「残り300m!パッシングゴールまだ先頭だ!カツタイコウ上がってきた!キームスビィはまだ伸びない!!先頭は…」
秋空の下の激走。スタートから大逃げにうって出たパッシングゴールは後続バから逃げまいとしていた。何としてもこの秋の天皇賞を制したいのか唇を噛み締め今にも泣き出しそうな顔をして走っている。この長距離で大逃げに打って出る根性は買うが、基本的に大逃げ戦術は推奨される戦術ではない。無尽蔵のスタミナ、気力、卓越した体内時計、そして足腰の頑強さがなくして成り立たない戦術だからだ。その上、1つでもペース配分を間違えば最後、あとはズルズルと垂れてブービー。こうなるのがオチだ。
だから、大逃げができるウマは限られているのだ。そして、そんな大逃げだからこそ釣られてはいけない。その挑発的な走りにムキになって肩をいからせてついて行くような真似をすればあとはもう、破滅なのだ。
『いいか?長距離は自分との戦いだ。待てば必ず波に乗れるようになる。その時までは他の女に釣られず、慌てず、騒がない。最後の直線に入るまでスタミナは貯める。そして、直線に入ってからムカつきを足にぶつけてやるのさ。わかったか…?』
(相手は大逃げ。他のウマ娘の大半は釣られてスタミナが切れてる…波が来た!足を爆発させるのは今だ!!)
「―勝ったな」
関係者席から1人の小柄な男が呟いた。あらゆる森羅万象をも見透かすような殺人的な視線をターフに向けている。まるで獲物を狙う蜘蛛のような冷徹さと生来の気の強さを感じさせる横1文字に結ばれた口元が少し開いたその時だった。
「外からヤマニンウエーブ…パッシングゴールまた伸びる!しかしヤマニンウエーブ、ヤマニンウエーブだ!!」
大逃げに釣られた他バ達の中ではさりげなく、それでいて堅実に中段に控えたウマ娘が敢然と追い上げたと思えば、その瞬間には交わして頭差で盾の栄誉を勝ち取った。大逃げに釣られず自分を保って過酷な長距離を勝ち抜いたそのウマがボロボロと泣きながら地下へ引き上げ、控え室の前に戻ってきた。
「やった…やったよ!アタシようやく天皇賞に…幸長トレーナー、ありがとうございます!」
「礼はよせ。お前の実力で勝てたんだ。誇っていいんだぞ。おめでとう」
「いえ、違うんです。トレーナーさんのおかげなんです…アタシ全然勝てなくて、もう後が無くなってたんです…でもトレーナーさんが教えてくれてから前のあたしじゃ無いみたいに成長できて…ありがとうございます!」
少女はまるで気のふれた赤べこのようにお辞儀を繰り返しながら感謝の気持ちを伝えている。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で何度も、何度も…
「まぁなんだ。これからウイニングコンサートだろう?こんな俺の事なんていいからちゃんと準備して立派な姿をお母さんに見せてやりな?お母さん楽しみにしてたんだろ?君の晴れ舞台」
そう言うと少女はハッとしたようだ。さっきまで泣いて赤くなった顔が一気に青くなり、準備のことで頭がいっぱいになったようだ。
「あわわわわ…よよよよよ、よういしななないととととと…」
「慌てない慌てない。控え室に衣装があるからそれに着替えて第1ホールまで行けばいいだけさ。…じゃあな」
「え!?あたしのコンサート、見てくれないんですか…」
「…すまないが家で今日のレースの研究がある。それに、これは君の力で勝ち取った戦いだ。俺はそれに乗っかっただけに過ぎない。そんな俺に君の晴れ舞台を見る権利はない。…また明日な」
「あ、あの!!ありがとうございました!!」
「いいって気にすんなよ。胸張って歌ってこい」
少女はまたもペコペコと頭を下げている。謙虚なのは結構だがここまで来ると些か卑屈がすぎるだろう…まぁ、こういうのもたまには悪くないが
「あ、あの!!」
「ん?なんだ?もうそろそろ行かないとまずいだろう。それに…」
「そこ、出口じゃなくて女子トイレです!!」
「あっ…」
ピピピピ!ピピピピ!ピピピピ!!
