メジロアルダン? あんなのハズレだよハズレ!【完結】 作:宇宮 祐樹
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……あ、もう買い物終わった? じゃ、これ吸い終わったら行くか。
てかちょっと待って? なんか量多くない? どんだけ買ったんだよお前……。
ああはいはい。分かったよ、持つよ。ったく……このアル中野郎が。
言っとくけど俺、さっきの店の会計が割り勘だったの未だに納得してねえからな?
人に話だけさせといて、自分だけアホみたいに呑みやがって……。
……え? 話の続き?
お前ん家に着いてからじゃなかったのかよ。ほんと、勝手なことばっかり言いやがって。
まあ、どうせヒマだからいいけどさ……。
……代わりにもう一本吸ってくけど、いいよな?
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そんで、ダービー終わってからのことなんだけど。
正直、俺もどっから話せばいいのか分かんねーんだよな。
だってその時、色々なことが起こりすぎて……頭パンクしそうになってたんだもん。あっちが大変だと思えば、こっちも実は大ゴトになってて……かと思えば、俺自身もとんでもないことやらかしちゃってさ。マジめちゃくちゃだったよ、あの年は。まあ、お前も知ってるとは思うけど。
だから……あー、どっから話せばいいかな。
……まあ、順番に話していった方が分かりやすいか。
とりあえず、ダービー終わった直後なんだけど。
「右脚に炎症が見られました」
まず初めに、メジロ家の主治医さんにそんなこと言われたの。
「……マジっすか」
「幸い、大事に至るようなものではないですから、安心してください。念のため骨も検査しましたが、異常は見られませんでした。ですので、充分な治療を行えば完治するでしょう。日常生活にも支障はありません。ただ……向こう二週間はトレーニングを控えるよう、お願いします。それと、メニューの調整も」
「うっす……」
でもまあ、よくよく考えれば納得できる話ではあったのよ。
皐月賞、日本ダービーと連続でレースに出走したわけだしさ。その上、ダービーであんな力任せの慣れない走りまでして……今思えば、そこで骨折とかしてもおかしくなかった。軽い炎症で、しかも片脚だけで済んだのはマジで幸運だったのかもな。
「菊花賞までには治りますかね?」
「現状では何とも。それまでに回復する見込みは充分にありますが……綱渡りであることに変わりはありません。こればかりは、アルダンお嬢様にかかっているでしょうね」
「……そっすか」
主治医さんにはそう答えたけど、その時は割とガチ目にショック受けてたよ。だって、菊花賞に向けてこれから、ってタイミングでコレだもん。焦ったっていうか……ここだけの話、出走は半分くらい諦めてたよ。
そんで話が終わってからすぐ、あいつのところに行ったんだけど。
「……申し訳ありません、トレーナーさん」
俺の顔を見た瞬間、あいつがそう言ってきてさ。
「別に、お前が謝る必要なんてねーよ。脚ケガしたってことは、それだけ必死になって走ってくれたってことだろ? ……俺のために。だから、ダービーにも勝てたんだ。違うか?」
「ですが……」
「それに、主治医さんも言ってただろ。適切な治療を続ければ、また走れるようになる、って。なら、ゆっくりやろうぜ。ああ……そうだ。休憩時間って思えばいいんだよ。こう言うとお前はまた、怒るかもしれないけどさ。でも……ここまで充分、頑張ったよ。すげえって。だから……少しだけ、休もうぜ。な?」
励まし、っていうか、慰めのつもりで言ったんだけどさ。
結構、本心からの言葉でもあったのね。
だってそうだろ。やれマトモに走るのは諦めた方がいい、レースに耐えられる体じゃないって言われまくった挙句、後輩からもナメられてるようなヤツが、クラシック三冠のうち、二冠を獲ったんだから。充分、頑張ったよ。だから、少しは休んでもいいはずだって……掴んだ栄光を噛み締める時間があっても、いいんじゃないか、って。
でも、あいつさ。
