「はい、注射するよ」
「ま、待って山岸先生! ちょっと待って!」
「いいから、ほら、腕を出しな!」
「ああ! だから待ってって! お願い、ああ…」
「ほら、チクっとするよー」
「ああああ痛い痛い痛い―――!」
「千束、うるさいですよ」
たきながキッ! と睨みつける。
山岸医師に至ってはもはやリアクションすら惜しむように、淡々と引き抜いた注射を片付けている。
端的に言ってしまえば、千束が注射を受けているわけではない。
受けているのは赤ん坊であるアオイだ。
小児用肺炎球菌ワクチンに4種混合ワクチン、ロタウイルスにBCGなど、赤ん坊が受けなければならない予防接種は数多い。
懇意にしている山岸医院で処方してもらっているわけだが、そのたびに千束が取るリアクションがいちいちうるさい。
本人も注射嫌いを公言していたけれど、何もアオイが注射される場面でまで情感たっぷりに嫌がらなくてもいいのに、とたきなは思う。
注射を打たれたアオイ当人がきょとんしているのは、自分の替わりに母親が痛みを引き受けてくれているのだ―――と幼心にも理解しているわけでは決してない。
むしろ千束のリアクションが面白すぎるためか、なんなら軽くドン引きしている可能性さえある。
なお顔芸を披露している千束を放って置き、たきなは愛する赤子を褒めることにした。
「えらいえらい。よく我慢できましたね、アオイ」
小さな額に軽くキスをしてやる。
「あー、たきなズルい―! 私にもチューさせてよチュー!」
すかさず千束がアオイを奪い取るようにして、その額にキスをした。
そのままニマニマとアオイと見つめ合っていた千束だったが、不意に「あッ!」と素っ頓狂な声を上げる。
「ど、どうしました!?」
訊ねるたきなに、
「いまさっき、たきなもアオイのおでこにチューしたよね? じゃあ間接キスじゃん!」
精神的にも肉体的にも、たきなは半歩ほどズッコケた。
「そんなどうでもいいことで驚いた声を出さないで下さい!」
「ええ? どうでもいいの~?」
ニヤリと目と口元を歪ませた千束は、再びアオイの額に顔を近づけて、
「ほりゃぶちゅちゅちゅちゅ~」
「や、やめて下さい!」
「なんだよ、どうでもいいことなんでしょ? もういっちょぶちゅ~」
「衛生面の問題です!」
「私はバイキンか!?」
そんな二人のやりとりを見て、山岸医師はフン! と鼻息を一つ。
それから慌てず騒がす卓上の医療器具カタログの厚いファイルを丸めると、千束とたきなのお尻に一撃ずつお見舞いした。
「痴話げんかはよそでおやり!」
「…はい、すみません」
口をモゴモゴさせすまなそうにするたきな。
「そんな~♡ 痴話げんかなんて~♡」
頬を緩ませてニヨニヨする千束。
「まったく…」
山岸医師は足を組み、いつも通りにたきなへと向けてアドバイス。
「今のうちからしっかりと手綱を締めとかないと、将来苦労するよ?」
言ってしまえば千束は欲望最優先の享楽家。
そしてたきなは一度気を許してしまえば情に厚く、尽くすところがある。
そんな二人が一緒にいれば、絵に描いたような共依存になる可能性があった。
山岸医師とてリコリスの事情は承知している。
二人が赤ん坊を引き取って育てると連れてきて、さらに結婚すると宣言されたときも、驚きはすれ隔意は持たなかった。
むしろ一見さばさばとしたこの女傑も、妙に情に厚い部分がある。
「千束のあの調子じゃ、下手すりゃあんたより長生きするかも知らん」
換装された千束の人工心臓の調子はすこぶる良好。が、かつての人工心臓はここ山岸医院で破壊された経緯がある。
それを負い目に思っているわけではないが、以後、山岸医師は、新人を雇うのには念には念を入れ、警備態勢にも細心の注意を払うようにしていた。
また、二人の赤ん坊であるアオイの診察も一手に引き受ける覚悟も決めていた。普通に考えても、市井の病院では、この二人のリコリスは注目を集めてしまうだろうから。
「長生きしてもらわなきゃ困ります! …この子のためにも」
即答し、頬を赤らめるたきなは、自分が惚気てしまったことに気づいたためか。
「うん、私もたきなを未亡人にする気はないからね!」
元気よくアオイを掲げて見せる千束に、山岸は本当に100歳くらいまで生きそうだと呆れる。
そんな千束だったが、「はりゃ?」と眉を顰めた。
それから、
「ちょいと失礼しますよ~」
診察ベッドにアオイを横たえるとベビー服を脱がせていく。
