潮騒の奇跡(1)
ちりんちりんという、涼やかな音で目が覚めた。
寝返りを打つと、少し開いた障子を通して窓が見え、その隙間から入ってきた風が風鈴を揺らしているのが見えた。
風鈴は良いものだ。かわいいし声も良い。風鈴の音を聞いているとどこか懐かしい、ノスタルジックな感情が湧いてくる。
これは人間が風鈴の音を聞くと反射で起こる現象なのか。
或いは、今まで何度もこの音を聞いていたからなのか。
今の私には知るよしもない。
階段を降りると、お母さんとすれ違った。
「おはようお母さん」
「おはよう。顔洗って来な」
「はーい」
ばしゃばしゃと顔を洗って、ふと、鏡の中の自分と目が合う。
緑がかった黒い瞳が私を写し出す。
何度見ても変わらない。これが私。
肩の辺りで切り揃えられた黒髪には少し癖がついている。
水で濡らしてからドライヤーで乾かすと、元の通り真っ直ぐになる。
かきよせて束ね、赤いヘアゴムで後ろに結んでひとつにする。
居間には味噌汁の匂いが漂っていた。
机の上にはお椀と茶碗が2つずつ並んでいて、白い湯気が立ち上っている。
「
「はいはーい」
台所には鮭の切り身とひじきが用意されていた。
机の上に配膳して、定位置に座る。
少し待って、お母さんと一緒に手を合わす。
「いただきます」
「いただきます」
味噌汁は良い塩梅で、冷房で少し冷えた体に丁度良い刺激をくれる。
鮭も程良い塩加減で、口元が緩むのが分かった。
「美味しい?」
「うん、すっごく美味しい」
「良かった」
何もかもが新鮮だ。鮭も味噌汁も、白米の味も。
でもさっき、良い塩梅だと思った気がする。
と言う事は、私の味覚はお母さんの料理が『良い塩梅』だと感じるように発達したのだろう。味覚は幼い頃に食べた物の記憶が基礎になるらしいから、やっぱり私はこの料理を昔から口にしていたのだ。
全然覚えてないけど、体は記憶してるのってなんだか面白い。
「ごちそうさまでした」
食器をシンクに置いて水に浸けてから、着替えに自分の部屋に戻る。
箪笥の中には色とりどりの服が仕舞われていて、どれを着ようか悩む。
私の服は気持ち赤いものが多い。部屋の小物とかも赤色が多い。
多分私は赤が好きだったんだろう。
今は全然そう思えないけど、色々思い出したら好きになってるのかな。
8月ももうすぐ終わりを迎えるけど、蝉はまだまだ元気に鳴いている。
時折生暖かいそよ風が吹いて風鈴を揺らす。
こうして縁側にただ座ってぼおっとするのも良い。
遠くの方で聞こえる潮騒も夏と言う感じがする。
「瑞希ー」
「何ー?」
「買い物行って来てくれないー?お母さん今日病院行かないといけないからー」
「分かったー」
帰って来てからもうすぐ2週間で、こんな風に買い物を任される事も多くなった。
鍵と保冷バッグを持って靴を履く。
「行ってきまーす」
「いってらっしゃい」
お母さんが居間から顔を出して見送ってくれた。
私の家は他の家や商店街から離れた所に建っている。
少し歩いてバスに乗り、10分程して駅前のバス停で降りる。
商店街は今日も人で賑わっている。最近は隣の市からこっちに移り住む人が増えて盛況なのだとか。
「おっ、瑞希ちゃん!今日もお母さんの代わりかい?」
八百屋のおじさんが声をかけてきた。
「はい。ええと、すみません、このメモに書いてあるのをください」
「はいよぉ。いっぱい買ってくれて助かるなあ。でも運ぶの大変じゃないか?」
「大丈夫ですよ。私力持ちなんで」
腕を曲げて力こぶをつくってみせる。
「ははは!昔から変わってないなあ。いやほんと、元気になって良かった。そういや、なんか思い出した事あるかい?」
「うーん、特には……。全然思い出せないです」
「そうか……まあそのうち思い出すさ。それまでウチの野菜いっぱい食べて健康に過ごそうな!」
「ふふ、これからもお世話になります」
「おっと話し過ぎたな。用意するから待っててくれ」
「はーい」
