リコリコ・チャイルド(完結)   作:とりなんこつ

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3.サッチェルバッグの替わりに

 

 喫茶リコリコへの新規メンバーの参入は、まずは常連客たちに驚きを持って迎えられた。

 

「ちょっと遠縁の子を預かることになりまして…」

 

 温厚篤実なリコリコ店長の説明を疑う者もなく、彼の物静かでミステリアスな風貌から経緯を問い質そうとする者もいない。

 

「でも、店長は子育てとか大丈夫なんですか?」

 

 心配そうに声を上げたのは漫画家の伊藤だ。男手一つで赤ん坊を育てる困難さを慮ってのことだろう。

 

「ははは、うちには娘たちが沢山いますからね」

 

 穏やかに答えるミカに、千束がえへへ~とピースサイン。隣でお盆を抱えるたきな。

 そして常連たちの視線はミズキへと集中した。

 

「なるほど、ミズキちゃんがいたか」

「ミズキちゃんがいれば安心ね」

「子持ちになるなら、もう結婚しなくてもいいんじゃないか?」

「誰よ、最後の台詞を言ったのわッ!」

 

 髪を逆立てるミズキだったが、その台詞を口にした常連の米岡当人に、

 

「まあまあ。赤ん坊の世話が出来るのは結婚相手に良いアピールポイントになると思うよ? 練習だと思ったら?」

 

 言われて、至極真面目に考え込むミズキは大概チョロい。

 もっとも間もなく常連たちは、いっかな上達しない彼女のオムツ交換や下手くそなあやし方を目の当たりにし、「こりゃやっぱ結婚無理じゃね?」という共通の感想を抱くことになるのだが、それはまた別の話。

 

 

 

「あ、アオイ、お腹空いた?」

 

 喫茶店の座敷の隅に設えられたベビーベッドに横たわる赤ん坊に、千束がパタパタと駆けよる。

 

「へえ、その赤ちゃんの名前はアオイちゃんっていうんだ?」

 

 これまた常連の北村の指摘に、ミルクの入った哺乳瓶片手に千束は朗らかに訂正。

 

「そう、アオイくんね! ちなみに名づけ親はたきなだよ!」

「千束…!」

 

 たきなが小声で咎めるような声を出す。

 ミカが縁者から預かっているという『設定』の赤ん坊だ。なのに自分が名前つけるのはおかしいのではないか?

 しかしリコリコの常連客たちは気にする風でもなく、それぞれが順番に千束が抱き上げたアオイの顔を覗き込んでいる。

 

「うわ~、可愛い」

「よろしくなアオイくん」

「こりゃあ将来美男子になるぜ?」

 

 では一般のお客さんたちといえば、入店してすぐの座敷にあるベビーベッドにギョッとすることが多い。

 初めて来店した客などは、この時点で「大丈夫なの、このお店?」と疑問に思うかも知れないが、そこはそれ万年ハイテンションの千束の出迎えで、あっというま間に客席へとご案内。

 喫茶店であるからにして、よほど混雑していなければお喋りをして長居をする客が多い。リコリコの居心地の良さからも、その傾向は顕著だ。

 そんな客たちは、長くいればいるほど気づくことになる。

 店内に客の話し声はすれど、ほとんど赤ん坊の泣き声が聞こえてこないことに。

 

 授乳期の赤ん坊はとにかくよく泣く。これは、赤ん坊が意思を訴える手段として泣くことしか出来ないからだ。

 にも関わらず、なぜに喫茶店の中は平穏に保たれているのか?

 理由のタネは、一重に千束の能力の発現によるものだった。

 

 筋肉の動きや目線で相手の行動を推測する洞察力。そこに千束の反射神経が合わされば、マシンガンから発射される弾丸を躱せるほどに。

 

 そしていま現在。

 その天賦の才は全てアオイへと向けられている。

 

「んん? 今度はおしっこかな~」

 

 傍目には、ベッドの上で無邪気に手をワキワキさせているだけの赤ん坊。特に機嫌を損ねている風ではない。

 だが、その微妙な表情や動きの違いが、千束にとっての明確なサインとなる。

 素早くアオイを抱き上げた千束は、奥の従業員用の座敷へと向かい、そこでオムツ交換を済ませるのだ。

 アオイの面倒を見始めた当初こそ訴えの見極めに苦労したものの、今や幾つものパターンを把握して迅速な対応を可能にしている。

 吉松が見たら頭を抱えそうな事例だったが、もちろん千束は知ったこっちゃない。

 今の彼女は赤ん坊の子育ての苦労と楽しさを満喫している真っ最中。

  