またあの、どうしても納得いってない、年相応の不満そうな顔しやがって。
「……申し訳、ありません」
「だから、謝んなって。……お前の脚がそうなったのは、俺のせいなんだ。頼むから、やめてくれ……」
まあ。
俺も多少……いや、あいつ以上に負い目を感じてたんだよ。
あいつがあんな無茶をしたのは、俺が「救ってくれ」なんて伝えたからだもん。
……これは、俺の考えなんだけど。
トレーナーってのは、子供の夢を後押しして叶えてやる仕事なんだよ。
そこらの子供じゃ思いつかない、バカみたいな夢を聴いてやって、そこに辿り着くまでの道を用意してやって、一緒に歩いてってさ。それが、理想のトレーナー……いや、理想の大人だって俺は思ってる。
でも、俺にはそれができなかった。道は、なんとか用意できた。だけど、自分の脚じゃ歩けなかった。だから、あいつに連れて行ってくれ、って頼んだんだ。そうしたら、連れてってくれた。でも、あいつの脚は壊れた。俺を連れて行ったせいで。
……悪いのは俺なんだよ。
「これだけ、聞かせてほしいんだけど」
「はい」
怖かったんだと思う。
……いや、違うな。これ以上は、やめてくれっていうか……もう、いいだろ? って。充分やったよ、だからもういいんだ、って。呼びかけのつもりだったんだ。……俺自身にも、っていう意味もたぶん、あったと思う。
でも、あいつ。
「菊花賞、出るつもりなのか?」
「もちろんです」
俺の目、まっすぐ見つめながら答えたんだよ。
それで気づいたんだ。思い知らされた、の方が正しいのかもしれないけど……ああ、まだこいつは諦めてないんだ。まだ、走り抜くつもりなんだ、って。それを聞いたら、なんか……力、抜けちゃってさ。いや、いい意味じゃない。呆れて、って言った方がいいのかもなあ。なんか、そんな感じで。
「そう、か。……ああ、そうだよな。カメラの前で、言っちゃったもんな」
だから俺も、どうしようもなくなった、っていうか。
「俺も……
そうやって言うしかなかったんだよな。
……ああ、そうだよ。その時点でもう、菊花賞は諦めてたよ。
だって……どうしようもないだろ。もともと長距離は厳しいって話なのに、このタイミングで脚やらかすなんて。確かに、菊花賞はまだ希望があるって言ったけど……それは、時間と余裕があった上での話だし。
でも、それをハッキリ伝えるわけにもいかなかったんだ。
だから、こりゃもう無理だなってなるギリギリまで隠そう、ってその時の俺は思ってた。
主治医さんが言ってるみたいに、もしかしたら菊花賞までに完治するかもしれないし……何より、怖かったんだよ。もし、俺が菊花賞を諦めてる、って伝えたら、あいつがどんな顔するか……そう考えると、怖気づいちゃって。何とかして叱られないようにする子供みたく、どうにかやり過ごそうと思ってたんだ。
……でも、なあ。
こればっかりは、完全に俺の予想でしかないんだけど。
その時にあいつはもう、俺がそうやって考えてることに気づいてたんだろうな。
だって言っちゃったんだもん。
そう。覚えてたんだよ、あいつ。俺が本当に諦めてるときは、そう言うって。
……ほんとにさ。
子供って、大人のことよく見てるよ。
■
それからしばらくの間、あいつは練習を休むことになってさ。
でも正直な話、思ってたより焦りは感じなかったかな。そもそも、レース自体が夏に入るまではオフシーズンみたいなモンだし。それに、それぞれが合宿に向けての準備期間みたいな感じだったから、だいぶ気持ち的には楽だったよ。それこそ、これならなんとかなるんじゃ? みたいな楽観的な気持ちにもなってた。
そんで、俺も今年は合宿に参加するから、そのための調整とかしなくちゃいけなくて。
確かその日は、利用する器具の申請書類作ってたかな。
トレーナー室で作業してると、いつもみたいにあいつが入ってきてさ。
「お疲れさまです、トレーナーさん」
「はい、お疲れ。調子は?」
「問題ありませんよ。脚さえよければ、トレーニングしたいくらいです」
みたいに、普段通りの会話して。
「今日はどうされますか?」
「あー……ま、昨日みたいにダラダラしようぜ。俺も、書類とかの作業しなきゃいけねーし」