目覚まし時計が今日もまたいつものヒステリーを起こしている。朝が来たことを告げる役割を持つこの憎々しい小さな鉄の塊をぶっ叩き、木漏れ日を見つめ新しい1日の訪れを感じる。
「もう朝か…相変わらず元気だな…」
ここはバ事公苑学校、後のトレセン学園の男性トレーナーの独身寮だ。男、もとい幸長はその中の一室を借りて生活をしている。とはいえ、生活とは名ばかりで洗濯物は山積みで、郵便受けはいつもパンパン。それに冷蔵庫には大量の酒と彼の無茶苦茶な暮らしを不安視した寮母から貰った料理という情けなさである。挙句の果てにはいつのものか分からないような缶詰やなんやが引き出しにあったりする始末だ。
そんな生活能力のないこの男だが、これまでの大きな大会で手に入れたトロフィーや2年前の秋の天皇賞で手に入れた盾などの栄光の証と、これまでのトレーナー業でつけた記録の数々だけは専用の棚に整然と並べられていて、一目でわかるように整頓が行き届いていた。
「…さてと、行こうかな」
簡単な朝食を摂り、スラックスに少しヨレたワイシャツで歩き出す。寝ぼけ眼を擦っていた姿はどこかへやら、その顔には働く男の鋭さと精力が宿っていた。
「…リズムや基礎は悪くない。あとは走りの中でどれだけ自分らしさを出せるかだと思う」
「はい…自分らしさ?ですか?」
「あぁ、自分にあるものは何か、それをどう活かすかってことだ。例えば、自分の資質として賢さがあると思うならばわざとフェイントをかけてみて相手のペースを崩しにかかってみるだの、コーナーワークが得意なら内らちぴったりについて最小限のスタミナで回るようにするとかそういうこった。
まあいずれこんなこともみんな知るようにはなるだろうけど…考え無しで競争を勝つなんてことは無理だと思うべきだ。それが出来れば君はもっと強くなれる」
「なるほど…勉強になります。」
バ事公苑のトラックには早朝だと言うのに多くのウマ娘とトレーナーが集っていた。それぞれがそれぞれなりのトレーニングを積んでいかに自分の力を磨くかに集中している。彼の男もその1人であり、教え子達の面倒を見ていた。
「そこだ。そこの手前があってない。腕のスイングと足が逆になってるのが良くないな。だいぶ力む癖は抜けたがフォームの見直しをすべきだ」
「す、すみません…」
「そう泣きそうな顔をするな。着実に成長はしてるぞ。俺が保証する」
「…!は、はい!」
「よし次だ!」
ウマ娘たちはその一生の中で、レースに対して死力を尽くし王冠を奪い合う。血の大河を渡り、屍の山を登って頂点を奪い合うのだ。残酷だが、それが彼女たちの生涯における意義のひとつでもあり、血のさだめなのである。その残酷で身勝手な生存競争を乗り越えれるかどうかで栄光への道のりが近づいてくる。
現に、彼の教え子達も栄光のために苦しい思いをしながらも走ることはやめず、実力を磨くことに尽力している。
そんな中、チャイムが響いた
「――もうおしまいの時間か。よし、お開きだ。各自ストレッチをして1時間目の準備をするんだ。いいな?」
「はい!」
枯れた草の上をウマ娘達が駆け出していく。彼女達は選手だが学生でもある。トレーナーは主な仕事はその彼女たちのレース面での面倒を見ることだけだが、彼女達は文武共に両立しなければならない。そんな状況でも、決して手を抜かない彼女達には頭が下がる思いであった。
「いいもんだなぁ…」
「あの、すいません…幸長トレーナー、ですよね?少しお時間よろしいでしょうか?」
女の声…突然の質問に驚き振り向くと、そこには理事長秘書の駿川たづなが立っていた。つい最近秘書に着任したばかりであり、どこか幼さの残る新任秘書の顔は普段と違い、何か困った様子であった。
「どうしました?僕でよければ相談乗りますよ」
緊張が解れるようにと思い、笑顔を作りわざとらしく小首を傾げる。そんな様子がおかしかったのか新任秘書は一瞬だけ口角を緩ませた後、咳払いを一つした。そして、
「――実は、デビューから通算4戦を経験しているウマ娘のトレーニングについてでして、その、トレーナーさんの実力を見込んでのお願いなんですけれども…」
なんだそんなことか…理事長やバ事公苑の運営者からのトレーナー依頼なんてよくある話だ。現に、自分の友人の名瀬なんてそれのせいで文字通りバ車ウマの如く働くこともあるのだ。
それならば、なぜこのたづなちゃんはこんなにも歯切れが悪いのだろうか?何か伝えにくいことでもあるのだろうか…?
