油断した―――!
そう思い、頭の奥が冷えるのをたきなは自覚する。
不意打ちで捕まり、引き込まれた雑居ビルの中で茫然とする彼女に、降って来た声は思いがけず優しいもの。
「オッヨメサン、ダイジョウブ?」
見れば、東南アジア系の顔立ちの男が心配そうにこちらを見下ろしていた。
「グエンさん…!」
口を覆われていた手を解放され、たきなは思わず小声で叫んでしまう。
「シッ! ヘンナ仮面ヲカブッタ人タチ、オッヨメサントアカンボウサンヲ探シテルヨ」
ぐっと奥歯を噛みしめ、たきなは室内を見回す。
他にも心配そうにこちらを見てくる人々の顔付きは多国籍だ。
翻ってたきなは彼らの顔に見覚えがある。
皆、千束と一緒にいった日本語学校の生徒たちだ。
「どうしてあなた達が…」
思わずの疑問に、グエンは明るい笑顔を浮かべる。
「ボクタチ、イッツモチサト先生ニ助ケラレテルヨ。先生ハ、オッヨメサンヲ助ケテ上ゲテ言ッテタネ。ダカラ助ケルノトーゼンネ!」
その答えは、たきなの疲れ切った胸の奥を温めてくれた。
千束がこの街で働いてきたことは間違いではなかったのだ。
「ホラ、水ノムネ。頭ニホータイマクヨ」
渡されたペットボトル。中身のミネラルウォーターに貪るように口を付ける。
まるで胃に落ちる前に全て喉に浸み込んでいくようだ。
人心地ついて、たきなはサッと顔色を変える。
「アオイは…ッ!?」
見渡せば、これまたアジア系の顔立ちの女性が、アオイの服を脱がせていた。
「アニタハ、国ニ子供ガイルネ。アカンボウサン、シンパイナイデスヨ」
グエンの説明通り、アニタと呼ばれた女性は実に手際よくアオイのオムツ交換を済ませていた。
終えて抱き上げる手つきは優しく、浮かべている表情には母性が溢れている。
頭に包帯を巻いてもらいながらその光景を見守っていると、別の男性が奥から皿を抱えてもってきた。
「アカンボウサン、ゴハンデスヨー!」
たきなの腕の中にアオイと哺乳瓶と離乳食が委ねられた。
小さな唇に哺乳瓶の乳首をくわえさせると、勢いよく吸われていく。
相当にお腹が減っていただろうに、よくここまで我慢してくれたといじらしい。
そんな実に穏やかな空気に浸っていたたきなだったが、別の一人が室内へ駈け込んできたことで緊張が走る。
「仮面ノ人タチ、スグ外ニイルヨ!」
「……!!」
食事を中断し、たきなは立ち上がる。
「オッヨメサン、コッチ!」
グエンが先導して歩き出した時だった。アオイはワンワンと泣き出したのは。
おそらく、ようやくありつけた食事が急遽中断されたことで、とうとう機嫌を損ねたのだろう。
「ああ、アオイ、お願い泣き止んで…!」
たきなはあやしながら困惑する。この状態では外へ逃げるどころではない。
その光景を見ていたグエンが、不意に大声を上げた。
「オギャアオギャア!」
「ッ!?」
思わずたきなは周囲を見回す。
大声を上げていたのはグエンだけではない。
アニタも、他のみんなもオギャアオギャアとの大合唱。
その声は雑居ビルの中を満たし、なお叫びながらグエンはたきなを先導。
「オッヨメサン、ココカラニゲルネ!」
案内された窓から路地裏へと降り立つ。
窓枠越しになおグズるアオイを受け取りつつ、たきなは言った。
「…絶対に抵抗しちゃ駄目ですよ?」
この程度のことしか言えないのは歯がゆい。
「ダイジョーブ。ボクタチノ国デハ珍シクナイカラネ!」
不器用なウインクを残して、グエンはオギャアオギャアと繰り返しながらビルの中へと戻っていた。
見送って、たきなは忸怩たる気持ちを切り替える。
彼らの協力を無駄にしないためにも、絶対に逃げ切らなくては。
けれど、安全な場所はどこに?