「では、お茶でも淹れましょうか」
「それなら俺やるから、大人しく座っときな」
「ありがとうございます」
ま、そんな感じで適当にトレーナー室で過ごしてたのよ。
「今日は何してたんだ?」
「テストが近いので、それに向けた勉強を」
「へー。……その、やっぱ難しいの? 高等部の勉強って」
「どうでしょう。中等部の延長だとは思いますが……ご覧になりますか?」
「いや……やっぱ、いいわ。どうせ見ても分かんねーだろうし」
「……よろしければ、お教えしましょうか?」
「ゼッテーやだ」
「まあまあ、そう言わずに」
なんて言われながら、ほぼ強引にノートとか見せられてさ。
そういえば、あいつと勉強とかの話したのはそこが初めてかもなあ。だってあいつから赤点とか補習とかの話、担当してから一切聞かなかったもん。実際、成績も学年の中だと相当良かったらしいし。俺が見る必要もねーかな、って。
……いや、まあ。
俺が半年しか高校通ってなかったから、ってのもあるんだけど。
「しぐ……ま? なにこれ、呪文?」
「ギリシア文字ですよ」
「つーか、なんで数学やってんのにアルファベットが出てくんだよ」
「そこに数字を代入するんですよ。ほら、この公式に当てはめて……」
「……こう? いや、違う……ああ、こっちじゃない? こうだろ、ほら」
「はい、正解です。よくできました」
「調子乗ってんなぁ、お前」
そうやって、あいつの先生ごっこに付き合ってやってる時だったかな。
「先輩、今少しいいですか?」
ノックもなしに、後輩……そう、チヨちゃんのトレーナーが、いきなり部屋に入ってきたのよ。
思えば、その時点でかなり焦ってたんだろうな。普段のあいつなら、ノックしてから声かけて入ってくるだろうし。相当、ヤバい状況ではあったんだと思う。実際、そこそこヤバ目な状況ではあったし。
「おう、どうした?」
「すみません、お聞きしたいことがあって……えっと、大丈夫でしたか?」
「はい、構いませんよ。トレーナーさんに勉強をお教えしていたところですので」
「先輩が? アルダンさんに教えてもらったんですか? いや、どうして……普通、逆では?」
「高校中退」
「すみませんでした」
それはともかくとして、あいつに話をさせたんだけどさ。
「お二人とも、チヨノオーを見ませんでしたか?」
急にそんなこと言われちゃったから、俺もあいつもお互いに顔を見合わせちゃったの。
「……チヨちゃん? 俺は見てねーけど……」
「私も、今日は保養所から登校していたので……すみません」
「そうですか……となると、いよいよアテがなくなってきたな……」
「……いねーの?」
「今日は普段通りトレーニングの予定だったんですが……時間になっても姿を見せなくて」
そうやって話してるあいつの表情も、だんだん深刻になってきてさ。
「いつから見てない?」
「今朝からです。いつもならそこに僕が合流するんですが」
「そういえば、カフェテリアでも見かけませんでしたね……」
「ヤエノたちには?」
「ここへ来る前に寄りましたが、お二人とも見かけてない、と」
「……寮長には」
「既に確認を取りましたが、部屋にはいないみたいです」
「……………………」
「……………………」
もうその時点で、その場にいた全員がただ事じゃないって気づいたのね。
そもそもチヨちゃんが誰にも何も言わず勝手にいなくなるとか、当時は思いもしなかったからさ。こりゃ大ゴトだぞ、ってなって。もしかしたら誘拐とか、何か事件に巻き込まれた……みたいなことも、全然あり得たし。
だから、俺も後輩もすぐに探しに行こうって話になって。
「お前は外回り頼んだ。普段のトレーニングコースとか、チヨちゃんが行きそうなところとか、何でもいいからそこらへん当たれ」
「了解です」
「アルダンはここに残ってチヨちゃんに連絡。返答なかったら、知り合いに手あたり次第連絡飛ばせ。それでも見つからなかったら、たづなさんに連絡。指示があると思うから、それに従って」
「分かりました。トレーナーさんは?」
「とりあえず校内見て回ってくる。お互い、何か手がかり見つけたらすぐ報告で。いいな?」