 そんなこんなで乳母日傘なアオイは、いつもふくふくとした笑顔を浮かべて上機嫌である。

 千束の影響か他人へも物怖じせず、来客へもニコニコと愛想も良いものだから、新たなリコリコのマスコット的存在となりつつあった。

 以前より賑やかに、それでいて少しの和やかさを増して、リコリコでの日々は楽しく過ぎていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 □□□

 

 

「千束、たきな。健診と体力測定は今月までだそうだ」

 

 中休みのリコリコ店内にて。

 ミカが申し訳なさそうに言う。

 

「あっちゃ~、もうそんな時期か~」

 

 と千束は天を仰ぎ、

 

「…すっかり忘れていました」

 

 たきなは珍しく顔色を無くしていた。

 

 リコリスの超法規行動を保証するライセンスの更新に関して、健康診断と体力測定の実施は必須かつ義務付けられている。

 ズボラな千束がすっぽかしそうになるのはいつものことだったが、管理者であるミカに几帳面なたきなまでこの重大事を失念していた原因は、従業員用の座敷でスヤスヤと寝息を立てている赤ん坊にあった。

 千束に引きずられたわけではないだろうけれど、ここしばらく二人も赤ん坊の世話に夢中だったのだ。

 

「幸い明日は定休日だ。さっそく行ってきなさい」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 ライセンスの所持はリコリスとして活動する上での生命線だ。たきなは一も二もなく頷く。

 

「う~、面倒臭いな~」

 

 千束が渋るのは、山間に秘匿されているリコリス本部へ向かうまで時間がかかるためか。

 

「でも、仕方ないよね」

 

 顔を上げ、明るい表情に切り替えた千束はたきなへ言う。

 

「よし、たきな! 明日は()()()()()()()()()()()()!」

「…え?」

 

 

 

 

 

「うーん、やっぱこの格好は目立つのかな?」

 

 ファーストリコリスの赤い制服を着用している千束が首を捻った。

 都市型迷彩服として考案されたこの制服は、目立たず環境に溶け込むようにデザインされている。

 にも関わらず、周囲の視線を集めている理由は一目瞭然。

 いつも通りにっこにこの笑顔で歩く千束。そして、その背中には、普段のサッチェルバッグの替わりに赤ん坊が背負われていたのだから。

 

「それはそうですよ…!」

 

 千束の分のバッグに、他の荷物もぶら下げながら小声でたきな。

 

 客観的に見ても、千束とたきなは美少女である。そんな二人が赤ん坊を背負って道行けば、注目を集めない方おかしい。

 加えて、いまの千束はおんぶ紐を使ってアオイを背負っていた。

 二本のおんぶ紐が胸の前で交差するように結われた結果、千束の豊満なそれはより凶悪に強調されている。

 

 ちなみに、最近は前の方に抱える、いわゆる抱っこひもが主流だったが、千束はあえておんぶ紐を選択。

 正面からの攻撃の回避に千束は絶対の自信を持っていたが、いかに彼女でも散弾銃とかいった面の攻撃は避けがたい。その場合は、自らの身体を盾にして背中のアオイを護るためとのこと。

 

「お~、よしよしアオイ。初めての電車旅は楽しいでちゅか~?」

 

 ローカル線に乗り換え、四人掛けの座席でようやく赤ん坊を背中から降ろす。

 

「ところで千束。どうしてアオイを連れて来ようと思ったんです?」

 

 どこか寂し気に送り出してくれたミカの姿を思い浮かべながらたきなは訊ねた。

 

「ん~? ついでにこの子の健診もしてもらおうかと思ってさ!」

 

 確かに今から向かう先で自分たちは健康診断を受ける予定である。

 そこで訳ありのアオイの健康診断をしてもらうのは、まさに渡りに舟だ。

 合理性を重視するたきなにとってその返答は満足できる一方、微妙に違和感があった。

 長い付き合いから千束がまだ何か腹に一物を抱えていそうな気がする…。

 

「やばい! コードSだ!」※S=Small 小さいほう

 

