ガリレオの従姪 作:けーてぃー
目白署の署内食堂で早目の昼食を終えた内海薫は、刑事部屋に戻った。このあと久代と聞き込みの予定が入っている。
昨日、病院で高橋医師から聞いた内容を報告したところ、浅倉葵の周辺を探るように指示された。今日は、彼女のママ友のような知り合いを訪ねようと思っている。
浅倉家の入居しているマンション内に、同じ年頃の子供を持つ家庭が何軒かあるそうだ。一人くらいは、浅倉葵と親しい人もいるだろう。
「内海、ちょっと来てくれ」
久代を探して部屋を見渡していたところ、草薙から声をかけられた。
彼の周囲には、誘拐捜査係の刑事である早川と久代の姿もあった。内海薫が歩み寄ると、早川が口を開いた。
「浅倉葵が、夫に付き添われて出頭してきた」
えっ、と内海薫は驚き、草薙に顔を向ける。彼も頷いている。
「話したいことがあるといっているが、聴き取りの相手には女性警察官を希望している。メインは
早川の言葉に内海薫は、わかりました、と答えた。
最近は、強引な取調べを防止するため、取調室のドアを閉じることはできない。
ドアの前には、パーテーションが立てられて刑事部屋からは覗けないようにはなっているが、声は筒抜けだ。
取調室の中央に置かれた机の一方には、俯いて肩を落としながら席に着いている浅倉葵がいた。向かいには久代茜が座っている。
補助官である内海薫は、開いたドアの近くに立っていた。
自分から出頭してきたわりには、浅倉葵が話し始める雰囲気はない。
取り調べに慣れた刑事ならば大抵、急かすように話の水を向けたりするものだが、久代は辛抱強く、葵が話し始めるのを待っていた。
視線を遮るパーテーションの向こうから、他の刑事たちによる無形のプレッシャーを内海薫が感じ始めたころ、葵は顔を上げた。
「刑事さんは、少女漫画って読みますか?」誘拐事件とは関係ない話題から、葵は話しだした。
「まあ、十代の頃には、人並みに読みましたが」久代が答えた。
「私、本当は少女漫画家になりたかったんです。月例賞なんかも、取ったことあるんですよ」
内海薫には、月例賞なるものがどれほどの賞なのかもピンと来なかったが、わざわざ横から訊くことでもないだろうと口は挟まなかった。
「私が描いた漫画なんか、刑事さんは読んだこと無いですよね」
「失礼ながら、私は読んでいませんね。けど——」そういって、久代は後輩刑事に視線を向けた。
内海薫は、机のそばに歩み寄ったあと、葵の顔を覗き込みながら答えた。
「私は、読みました……読んだのは事件が起きてからですが」
ブログに連載されているものも含めて、内海薫は葵の漫画を全て読んだ。
仮に何十冊もの単行本を刊行していたなら躊躇ったかもしれないが、彼女の漫画は然程の時間もかけず読破できる量だった。
「妊娠中の生活を綴ったものが一巻と、子供が産まれてからの育児日記漫画がブログで連載中、ですね」
「育児日記の方も……充分に内容が溜まったら、出版の予定もあったんですけどね……結局、もう、打ち切り……です」
葵は涙を一筋流した。なにを思って泣いているのかは、内海薫にはわからなかった。或いは、葵自身にもわかっていないのかもしれない。
「刑事さん、私の漫画読んで、どう思いました? 感想、聞かせてほしいです」
内海薫は、答えてもいいか、と久代茜に目配せする。先輩刑事は頷いた。
「妊娠中についての漫画は、色々と参考になると思いました。特に、病院ではなく助産院での出産を選択した点などは、貴重な体験記として興味深く読ませていただきました。とはいえ、私は未だ独り身ですが」
「そう……育児漫画は、どうだった?」
「正直に申し上げれば、少々綺麗すぎるきらいがあると思いました」
「綺麗すぎる、ですか」
「ええ、妊娠中の漫画は、不安や憂いなど、ネガティブな面に関する感情もよく表現されていましたが、育児漫画は……些か理想的に過ぎるかと。素人考えですが」
「……素人考え? いいえ、そんなことないわ。刑事さん、けっこう編集の才能あるかもよ」少し言葉を詰まらせたあと、虚空を見上げた。「私の描く漫画、やっぱり駄目ね。綺麗に取り繕おうとするところ、昔からなのよ。少女漫画の編集部に持ち込んで読んでもらってた頃も、よく言われたわ。お花畑みたいだって」
葵は、いまだ涙を流し続けていたが、表情は、憑き物が落ちたようにすっきりしていた。
