ガリレオの従姪 作:けーてぃー
浅倉葵は、膝を抱えて、留置場の床に座っていた。
冷たい壁に背中をあずけ、焦点の合わないぼんやりとした眼差しで、向かいの壁を見つめている。
やりたいことも、やるべきことも、何もなかった。大体、留置場の中では出来ることなど何もないのだから、それでよかった。
彼女は、時折まばたきをするだけで、ほとんど動くことなく、これまでの出来事を思い返していた。
葵が漫画家を目指し始めたのは、おそらく小学生の頃だ。ノートの端に、お気に入りのキャラクターを描いたり、ほとんど落書きのような漫画を描いては、友達に披露していた。
中学、高校、大学と、年齢が上がってもその夢が変わることはなかったが、残念ながら、大人になるにつれて現実というものは見えてきていた。
技術的なこと以前に、自分には、夢に対して突き進むような強い気持ちが足りないのだと、大学生の時に気づいた。大学を卒業する頃には漫画家の夢はすっぱりと諦め、普通の企業に就職した。
それからの数年間は、取り立てて語ることもない、平穏で平凡な毎日だった。職業漫画家は諦めたが、漫画を描くこと自体は続けていた。個人ブログで、日々の仕事でのエピソードを、日記感覚で描いていたのだ。
普通に仕事をして、趣味で漫画を描いて、それなりに充実した生活を送り、ある日、友人を介して知り合った男性と恋に落ち、結婚した。
結婚後も仕事は辞めなかった。当分は共働きでいいと思っていたが、子供を授かるに至り、潮目が変わった。
当初は産休を取るつもりでいたが、職場の上司がいい顔をしなかったのだ。上司は女性だったが、妊婦に対する理解はあまりない人だった。
産休を取られると人員の調整が面倒だという内心が顔に表れていた。
疎まれながらでも仕事を続けたいという意欲は湧かなかった。だから、まだ働ける妊娠初期の段階でさっさと辞表を出した。
晴れ晴れとした表情で、おつかれさま、といった上司の顔を、葵は今でも覚えている。
半ば辞めさせられたようなものだが、意外にも、それほど嫌な気はしていなかった。
むしろ、漫画を描く時間が増える、と歓迎する気持ちが大きかった。サイトの閲覧数は順調に伸びてきていて、副業としてならまずまずの額を、アフィリエイトで稼げるようになっていた。
今までは、仕事のことや、夫との生活で起きたエピソードを描いていたが、せっかく妊娠もしたことだしと、妊婦としての体験を綴る漫画に内容を切り替えた。
それが良かったのか、ウェブ漫画の紹介サイトなどで取り上げられ、SNSでも一部で話題になった。
葵は妊娠中でも健康状態を崩すタイプではなかったらしく、つわりも軽かった。執筆ペースは会社員をしていた頃より格段に上がった。
そんな折に、出版社から声が掛かった。このまま出産のエピソードまでを順調に描ければ、書籍にして出版したいといわれたのだ。
願っても無いチャンスだった。子供の頃から追い求めた、漫画家の夢を掴めるチャンスだ。葵は張り切って漫画を描き続けた。
そして、出産から半年後に無事、葵の夢の単行本が出版された。本屋に自分の描いた漫画が並べられている光景を、葵は生涯忘れないだろう。娘が産まれた時も勿論うれしかったが、或いはそれ以上に、漫画が出たことの方がうれしかったのかもしれない。
一度は諦めた漫画家という職業だったが、一冊出版したとなると、もう一冊出したいという欲が出てくる。
出産までのエピソードを描ききった後は、すぐに育児漫画を執筆し始めていた。
幸い、担当の編集者からも、内容が溜まったら育児漫画の方も出版をと打診を受けていた。妊婦日記の単行本の売れ行きは期待ほどには良くなさそうだが、宣伝費や原稿料がかかっていない分、出版コストさえペイ出来ればそれでいいのだろう。ネットで話題になる、ということはそういう点で有利だ。