「そんなことならお易い御用ですが、どうしたんですか?」
「実はもう、2人のトレーナーさんが辞退している子なんです…クラシックすら出ていなんですが…」
「はゑ…!?」
一瞬、耳を疑った。まだまだメイクデビューしたてのルーキーに対して2回もトレーナーが辞退している?そんな話があったことは古今東西存在しない。余程の気性難なのか、それとも運悪く2回も相性の悪いトレーナーが来たのか…はたまたウマ娘側が危害を加えてくることもないことはないが、そんなケースはほぼ稀だが…
「すいませんが、その手の子に安請け合いはできませんね…実物と会ってみることは出来ますか?」
「勿論です!こちらこそ無理なお願いをして申し訳ありません…今日の放課後に応接室で会合の場を設けることもできますが、よろしいでしょうか…?」
「構いませんよ。僕に無理なんてことはありません。寧ろ、どれだけの問題児かと思うと少しワクワクしてきましたよ…」
放課後、幸長は応接室へと向かった。件の問題児がどれほどのものか、そのことについて一抹の不安が過ぎるもののそれと同じだけの興味もあった。競バは優等生だけでは面白くない。時には曲者が現れて、レースを滅茶苦茶にしてしまうことも悪くないのではないか、と。
結局のところ、彼としてはマンネリした日常をぶち壊す存在を欲していたのである。
「失礼します。」
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
掃除の行き届いた応接室には、たづなさんと1人亜麻色の髪をしたウマ娘がいる。もう夕時前というのに眠そうな顔をしていて、その気だるげな目で興味なさげに壺を見つめていた。
「紹介します。この方が幸長さんです。幸長さんこちらが…「エリモジョージ…」」
形式ばった紹介を遮り、少女がため息混じりに口を開いた。やや癖のついた亜麻色の髪をだるそうに掻き上げ、眠そうながらも鋭い目でこちらを見ている。
(これは相当だな…今までの中でも五指には入る)
「おじさんがアタシの3人目ってわけね…」
「お、おじ…そ、そうだ。しがない独身のおじさんだけど何とか頼むよ。」
…おじさんというショッキングな言葉にやや動じたものの、あくまで年長者として紳士的な対応を心がけた。しかし、俺って老けて見えるのかな…
すると、先程までこちらを睨めつけていた顔が綻び、大声で笑い始めた。
「あははは!そこまで聞いてないって!いいね、ちょっと気に入った。邪魔者はなしでサシで話そうよ…」
下らない冗談に乗っかって笑いだしたその顔には悪魔的な輝きが見え隠れしていた。
「で、アタシをどうしたいわけ?まぁ、どうせアタシに教育して走らせて勝たせたいんだろうけどさ」
「アタシは誰かの指図で走るのはごめんさね…」
彼女の言う邪魔者が消えた後、唐突に質問が投げかけられた。その声はやたらと冷徹であり、意地の悪い老婆のような狡猾さと思春期らしい未熟な諦観がそこにはあるようだった。
「ま、平たく言えば君のトレーナーになって勝たせるのが仕事だからな。では聞くが、君はどうしたいんだい?」
「…はぁ?」
「君は走るのが嫌でやる気がない。なのになぜレースに出るのさ。走りたくないなら退学するなりなんなり出来るよ?何のため?自分のため?それとも他の何かのためか?」
少女は面食らったようで眉をしかめてそっぽを向き、何か呟いている。いきなり走る意義を聞いたんだからそうもなろう。デビューしたての段階でそんなことを考えて走れるウマ娘はそう多くはいない
そうこうしていると、急にこちらに向き直ったどうやら考えが決まったようである。
「日々の飯のためだね。それ以上のものを求める情熱もなければ他の奴みたいに人気だからそれにこたえるために、ってやってやろうとも思わねぇよ」
「…」
どうだ。ここまで言ったんだ。ここで今までのヤツらならいきなり顔を真っ赤にして無茶苦茶に唾を飛ばしながら怒るのだ。そのどこか可笑しいサマを見てほくそ笑んでやるのも悪くないんだ。どうせアタシは母親の勝手で入らされたこの世界に未練もない。どうせ、アタシは…
目の前の男はさっきまでのアタシみたいに俯いてブツブツと呟いている。そして2、3呟いた後ゆっくりと顔を上げた。
「いいね…」
「はぁ…?」
「いい!凄くいい!!君は最高だ!!!」
「え…?」
「その目、その憎まれ口、その人を舐めきった態度!俺は君に会うために生まれたようなものだ!!」
「はぁ!?あんたオカシイのかおっさん!あれでなんで最高なんだよ!アタシはやる気ねぇっつってんだろ!?あとそれ褒めてんのかよおい!!」
「オカシイのは君さ!なんだその様は!はっはっはっはっは!!こんな奴は初めてだ!」
目の前の不審者は凄く興奮した様子で何かをブツブツと呟き続けている。時折高笑いをしたと思えばいきなりジロジロと見出したり、急に後ろに向いたと思えば黙ってウロウロしだしたり…はっきりいって異常だった。
「な、なんで気にいるんだよ!?アタシはアンタらトレーナーが1番嫌いなタイプじゃねぇのかよ!?」
「気に入るに決まっているだろう!君ほど人を舐め腐っていてずる賢い子はいままでいなかったからね!僕はそれくらいパンチが効いている子に会いたかったのさ!