片腕に抱いたアオイをあやしながら、たきなは路地裏を選らんで進む。
片手には銃を構えて油断なく進んでいたつもりだったが、それはまさに出会いがしらだった。
ビスッ! という発砲音の後、たきなの右手に衝撃が走る。
痺れた右手から愛銃は弾き飛ばされ、路地の向うからは銃を構えたゴーストフェイスの男たちがこちらへ向かって走ってくる。
銃を拾う暇もない。どうにか後退した先は行き止まり。
「…くッ」
高いビルの壁面を背に、たきなは自身の失策を罵倒する。
同時にサッチェルバックからダガーナイフを取り出して片手に構えた。
銃という遠距離武器を無くした今、赤子を抱えたままの接近格闘など正気の沙汰ではない。
けれど、たきなはアオイを地面に置きたくはなかった。
捕まるにしろ、殺されるにしろ、最後は絶対に一緒に―――。
ゴーストフェイスたちの三人組が、たきなの数メートル手前まで迫る。
この期に及んで油断する様子を見せないのはプロだ。万が一にも連携を乱して取り逃がすようなことはないだろう。
たきなは心の中でグエンたちに謝罪する。
せっかく助けてもらったのに無駄にしてしまった。
店長も、クルミも、ミズキさんたちも無事だろうか。
そして、ごめん、ごめんなさい、千束―――。
「うぉおおおおおらああああ!?」
野太い声が袋小路に木霊する。
続いて、どかどかと足音も勇ましく走り込んできた男が、ゴーストフェイスの横っ面をバットで殴り倒す。
少しだけ遅れてやってきた武装した男たちに、残りのゴーストフェイスたちも蹴散らされた。
何が起きているのか状況が把握できず茫然とするたきな。
すると、バットを持った坊主頭の男がこちらへ手を差し伸べてくる。
「無事ですか、姐さん!?」
「え? ええ…」
たきなは思い出す。初めて紋田組を訪れたときに突っかかって来た新入りではないか。
他の厳つい男たちも、よくよく見れば紋田組の事務所で並んでいた連中だ。
そんなむくつけき男たちの背後から、彼らに劣らない体格の禿頭の男が。
「よう。遅くなって悪いな」
紋田組の組長その人だ。
大きくゴツイ手が、たきなの手を取って立ち上がらせてくれる。
そのまま組員たちに守られるように路地から大通りへ出れば、向うからゴーストフェイスの集団がやってくるのが見えた。
組長が厳つい顔を歪めた。
「ったく、千束の嫁とボンに手を出すたぁ、ふてえ野郎どもだ」
それから組員たちに鋭い視線を飛ばす。
「それにもまして、ウチのシマでこれ以上好き勝手やられちゃあ示しがつかねえ。おまえら、気合をいれろよ!」
「ヘイッ!」
組員たちが雄たけびを上げつつ、ゴーストフェイス集団へと突っ込んでいく。
まだ大通りにいる通行人たちが「喧嘩だ、喧嘩!」と囃し立てれば、連中も銃を抜くわけにも行かず。
「わたしも…!」
アオイを抱え直し、武器を求めるように手を伸ばしたたきなだったが、組長にむんずと掴まれた。
「嬢ちゃんはこっちだ」
手を引かれ、連れていかれたのは一台のセダンの前。
そしてそこには。
「無事か、たきなちゃん!」
「阿部さん…」
リコリコの常連にして、押上警察署の刑事である阿部だった。
そしてセダンの運転席では、ハンドルを握る彼の部下の姿が。
「それじゃ嬢ちゃんのことは任せたぜ」
言いおいて組長は腕まくりをし、ゴーストフェイスの集団へと突っ込んでいく。
「ええ、任されましたよ」
冷静に頷く阿部だったが、片やヤクザでこちらは官憲だ。
本来的には水と油である彼らを結びつける触媒に、千束の存在を改めて想起せずにはいられない。
「ほら、たきちゃん、乗った乗った」
後部座席にたきなとアオイを、阿部自身は助手席へと乗り込む。
「ちょいとリコリコに顔を出したら、ひどい有様でね…」
なので、心配してたきなを含めた顔見知りを探し回っていたという。
もちろん阿部の説明をたきなは話半分として受け取っていた。
おそらくアラン機関絡みの圧力で、今の警察は半ば機能不全だ。
