ガリレオの従姪 作:けーてぃー
目白署にある女性用休憩室で、内海薫は缶コーヒーを飲みながら、スマホ画面に目を向けている。
部屋は狭く、長机とパイプ椅子が並んでいるだけの殺風景な場所だった。
コーヒーがそろそろ空になる頃、ノックの音もなくドアが開いた。
「休憩中に悪いんだけど、邪魔するわよ。内海さん」
特殊班に所属している女性刑事、久代茜が開いたドアを押さえながら立っていた。いまさら、コンコンと、ノックをする。彼女は、年次でいえば内海薫よりも十期以上先輩に当たる。
「なにしてたの?」そういいながら、久代は部屋の中に入った。
「漫画を読んでいました」
「漫画?」久代は、少し意外そうに驚く「あなた、漫画なんか読むのね。まあ、別に休憩で何しててもいいんだけど」
机の上には、一冊のコミックスがあった。久代は何気なくタイトルを読む。妊娠中の生活を題材にした漫画のようだった。
「こういうの、興味あるの?」
「個人的な興味というより、捜査の足しになるかと思って読みました。この漫画の作者は、浅倉葵さんです」
「えっ、そうなの。へえ、あの人、こういう漫画を描いてる人なのね」
「自身の体験を描いているようです。こういう形態の漫画を『コミックエッセイ』というらしいですね。私は初めて読んだジャンルですが、なかなか興味深いですよ」
「エッセイ……そう。体験記か」
久代は作者名をちらりと見た。『あさくらあおい』と、ひらがな表記で書かれている。
「単行本は読み終わったので、いまはブログで連載している方の漫画をスマホで読んでたんです。単行本、貸しましょうか?」
「んー、いや、せっかくだけど、遠慮しとくわ。あんまり時間ないし。ちょっとあなたにも付き合ってほしいのよ」
「なんでしょうか」
「聞き込みを命じられたんだけど、私、元々は地域課だったし、所属を移ってからもそういう捜査の経験は乏しいのよね。だから、内海さんを借りられないかって打診してみたの。草薙さんの許可はもらったわ」
「そうですか、了解です。どこへ付き合えば?」
「病院よ。小児科」
二人は、浅倉家からほど近い場所にある、東信記念病院を訪れた。
現在、医療法の改正によって総合病院という名称の法的な規定は廃止されているが、総合病院といって差し支えがない程度の規模を持った、大きな病院だった。
この病院に勤める看護師から、とある通報があったらしい。
受付で名乗り、通された会議室のような部屋で待つこと三十分、ようやく、四十前後に見える年齢の男が現れた。その男は、スーツの上から白衣を羽織っている。どうやら、看護師ではなく医師らしい。
「どうも、ここの小児科で、勤務医をしている高橋です。何か訊きたいことがあるとか?」
高橋と名乗った男は、待たせたことに対する詫びの言葉もなく、また、名刺を出すこともなかった。煩わしいという気持ちを隠す気はなさそうだ。
高橋医師と刑事二人は、机を挟んで差し向かいに座った。
「訊きたいことがある、といいますか、そちらの看護師さんから、警察に通報があったんですが」久代がおずおずといった。
「当該看護師から聞いていますよ。それで、あなた方の御用はなんでしょうね?」
思いがけない横柄な態度に、久代は少々たじろぐ。隣に座っている内海薫は、自分が話す、という意味を込めて、机の下で彼女の膝をとんっ、と叩いた。
「浅倉紗奈美さんの事件については、ご存知ですね」内海薫がいった。
「ええ、誘拐されたとか。うちの病院とは関係がないと思うんですが」
「紗奈美さんには虐待の跡があった、と看護師さんから通報があったんですが、それは事実ですか?」
高橋医師は、はあっ、とオーバーに嘆息しながら、髪を掻き回した。やや芝居がかった動作に見えた。
「虐待だなんだと、いたずらに騒ぎ立てるのは遠慮してもらいたいですね。ご両親の名誉の為にも」
「あなたは、紗奈美さんの担当医ですか」
「担当医というか、乳幼児健診で何度か診た程度ですよ」
「健診で虐待の跡が見つかった場合、医師には児童相談所への通告義務があるはずですが」
「だからっ、簡単に虐待だのというのはやめてください。こっちはプロなんだから、通告するにしても慎重を期する必要があるんです」
高橋医師は、苛立ちまぎれに声を荒らげた。