あとそんな足をしてさっきのことを言っても説得力がないよ…?」
「な…!?」
「その足、どうやら山の中を走ってスタミナ練習をしたようだな。トモに関しちゃまだまだ発展途上だが中々悪くない。ただ、山に入る前に筋力をつけた方がいい。最低限の筋力もなしに険道の中を走ればすぐに身体を痛めてしまうぞ。
あと夜道もやめにした方がいい。太ももの横っ側を枝で擦っただろう…」
ゾッとした。会ってまだ10分足らずのわけのわからない男にいきなりトレーニング内容や体の調子を言い当てられてしまったのだ。本当はトレーニングなんてしたくないもののそうもいかないから、せめてもの抵抗に普段から長めの靴下を履いて足を隠していたというのにだ。
それだけでは無い。目論見がズレたのだ。コイツをおちょくって遊んでやろうと思っていたが逆に手玉に取られてしまった…心の中に煙のように敗北感や苛立ちが立ち上る。なんてザマだ。
「とにかくだ!俺は君が気に入った!今から契約しよう!拒否権はないからな?明後日から毎週木曜日の放課後にみっちり鍛えてやる…逃げても無駄だからな?絶対に探し出して引き摺ってでも走らせてやるからな!」
「わ、わかったわかった。だからそんなに顔を突きつけて話すなよ!耳が痛いから!!
…ああそうそう。一つだけ約束して欲しいことがある」
目の前の男―――幸長とかいったか―――はキョトンとした顔をしてこちらに向き直った。大人のはずなのに妙に幼いところを感じさせるその双眸がじっと自分に向けられている。
「なんだい?」
「試合ではアタシはアタシが走りたい時だけ走る…これだけは守ってほしい。アタシは誰かに縛られたりするのはゴメンだし、アンタらの勝手で走るのはもっとゴメンさね。」
混乱した頭で思いの丈をぶつける。大人の勝手に振り回されるのはもうごめんだと。アタシはアタシのためだけに戦う、と…
目の前の男はまたも大きく口を開き笑い始めた。だが、その目には先程までにはなかった空気を切り裂くほどの鋭さと万物をも凍てつかせるような殺人的な冷たさがあった。
「…よかろう。だがこちらとしても条件をださせてもらう。君の勝ちたい時に何時でも勝てるようにするためみっちり鍛え抜いてやる。だから練習だけはやる気を出してくれ。君のそのきちがいじみた拘りを可能にできるのは僕だけだからね。
それじゃ明日待ってるからね。はっはっはっはっ…あぁ!?」
…目の前にいた奇妙な男はドアで頭をぶつけて、その拍子に元々解けていた靴紐を踏んで盛大にこけた。なんとも締まらない会合になってしまった。全く、凄いのか凄くないのかわからない変なやつだ
「さ、トレーニングだ。今日のトレーニングは筋肉とスタミナの両方がつくタイヤ引きだ。特に君の場合はこの前差しで勝っていたからね。これでいいかい?」
「ハイハイ。で…」
「なんでアンタもタイヤ引きしようとしてるワケ?」
木曜の放課後、幸長は問題児エリモジョージのトレーニングに勤しもうとしていた。まずはスタミナと筋力の両方を鍛えることが可能なタイヤ引きをすることにしたが、その問題児の投げかけた指摘の通りタイヤ引きは何故か”2人”で するようだ。
「…たまには君たちと同じ気分を味わおうと思ってだ。悪いかい?」
そういうと幸長はイダズラっぽく微笑み、視線を合わせてくる。この男のことだ何か企みごとがあるに違いない。
「おい。何企んでやがんだ?後ろからアタシのケツでも拝もうってんならマカロニみたいに腕を捻り上げるぞ…?」
少し凄んでやると幸長は一瞬鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした後に大きく笑い始めた。
「ははは!それも悪くないかもね!…ってあだだだだ!!やめてくれ!!腕が、腕がァ!!