あくまで刑事の立場として語っていても、実態は阿部の独断専行だろう。
この優し過ぎる作話にたきなも感じるところはあったが、ここは敢えて流れに従うことにする。
「ええ。いきなり変な仮面の集団に襲われて、店長もみんな散り散りになって…」
全くの嘘ではない。
銃を持って抵抗したことは伏せておくにしても、こちらが一方的な被害者であることには違いはない。
「そうか、災難だったね」
優しく言ってくる阿部だったが、運転席の部下は悲鳴を上げている。
「本所から待機命令が出てるんすよ? 僕たちは何をやっているんですか!」
「夜中に傷ついた未成年者と赤ん坊を保護するのは立派な警察の役目だろう?」
「そりゃそうですけども…!」
車は大通りを抜ける。ガクっと他の車の交通量も少なくなって―――減り過ぎでは?
後部座席の窓から閑散とする光景に違和感を抱くたきなだったが、間もなく正面に見えてきた光景に息を呑む。
他の車の往来が絶えた道いっぱいに、二台の車が横並びに停車。そしてその陰にはゴーストフェイスの男たち。
「どぅえ!? どうぇええええ!」
刑事にあるまじき悲鳴を上げる部下に、阿部は頭を低くしながら怒鳴る。
「突っ込め!」
「ああ、もう、署長になんて言えば~!」
情けない声と裏腹に、セダン車は力強く加速。
たきなもアオイをかかるように後部座席で横になる中、車と車の隙間にぶつけるようにセダンは即席のバリゲートの突破に成功。
ガタピシとホーイルハウスを軋ませつつ、どうにか走行を継続する車の運転席でまだひーひー声は続いている。
「次はどこへ行きゃいいんすか!」
本所へは戻れませんよ、といってくる部下に、阿部はしばし考え込んで決断を下す。
「なら、霞が関―――サッチョウを目指せ!」
さすがに連中も日本警察の本丸へと逃げ込めば追ってこないだろう。
そういう阿部に、たきなは既視感を覚える。
奇しくもそれはミカがDA本部を巻き込もうと提案したやりとりに似ていた。
そして、わたしたちはそれからどうなった?
たきなの瞳が大きく見開かれる。
先の道路の路面が黒く濡れていたのだ。
そのことを伝えようと叫ぼうとして―――間に合わない。
「うああわああああああっ!?」
特殊散布剤によって車は盛大にスピン。
もはや誰のものかも知れない悲鳴が長く尾を引き、ズドン! とガードレールに斜めから車体が突っ込む形で止まった。
「…ぐ、む。逃げろ、たきなちゃん…」
助手席で阿部が呻く。
運転席の部下はエアバックに半ば埋もれていたが、呻き声を上げているところから生きてはいるらしい。
たきなは、滲む視界で必死に意識を保ちながら、後部座席のドアを開ける。
衝撃の際、咄嗟にアオイを抱きしめて守った代償に、彼女は再び頭を打ち付けていた。
せっかく巻いてもらった包帯の下から更に血が滴り落ちる。
どうにか車から降り立ち、足に力が入らない。
振り返れば、次々に追いついてきた車が停車。そこから降りてくるゴーストフェイスの男たち。
逃げなきゃ、という意識した途端、たきなはべしゃりと地面へと倒れ込んでいた。
明滅を繰り返す視界で、腕の中のアオイを地面の上へと解き放つ。
ほら、行って。逃げて。
それはまだ一歳にも満たぬ赤子には無理な相談。
それでももはや半ば本能で、たきなは赤子を危険から遠ざけようと腕で押しやろうとする。
しかし、赤子であるアオイは、逆にその手をしっかりと握り返してきた。
さきほどまでの不機嫌もどこへやら、ふんす! と鼻を鳴らして顎を引く仕草は、どことなく千束に似ていて。
その勇姿に菩薩のような笑みを浮かべて、たきなは幻視していた。
自分の手を伸ばす先、アオイの向うに幾つも見える彼岸花。
ゆらゆらと揺らめく花火のように咲く花は、秋分の日の彼岸に咲くことに由来する。
そして彼岸とは『この世とあの世が最も近く通じやすい日』を意味する。
そんな不吉な花の幻を見るなんて―――わたしは、死ぬのかな?