みたいな感じで指示出してから、言った通り学園をぐるっと見て回ったんだけどさ。
どこにもいなかったのよ、チヨちゃん。グラウンドとか教室はもちろん、誰も使わないような空き倉庫とか、校内の端っこにあるゴミ集積場とかも探したんだけど、全然見つからなくって。
こりゃホントにマズいかもなー、どーしたモンかなー、みたいに考えてたんだけど。
……ここだけの話、一つだけ心当たりがある場所はあったんだよ。
「まさか、なあ……」
でも正直、チヨちゃんがそこにいる理由が当時は見当たらなかったのね。わざわざ一人で行くような場所でもないし……何より、そこにいるってことはつまり、俺に用事があるってことだからさ。少なくともその時の俺は、チヨちゃんから俺へ何か話があったり、伝えたいことがあった、とか一切思ってなかったのよ。
だから校内をあらかた回ったあと、半信半疑でその場所に向かってみたワケ。
そしたら、いたの。
「……ぁ」
校内の端っこにある、ちっちゃい喫煙所のベンチ。
そこに、チヨちゃんが一人で座ってたんだよ。
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「ごめんなさい」
向こうも自分が色んな人に迷惑かけてる自覚、あったみたいだからさ。
俺に見つかってからはじめに、そうやって謝ってきて。
「……そうね。後でみんなにも謝っときなよ?」
「はい」
「それで、あー……何だ。えっと……隣、座ってもいい?」
「いいですよ」
正直、どう接すればいいのか分かんなかったんだよ。
だってあんなアンニュイっていうか、すげー悲しそうな表情のチヨちゃん、初めて見たもん。ほら、チヨちゃんっていつも元気いっぱいで、笑顔が絶えない子だったからさ。そんな子が、ずーっと俯いて黙ったままで……バカ正直にその理由を聞くのも、躊躇っちゃうっつーか。そんな感じになっちゃって。
「……タバコ、いい?」
「どうぞ」
いつもならうるさく言ってくるはずなのに、その時はそんな気力もなかったみたいでさ。ヤニ吸ってる俺の横顔、じーっと見つめてくんの。いや、別にそれが鬱陶しいとか、イヤってわけじゃなかったけど……もどかしかった、っていうのが合ってんのかな。言いたくても言えない、みたいな雰囲気になってて。
そのまましばらく、俺もチヨちゃんも無言だったんだけど。
結局、俺の方が折れちゃってさ。
「チヨちゃん、俺に何かいいたいことあんの?」
「……え?」
「だって、ここにいるってことはつまり、
……そう。
その喫煙所、俺とチヨちゃんが初めて会った場所なんだよね。
チヨちゃんって、トレセン入ったころはあんまりパッとした走りとかしない娘でさ。だから、よく一人で悩みこんでたみたいで……そこの喫煙所、そもそもトレセン勤務の人が喫煙者少ない、ってこともあって。一人になるにはうってつけの場所みたいだったの。
そんなところに、俺がたまたま出くわしてさ。
色んなこと話すようになったのも、そっからなのよ。
だから。
「友達にも、
「………………」
「……黙ったままじゃ、何もわかんないよ」
ちょっと意地悪な言い方になっちゃったけど、そうしたらチヨちゃんが話し始めてさ。
「……私、ダービーウマ娘になるのが夢だったんです」
「うん、知ってる。よく俺に話してくれたよね」
「でも、ダメでした。ダービーに勝ったのは私じゃなくて、アルダンさんと……あなた、でした」
自分から話振っといて何なんだけどさ。
その時点で、ああこれちょっとやらかしたかな、とか思ってたのね。
「……やっぱり、思っちゃうんです。あなたが私の担当になって……そのまま、ダービーに出走していたら。ダービーに勝ったのはあなたとアルダンさんじゃなくて、あなたと私だったんじゃないか、って。そんな未来が、もしかしたらあったんじゃないか、って……そんなどうしようもないことを、考えちゃうんです」
「チヨちゃん……」
「今更あなたにこんなことを言っても、何にもならないことは分かってます。これはただの無意味な妄想で……あなたを困らせるだけのワガママだって。それは、理解してます……無理やり、ですけど」
そんなこと言われたら、俺ももう何も言えなくなっちゃって。