おむつを開けば、そこには産みたてのそれ。
赤ん坊の排泄とその臭いに医師として今さら目くじらを立てることもないが、山岸も色々と思うところがある。
手際よくオムツ交換をしていく千束に阿吽の呼吸でサポートを務めるたきなを眺め、山岸医師は感慨をたっぷりと込めて呟いていた。
「あの跳ねっかえりの小娘が、いつの間にか赤ん坊の世話までねえ…」
「ふふん♪ こー見えても、私も母親で人妻ですから♪」
「わたしだって母親で人妻ですよ!」
「ややこしいんだよ、アンタたちは」
カウンター席にミカは腰を下ろす。
普段の和装ではなく黒シャツに白いジャケット姿の彼がいるのは、もちろんリコリコではない。
『BAR Forddin』のカウンターテーブルだ。
時刻はそろそろ指定された時間の21時。
脇の下に吊るしたガバメントカスタムを意識しつつ、ミカはバーテンダーに酒を注文する。
ロックで供されたボウモアの18年。
何もかもがあの夜と同じままで―――隣に吉松シンジはない。
それでいて、幾度も彼と重ねた逢瀬は色褪せることなく、胸に切ない爪を立てる。
ミカはグラスを傾ける。
豊潤な香りの中に感じる塩味の、海のニュアンス。
シンジの好きな銘柄だった。
舌の上で転がすように味わえば、彼の声も
『幸福に甘んじるのはいい。しかし、幸福を追い求めてはいけない。
追い求めるために不幸になっては本末転倒だろう?』
グラスを重ね、取り留めもなく言葉を交わす。
『人間とはね、本来は無知で無垢な存在だ。赤ん坊と同じだよ。
それを哀れに思った神が知恵の実を下さった。
知恵を得た人は技術を磨き、文明を築いた。
ならば全ての成果は遍く世界へと還元されなければならない。
素晴らしき才能の種子を芽吹かせられないのは世界への冒涜だ。
神への裏切りに他ならない』
それだけで満ち足りていた二人の時は、まさに贅沢で幸福だった―――。
カラン、と物悲し気にグラスの中の氷が音を立てる。
全ては感傷だ。
まるで小娘のように甘い記憶を弄んでいる自分にミカは苦笑する。
なのに、丸い氷の表面に浮かぶ自分の表情は泣きそうに歪んでいた。
旧電波塔で、ミカは吉松に向けて銃爪を引いた。
放たれた45ACPは吉松の眉間を打ち砕き―――その後、ミカは遺髪を切り取るように彼の人工心臓を抉り出している。
ゆえに、今日の呼び出しメールの送り主は吉松ではあり得ない。彼のメールアドレスを知る、誰か。
おそらくアラン機関だろう。
不世出の天才を支援する匿名機関として世間には定着しているが、実態は異なる。
善も悪も、正も邪も、あらゆる才能を肯定し、のべつ幕なく見出しては無尽蔵の支援を行う博愛主義者たち。
いや、サイコパス集団か。
ミカはそう思う。
至尊の座にいると言われるのは、アラン・アダムス。信奉するような言動をよくしていた吉松だったが、果たしてそのような人物は実在するのだろうか?
教典や、単なるイデオロギーである可能性も否定できないのではないか…。
「せーんせ♪」
不意に肩を叩かれる。
内心で酷く驚いたミカだったが、慌てず騒がず振り向けば、
「千束か…」
まとめて結い上げた髪に真紅のドレス。
あの夜と同じ姿の千束だ。
「よっと。あ、ジンジャーエールお願いします」
隣に勝手に腰を下ろし、千束はバーテンダーへと注文。
ミカは静かに手元のグラスに視線を落とす。今さら、どうしてここに? などと問うまい。
「クルミを責めないで上げてね? 私が無理やり聞き出したみたいなもんだし」
「わかっているさ」
今日、ここに来るようメールが来たことを、ミカはクルミにしか伝えていない。
そしてクルミはとことん演技が下手だ。千束の観察眼には、さぞかし挙動不審に見えたことだろう。
このことを千束に知られることは問題ではない。
問題は―――。
「…来てくれるかな、ヨシさん」
彼女は知らない。
自分がシンジを撃ち殺したことを。
自身の心臓が新しいものに入れ替わっていることに薄々察してはいても、事実を目にしていない以上、確信までには至らない。信じたくない。
曖昧で淡い希望は、今なお現実を揺蕩っているはずだ。
「…どうだろうな」
千束に、愛娘には嘘をつきたくない。だが、敢えて真実を告げる勇気も今のミカには存在しなかった。
なので替わりに別の懸念を口にする。
「ところで、リコリコの方は大丈夫なのか?」
「うん。今、フキたちに『遊び』に来てもらっているから」