人はいずれ誰もが死ぬ。
既にリコリスとして幾人もの人を殺してきた。
その報いは受けなければならないのだろうけれど、だけど、せめて、アオイだけは。
揺らめく幻の彼岸花の群れ。
その赤い花弁に想い人の姿を重ねる。
もはや彼女に対する謝罪なんてしない。
もし、次に会えることがあったら、きっと褒めてくれますよね、千束―――。
もう一度、頭を撫でて欲しかった。
もう一度、抱きしめて欲しかった。
あなたに会えてわたしの人生はきっと意味のあるものになりました。
最後の力を振り絞るようにアオイを少しでも遠ざけようとして―――。
「!?」
―――幻に、力強く手を握り返される。
「大丈夫か? 立てるか、たきな」
腕を取り立たせようとしてくれる人の声は、千束ではない。けれど、聞き覚えのあるもの。
「…フキさん?」
目を凝らせば、赤いランクファーストのリコリスの制服の後ろ姿。
「よっと」
肩を貸して立たせてくれたのは、紺色の制服のサクラ。
伝わってくる熱気が、たきなの心と魂に力をくれる。
はっきりとしてくる視界に映る彼岸花の群れは、幻ではなかった。
エリカもいた。ヒバナもいた。
何人、何十人ものリコリスたちが、たきなとアオイを包むように守っている。
そして、全員が揃って銃を構えていた。
フキを先頭としたリコリス集団に相対するは、こちらもゴーストフェイスの集団。
彼らも一斉に銃を抜く。
対峙する、銃を構える集団対集団。
フキが引鉄に力を込める。
それこそ、あと数ミリで弾が発射される、極限の緊張が飽和する寸前。
ゴーストフェイスの一人が、何事か耳へと手を当てる。
その後、合図のように上げた手を後ろへと振り抜けば、一斉に銃を納めたゴーストフェイスたちは、くるりと反転し、撤収していく。
まさに潮が引いていくような、という表現が相応しいような鮮やかさ。
「…ふー」
無人の、中破したセダン車しか残っていない道路の真ん中で、フキは息を吐き出す。
強張った指を伸ばしながら、元相棒であるたきなへと笑いかけた。
「どうやら上手くいったみたいだな?」
彼女にしてみれば会心の決め顔だったのだろうが。
「だー」
いつの間にかフキの足に抱きつくようにしたアオイが見上げて来る。
「…おい、こら離せ!」
フキが足を振り上げるも、アオイはアトラクションとばかりにきゃっきゃと声を笑みを浮かべるばかり。
その様相に、周囲のリコリスたちから失笑が漏れた。
「おまえら!」
フキが顔を赤くすれば更に失笑の輪が広がり、ついには盛大な笑い声となる。
たきなも目尻に涙をためて笑っている。
その姿を、ようやくセダンから這い出してきた阿部と、その部下が眺めていた。
「…あの子たちは何なんですかね?」
額の切り傷を抑える部下に、阿部は折れたアバラを庇いながら煙草をくわえて苦笑する。
「見りゃ分かるだろう? みんな年頃の女の子たちだよ」
後日、阿部は始末書に『延空木のアトラクションのコスプレをした女子高生集団との遭遇』と表記し報告するも、提出したこと自体が有耶無耶となった。
結果、彼自身も何らお咎めを受けずに済んでいる。