おじさんは手際よく袋に野菜を詰込み始めた。
これから精肉店に寄って、それからドラッグストアかコンビニでアイスを買う。
あまり外に出ない分、一度にたくさん買っておかなければならない。
精肉店に向かっている途中だった。
「瑞希」
声がした方に振り向くと、茶髪の青年と目が合った。
「
「買い物か、もう終わりそう?」
「ううん、これから津田さん所行ってからアイスも買うよ」
「そっか。ついて行っても良い?」
「良いけど、玲くんは用事ないの?」
「もう終わったから大丈夫。荷物持ちは任せとけ」
「やった。正直助かる」
二人並んで歩きだす。
「あれから何か思い出した?」
「もう、またそれ?何にも思い出してないよ」
「俺と付き合ってたのも?」
「それは……ごめんね」
「良いさ。落ち着いてからまた話そう」
申し訳なるのと同時に気まずくなる。
また玲くんが口を開く。
「どこか具合悪い所とかないか?」
「ないよ。元気」
「後遺症もなさそうだな。良かった」
「そんな心配する程酷かったの?」
「ごめん知らないんだ。瑞希といきなり連絡つかなくなって、どこ行ったか分からなかったから。でも1年も眠ってたのは相当だと思う」
「そうなんだ。確かに記憶もないしね」
「ごめん。彼氏のくせに知らないなんて」
「仕方ないよ。そう言う事もあるって。元気出しなよ」
「いてっ……ったく」
背中を叩くと、玲くんは少し困った様な笑顔になった。
1年前、私……
そのまま最近までずっと昏睡状態で、目が覚めたけどそれまでの記憶がなかった。医者にはいつかは思い出せると言われたらしいけど、その兆候は全然ない。
まだこの町に住んでいたという実感はない。あの家が自分の家だという事も。お母さんが私のお母さんなのも。玲くんと付き合っていたらしい事も。
町の皆は私が戻って来て喜んでるみたいだった。友達もいっぱいいた。
なんだか不思議だ。
いきなり他人の人生に放り込まれた様な、見た事ないドラマの登場人物になった様な感じだ。
でも周りには皆がいて、今までと同じ様に接してくれる。
私の居場所はここにあるんだって思える。
だから多分大丈夫。きっとその内色々思い出すはず。
お肉とアイスを買って、バス停に向かう。
「なあ瑞希」
「何?」
「明日って、神社で祭りあるよな」
「そういやそうだね」
山を少し昇った所にある神社でお祭りが開かれるらしい。聞いた話では花火も上がるのだとか。
「それでさ……瑞希が良ければ一緒に行かないか?花火とか見てさ」
「それって、二人でって事?」
「そう」
玲くんと、二人で。
つまり、デートって事だよね。
「やっぱり嫌か?」
「いや、ああ、えと、嫌じゃないけど……」
「まだ怖いよな。やっぱこの話は無しで」
「ま、待って、行く。行ってみたい、です……」
頬が真っ赤になっているのが自分でも分かる。
「ほんとに?」
「ほんとに」
玲くんの顔が明るくなった。
「じゃあ昼くらいに家に迎えに行くよ」
「バス代とかかかるし良いよ」
「俺が迎えに行きたいんだ。だめかな?」
恥ずかしげもなく言う。玲くんにはこう言う可愛い所がある。
「分かった。待ってる」
「うん」
バス停はもうすぐそこだ。
「ここまでありがとう。また明日ね」
「俺は家まで付いてくつもりだったんだけど」
「流石にそこまでしてもらう訳には……」
「良いじゃん暇だし。だめ?」
玲くんはクールだけど、やっぱり可愛い。
「ありがとう……」
結局二人でバスに乗った。
今日の晩御飯は冷しゃぶだった。
ごまだれを付けて食べると口の中に幸せが広がっていく。特段気にしている訳ではないが、ご飯が進み過ぎるのでカロリーが心配だ。
「いつもより美味しそうに食べるじゃない。何か良い事でもあった?」
「別に?いつもより美味しいからだよきっと」
良い事って言うか、良さそうな事と言うか。私今どんな顔してるんだろう。
あ、そうだ。まだお母さんに言ってなかった。
「お母さん、明日お祭りに行って良い?」