笑顔で千束は答える。
“敵”は呼び出しに見せかけて自分たちを誘導するのが目的で、その隙に手薄になったリコリコを襲撃するのが本命の可能性。
説明するまでもなく互いの間で危機意識は共有出来ていたようだ。
「そうか」
ホッと息を吐きだし、入れ替わるようにウィスキーを口に含む。
いまリコリコにいる赤ん坊―――アオイの身の安全こそ、最大の懸念にして優先事項。
「でさ、聞いてよ先生。楠木さんにお願いの電話したら『知らん』って切ったくせに、入れ替わるようにフキたちがリコリコへ来たんだよ? これってツンデレってやつ?」
「きっと楠木もアオイの可愛さに撃ち抜かれたのだろう」
あの赤子のことを語ると、口元が自然に綻ぶのをミカは感じる。
目前の千束も、かつては名もない孤児だった。それに自分が名付けて育てて来た。
その千束が、孤児に名を付けて育てている。
三世代にも渡る子育てが繋がれば、互いに親子であり、祖父と孫の関係と言ってもいいのではないだろうか。
「そうそう、アオイのことなんだけど、今日、山岸先生のところでね…!」
シンジと半ば物別れに終わったあの夜も、店に残ったミカはカウンターで千束と会話を交わしていた。
だが今の二人には、新しく、しかも日々更新されていく共通の話題がある。
以前と違いそこに湿っぽさはカケラも存在しない。
明るい会話の節々に笑いが交じる。
まさに談笑と呼ぶに相応しい時間が過ぎていく。
「結局、誰もこないみたいだね」
コロコロと笑っていた千束が表情を崩さないまま告げた。
「そうだな」
こちらも笑顔で応じる。
アオイの世話の失敗談などに興じながら、二人とも油断なく気を張っていた。
もともと閑静な会員制バーということもあり客の出入りも激しくないが、さすがに死角となるところまでは見通せない。
それでも何もこちらに対するアクションはないことから、相手の目論見を不発に終わらせることが出来たのだろうとミカも千束も考えている。
「なら、そろそろ帰るとするか」
「え~。せっかくだからもう少し大人の時間を満喫しようよ、先生~」
「アオイが待っている。それに夜遊びは教育に良くないからな」
「そうだね。たきなたちも心配しているだろうし!」
二人揃って腰を浮かしかけた時だった。
一つのショートグラスがバーテンダーより差し出される。
マルガリータだ。
「あちらのお客様からです」
「あ、ども~♪」
愛想よくバーテンダーの示した方向に顔を向け手をヒラヒラさせる千束だったが、一瞬で凍り付く。
「ヨシさん!?」
「!?」
ミカの角度からでは千束が影になって良く見えなかった。
だが、あのスーツの後ろ姿は…!
「っ! 先生、離して!」
「待て、千束! シンジは…!」
しかし千束は肩に置かれた手を振り切り、ピンヒールを脱いで走って行ってしまう。
「くそッ!」
吉松シンジの死を千束にはっきりと伝えていないことが仇となった。
更にミカは自身の判断の不味さを呪う。
本来なら杖を放り出してでも千束に追いすがるべきなのに、この期に及んで足の悪い演技を続けなければならないとは…!
急ぎ足で杖をつき、遅れてバーの入口を出て廊下に出る。既に千束の姿は見当たらなかった。
千束は絨毯の敷き詰められた廊下を走る。
彼女の人工心臓は無音なのに高鳴っていた。
チラっとしか見えなかったけれど、あの後ろ姿はヨシさんだ。良かった生きていてくれた…!
「ヨシさん! 待って! 千束です!」
先を誰かが走っていく気配。
それだけを頼りに、千束は見慣れぬ構造物の中を走り続ける。
やがて廊下は行き止まりへ。
いや、正面の扉が少しだけ開いている。
「…ヨシさん?」
中は機械室のようだった。薄暗い照明のもと、まるでジャングルジムのようにパイプや機材が入り組んでいる。
その奥の、正方形にトリミングされた空間に人影が浮かび上がるのを、千束の鋭敏な目は捉えた。
同時に、内腿に仕込んでいたデトニクスコンバットマスターを抜き放つ。
「あなたは…!」
吉松ではない。一瞬で看破した千束の視力を嘲笑うように、人影―――女は優雅に一礼。
「あの方は、もう二度とあなたに会うことはありません」
あいにくと千束は彼女の名前を知らない。
だが、その顔を忘れることは出来ようもなかった。
旧電波塔でたきなと死闘を演じ、自分の心臓を壊した張本人。
吉松シンジと常に行動を共にしていた謎の女、姫蒲がそこにいた。