうか。目の前の少女の前髪の隙間から僅かに藍色が覗く。生来のものではない。かつてアンデッドの王と呼ばれ、恐れられた我が主、つまりは少女が慕っていた義兄のものだ。一体何が彼女の眼を変えてしまったのだろうか。
「貴女は、こゆき、様………?こゆき様なのですか?」
「執事、さん……⁈」
懐かしい、だが幼くも怯えた声が聞こえた。眼には逆十字が刻まれているものの、あの頃の優しく可愛らしい少女のままだ。薄暗い独房の、小綺麗なベッドの上で泣きそうになっている。傍にいるのは御伽話の世界で語られる、ぬいぐるみのようにさえ見える白い妖精。余程ぐっすり眠っているのか、目を覚ます様子はない。不幸中の幸いは、コイツごと一緒に攫われて来たことだろう。だが、小さな少女の怯えは消えない。無理もない。ただでさえこんなところに閉じ込められているのに、冷酷非道な主に何をされるか分からないのだ。何よりナイフは愚か鉄パイプの一つもない。逃がせるものなら逃がしてやりたいが、今の主は決して許さないだろう。彼には逆らえないこともあり、私には彼女の小さな身を抱きしめること以外は出来ない。啜り泣きながら、私は目の前の少女にゆっくり歩み寄り、包み込むようにしてその身を抱きしめる。静かな部屋の中には私の嗚咽だけが響く。知らぬ間に頬が濡れ、らしくもなく声をあげ続けていた。とうの昔にそんな心など無くした筈なのに。彼女はきっと困惑していることだろう。
「泣いてるんですか?」
「こゆき様、貴女のこれからを思うと………」
駄目だ、その先が言えない。この小さな身に何が起きるのか、などきっと知らない方がいい。細い身を抱きしめ返してなどくれなかった。彼女が真に抱きしめ返すのは血の繋がらない兄だけ。ブランは小さ過ぎてぬいぐるみのように抱きしめるのが限界なのだろう。本来なら気にも留めないような輩を抱きしめられる程、この子は優しくない。それでも心のどこかで期待している自分は確かにいる。想えば想う程涙が止まらなくなる。
◇ルゥ
メルの手で攫われ、連れて来られた少女は不安そうな顔をしていた。玉座の間にやってきた彼女は、確かに幼く愛らしい顔つきをしている。白く、飾り気のないシンプルなブラウスと黒い膝丈のジャンパースカートを穿き、灰色のニーハイソックスと黒いストラップシューズという、モダンながらも気品を感じられるスタイルだ。前髪は右眼を隠していて、後ろ髪は全て解かれているのだが、ソレがまたいい味を出していた。見た目だけなら十二歳になったばかりに見えるが、実際はそれよりも二歳上だという事実には驚きを隠せない。恐らく攫ってくる時に私の足元で跪いている少年が勘違いしたのだろう。だが、歳の割には背が低く、胸も慎ましい。その上細い躰に小さな足。思わず抱きしめて膝の上に乗せてやりたくなる愛らしさだ。今にも泣きそうな眼は私を誘っているように見える。だが、前髪で隠れた右眼の目つきだけは気に食わない。私と同じくらいの傲慢さと、冷酷さが隠れた藍の眼は静かに私を睨みつけているのだ。それでも愛でたくなる可愛らしさ。まるで仔猫か子狐の耳のように跳ねた癖っ毛をぴこぴこさせてみたい。添い寝してやりたいし、彼女に似合う服や靴を沢山贈りたい。もう目の前の彼女だけしか目に入っていないからか、いつの間にかメルを踏みつける力が緩んでいた。
「ようこそ我が城へ。歓迎しよう……」
その言葉を聞いて尚、目の前の少女は近づこうとはしない。一体何がいけなかったのかは分からなかった。