それだけに、いまサイトを閲覧しにきてくれている読者を離すわけにはいかない。葵は執筆ペースを落とすことなく、ブログの更新を続けた。
しかし、子供が産まれてからも漫画を描き続けるという生活には、土台無理があったのだ。
出産から間もない時期は、葵の母親がなにかと助けてくれたので、単行本に収まった内容を描いているころはあまり問題がなかった。
当然、出産による身体のダメージはあったが、それは葵自身が我慢すればなんとでもなった。漫画を描く情熱を妨げる要素になりはしない。
無理が出だしたのは、母が実家に帰ってからだ。元々、葵の母親は娘が漫画を描くことに否定的だった。
既に出版の予定が進んでいるので、今更投げ出すことはできないからと説得して、妊婦漫画を描き切るところまでは育児を手伝ってもらった。
だが、それからは、「これ以上漫画を描くなら、手伝うことはできない」ときっぱりいわれてしまった。「漫画なんか描いてないで、紗奈美ちゃんのために時間を使いなさい」と叱責もされた。
冗談ではない、と思った。やっと掴んだ夢を、手放す気にはなれなかった。
結局、母を頼ることはやめて、育児をしながら漫画を描いていくことになった。
子供を育てるということを、軽く考えていたつもりはないが、それでも、思っていた以上に、精神的にも体力的にもつらい日々が続いた。
紗奈美は、とくに夜泣きがひどい子のようで、夜は何度も目を覚まして、その度に抱きかかえてやらないと泣き止まない。
時には泣いているのを放置して漫画を描いたこともあったし、あまりにも煩くて喧しいので、怒りに任せて赤ん坊の身体を叩いてしまったこともある。
実家の母はもう手伝ってはくれないし、夫の実家に頼ることもできない。それどころか、夫自身ですら育児に協力的ではなかった。
ひとりで四苦八苦しながら紗奈美の世話をし、漫画を描く。そんな生活を続けていると、執筆している漫画自体にも、人気に翳りが見え始めた。
妊婦だったころには、素直な気持ちや、起きた出来事をそのまま描くだけでよかった。それが、いざ母親になると、読者たちは弱音や泣き言を許してくれなくなった。
子供の頃には許されていたことが、大人になると許してもらえなくなるように、ひとりの女性だった頃には許されていたことが、母親になると許されなくなるのだ。
特に育児に関して、世間は完璧な母親を求める。少しでも間違った知識や、失敗談などを漫画に描くと、途端に批判されるのだ。
葵はもう、限界だった。だからといって、漫画を描くのをやめる気にもならない。
事件が起きたのは、必然だったのかもしれない。
一歳くらいで夜泣きをしなくなる子も多いと聞くが、紗奈美はあいにく、一歳の誕生日を過ぎても夜泣きが止まらなかった。
事件が起きたその日、夫は出張で家にいなかった。多少夜泣きを放置しても、別にいいだろう——そんな風に考え、葵はパソコンに向かって、漫画を描き続けていた。
しかし、五分たっても十分たっても、紗奈美は泣き止まなかった。あまり長い時間泣かせていると、マンションの近隣住人から怒鳴り込まれるかもしれない。
葵は仕方なく娘を抱きかかえて、あやす様に身体を揺らした。こんな無駄なことに時間を使うくらいなら、漫画を描いていたかった。更新ペースが落ちれば、ただでさえ最近減っているサイトの閲覧数が、さらに減少してしまう。
焦りと苛立ちがない混ぜになって、葵の心を掻きむしった。早く泣き止んでよ、と娘を小刻みに強く揺する。
それでも紗奈美は全く泣き止むそぶりを見せない。それどころか、泣き声はさらに大きくなっていく。
ついに癇癪を起こした葵は、娘をベビーベッドに叩きつけて、その口をクッションで塞いだ。
殺したかったわけではない、殺す気はなかった、死ぬなんて思わなかった——いいわけでしかないが、それは葵の、確かな本音だった。
気づけば、紗奈美は息をしていなかった。それがいつからなのか、葵にはよくわからなかった。