改めて、俺ってチヨちゃんにひどいことしちゃったんだな、って思い知ったわけ。
仕方ないっちゃ仕方ないことなんだろうけど……それで済ませていい話でもないじゃん。かといって、俺が何か出来るわけでもなかったし。罪滅ぼし、って言うのは少し仰々しいかもしれないけど……その時の俺はただ、黙って話を聞くことしかできなくってさ。
「でも、後悔はしてない……というと、ウソになっちゃいます」
「………………」
「私はこれからずっと、あなたとダービーを走っていたら、って思いながら過ごすんでしょうね」
謝ることすらできなかったよ。
そうしたら多分、チヨちゃんのことを更に追い詰めちゃうような気がしてさ。
だけど他にどんな言葉をかけていいのか、分かんなくって。……いや、違うな。多分、何も言っちゃいけなかったんだ。俺は、チヨちゃんの夢を壊した最低な人間だから。言い訳も謝罪もしちゃいけなくて……ただじっと、チヨちゃんの話を聞くことしか、許されてなかったんだよ。
罵倒されてもおかしくなかった。それこそ、頬に一発やられる可能性だってあった。
だけど、ほら。チヨちゃんって心の底から優しい
「……ごめんなさい。こんなこと言われても、困っちゃいますよね」
「いや……そんな、こと」
「いいんです。きっと私はこの先、そのことを何度も思い出して、そのたびに辛い気持ちになるんでしょうけど……付き合っていくって、覚悟してます。大丈夫ですよ。こう見えても私、立ち直りは早い方ですから。……でも」
「……でも?」
「その時に、ちょっとだけあなたのことを恨ませてくださいね?」
……なんつーか、さあ。
俺、今までずっとチヨちゃんのこと妹みたいに思ってたんだけど。
その時のチヨちゃん、すげー大人っぽく見えたのよ。
何様だよ、って言われるかもしれないけどさ。ああ、この娘はいつの間にか、こんな
返す言葉も見つけられなかった、っていうのもあるけど。
そんな表情されちゃったら俺、もう黙り込むしかなくなっちゃって。
そうやってるうちに、またチヨちゃんが話し始めてさ。
「問題は、次なんですよ」
「……次?」
「皐月賞もダービーも負けた今……私は、いったいどこを目指せばいいんでしょう?」
多分、それがチヨちゃんの本当の目的だったんだよ。
「……結局、どこまで行っても私は普通のウマ娘なんです。別に、今まで自分が特別だって思ってたわけじゃありません。普通なりに、頑張ってきました。いつかこの努力が報われる時がくるって、何の根拠も無しに信じてきました。でも……今回で、思い知らされたんです。私は、特別にはなれないんだって」
「別に、そんなことはないでしょ……って言うのはナシ?」
「トレーナーさんが本当にそう思ってくれてるなら、構いませんよ。私はへこんじゃいますけど」
「……ごめん」
「ふふっ、冗談ですよ」
なんて、チヨちゃんは笑っててさ。
そっからまた、しばらく二人とも無言になってて。俺はもう、どうやったら元気づけられるかなあ、なんて声かけたらいいのかなあ、って呑気に考えてたよ。隣でチヨちゃんが考え込んでることなんか、気づかずに。
そしたらチヨちゃん、
「……あなたにひとつ、お聞きしたいことがあるんですけど」
なんかそんな感じで、改まった後にさ。
「退学手続きって、どうすればいいんですか?」
俺の顔見て、そんなこと聞いてきたの。
「……それも冗談だよね?」
「本心です」
最初は俺も、マジで何言ってるか分かんなくて。
え、いやそりゃ選択肢には入るだろうけどさ。ガチで選ぶわけ……え、ウソでしょ? みたいな。もう、内心パニックでさあ。そうやって固まってる俺のことなんか無視して、チヨちゃんは話し続けてて。
「たぶん、ここが限界なんです。普通なりに努力して、特別になれなかった私の。……もう、走る意味も分からなくなっちゃいました。ここにいる理由も。目標も、見つかる気がしないんです」
「だから退学するってのは……ちょっと、早すぎるんじゃない?」
「これからあなたのことを思い出しながら走り続けるよりは、ずっとマシだと思います」
ズルいこと言うよなあ、チヨちゃん。ほんと、こんなこと言う娘じゃなかったのにさ。
