「…たきな、状況はどう?」
千束の真剣な声に、たきなはそっと扉を開けて外の様子を伺う。
「戦術端末情報では風速0.2を計測。体感としてはほぼ無視できる程度です。湿度は28%。目標対象までの距離はおよそ600メートル」
「了解」
千束はギュッとグリップを握る手に力を込める。
「スペアの準備も万全です」
「ありがとう。それじゃいくよ、たきな」
「はい」
ゆっくりとたきなが扉を開けた。
続いて千束も扉をくぐる。
そんな歴代最強リコリスの手には――――ベビーカーのハンドルが握られていた。
「まるで
と見ていたクルミが呆れる物々しさを醸し出していたが、実態はいよいよ生後半年以上経過したと思われるアオイの公園デビュー。
「いいか。くれぐれも車に気を付けるんだぞ」
普段の重厚さをかなぐり捨ててオロオロとするミカも大概だ。なにせここしばらくの千束は、おんぶ紐に背負ったアオイと『わたしの嫁!』のたきなを方々に見せびらかしに行っているのだから。
もちろん当事者たちにとっては事情が異なる。
千束もたきなも、公園デビューは子育てをしている上でのビッグイベントだと心得ていた。
なので今日の二人はリコリスの制服ではなく私服姿。
自分を見下ろして千束は楽し気に言う。
「たきな~♪ これで私もヤンママに見えるかな?」
「わたしとしては、無難に、年の離れた弟の面倒を見るお姉さんでもいいんですけどね…」
軽くためいきをつくたきなは、まだ千束ほど吹っ切れてはいない。
確かに結婚の約束もしたし、二人でアオイを育てていくことも決めた。
だからといって誰にでも声高にそのことを説明する気にはなれない。ぶっちゃけ恥ずかしい。
年齢相応に見られた方がトラブルも少ないに決まっている。
「ねえねえ! 誰の子供って訊かれたらどうする? 私が先? たきなが先? それともやっぱり一緒?」
まったくこちらの話を聞いてない風の千束は、いつにもましてのハイテンション。
これはわたしがしっかりしなきゃ、と気を引き締めるたきなだったが、ベビーカーの中を見れば引き締めた頬も自然と緩む。
「だあ」
黒く大きく、可愛い瞳。
あまりにも純真無垢な眼差しに、たきなの中の母性本能がゆっくりと回転する扇風機の羽のようにキュンキュンと音を立てる。
一方で、母性本能の鳴る音が体内で8ビートのように反響しているであろう千束は、満面の笑みを浮かべてこう宣言するのだ。
「さあ、いざゆかん! 我らを待つ公園へ!」
「フキ先輩、どうぞっス」
「ああ、すまんな」
サクラの渡してくれた缶ジュースを受け取るフキがいる。
隣のベンチにサクラが座ったタイミングでプルタブを開けるフキ。
そのまま何をするでもなく二人してジュースを啜る。
麗らかな日差しと適度な微風が頬に気持ち良い。
すぐ近くの公園で遊ぶ子供たちの声も耳に心地よく…。
「…うちら、何やってんスかね?」
「いうな!」
フキは空になった缶ジュースを握りつぶす。
眉をヒクつかせる彼女の視線の先には、公園の中でベビーカーを囲んではしゃぐ千束とたきなの姿があった。
『フキ。お願いがあるの』
珍しく直通の電話で、これまた珍しい千束の真剣な声。
雪でも降るんじゃないか、と呼び出しに応じてサクラを伴いリコリコを訪れれば。
『…赤ん坊を公園で遊ばせている間の護衛を頼むって、アホかおまえ』
遠慮なく呆れるフキに、
『だってせっかくの公園デビューなんだよ? それをリコリスの制服姿じゃ色々と台無しじゃない!』
これこの通り! と両手を合わせて拝んでくる千束。
『フキ。私からもよろしく頼む』
断る気満々なフキだったが、カウンターの向うでミカにまで頭を下げられては無碍には出来ない。
なので、千束たちが公園にいる間、道路を挟んだ向かいの自販機横のベンチで、サクラと二人『休憩』しているという格好で落ち着いていた。