「刑事さん……私が……私があの子を」
内海薫は、机のそばから入口の方へと下がった。腕を組んで、葵を見つめている。
久代は、犯人の自供を静かに聴いていた。
前々から、一度食事に連れて行ってほしいという話はしていた。今日はバイトもないし、訊いてみたいこともあったので、丁度いいからと誘ってみた。
急な誘いなので断られるだろうと半ば覚悟していたが、案に相違して、大学近くの居酒屋でいいなら、という答えが返ってきた。
現地集合でいいといわれたが、玲於奈は湯川学の研究室まで迎えに行った。特に意味はない。強いていうなら、少し驚く顔を見てみたかったのだ。
しかし残念ながら、湯川は微塵も表情を変えず、「なんだ、来たのか」と呟いただけだった。
研究室を出て、連れ立って歩く。居酒屋は、歩いて行ける距離にあった。
テーブル席に案内され、適当に食べたいものを注文した。
玲於奈はあまり居酒屋などに訪れた経験がなかったので、どのメニューが美味しいのかもよくわからなかったが、物珍しさも手伝って少し多めに頼んでしまった。
「このお店、帝都大から近過ぎるけれど、よかったの?」注文を取りにきた店員が下がったあとで、玲於奈は訊いた。
「なにがだ?」
「帝都大の学生に目撃されたら、准教授が女子大生と密会してる、なんて思われないかな」
「親戚と会うのに、それほど気を遣う必要はないだろう。知り合いに見られても、そのまま素直に説明すればいい」
湯川はすました顔をしながら、おしぼりで手を拭いている。
親戚といっても、結婚できる程度には遠縁なのにな、と玲於奈は思った。だからどうしたというわけでも、どうこうしたいというわけでもないが。
その後、運ばれてきた料理はどれも美味しかった。今度、小夜子たちも誘ってみようと計画を立てながら、玲於奈は入学してからの出来事を湯川に語った。
入学以来、湯川とは何度か顔を合わせてはいるのだが、こんなに長く話すのは数年ぶりだった。
勉強については、今のところ基礎ばかりで、とりあえず困っているようなことも無いから、話すことはあまりなかった。
それ故、玲於奈の話は必然、友人たちに関することが多くなった。サークルやバイトでの話を、新鮮な驚きと興奮を交えて語る。
こんな話では退屈させるかもしれないと思ったが、湯川はそれなりに耳を傾けてくれた。
「それでね、今日、一番聞いてほしかった話があるんだけれど——」
玲於奈は、伊川琴音の部屋に出た幽霊について、湯川に話して聞かせた。
湯川が、警察の依頼を受けて、不思議な事件の謎を解いたりしていることは知っている。
直接彼から事件に関する話を聞いたことはないが、T大学のY准教授が警察に助力していることは、雑誌の記事になったこともあるので、周知の事実だった。
そんな湯川ならば、琴音の身に起きた心霊現象についてもわかるのではないかと、玲於奈は思ったのだ。
「心霊現象……か。君も刑事たちのように、僕におかしな事件を解かせようというのかい」
「解いてもらおうなんて、そこまでは思ってないわ。むしろ自分で解き明かしたいから、学さんにはヒントをもらえないかな、と」
「そういわれてもね。実際にその部屋を見てもいない僕に、いえることは特にない」
「そんなこといわずに、なんかヒントになるようなことないかな。学さんなら何か思いつくでしょう?」
「さて、どうだろうな。本当に幽霊が出たのかもしれない」
「有り得ないわ。そもそも琴音さんの部屋は、若い学生向けよ。不動産屋からも、事故物件だという話は聞いてないらしいし」
「学生向けだからといって、死人が出ていないとは限らない。たしか、事故物件の申告義務は、三年経過すれば無くなるはずだ。君の友人が知らないだけで、そこは、むかし誰かが死んだ家だった、ということは有り得る」
「本気でいってるの?」玲於奈は訝しそうな表情を浮かべた。「学さんが、心霊現象肯定派だなんて、知らなかったわ」
「幽霊の存在を肯定しているわけではない。しかし、公正な条件下で行われた実験によってその存在が立証されれば、信じる準備はある。いまのところ、幽霊の存在が立証されたという話は聞いたことがないから、ノーコメントに留めるがね」
湯川は微かに口角を上げた。明らかに、揶揄っているように見える。玲於奈は内心で、意地悪な人、と呟いた。
「ハリー・フーディーニを知っているだろうか」湯川がいった。