何も考えられず、何をすればいいのか、何をすべきなのかもわからない。
人工呼吸は試してみたが、いたずらに時間が過ぎただけだった。呼吸が止まって十分以上が過ぎた時、ああ、全部終わったんだな、と葵は思った。
紗奈美を抱きしめながら、マンションの部屋を出て、自分の車に乗り込んだ。
最初は、病院に連れて行こうと思った気がするが、結局葵は、いつも紗奈美を連れて遊びにくる、千川彫刻公園に辿り着いていた。
深夜の公園には、人影がなかった。
紗奈美はこの公園にある、『少女と子やぎの像』が好きだった。偶然かもしれないが、彫刻の子やぎを見せると、よく笑った。『少女と子やぎの像』の周囲には、植え込みがある。
ここに埋めよう、と思った。そんなことをしても、何の意味もないことはわかっていたが、とにかく今は、紗奈美を埋めてしまうことで、全部、全て、何もかも後回しにしてしまいたかった。
スコップは用意していなかったので、葵は手頃な大きさの石を拾った。
浅倉葵は、ドアポストに届いた脅迫状を読んだ時、背筋が凍った。文面にあった、『バラされたくなければ』という言葉を、夫も警察も『殺されたくなければ』という意味だと誤解していた。
葵だけが、真実を知っていた。
目白署の一室、浅倉紗奈美誘拐事件の捜査本部が立てられた会議室で、草薙は部下である岸谷から、電話で報告を受けていた。
「ああ、そうか、わかった。一応、周辺で聞き込みしてから帰ってこい」草薙はそういって、電話をきる。
「どうでしたか?」草薙のすぐそばにいた内海薫が訊ねた。
「千川彫刻公園にある、『少女と子やぎの像』の周辺で、間違いないんだよな」
「少なくとも、浅倉葵はそういいました」
「紗奈美さんの遺体は、見つからなかったそうだ」
「やはり、そうですか」
「浅倉葵は、ちゃんと真実を全て供述してんのか。まだ何か、隠してるんじゃないのか」
「わかりませんが、娘を殺したことは認めているわけですから、いまさら、遺体を埋めた場所を偽るとも思えません」
内海薫のいっている事は正しい。草薙にもわかっている。わかっているだけに、ややこしい事になったと困惑した。
浅倉葵は、娘を殺したのは自分だが、脅迫も虚偽ではないと主張している。
湯川と居酒屋で食事をした翌日、玲於奈は再び心霊現象の調査を始めた。
琴音の部屋は一階の角部屋である。よって、隣接している部屋は、上の階と隣に一部屋ずつだ。
上の部屋の住人から、嫌がらせめいたことをされているとしたら、調査するのは難しい。
まずは、住人のいない隣の部屋から調べようと、琴音が契約している不動産屋を訪ねた。
上手くすれば内見ということで隣室に潜り込めると思っていたのだが、どういうわけか、琴音の部屋の隣は空室ではなかった。
「一◯三号室は、空いていると聞いたんですけど」玲於奈はカウンター越しの不動産屋に訊いた。
「あー、その部屋は、住人はいないんですが、オーナーさんが直接管理されてますね」
「直接管理……ですか。そういうことって、珍しいのでは?」
「ええ、まあ、珍しいといえば珍しいかもしれませんね。でも、ままあることですよ。物件をどう使うかはオーナーさんの自由ですから、物置にしたりとかね」
玲於奈は不動産屋を出て自分の部屋に一旦帰り、準備を整えてから、夜が更けた頃に琴音の部屋を訪れた。
洗面台に立ち、髪をブラシで梳って抜け毛を落とす。その後、肩の下あたりまで伸びている長髪をゴムでひとつ結びにまとめた。
リュックに入れて持ってきた白いジャージの上下と、サマーニットキャップには、ローラー型の粘着クリーナーを滑らせて髪や埃を取り去る。そして、綺麗になったところで服の上から着込んだ。
夜とはいえ夏にする格好ではないが、一応、用心のためだ。
玲於奈は今から、隣室に不法侵入しようとしていた。たとえ空室でも、勝手に忍び込むのは褒められた行いではない。