悪かった!悪かったって!!…腰の強さもステータスのひとつだから確認してやろうって言おうとしただけじゃないか…」
目の前のイカれた男は半べそをかきながら、先程アタシに締めあげられた右手をしきりに振っている。全く、年端も行かぬ少女に対してなんてハレンチなやつだ。あの理事長秘書からは天才だの凄い人だの聞いたものの服はヨレヨレで、オーラめいた何かも感じられない。だからどうにも信用できない。
もしかして前の件も裏で調べて知ってただけなのではないかとすら思えてくる。
「おっさん、アンタホントに凄いやつなのかよ?」
「まぁまぁ。今はとにかく俺を信じてみなって…じゃ早速やるぞ。ょーい、ドン!!」
「…はぁ。タイヤ引きなんてベタ中のベタだが、まァ悪くねぇ、かな…。」
両手足に重りをつけた上で車用の廃タイヤを紐で腰に巻き付けて走るこの練習はどんなヤツでも必ずやってるほどの基礎的な練習である。今までアタシは人に練習していることを悟られるのが嫌でなるべくしなかったが、いざやってみるとたしかにスタミナと筋肉の両方がつきそうなトレーニングだとは思えた。
もっとも…
「…ひい、ひい、そこぉ、もっちょっと脇締めていけぇ…そんで、ふぅふぅ…ピッチをいいと言うまで…ゲフッ…上げてみろぉ…ふひぃ」
このうるさい男がいなければだが…
「おっさん、息切れるくらいならやめときゃいいじゃんかよ…夢見に悪いから頼むからオレの前で死んでくれるなよ?」
「だ、誰が死ぬか…そもそも…人生は…はあはぁ…死線を乗り越え…うぅっ…ていくもんなんだ。
さぁあともうちょっと走ってみろ!」
幸長は見るも無惨な状態で肩で息をしている。およそ100メートル後方で声を張り上げている。その声はまるでカエルが金槌で潰された際の断末魔のようであった。
(…ホントになんか考えてるのか?このオッサンは…あほらしいからさっさと終えちまおう。)
微かに聞こえる喘鳴を尻目にゴールまで駆け抜けた。体中がじんわりと汗ばんでベタつく。纏わりつく湿度が気に入らず、タイヤを繋ぐ紐を解きいち早くタオルを蛇口の水で濡らし、体中を拭った。
割合涼しい日だったはずなのに、練習後の全身のその様子はさながら真夏の真昼間に太陽を浴び続けたようであった。
「…よぉし、おしまいだ…ふぅ、ふぅ」
「おっさん大丈夫なのかよ?アタシのことちゃんと見てたのか?」
「もちろんだ。君のことはよくわかったとも…ごはっ!」
「ほんとか?」
自信を持った回答に対し、脳の中から疑問の声が上がる。その疑念はいつの間にかそれが口を通じて空気に乗っていた。自分でも驚く程の冷徹さが乗った声だった。
だが、幸長は何も気にしていないようである。こちらに向き直ると会議室で見たようなにっとした笑顔をしたと思えば、その表情、特に目の中は急速に冷たさが増していった。まるで神話に出る怪物メデューサのような目であった。そして、横1文字にぎゅっと結んだ口を開いた。
[newpage]
「断言しよう。君に他の子達のような馬群を割っていけるほどのパワーはない。今はまだ差がないかもしれないが差しのままではライバルには到底かなわないだろう。」
「特に思った点としてピッチを乱高下させる際の切り替わりの遅さだ。僕が時折、タイヤ引きのスピードを変えるように伝えたことは覚えているか?