「もちろん。アメリカで一番有名な奇術師、マジック界のレジェンドじゃない」
「アメリカの科学雑誌、サイエンティフィック・アメリカンがオカルトの真偽を調査するための委員会を立ち上げた際、名だたる学者と共に、奇術師フーディーニも委員として名を連ねた。超常現象を調査するにあたって、フーディーニは奇術師としての知識とセンスを存分に発揮した。彼はエセ超能力者や霊媒師のイカサマを次々と暴き、サイキックハンターと称されたそうだ」
湯川が博識だということは知っていたが、改めて玲於奈は、その博覧強記ぶりに驚いた。
「君もマジシャンならば、自分の力で心霊現象の真実を見抜いてみればいい」
「私は、マジシャンではないわ」
「マジックバーでバイトをしているんだろう。マジックを見せて給料を受け取っているなら、君もマジシャンのはしくれといっていい」
はしくれ、といわれても、奇術に関する知識が、今回の幽霊騒ぎに役立つとは思えなかった。
「琴音さんに起きた現象は、奇術やイカサマの部類ではないから、マジックの知識は関係ないと思うわ」
「君の友人、伊川琴音さんが嘘をついているという可能性は?」
「それはないわよ。琴音さんは嘘や冗談でそんなことをいう人ではないと思うし、実際、体調を崩して青い顔をしていたもの。あれは、演技では有り得ない」
幽霊を見たといったときの琴音は、血色の悪い、青白い顔をしていた。
ドラマや映画など、フィクションの世界でなら幽霊に取り憑かれた人を見たことがある。丁度、あの日の琴音はそんな見た目だった。
「それに、私も琴音さんの部屋にいると、不穏な気配のようなものを感じるの」
「君もその部屋で、幽霊を見たのか?」湯川は少々心配そうに、眉根を寄せた。
「いえ、私は見てはいないわ。気配がするっていうだけ」
湯川は、「気配がする?」と呟き、箸を置いて腕を組んだ。
「仮に、その部屋に影響を与えている何かがあるのだとすれば、それはなんだろうか」湯川は腕組みをしたまま、玲於奈を見つめた。「やはり、実際に調べていない僕には、何もいえることはない」
「私なりに、部屋の中は調べてみたのよ。見たところ、健康被害が出るようなものはなかったと思う。ただ、私みたいな素人ではわからないものがあったら、お手上げだけれど」
「部屋の中を調べたとはいうが、なぜ部屋の中限定なのかな」
「えっ」
「確かに、伊川琴音さんはその部屋で生活することで、なんらかの影響を受けたのかもしれない。しかし、その部屋の住人に影響を与えうるものが、部屋の中にあるとは限らないだろう」
「それは……そうかも」
いわれてみれば、その通りだった。部屋の中のものばかりに目を向けていたが、影響は、部屋の外から及ぼされている可能性もある。
心霊現象は信じていない玲於奈だったが、そんな彼女にも、先入観はあったのかもしれない。
幽霊が出たとなれば、その部屋自体が呪われているとか、怨念がついているというのが、怪談などではよくあるパターンだ。
たとえ心霊現象ではなくとも、部屋の中に原因があるのだと思い込んでしまっていた。
「そっか、そうなると、幽霊が見えた原因は——」
玲於奈は、顎を指で擦りながら考え込んだ。物事を考えるときに顎を触ってしまうのは、幼い頃からの彼女の癖だ。
「ありがとう、学さん。合ってるかどうかはともかく、答えは見えてきたわ」
「答えはどうでもいいが、危ないことはしないように……心霊現象が気になるなら、伊川琴音さんには引っ越しを勧めればいいだろう」
どうでもいいといいながらも、湯川は既に、何らかの見当をつけているのではないか、と玲於奈は思った。
「君のことは、君の両親から、くれぐれもよろしくと頼まれている」
「別に、学さんは私の保護者じゃないんだから、そんなの気にしなくていいわよ」
湯川は、短く嘆息した。この従姪が、幼い頃から好奇心の強い子供だったことは知っている。一度のめり込むと、両親を困らせるほどに突っ走るところがある。
科学者としては美点だが、若い女性としては、あまり褒められたことでもないだろう。
「淑女らしくしろとまではいわないが、とにかく、向こう見ずなことはしないでほしいな。過ぎた好奇心は、身を滅ぼすだけだ」
湯川がいうと、玲於奈は「大丈夫よ、私は猫じゃないもの」と微笑んで答えた。
彼は、処置なし、と首を横に振った。