ましてや、住人はいないといっても、そこはオーナーが自分で管理している物件だ。
もし見つかれば、警察の世話になることは免れないだろう。
それでも、玲於奈は心の奥底から湧き上がる、好奇心という名の衝動を抑えることができなかった。それに、琴音の体調が心配だと言う思いもある。
琴音の部屋を出て、隣室のドアの前に立ち、ピッキングツールが入ったボックスを廊下に置く。
念のため、ドア横にあるパイプスペースの戸を開けて、中にある電気メーターを調べてみる。デジタル式の画面には、思った通り、順動作の表示ランプが付いていた。つまり、この部屋の中では電力を消費中ということだ。
廊下に置いたツールボックスの中から、特殊な形に折れ曲がった器具を数本取り出し、鍵穴に突っ込む。
幸い、普通のシリンダー錠だ。高校生の頃に、このタイプの鍵は何度か開けたことがある。
しかし、指紋を残さないよう薄手のビニール手袋を着けているので、少々作業は難しかった。手こずりながら鍵穴に挑み続けること数分、かしゃん、と音を立てて鍵は開いた。
ふうっ、と肺の中の空気を吐き出す。心拍数は、平常時より少し上がっている。
ドアを開けて、部屋の中に入った。定期的に掃除されているのか、埃っぽさはない。
靴を脱いで、ワンルームに上がり込む。照明をつけるのは躊躇われたので、スマホのライトを点灯させた。
ワンルームを見回してみれば、琴音の部屋と隣接している方の壁に、玲於奈の腰程度の高さがある冷蔵庫のようなものが四台配置されていた。
やっぱり、そういうことか、と玲於奈は内心で呟いた。
おそらく、琴音の身に降りかかった心霊現象は、これらが巻き起こしたものだ。
近寄って、外観を眺めてみる。どうやら、普通の冷蔵庫ではなく、小型の冷凍専用庫らしい。
なぜこんなものを四台も置いているのか、何を冷凍しているのだろうか、と興味を惹かれるままに、扉を開けた。
中は暗く、よく見えない。とりあえず照らしてみようと、スマホのライトを向けた瞬間、玲於奈は息を呑んだ。
冷凍庫の中には、猫の亡き骸があった。それも、一匹や二匹ではない。
目を閉じて、眠るように凍っている猫たちが、まるで物置に放置されたガラクタのように、乱雑に詰め込まれていた。
玲於奈は思わず、他の冷凍庫の中も調べた。そのどれにも、猫や小動物などの亡き骸が入っている。
悍ましい恐怖感と、生理的な嫌悪感が湧き上がってくる。
そして、四つ目、最後の冷凍庫を開けて中身を見たとき、ついに玲於奈は短い悲鳴を上げた。
彼女は無駄と知りながら、その遺体に手を伸ばした。完全に凍っている。脈はなく、体温を感じることもできない。既に手遅れだということは明白だった。
知らず知らずのうちに、玲於奈の呼吸は激しくなっていた。心臓も、痛いほどに鼓動を打ち鳴らす。
すぐに冷凍庫の扉を閉めて、部屋を飛び出した。
ピッキングツールを使って、ドアの鍵を締め直す。焦っているせいか、開けたときよりも長い時間がかかった。
逃げ込むように琴音の部屋に入り、ベッドを背もたれにして座り込んだ。
深呼吸を繰り返し、多少呼吸が整ったところで、すぐに琴音へ電話をかけた。夜遅い時刻ではあったが、いまは、そんなことはどうでもいい。
コール音が数回鳴ったあと、琴音は電話に出てくれた。
「もしもし、なにかしら、玲於奈さん」
電話越しに聴こえた琴音の声は、当たり前だが、落ち着いている。
「琴音さん、お金の問題があるのはわかりますが、今すぐ引っ越してください。ちょうど実家にいるんですし、ご両親に無理をいってでも、融通してもらうべきです」
「ちょっと、どうしたの、急に」
焦燥に任せて捲し立てる玲於奈に、琴音は戸惑った声を上げた。
「幽霊の正体が、わかりました」
玲於奈がそういうと、電話の向こうで、琴音の驚く気配がした。