「勿論。どっちと行くの?」
「え、どっちって?」
「玲くんと
「なっ」
「やっぱお祭りと言ったらデートじゃない。それで?どうなの?」
「うー、秘密!」
「ふーん、やっぱりデートなんだー」
「うっ」
「会ってみたいわねー。片方だけじゃなくて二人とも。瑞希に男の友達がいたなんて知らなかった」
勝くんは玲くんと同じで、高校時代からの付き合いらしい。玲くんが言うには結構仲が良かったそうだ。
大学に通うために隣の市で下宿している玲くんとは反対に、勝くんは高校卒業と同時に家業を継いだらしい。一度会ったけど、活発で笑顔の眩しい青年って感じだった。
「ごちそうさま!」
残りをかきこんで片付け、自分の部屋に行く。そのまま畳に倒れ込んだ。
お母さんは何でもお見通しだ。もうすぐ20歳を超えると言うのに、なんだか子ども扱いされているようでちょっと腹が立つ。こう言う風に思ってしまうのがなんだか反抗期みたいで、自分が幼く思えるのがまた腹立たしい。
記憶がないからこうなってるのかな。前の私はもっとしっかりしてたのかな。
はーあ。
「何か思い出さないかなー」
こんこんと頭を突いてみるけど、勿論そんな事で思い出すはずもなく。
こんな事考えてもしょうがないか。それより明日だ。
正直まだちょっと怖い。まだ知り合って一週間しか経っていない人と二人っきりでってなかなか勇気がいると思う。それとも普通なのかな?
でも怖いだけじゃない。やっぱり楽しみだ。
お祭りに行くのも、花火を見るのもだけど。
「玲くん……」
玲くんと一緒に行くのが、何よりも楽しみだ。
心臓の音が聞こえる。
いつもは玲くんが彼氏だって事は意識しないようにしている。そうすれば他の人と同じ様に普通に話せるから。でもひとたび意識してしまうと顔が真っ赤になって、上手く話せなくなる。
明日大丈夫だろうか。玲くんに嫌な思いをさせないだろうか。
不安だけど、それでも一緒に行きたい。
恋人がする様な事を、私もしてみたい。玲くんと一緒に。やってみたい。
何考えてるんだろ私。
ふふふ。
「早く明日にならないかなあ」
苦しい。
息が上手く吸えない。
目を開ける。
暗い。
真上に見える光は遥かに遠くて、手を伸ばしても届かない。
体も上手く動かせない。
どんどん暗くなっていく。
このまま目を閉じてしまったら不味い。
そう思っても瞼はだんだん落ちてくる。どうしても抗えない。
真っ黒の中で、苦しさだけがはっきりと感じられた。
息を吸う。足りない酸素を搔き集めて肺に送り込む。
私の部屋だ。暗いけど、真っ黒じゃない。
また同じ夢を見た。
体を起こす。暑いのに震えが止まらない。
怖い。
「お母さん……お母さん……」
怖いよ。
助けて。
助けて……。
また瞼が落ちてくる。
少し開いた障子の隙間から、風鈴が月明かりに照らされているのが見えた。
ちりんちりんという、涼やかな音で目が覚めた。
寝返りを打つと、少し開いた障子を通して窓が見え、その隙間から入ってきた風が風鈴を揺らしているのが見えた。
廊下の窓は朝になったらお母さんが開けているらしい。この季節は風鈴が私の目覚まし時計だ。
布団から出たくない。いっぱい汗かいて気持ち悪いけど、このまま丸まっていたい。
でも昼には玲くんが来る。いつかは出ないといけない。布団も洗った方が良いかも。
お母さんは台所にいた。
「おはよう」
「おはよう。お母さん、布団洗濯しても良い?」
「良いよ。汗かいたの?」
「うん……あとシャワーも浴びてくる」
冷たいシャワーは苦手だ。だからどんなに暑くても必ず蛇口は赤い方をひねる。
纏わりついていた悪寒が剥がれて行く。でも目を閉じていると、あの暗闇が見え隠れする。
居間は冷房が効いてて火照った体を落ち着かせてくれる。机には昨日の冷しゃぶの残りが並んでいる。手を合わせてから口に運ぶ。美味しい。
「どうしたの?何か元気なさそうだけど」
「え」
びっくりした。
そんなに顔に出てた?