きっとお腹が空いているだろうと思い、私は食堂へと案内した。シャンデリアの温かな、小さな焔のような光が灯り、豪華な食卓の対岸には数十もの椅子がある。それも、一種の工芸品にさえ見えるような代物で、革張りの下品なモノとは訳が違う。椅子そのものは金属製でありながらも黒く、座面は赤紫色で座り心地自体はいい。昔は数十もの椅子が早々に埋まったものだが、今は広大なこの部屋の中で独りということも少なくない。久々の朝食が二人、いや三人きりというのも悪くはなかった。少女の隣にはこれまたぬいぐるみのような白い妖精が座っている。誰かが連れて来たのだろうか。額には黒と赤の三角形で構成された奇妙なマークが見える。このマークを私は遠い昔に見たことがあった。誰であったかは思い出せない。だが、それ以外は何の特徴もなく、寧ろ非力な、少女の良き友達にさえ見える。コイツの正体を炙り出す為、私は手の中に焔を浮かべる。すると白い焔の中に、妖精の過去が映し出された。
彼女の正体は『進化の光』そのものだった。何者かが、元々は概念だったソレを今のような生き物にしたのだ。ただ、何の為にそうしたのかは分からない。私の『過去視』は音声こそ聞けるが、思考を読むことは出来ないのだ。焔の中にはあるがままの行動以外は映し出せない。声の調子や前後の行動などでおおよその理由などは察することが出来る。だが、ソレが必ずしも合っているとは限らない。思考が読めない以上、この力は『ハズレ』としか言いようがない。風の噂では心を読むことが出来る力に目覚めた者もいるらしいが、私がソレに目覚めることはなかった。
目の前に座っている少女が白い妖精とある意味で通じている以上、支配下に置くべきだと考える者もいる。昔であれば確実にそうしただろう。だが、今の私にとって白いチビはただのオマケでしかない。白銀の少女を手元に置いておく為の道具以外の意味を持たないのだ。本心を隠しながら愛想笑いを浮かべている筈の私を見るなり、二人ともどこか怯えた顔をしている。いや、少女の右眼だけは変わらない。鋭い目つきで睨みつけていた。少々不本意だが、私に抗おうとするその意思は気に入った。彼女自身が生み出した人格だろうか。それとも別の何かが取り憑いているのだろうか。どちらにせよあの眼の中に何かが潜んでいることは間違いない。思わず身を震わせ、笑顔でさえぎこちなくなる。何から話そうか迷うどころではない。今にも抱きしめて擦り寄りたいくらい可愛らしい少女が目の前にいるというのに、不快な目つきで見つめられる。強者を屈服させる以上の愉悦を感じた。
席に着いた後、私は小さな二人に、
「飲み物は何がいい?水かお茶以外でも構わんぞ。ジュースもミルクもある。どうする?」
「わ、私は普通の紅茶で……」
「……オレンジジュースがいいでクリュ」
「そうかそうか。なら頼んでやる」
通りかかった執事に命じ、私は食事と飲み物の用意をさせた。無論、いつもの調子で。背中を軽く蹴り、
「早く持って来い!目の前の二人が腹を空かせて待っているのだ。持て成しの為にとびっきり華やかなモノを持って来なければ次はこの程度では済まさん」
と脅しをかけると、
「はっ!かしこまりました……」
そう言ってそそくさと逃げるように食堂を後にした。去り際にチラッと見せた背中には、くすんだ黄土色の足跡が付いている。彼が去った数十秒後、扉が閉められる音が響いた。それと同時に、
「……どうしてそんなことするんですか?」
「そんなこと、とは?」
「クリュ……」
泣きそうなくらい弱々しい声が私の耳に入る。
「私、執事さんとは顔見知りなんです。まだブランと兄さまと一緒に暮らしていた時、私達二人をずっと気にかけてくれました。そんな良い人に何で平気で蹴りを入れられるんですか‼︎」
「ほう、アイツとは知り合いだったのか。度々聞く『こゆき』とはお前のことだったんだな。ならば改めて歓迎しようじゃないか」
「あなたって人は‼︎」
先程の弱々しい態度が嘘のように、少女は怒りに震えている。
「我が同胞を侮辱するな‼︎」
冷たかった筈の藍色の眼は静かに、ゆっくりと熱を帯びていく。対して、隣の白い妖精は困惑したように、きょろきょろと周りを見渡し、
「こゆき、落ち着くでクル‼︎」