内海薫は、少し間を置く。慎重を期する必要がある、というのは本音でもあるだろうが、ここまで容易く苛立ちをみせるのは、事件に巻き込まれたくないという思いがあるからだろう。
「失礼しました。ただ、通報によれば、紗奈美さんには怪我の跡があったとか」
「看護師が少々仰々しく伝えてしまっただけですよ。刑事さんの手を煩わせるなと、注意しておきました」
「では、紗奈美さんには怪我をしている様子はなかったのですね。それならいいのですが」
内海薫がいうと、高橋医師は眉根を寄せて口角を歪ませた。
ここで嘘をつくメリットとデメリットを計算しているようだ。
短くない沈黙の後、彼は渋々、話し始めた。
「内出血が認められたことは、ありますよ」
「内出血、ですか」
「ただね、内出血しているというだけで虐待を疑うなんていうのは、ナンセンスですよ。虐待の兆候というものは、怪我以外にも色々あるんです。栄養状態の悪さによる発育不良とか、入浴させてなくて不潔だとか、そもそも乳幼児健診に連れて来ないような親だっています。そういう意味では、浅倉紗奈美さんの母親は、むしろ健全、完璧な母親だという印象を受けたくらいです」
「完璧な母親?」
「そうです。カルテによれば、健診はきっちり受けていますし、健診中、こちらが何気なく話したようなことにも、一々メモを取っていました」
まるで、いまの刑事さんみたいにね、といって高橋医師は、手帳を開いている内海薫を指差した。
「母親がメモを取ること自体は珍しくもありませんが、真剣な顔で一言一句聞き漏らさないように書き続ける人はあまりいません。健康な乳幼児の健診は、あまり記憶に残らないものですが、浅倉さんのその姿はよく覚えていますよ」
印象的でしたから、と高橋医師は話を切り上げた。そろそろ仕事に戻らないといけないらしく、彼は席を立った。
内海薫は、看護師にも話を聴かせてもらえないかと一応いってみたが、彼は、勘弁してくれと虫を払うように手を振り、足早に去って行った。
医師の態度から、病院はこの事件に関わりたくないのだということが、ありありとわかった。
通報した看護師を無理矢理探し出してもいいが、おそらく、既に口止めされているだろう。
「虐待か……」消毒液の匂いが染み付いた廊下で、久代が呟いた。「誘拐事件が公開捜査に切り替わると、関係ない通報も一気に増えるものだけど、内海さんは今の話どう思った?」
「事件とは関係ない、と断じる気にはなれませんね」
強い眼差しでいう内海薫に、先輩である久代も、そうよね、と頷いた。
玲於奈と小夜子が琴音の部屋に泊まり込んで二日が経った。その間、これといって、幽霊が見えた原因は特定できていない。
夜になれば何か変化が起こるかもしれないと、二人で夜更かしもしてみたが、特に意味はなかった。
やはり、外的要因は無く、琴音の体調や心理的要因によって幻覚が見えたに過ぎないのだろうか。
ただ、体調は悪くないはずの玲於奈も、この部屋にいると朧げな圧迫感のような、幽霊の気配のようなものを事実として感じているのだ。小夜子に訊ねても、いわれてみればという程度だが、似たような感覚がするらしい。
「気のせい、ということはないと思うんだけれど」玲於奈がいった。
「本当に幽霊だったりして」小夜子はベッドに寝転んでいる。心霊現象の解明はとっくに諦めたらしい。
「幽霊ねえ……」
「物理学者志望として有り得ない?」
「有り得ないとまではいわないわよ。でも、客観的事実として確認されていない事象を、簡単に信じることはできないってだけ」
玲於奈が自分の肩に手を当てながら首を回すと、小気味いい音が鳴った。
「首の骨ってあんまり鳴らさない方がいいらしいよ」小夜子はベッドの上で身体を起こした。「ていうか、肩凝ってんの?」
「あー、ちょっと凝ってるかも」
「よし、いっちょ揉んでやろう。座りな、お客さん」
素直にベッドそばの床に座った玲於奈の肩を、小夜子は指で強く押した。
「ねえ、玲於奈」
「ん?」
「幽霊が取り憑くと、肩が凝るって話、聞いたことあるんだけど」
「……私も聞いたことあるけど、肩が凝ったくらいで幽霊の存在は認めません」
何か見えない力が作用しているのだ、と玲於奈は思っている。それを幽霊だと認めるのは、いまこの時点では早すぎる。
「見えない力——となると、やっぱりそれ相応の測定器でもないと、見つけるのは無理かな」