「まったく、ランクファーストのリコリスをなんだと思ってやがるんだ、あのアホ」
赤い制服を纏えるファーストリコリスの数は少ない。
ファーストを冠する各人が隔絶した技量の持ち主であることの証明でもあるのだが、ゆえに実戦に当たっては重宝され、様々な場面に投入される。
本来的に、呑気にこんな場所でジュースを啜っていていい人材ではないのだ。
「まあまあ。ここしばらくフキさんが出張るようなデカいヤマもないみたいだし、平和で結構じゃないっすか。それにこのあと、リコリコで何でも好きなモノご馳走してもらえるみたいだし」
あからさまに報酬目当てですと言っているサクラは、逆に清々しかった。
対する自分は? とフキは自問自答。
千束やたきなに対する義理? いや、どっちかというとこっちからの貸しの方が大きいような気がするぞ…。
睨むように二人を眺めるフキだったが、ふとその視線が緩む。
千束がベビーカーから抱き上げた赤ん坊。その顔を覗き込み、指を曲げて頬を拭ってやるたきな。
赤ん坊に罪はない。
それに、あいつらがあんな風に笑えるなんて、な。
フキの中で少しだけ妬ましい気持ちが沸き起こる。
それを自覚する前に、千束がこちらに向けてぶんぶんと手を振っている姿が目に映る。
「なんだ、どうした?」
一瞬でベンチから立ち上がり、公園まで移動。
サクラが目を見張った通り、この異常なまでの素早さがフキの持ち味だ。
油断なく周囲に視線を飛ばすフキへ、千束は笑顔でカメラを渡してきた。
「記念に、私たち三人一緒のところ撮ってちょーだい♪」
「………ッ!!」
「わわわっ! 駄目っスよフキさん銃を抜いちゃ!!」
公園デビューも無事に済み、リコリコへと舞い戻った一行。
「フキ、ありがとう」
ミカ直々に礼を言われ、フキはカウンター席でうつむいてしまう。
休憩中のリコリコ店内に客の姿はない。
なので、座敷席のテーブルを端によせて、そこでたきなはアオイのオムツを交換しようとしていた。
「せっかくだからオムツ交換をさせてもらったら?」
カウンター奥の千束が、スペシャルパフェの用意をしながら、たきなの対面に腰を下ろすサクラに言う。
「え? あたしがしていいんすか?」
サクラは戸惑いながら千束、ついでフキを見てくる。
「なにごとも経験だろ。させてもらえばいい」
フキが片肘をついてそう言うと、たきなも頷いている。
「そ、それじゃあ…」
両手をワキワキとさせて、たきなに教えられてオムツを開いていくサクラ。
「そのおしり拭きを使って、腰あたりからしっかりと拭いてください」
「こうっすか? うわ、お尻の肌チュルチュルで剥きたて卵みたい…」
セカンドリコリスということもあり、サクラもあまり物怖じしない性格だ。
それでも躊躇なくオムツ交換を勧めていく様子を眺めて、千束は微笑む。
「赤ちゃんの出すものってさ、あまり汚く見えないから不思議だよね~」
千束の言う通り、赤ん坊の涎や汗をあまり汚いとは思う人は少ないだろう。親ならば尚更だ。
それらが成長するにつれ汚く思えてくるのは、不思議と言えば不思議な話である。
「結局、人が成長していくってのは、汚れていくってことなのかも」
何気なく千束が口にした台詞に、ミカがほろ苦い表情で同意を示す。
「なるほど、言い得て妙だ」」
人間は誰もが真っ新に生まれてくる。
何の知識も思考も持たないゆえの純白。
その白も、生きて行くうちに汚れていく。
ついには肉体も精神も汚れ切って摩耗し、人は死んでいく。
言い換えれば、汚れていくということは、自己が外界より影響を受けることに他ならない。
その影響を受けて起こした行動に対し善悪が語られるべきで、本来的に人間とは無辜の存在なのかもしれなかった。
なかなかに哲学的な語り合いを背景に、たきな指導のもとでサクラは順調にオムツ交換を進めていく。