でも、チヨちゃんの気持ちも、全部ってわけじゃないけど理解できたんだよ。
どんだけ頑張ってもさ、報われない時ってあるじゃん。努力は無駄にはならない、って言うヤツもいるけどさ……それって、その努力が報われたから言えるわけであって。そうやって言いたくても言えないヤツなんか、世の中にはたくさんいるんだよ。……俺だって、そのうちの一人だ。
だから、チヨちゃんの選択を止めることなんか、できなくってさ。
「……事務室に書類が置いてあると思うから、勝手に持ってっていいよ」
「そうだったんですか?」
「記入するのは、退学する意志とその理由、正確な日付と……あと、印鑑かな。理由とかは別に明確じゃなくていいよ。一身上の都合とか、家庭の事情とかテキトーに書けば通してくれる。日付は、一般の高校なら担任の先生と相談すんのが普通だけど……
「なら、あなたにお願いしてもいいですか?」
「……いいよ。やったげる」
自分でもビックリするくらい、話もポンポン進んでってさ。
「学校辞めた後はどうすんの?」
「まだ、明確には決めていませんが……実家に帰って、しばらく手伝いをしようかと」
「だったらさ、通信とかに転校は? それだったら高卒の資格取れるし、大学進学もできるから就職もしやすいと思う……ああいや、別にそうしろって言ってるワケじゃなくてさ。その……今後のこととか、考えなくちゃいけないと思って」
「それもいいかもしれませんね。でも……今の私に、これからのことを考える余裕は……」
「……そっか。なら、まあ……うん、そうだね。ゆっくりするのも、いいかもね」
みたいな感じで、話も終わったんだけど……その時点で、俺も薄々気づいてたんだよ。
俺なら何か言ってくれるかもしれない、ってチヨちゃんが期待してることに。
だってそうじゃなかったら、チヨちゃんはあんな目してないもん。子供っぽいっつーか……ああ、そうだ。妹もそうだった。小さいころ、母親の代わりにスーパーにお使い行った時にさ。欲しい菓子を見つけたら、それ持って妹が俺のことじーっと見つめてくんの。その時の目と、同じだった。
そんなことされたら、兄貴としてはさ。応えてやるしかないじゃん。
でも……いくら探しても、かけてやれる言葉が見つからなくて。
言いたいことはあった。あり過ぎたんだよ。そのうちから、どれが一番いいのか……分かんなくってさ。下手したら傷つけるだけかもしれない、後ろ向きな考えにさせちゃうかもしれない、なんてこと考えちゃうの。
そうやって悩んでるうちに、チヨちゃんが立ち上がって。
「……そろそろ、行きましょうか」
「え」
「トレーナーさんや、アルダンさんたちに謝らないと」
もう、四の五の言ってられなかった。
そこでチヨちゃんを行かせたら、それこそ俺は今後、一生後悔し続けるんだろう、って思って。
言いたいことも纏まってない。チヨちゃんの気持ちも、少しだけしか理解できてない。
それでも、止めないといけない気がしたから。
「……ま、待って!」
思わず声、かけちゃったのね。
「あのさ、俺が高校中退したって話、チヨちゃんにしたっけ?」
「……はじめて聞きました」
「そ、そっか。それなら……まだ、ちょっとだけ話さない? いや、分かんない……チヨちゃんのためになるかは、分かんないけどさ! でも、その……あ、そ、そうだ! ほら、中退の先輩としてさ! 今後、何か役に立つかもしれないし……いや、頼りないかもしんないけど! そんなこと、俺が一番分かってる! だから……!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて……!」
「だから……お願いだから、少しだけでいいから……! ……俺の話、聞いてくんない?」
気づいたら俺、チヨちゃんの両肩、掴んでて。必死になって頼み込んでた。
ほんと、情けないよ。大の大人がさ、今にも泣きそうな顔で女の子に話聞いてよ、って。それこそ、何も知らない人が見たら通報モンだったと思う。だけど……俺からしたら、それが精一杯でさ。
でも、チヨちゃんはさ。
「……しょうがない人ですね、あなたは」