「別に?何もないけど」
「どう見ても何かあった顔だけど。怖い夢でも見た?」
どきっとした。
「そんな、夢見たぐらいで、子どもじゃないんだから」
「じゃあデート行くのが嫌になった?」
「そんな事ないよ」
「ほんとに?」
「ほんとだよ、大丈夫だって!」
お母さんを心配させたくなくて、つい大きな声を出してしまう。
「なら良いけど……じゃあいっぱい食べて元気出しな」
とん、と味噌汁が置かれた。
「……ありがとう」
11時くらいになって、玲くんから電話が来た。私は携帯を持っていないので、固定電話の前で今か今かと待ちかまえていた。もうすぐ来るらしい。
塀の影に隠れるようにしてしゃがみ込む。夢の事なんかすっかり忘れて、お祭りに思いを馳せる。
屋台は何が出ているのだろう。ベビーカステラとか言うのもあるのかな。玲くんが言ってたスーパーボールすくいもやってみたいな。
「瑞希」
顔を上げると玲くんが立っていた。
「行こっか」
「うん」
神社までの道は長いけど、今までで一番短く感じた。長い階段を昇り切るのも苦じゃなかった。
神社は人で溢れていて、気持ちばかりがどんどん進んでいく。
「何か食べる?」
「カステラ!」
「オッケー、買ってくる」
「一緒に並ぶよ?」
「良いよ。瑞希は色んなの見たいだろ?」
玲くんは少し長い列の後ろに並びに行った。
優しさはありがたいけどどうしよう。確かに色々見て回りたいけど、全部興味あるからどれから行こうか決めかねる。
きょろきょろしていると奥の方にある屋台が目に留まる。スーパーボールすくいだ。屋台の前に置かれた桶の中に水が張られていて、色とりどりの球がぷかぷかと浮かんでいる。見てるだけで楽しい。でも本当に楽しいのはその名の通り『すくう』事みたい。
財布を出そうとしたら肩を叩かれた。
「よっ!」
屋台の中に見知った顔があった。
「勝くん!」
「祭り楽しんでるか?」
「うん。勝くんはお手伝い?」
「そう。人手が足りなくなったらしくてさ。まあ小遣い貰えるし良いんだけど」
「後で一緒に花火とか見ない?」
「いや遠慮しとくよ。玲と来てるんだろ?流石にお邪魔だろ」
「そんな事ないって。大丈夫だよ」
「いやいや……」
どうせなら皆で一緒に楽しめば良いのに。
「いた。探したぞ」
袋を抱えてこっちに来た玲くんが、少し離れた所で足を止めた。
「ありがとう、玲くん!」
「よう、玲!」
「……おう」
「ねね、カステラ食べようよ。勝くんも」
「俺は良いよ。後で自分で買う」
「遠慮しないの。良いよね玲くん?」
「あ、ああ」
人が寄って来ないのを良い事に、小さなカステラパーティーを開いた。
玲くんの大学の事とか、勝くんの仕事の事とかを話した。私の引き出しは空っぽだから、二人の話を聞く側に回っていた。いつの間にかカステラはなくなっていた。
「やっべ、話し過ぎたかも。怒られっかな?」
「そっか。仕事中だったんじゃん。ごめん」
「まあばれないだろ……てか、やってく?」
そうだった。すくってみたかったんだった。
「玲くんもやる?」
「俺は良いよ。瑞希のを見てる」
「でも私やり方知らないよ」
「確かに」
「しゃあない。特別サービスで二人で300円にしとくよ」
「良いの!?ほら玲くん、お手本見せて!」
「分かった分かった」
玲くんはポイとボウルを受け取ると、ポイを水に浸けた。
「まずはポイ全体を濡らす」
「ふむふむ」
「入れる時は斜めに、欲張らずに一つずつ……」
ポイがボールを捉える。
「ボールを枠に乗せるイメージで……」
引き上げられたポイの中で赤い球がきらきらと輝いていた。球がボウルに放り込まれる。