「お尻がかぶれるとムズがるので、しっかりと水気を拭いてからベビーパウダーを
「ういっす」
因縁をつけて挑発した過去もどこへやら。
素直にたきなの指導に従っていくサクラこそ、人間本来の純粋性を体現していたのかも知れない。
なので、そんな彼女に邪な衝動を口走らせた原因は、純粋な乙女の好奇心である。
「ふおおおお、これが男の子のおちんちんっすか…!」
「あとは、包むようしっかりおしめを当てて、ギャザーがはみ出てないか確認してテープで止めておしまいです」
「…ちょっと引っ張ってみていいっすか?」
「ぶっ殺しますよ?」
リコリコの座敷席で歓声が上がる。
娘たちの中心にいるのは赤ん坊。
自立して畳の上に座り、バランスを取るように小さな身体を前後に揺らしている。
せわしくなく大きな瞳をキョロキョロと動かし、「あー」「うー」といった声を発しながら興味を示したものへとかたっぱしから手を伸ばす。
おもちゃを振り回し、時にはぶん投げ。
そのたびに手を叩いて叩いて喜ぶ姿に、千束もたきなも一緒になってコロコロと笑っている。
その光景を、ミカは目を細めて眺めている。
口もとを歪めて目尻を下げる姿は、傍目にも何とも幸福そうだ。
そんなまさに好々爺といった表情を浮かべていたミカだったが、ふと我に返ったようにカウンターから厨房へ。
そのまま従業員用の座敷―――今は赤ん坊部屋へと足を運んだ。
床に転がるおびただしい玩具を踏まないように気をつけて襖を開ければ、そこにはクルミが特注のマシンへと向かい合っている。
「なにか成果は出たか?」
「駄目だな。オムツや哺乳瓶の製造履歴から販売ルートまで辿ってみたが、手掛かりナシだ」
「そうか…」
二人の会話は、傍目には何の話をしているのか理解し難いものだった。
そしてその実こっそりクルミが探っているのは、リコリコの前に置かれていた赤ん坊―――アオイの素性の捜索である。
「錦糸町中の防犯カメラや街頭カメラの記録を総ざらいしたのに、あの日、誰がアオイをリコリコ前まで連れてきたのか特定できない」
「私も近所の人たちにそれとなく訊いてみたが、そのような女性は誰も見ていないそうだ」
いや、そもそも女性なのか?
それでなくても実際にアオイは置かれていたのだ。確実に誰かがバスケットに入れて持ってきているはず。
なのに、ウィザード級ハッカーであるクルミの検索にも全く引っかからないのは尋常ではない。
10年前以上の映像データから、千束の新たな人工心臓のありかを突き止めた彼女の手腕も通じないとなると―――。
「いや、むしろ
「…どういう意味だ?」
「自慢じゃないが、このボクをしてカケラも手掛かりを見つけられないのは普通じゃない。ならば、誰かが意図的にそれらに類するデータを抹消したと考えるのが自然だろう」
眉間に皺をよせ、クルミは考え込んでいる。
実際に彼女は、東京都内の産婦人科の新生児のデータを洗い直し、合わせて警察の捜索願いや、児童相談所の育児遺棄の事例データにもアクセスしている。
なのに、ついぞアオイに該当しそうな赤ん坊は見つけられていなかった。
「つまりは、ウォールナットを上回る存在がいて、そいつの仕業だと?」
「…そうなるな」
ミカの言にクルミは渋々と頷く。
「ならば、相手に心当たりは?」
「仮にもボクは最強のハッカーだぞ? ボクより上の技術をもつ個人なんてのはいないはずだ」
「すると…」
言いかけて、ミカは口を閉ざす。
クルミも沈黙で応じた。
この時、二人の脳裏に浮かんだのは『個人』ではなく『組織』だ。
クルミに及ばない人材も複数いれば、彼女を凌駕することも不可能ではないはず。
同時にこれは大きな矛盾でもある。
そんな凄腕を囲う組織が、現役最強と言われるウォールナットにすら気づかれず暗躍することは可能なのか?