なんて笑って、また俺の隣に座ってくれたんだよ。
「どうして辞めちゃったんですか?」
「……高一の夏ん時、ケンカしちゃったんだ。俺の実家が定食屋だってことは、チヨちゃんも知ってると思うけど……その定食屋、学校にそこそこ近いところだったからさ。たまーに、同級生とか先輩とか来てくれんのよ。そんで、その日も同じクラスのヤツが来てて……翌日、そいつが話してたんだよ。あそこの定食屋はマズい、って」
「…………」
「当時の俺は、母ちゃんが作ってくれるメシは世界一美味いメシだと思ってたんだ。だから、そいつに母ちゃんをバカにされてる気がして……いつの間にか、そいつと殴り合いになってた。大惨事だったよ、ほんと。……ほら、見て。俺の奥歯、欠けてるでしょ。向こうは前歯。……ま、そんな感じで二人仲良く停学喰らったの」
「……停学、ですか?」
「その時点ではね。でも、俺は納得できなかった。悪いのは絶対に向こうだろ、って思い込んでた。だから、俺だけ辞めた。やってられねーよ! っつって。……ほんと、あの頃はマジでどうしようもないクソガキだったよ。親にも学校にも迷惑かけて……そっから、しばらくはバイトと実家の手伝いして過ごしてた」
今思い出しても、何のタメにもならない話だったけどさ。
それでもチヨちゃんは俺の話、すっごく真面目に聞いてくれてたんだ。
「でも、正直辛かったよ。たぶん、ちゃんと学校行ってた方がよかったって、今でも思う」
「バイトと手伝いが、ですか?」
「ああいや、そうじゃなくて……いや、確かにそれもキツかったよ。でも、それ以上に、その……同じ年で、ちゃんと学校行ってるヤツを見るとさ。あー、俺はああなれなかったんだ、落ちこぼれなんだ、って。そんな実感を、イヤでもしちゃうわけ」
多分、それだったんだよ。俺が言いたかったことは。
高校もマトモに卒業できなかったヤツが、どんな末路を辿るかなんて目に見えてる。そう考えたら、俺は上澄みの上澄みだ。運よく中央のトレーナーっていう仕事に就けたんだから。でも、世の中にはそうならなかったヤツの方がずっと多くて……そのうちの一人に、チヨちゃんがなろうとしてる。そんなの、俺は絶対にイヤだった。
だから。
「……俺からしたら、普通ってすげー羨ましいよ」
あの時かけた言葉はきっと、俺の本音でもあったんだ。
「他のヤツから見たら、俺は確かに特別かもしれない。高校中退して、中央のトレーナーになれたんだもん。努力も報われた。運も良かった。それは否定できないよ。でも、さ。俺からすれば……俺は、普通にすらなれなかった人間なんだ。だから、何かに……せめて特別な何かになろう、って頑張ったんだ」
「…………」
「……チヨちゃんには、そうなってほしくないんだよ。友達といっぱい遊んで、勉強もたくさんして……普通の学生として過ごしてほしい。特別なんて目指さなくても……なんて言わない。普通であることに、嫌気が差してるのも分かってる。でも……さ。お願いだから……もう少しだけでいいから、頑張ってみない?」
たぶん、もっと上手な伝え方はあったんだと思う。
だけど頭の悪い俺じゃ、そうやってしか言えなかったんだ。
「……本当に、ずるい人」
それでもチヨちゃんは、俺の話を聞いた後に、そうやって小さく笑ってくれてさ。
「さっきまで私のことを止めようともしなかったのに……急に、まだ頑張ってほしい、ってなんて。ワガママが過ぎますよ。アルダンさんのワガママ癖がうつったんじゃないですか?」
「ご、ごめん……でもさ、チヨちゃんは俺みたいになってほしくなかったから……どうしても」
「ふふっ、大丈夫です。あなたの気持ちは、しっかり伝わりました」
そしたらチヨちゃん、俺の顔じっと見つめてきて。
「それなら、私のワガママも聞いてくれますか?」
「うん。なんでも言って。俺にできることだったら、何でもするから」
「タバコをやめてください、ってお願いでも?」
「いいよ、禁煙する。チヨちゃんが頑張るなら、俺も頑張らなくちゃだし」
マジで禁煙しよう、って決意したのは、後にも先にもその時だけだよ。
そしたらチヨちゃん、耐えきれなくなったのか、ちょっと笑っちゃってさ。