「おお……」
「よっしゃ、瑞希の番だな」
「よーし……」
まずポイを濡らす。水に入れる時は斜めに。欲張らずに一つに狙いを絞って。
どきどきする。でも集中して。
「ほっ!」
ポイを引き上げ、ボウルに入れる。
「やった!」
顔を上げると、二人が驚いた顔で私を見ていた。
「どうしたの?」
「いや……瑞希がボールをすくったから」
「え?」
「瑞希って不器用だから下手くそだったんだよ。ボールすくい」
「そうなの?」
「なのに成功させるなんて……お前本当に瑞希か?」
「ちょっと変な事言わないでよ。ねえ玲くん?」
「そうだな。あんまり不安にさせる事言うな」
「すまん。冗談のつもりだったんだ」
「分かってるよ。大丈夫だから。ねえ、もっとやって良い?」
「勿論、取れるだけ取っちまえ」
ポイが破れる頃には、ボウルはいっぱいになっていた。流石に気が引けたので、気に入ったものだけ袋に詰めて貰った。
「じゃあ祭り楽しめよ、お二人さん!」
「うん。また後でね!」
日の光を受けたスーパーボールが水を彩る。
玲くんが笑った。
「何で笑ったの?」
「いや……ずっと見てるからさ」
「そんなに面白い?」
「子どもみたいだなって」
「ちょっと!もうすぐ21歳なんですけど?」
「はいはい……まあでも、瑞希にとっては初めてだもんな」
「そうだね……ねえ玲くん」
「ん?」
「お祭りって楽しいね!」
「……そうだな」
玲くんがまた笑った。
楽しい時間はどんどん過ぎて行く。
他の屋台を見て回ったり、色んなものを食べたり、お神輿が練り歩くのについて行ったりしている内に、空には月が顔を出していた。
もうすぐ花火が上がる時間だ。
神社はまた人で賑わっていた。ここから花火が良く見えるように打ち上げるそうだ。
「瑞希」
「何?」
「ちょっと付いて来て」
玲くんは林の中に入っていく。ちょっと怖いけど、一人になるのはもっと怖いから付いて行くしかない。
「玲くん?」
「すぐそこだよ」
少し進んだ所で玲くんが止まった。
「ほら、見てみな」
玲くんが上を指差す。
「うわあ……」
木々の天井に一部分だけぽっかりと穴が開いていて、そこから数えきれない数の星が輝いている。まるで誰かが空に描いたみたいに、嘘みたいに綺麗な星空だった。
「丁度ここからも花火が見えるんだ。向こうは皆写真を撮ったりするけど、ここは静かに見れる」
「玲くんは静かな方が良いの?」
「瑞希と二人で見たい」
心臓が飛び出たかと思った。耳が熱い。頬が熱い。
玲くんは涼しそうな顔で私を見ている。
沈黙を塗りつぶすみたいに、大きな破裂音が聞こえてきた空のキャンバスに赤い花が咲いている。
「あれが、花火?」
「そうだよ」
「綺麗……」
花火ってすごい。うるさくて、眩しくて、儚い。
こんなにも綺麗なものがあったんだ。
「昔からここで見てたんだ」
「そうなの?」
「ああ、花火だけじゃなくて、星もよく見に来てた。凄かったろ?」
「うん、すごかった。今まで見たのよりずっと」
綺麗だった。
あれ?
今までって?
「瑞希」
「何……」
我に返った時には、玲くんに抱きしめられていた。指一つも動かせない。私の心臓の鼓動と、玲くんの鼓動だけが聞こえる。
「玲くん?」
「また瑞希と花火が見れて嬉しい」
「うん……」
「戻って来てくれてありがとう」
「……うん」
玲くんの顔が目の前にある。なんだかいつもと雰囲気が違う。
ゆっくり近づいてくる。目を瞑って、少し首を傾けている。
これって、キス……だよね。
するの?しちゃうの?私前にもキスした事あるんだろうか?