「アラン機関か」
ミカが呟く。
世界的な天才支援機関と巷間には定着しているが、その全容は謎に包まれ、ウォールナットにすらつかめていない。
そもそもの事の発端であるDAのラジアータへのハッキングも、ウォールナットが報酬として『それらの情報』を求めた結果だ。
「あいつらなら、もしかしたら」
悔しそうに肯定するクルミは、現在進行形でアラン機関の全貌解明に至ってはいなかった。
そして、仮にもアオイが置かれていたことにアラン機関が絡んでいるとすれば、事態の様相は一変してくる。
リコリコにアランチルドレンである千束がいる以上、 単なる捨て子ではなく何かしらの意図を込めて放置されていたと考えるべきだろう。
ミカとクルミの二人はその結論に至り、未だに千束とたきなには伝えられないでいる。
彼女たち二人の子育てにかける情熱は真剣だ。
ミカにとっての愛娘である千束の『子育てをしてみたかった』という希望も鑑みれば、とても水を差すような真似は出来ない。何よりミカ自身も、孫が出来たようにアオイを慈しんでいる。
いまさら、アラン機関からの干渉の可能性があるから引き離して施設に預けろなどと、口が裂けても言えなかった。
「なに。いざとなればまた一戦交えるまでだ」
和風喫茶の店主ではない。DAの戦術教官でもない。かつての戦争屋すら超越した戦士の眼差しでミカは断言する。
何気ない口調の中に垣間見せた彼の凄みに背筋をブルリと震わせ、クルミも苦笑を返す。
仮にアラン機関と事を構える時が来たら、ウォールナットは全霊をあげてリコリコの仲間たちを護るだろう。
その時は、ミカを絶対の守護神として、前衛には二人の修羅が盛大に牙を剥くことは確定していた。
「だが、そろそろ半年だろう? 連中がコンタクトを取ってきてもおかしくない時期だとは思うんだが」
向うが何かしらを企て、こちらの様子を伺っているのなら。
なにせ最近の千束は、もっぱらアオイとたきなを引き連れて街を行脚している。
言うなれば、こちらが盛大なアクションを起こしている状態だ。
リアクションがあってもおかしくないとクルミは予想している。
「座視してくれるのなら、このさき一生放って置いて欲しいものだ」
本当はアラン機関も何も関係していない。
ただ捨て子を拾って育てているだけ。
ミカは敢えて希望的観測を口にしてみせた。
その時、丹前の奥のスマホがメールの着信音を奏でる。
取り出し、画面に視線を落とすミカ。
「誰だ? 楠木からかー?」
ディスプレイに向かってキーボードを叩くクルミに、返事はない。
訝しく思って見れば、黒い巨漢はスマホを手に茫然と立ち尽くしている。
「…どうしたミカ。顔色が悪いぞ?」
「あ、ああ」
額の汗を拭い、珍しく逡巡するような様子を見せるミカ。
しかし、すぐにクルミに向けてスマホの画面を指し示す。
「おい、見てもいいのか?」
「おまえには知っておいてもらったほうがいいだろうからな」
「なんだなんだ? …って、これって!」
驚愕するクルミの前から手元にスマホを戻し、ミカは呟く。
「どうやら亡霊が蘇ったようだ…」
明後日21:00
BAR Forbiddenにて待つ。