「測定器なら、湯川先生に頼んでみたらいいんじゃない。そういうのいっぱい持ってそうだし、玲於奈が頼めば貸してくれるでしょ」
「無理だと思うわ。そういう備品って大学のものだろうし、どんな測定器を借りればいいのかも見当つかないし」
「そっかあ」
その後、五分ほど肩を揉んでもらったので、玲於奈の肩こりはだいぶ軽くなった。彼女は礼をいって立ち上がると、「泊まり込みはやめ時かな」といった。
「えー、もうお泊まり会終わり?」残念そうに小夜子がいう。
「これ以上ここに居ても、進展しそうにないからね。今日は私、夜からバイトだから、そのまま家に帰るわ」
「そっか、まあ丁度いいかな。わたしもそろそろ家に帰らないと、お母さんがうるさくてさあ。彼氏ができたんなら紹介しなさいなんていうのよ。女友達の家に泊まってるだけっていっても、信じてくれないんだから」
昨日も電話が掛かってきた、と小夜子は愚痴った。
「娘のことが心配なんでしょ。彼氏との外泊の言い訳に、女友達を使うのは有りがちだもの」
「なに、玲於奈もそういうことしたことあんの?」
「そういうことって?」
「彼氏と外泊」
「さあ、どうかな」
「いいじゃん、教えろよー」
冗談めかしていう小夜子だったが、玲於奈のことは、異性にモテる方ではないか、と思っている。今のところ、大学で彼氏のような男はできていないらしいが。
「玲於奈に悪い虫が寄ってきたら、わたしが追い払ってあげるからね」
「いや、悪い虫ってなによ」
「悪い虫は悪い虫だよ。ちなみにわたしの判定基準だと、男の九割くらいは悪い虫だから」
「それ、一生彼氏できなさそうなんだけれど」
それはさすがにゴメンだなあ、と玲於奈は思った。
浅倉葵は寝室のベッドの上で、ただ、目を閉じていた。
何もする気が起きなかった。だからといって、眠れるわけでもない。夜も、一応寝転んではいるが、ここ数日、熟睡はできていない。
気絶するかのように一瞬寝入ることはあるが、すぐに悪夢を見て、悲鳴とともに目が覚める。
頭の奥が痺れている。思考がまとまらない。それどころか、思考する気力もない。
無為に時間だけが過ぎていき、いまが何時なのか、今日が何日なのかもわからない。
でも、それでいいような気がしていた。このまま、ゆっくりと消えてしまいたい。だんだん存在が薄くなって、そのまま、空気と同化していくように消えるのだ。
ぼやけて靄がかかった意識の中で、彼女は目蓋の裏側だけを見つめていた。
不意に、ノックの音がした。寝室の外から、「ご飯作ったから、食べよう」と洸太がいった。
葵が、無視するともなくベッドに寝転んだままぼうっとしていると、洸太は部屋に入ってきた。
彼は葵を抱き起こし、彼女の手をとって、リビングに連れて行く。
葵は物言わぬ人形のように、何も考えず、ただ導かれるまま、ダイニングテーブルの席に座った。
テーブルの上にはトーストと野菜スープがあった。そのメニューを見て、ああ、朝だったのか、と葵は思った。そういえば、窓の外は明るい。
食欲は無かったが、せっかく夫が作ってくれたのだからと、野菜スープをひと口飲んだ。ほとんど味がしないのは、彼の作り方が拙かったのか、自分の味覚が鈍いのか、彼女にはわからなかった。
美味しくない、と思った。もういい、と思った。限界だ、と思った。疲れた、と思った。もう嫌だ、と思った。
ごめんなさい、と思った。
ねえ——と葵が夫に声をかけると、それを遮るように「あのさっ」と洸太は声を上げた。
「俺、考えたんだけど、犯人、さ。犯人ってさ、多分お前のストーカーじゃないのかなって。前に、猫が死んでたことあったろ、うちの、部屋の前で、あの時、お前は心当たりないっていったけど、やっぱりストーカーで。他にも、明細とか、届いてないことあったろ、あれも、ストーカーが——」
所々つっかえながらも、洸太は早口でいった。上擦った声だった。
「ちがうよ」ぼそっと、小声で、しかし、断言するように葵はいった。
「いや、やっぱりストーカーだよ。犯人は頭のおかしな奴で」
「そうね。頭のおかしい奴っていうのは、あってる」
葵の目は、充血して赤くなっていた。唇は震えている。彼女は一拍、間を置いてからいった。
「私、頭がおかしかったみたい」
葵の言葉を聴いた瞬間、洸太の顔がくしゃっと歪んだ。その表情は、泣いているようにも、どこか安堵しているようにも見えた。