分からない。でも今の私にとってはこれがファーストキスになるって事で。
肩から玲くんの体温が伝わって来る。つられるように私も熱くなっていく。
なんか、怖い。
「っ!」
気付けば玲くんを突き飛ばしていた。玲くんは固まっている。
「あ……ごめ……」
「そっか……やっぱり俺じゃ嫌か……」
「ち、違っ、そう言う訳じゃ……」
「良いんだ……気にしないで」
どうしよう。
なんて言えば良いんだろう。嫌な訳じゃない。ただ怖かっただけ。そう言いたいのに言葉が出てこない。
玲くんの顔が見れない。
沈黙を突き破る様に、この場に似つかわしくない悲鳴が聞こえて来た。
神社の方が騒がしくなる。一体何が。
気付けば体が動いていた。
「瑞希!」
玲くんの声がするけど、境内に向かって走り出す。
人が逃げて行く。屋台がいくつか壊れて倒れている。笑顔で溢れていたはずの会場は、異様な空気を漂わせている。
その中心には化け物が立っていた。
長い牙は上に伸び、全身の筋肉が脈動し蒸気を発している。
何これ。
こんな化け物見た事がない。
本当に?
化け物がこっちを見た。じりじりと近づいてくる。
「瑞希!」
林から出て来た玲くんが化け物に気付き、私を庇う様に前に立つ。
突然化け物が走り出した。走った事に気付く事しかできなかった。
もう目の前にいるのに、私は動けない。
「危ない!」
地面に押し倒される。玲くんが私の上に覆いかぶさっている。
後ろの木にぶつかった化け物が、こっちを向いた。今度は避けられないと直感で分かる。
このままでは二人とも、あの化け物に殺されてしまう。でもどうする事もできない。
また化け物が走り出す。
目を瞑った。
一瞬なのか数十秒なのか。どのくらい目を瞑っていたか分からない。
でも不思議な事に痛くない。ぎちぎちと何かが軋む音が聞こえる。
目を開ける。
最初に見えたのは玲くんの顔。目を見開いている。そしてその視線の先には化け物がいる。
2体の化け物がいる。
白と黒の縞模様の化け物が、さっきの化け物を押しとどめている。白黒の化け物が茶色の化け物を投げ飛ばす。
「ウルオオオオオッ!」
茶色の化け物が威嚇する様に雄叫びを上げる。だが既に白黒の化け物は走り出している。長く鋭い爪を振るい、化け物の身体に深い傷をつけていく。
一方的な蹂躙だ。白黒の怪物は荒々しく、茶色の化け物に攻め立てる。茶色の化け物は息も絶え絶えに、背を向けて逃げようとする。
しかし白黒の化け物は執拗に迫る。身体を掴み、爪を立て、引き裂く。茶色の化け物は膝から崩れ落ちた。化け物の身体から何かが飛び出て、姿が変わっていく。
人?
何の変哲もない男の人が倒れていた。
白黒の化け物は飛び出た何かを踏みつけ粉々にした。そのまま爪を天にかざす。何をやろうとしているかは明白だ。
「だめ!」
何故かは分からない。ただ自然と体が動いた。化け物と男の人の間に割り込む。手を広げて立つ。
化け物は目の前にいて、いつ爪が振り下ろされるか分からない。でもこうするのが正しいのだと、そう思えた。
爪は振り下ろされない。
それどころか化け物が後退る。
腕が静かに下ろされ、化け物は林の中へ走り去っていった。
もう大丈夫。
そう思うと同時に立てなくなった。
「瑞希!」
倒れかけた私を玲くんが支えてくれる。
「ありがとう……大丈夫だよ」
言い終わる前に強く抱きしめられた。
「良かった……瑞希が無事で」
私を確かめる様な力強い抱擁だった。
「うん……大丈夫」
少し躊躇って、それを振り払って背中に手を回す。
玲くんの鼓動を感じる。生きてるって感じる。そのぬくもりに包まれながら、私の意識は落ちていった。