最後には小さな躰でジャンパースカートの背中の辺りを引っ張った。一方のこゆきはというと、椅子の上に立ち、左足は食卓の上を踏み締めている。私に殴り掛かろうとしているのか、小さな拳をわなわなと震わせている。息を切らし、威嚇している最中の猫のように歯を食いしばり、両目を見開いていた。もはや幽鬼(おに)とは思えない。その怒りでさえ愛おしく思えるくらい、今の私は歓喜に満ちていた。彼女の小さな足になら踏みつけられても許せてしまいそうだ。
三十分経っただろうか。黒と紫で彩られた厳かなワゴンにジュースと紅茶、ホットコーヒー、澄んだコンソメスープと籠いっぱいのロールパン、それとコールスローサラダといった料理が載せられ、やってきた。端の方に添えられた小さな籠の中には砂糖とミルクが溢れんばかりに入っている。ミルクは私のコーヒーに、砂糖はこゆきに。きっと彼が付けてくれたのだろう。パン皿もサラダボウルもスープのカップも、果ては銀のカトラリーも全てがシンプルで素っ気ない。二人は全く気にしていないようだが。ブランはオレンジジュースが入ったグラスを受け取ると、曲がったストローで三口くらい飲んだようだった。次いでこゆきも紅茶を受け取り、細い砂糖袋の封を開け、カップに惜しげもなく放り込む。ソレをあと二度程繰り返してから小さなスプーンで混ぜ、ゆっくりと口にする。彼女はロールパンを小さな指で千切って食べ、白い妖精は大口を開けてパンの端に齧り付いた。バターも何もないが、二人はそれでも美味しそうに食べている。スープの中には賽の目のように小さく切られたじゃが芋と人参、一口大に切られた白いソーセージが沈んでいた。作られて間もないのか、湯気がまだ立ち上っている。こゆきは先が円い形のスプーンでソレを掬い、口に入れていく。隣の白い妖精は舌を火傷したのか、一気にジュースをあおった。中に沈む氷は半分程溶けている。
「美味いか?」
「……はい」
「クリュ……」
少女の眼からは涙が流れている。泣く程美味しいのだろうか。まあいい、泣いていると跳ねた毛が垂れて可愛らしく見えるので、その様を眺めながら食べるとしよう。
◇ブラン
ブラン達三人が食べ終わった後、こゆきと一緒にまた何もないあの牢屋に閉じ込められた。けれども不思議なことに、二人でいると怖いことが何もないと思えてしまう。部屋の三分の一を占めるベッドの真ん中で座り込んでいるこゆきは、殻の代わりにりんごを背負ったかたつむりのぬいぐるみを撫でているだけだ。ランプスタンドが照らす暗い部屋の中、裸足のまま。机の上には何もない。ランプ以外には本やコップの一つもなかった。押し黙ったまま、こゆきは暗い顔をしている。沈黙が数分続いたその時、牢の扉が開く音がした。
鍵は開いている。入って来たのは執事さんで、二人分のグラスを持っている。中には冷たい水が入っていて、底の方には二つの氷ブロックが沈んでいた。彼は、ブラン達にソレを渡すと、
「貴女も随分と災難な目に遭いましたね」
優しげに、けれども溜め息をつきながらこゆきの隣に座る。
「どうして私達がここに……?」
「クリュ……」
「あの方の、ルゥ様の贄として攫われてきたのです。余程お気に召されたようだ……。そう遠くないうちに……」
「ふざけるな‼︎私の、妹の身をどうするつもりだ⁈ただ暴力を振るうならまだいい。まさか、穢すつもりで……」
「ちょ、こゆき⁈」
「さあ……?私にはどうすることも出来ません。ルゥ様に逆らうか、せめて逃がすことさえ出来れば……」
そう言ってこゆきの頭を撫でた。細められた眼からはポロポロと澄んだ涙が零れ、シーツの上を濡らしていく。
去り際、彼は涙を拭き、
「欲しいモノが有れば何でもお申し付けを……。それでは失礼します」
それだけをこゆきに言った。でも、扉と鍵が閉められた後、ブランは聞いてしまった。
「理解不能だ……」
レナータちゃんとこゆきちゃん、どっち派?
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レナータちゃん
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こゆきちゃん