あれの意図としては、ピッチを瞬間的に上げられるか見極めるためだ。差しウマには瞬間的に回転数を上げて切り込んでいける足色の鋭さが必要だが、君の場合は体のパワーを瞬間的に上げてギアを上げることに関しては、はっきり言って下手糞の部類だ」
「…じゃあどうすればいいのさ」
目の前の少女はバツの悪そうな顔をしてむくれている。自分を否定されてしまったのだから仕方がないだろう。口では悪ぶってはいるものの、その本質はまだまだ精神的に未熟な若ウマなのだ。
その上で、彼女の賢さがより拍車をかける。賢いが故に一つ一つの言葉がボディブローのようにジンジンと痛み、心を蝕む。賢いが故に自分のアイデンティティが崩れ去ることが恐ろしくて仕方ないのだ。確かに差しウマの適性は高くない
だが…
「お前は逃げウマだ。」
「逃げ?」
「ああ、逃げだ。まずこのタイヤ引きでお前は俺を心配したことはなかった。…いや、正確にいえば声は掛けるだけで前へ前へと走り抜けていった。
このトレーニングの狙いの1つは馬群を意識するタイプかどうかと、前方と後方どちらに適性があるかを見ているんだ。
君の場合は俺のことをバカにしていることもあるが、先頭を決して譲らなかった。これは潜在的な心理として先頭を走ることに愉悦を感じている証拠さ。バ群の中で溺れてもがく連中を尻目に1人で走ることが好きなのさ。」
目の前の少女はだるそうに髪をいじっている。そんなことでアタシの何がわかる、無茶苦茶な屁理屈をこねやがってという反骨の感情が漏れ出ていることが目に見えてわかった。
そして呆れと苛立ちのブレンドされたような表情でため息混じりに切り出した。
「…ふーん。本当か?でまかせじゃないだろうな?
あと良くもまぁ、それだけ人のことを悪く言えるなぁ…そんでそれだけが理由?」
「バカいえ。こんなことだけで決めつけるやつは人でなしだ。それ以外にも要因はあるに決まっているだろう。
まずはタイヤ引きの終わり際のことを思い出せ。」
「終わり際?汗かいたこととあんたが死にかけてたことくらいか…」
「そこもだがそこじゃない。体の具合とか心理的なこととかだ。お前は汗はかいていたが息が上がっていたか?」
「…っ!」
「そうだ。お前はあくまでタイヤ引きの間もあとも全く息が上がっていなかった。その上、走りながら後ろを振り向いて喋る余裕もあった。
それは、ギアを変えるとき以外は後ろでやかましかった俺に意識は向けても気を取られず集中してペースを一定に保ったままトラックを1周できたこと、つまりはペースの上げ下げを意識して自然と一息入れることが出来るペース配分の上手さの証左で、息切れせずに走れたことは高い肺機能と長く持つ脚を持っていることの証左だと俺は思う。
スタミナとペース配分が上手ければ逃げウマとしては及第点だ。それに…」
「それに…?」
「お前には他の女にはない賢さがある。今はまだ気づけないだろうが、いずれそれがお前の強力な武器になる。よく覚えておけ。」
[newpage]
「…フン」
「以上だが、質問はあるか?僕としてはそれなりに君のことがわかった気がするんだけど…」
「いや、ないから大丈夫」
「そうか。なら次は…」
「…と」
次の話を切り出そうとした瞬間、彼女が何か呟いた。声が小さかったこともあって全くわからなかったものの、質問があるのならばしっかりと回答するのがトレーナーの仕事だ。
「ん?なんだ?聞きたいことがあるなら早く聞け。…やや顔が赤いがもう少し休憩にでもするか?」
「…なんでもない!アタシは自販機に行ってくるからアンタもなんか買ってきたら!」
「…?あ、そうそう君次走は前のトレーナーから聞いたけどひと月後の阪神3歳ステークスでいいか?」
「正直気が乗らないけどもう通ってんなら仕方ないでしょ?なら今回は特別」
「すまない。次からは君と一緒に決めるようにする。」
「よし、じゃあ休憩が終われば作戦会議だ…」
鬱陶しいほどの晴れ空の下にからっ風が吹き荒ぶ。いつもは冬を告げる乾いた寒さに苛立ち、腹を立てていた。
だが、今はその寒さがどうしようもなく心地よかった。