「ふふっ……本気、なんですね。それならそっちをお願いした方がよかったかも……」
「え……違うの?」
「はい」
それから。
「次に出走するレース、あなたに決めてほしいんです」
なんて、まっすぐな目で言ってきたの。
「俺が? ……いいの?」
「私にまだ頑張ってほしい、って言ったのは他でもないあなたですよ? それに……」
「……それに?」
「これは埋め合わせです。あなたと出会った時からずっと抱いていた、あなたと一緒に走りたい、という私の気持ちの。……もちろん、付き合ってくれますよね?」
そんなこと言われたらさあ。
断るわけにはいかないじゃん。
……それに、元はと言えば俺がチヨちゃんとの約束を破ったのが原因なんだ。チヨちゃんにこんなことを考えさせたのは、俺なんだ。そう考えたら……断るだなんて、そんなことできるわけねーじゃん。
だから。
「……天皇賞、秋」
頭の中にうっすら残ってた、チヨちゃん用に仮組してたローテ。
それ、無理やり引っ張り出してきてさ。
「……重賞、それもG1ですか?」
「皐月賞のタイム考えれば、チヨちゃんの脚はシニア級相手でも充分通用するよ。レース場は東京だから、皐月賞みたくはいかないけど……それを考慮したとしても、勝ちの目の方が大きい。強気に出られると思う」
「菊花賞ではないんですね」
「今のチヨちゃんは、長距離向けの調整をするより、中距離にもっと磨きをかけた方が結果を残せると思う。三冠ルートから外れることになるけど……俺がチヨちゃんの担当するなら、きっとそうやって話してた」
「……そう、ですか」
残念がってるわけじゃ、なかった。
むしろ、なんかちょっとだけ嬉しそうに笑ってて。
「トレーナーさんには私の口からお伝えします。ですから、あなたもアルダンさんヤエノさんに言わないでくださいね。もちろん、他の人にも」
「……内緒にしとくの?」
「はい。だってこれは、私とあなただけの秘密ですから。私が悩んでいたことも、退学しようとしていたことも、あなたと一緒に出走するレースを決めたことも……ぜんぶ、ここだけのお話です」
こう、人差し指を口に当てて、しーっ、ってさ。
そこできっと、終わりだったんだ。
……ああ、そうだよ。
俺とチヨちゃんの、担当ごっこ。
「そろそろ行きましょうか」
「……そうだね」
それから俺とチヨちゃんで、
言い訳は適当にしといた。ちょっと一人で悩んでたみたい、でも俺が話したら解決したよ、って。納得はされなかったけど……それ以上に、チヨちゃんのことで頭がいっぱいみたいだったから。とにかく無事でよかった、ってなって。チヨちゃんの方も迷惑かけてごめんなさい、ってちゃんと謝ってたよ。
そっからしばらく後に、チヨちゃんが天皇賞秋に出走するって正式に発表があってさ。
「チヨノオーさん、天皇賞に出走するんですね」
「へぇ」
「……トレーナーさんは、ご存知だったんですか?」
「いや全然? このまま菊花賞に出てくると思ってたよ」
正直なところ、その後ならバラしても良かったとは思うけど。
もう二度と、チヨちゃんとの約束を破るようなマネしたくなかったし、なあ。
「ほら、他人のこと考えてる余裕なんかねーぞ。合宿のスケジュール調整、進めないと」
「そうですね」
結局、そのことは今でもあいつに話してないよ。
だから、本当に俺とチヨちゃんだけの秘密。
あー……まあ、いいよ。お前には世話になったし。なんだかんだ口も堅いしな。それに……別に、お前もチヨちゃんとか、あいつと会うこともそんなにないだろ。だから、話しても別にいいかな、って。
……え? お前、あいつと連絡先交換してんの? ……なんで?
ふ、普通に? 普通にって……いや、別にいいんだけどさ。接点ねーだろうに……。
……じゃ、そろそろ行くか。お前ん家。
そういや聞いてなかったけど、歩いてどれくらいかかんの?
三十分? ……マジ? 意外とかかんじゃん。
あーでも、そっか。それくらいになんのか。しゃーねえなあ……。
いいよいいよ、荷物持つ。だから、案内してくれ。最短ルートで頼むわ。
……え? ああ、分かったよ。
夏合宿の話だろ?
■
Q.続きますか?
A.来月中に一本上げられたら上出来かも