 ミニバックと赤ん坊を抱えて席を立つ千束を、たきなは慌ててあとを追う。

 千束が飛び込んだのはオムツ交換台のあるトイレ。

 たきなはすかさずドアの前に立つ。

 オムツ交換や食事を摂らせている間は、千束もアオイも無防備になる。

 ごく自然な流れで、二人の警護にたきなが目を光らせていた。

 逆説的にも千束がここしばらく子育てに専念できたのは、たきなの的確なバックアップとフォローのおかげであるといえるだろう。

 

 

 電車を降り、駅を出れば、本部から派遣された車が待機していた。

 

「お待ちしておりました。錦木さまに井ノ上さ…ま…?」

 

 出迎えの女性アシスタントも、さすがに千束の背負う赤ん坊に目を見張っている気配。

 

「あ~、気にしないで」

 

 千束がヒラヒラと手を振る間に、先に乗りこんだたきなが荷物の中からベビーシートを展開中。

 アオイをベビーシートに固定し、千束は賑やかに指示を飛ばした。

 

「はい、これでOK! さあ、レッツゴー!」

 

 車は一路、リコリス本部へ向けて走り出す。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 本部の入口で網膜照合と全身スキャンを受ける。

 もちろん初めて訪れたアオイに網膜データは存在しない。

 スキャンしたところで異物や危険物の混入が確認されないのはもちろんだが、警備スタッフは困惑仕切りだ。現役リコリスの手で赤ん坊が持ち込まれるなど前代未聞である。

 

「だ~いじょうぶだから! 司令の許可も貰っているから!」

 

 それを半ば強引に千束は突破。無事三人で本部内へ入り込むことに成功している。

 

「…本当に司令の承認を貰っているんですか?」

「たきなったら心配性だな~。事後承諾で行けるって!」

「やっぱり…」

 

 ともあれ、本日の目的は健診と体力測定だ。

 

「で、どうする? 交代でアオイの面倒を見ながら受けることにする?」

「そうですね」

 

 千束が先か、自分が先か。

 たきなが答えるより早く、千束は「よよよ?」と眉をひそめている。

 

「どうしました?」

「アオイったらお腹空いたみたいだね。よし、先にミルクを飲ませますか!」

 

 そして赤ん坊を抱えたままズカズカと千束が進んだ先は、リコリス寮の中心にある噴水広場だった。

 

「う~ん、マイナスイオン!」

 

 千束は平然と伸びをしているが、たきなの顔はやや赤い。

 ここまでくる道々で、千束は赤ん坊を見せびらかすようにして歩いてきている。

 行き交う人の目に触れるのは必然で、噴水前につく頃には、三人は若きリコリスたちに囲まれていた。

 

 DAから追い出された落第リコリスと侮蔑の視線を受けていたのも今や昔。

 先の延空木事件を経て、千束とたきなのバディは、まごうことなき生ける伝説である。

 

 話を聞きたい。声をかけてもらいたい。

 憧れの眼差しを向ける一方、この寮におけるかつてない異質な存在―――赤ん坊に対し、好奇心を剥き出しにする年頃の乙女たち。

 

 それでもなお伝説の二人には近寄り難く、遠巻きにするしかない中で、その群れから一歩踏み出した者がいる。

 セカンドリコリスの制服を身にまとい、リコリス一の前衛(ヴァンガード)を自認する乙女サクラだ。

 

「あの~、つかぬことをお伺いしますが」

「ん? なんじゃらほい?」

「その、ですね。そちらの赤ん坊はいったいどこのどなた様で…」

 

 なんであたしはこんなにへりくだっているんだろう、と思いながらのサクラの代表質問。

 アオイにミルクを含ませながら、とびきりの笑顔で千束は答える。

 

「もちろん私とたきなの子供だよ!」

 

 一瞬の沈黙のあと。

 サクラの絶叫が響き渡る。

 

「…どぅえええええええ!? 二人の(作った)子供ぉお!!?」

 

 周囲から、まるで地鳴りのようなどよめきが起こった。

 

「ま、マジっすか? 本当に二人の…?」

「だから言ってるでしょ。私とたきな(にとって)の子供だって」

 

 二度目のどよめきは、一度目よりもさらに大きかった。

 

「ちょ、ちょっと千束、何をいって…!」

「たきなだってこの子の面倒を良く見てくれてるじゃない! それに名付け親でしょ? だったらたきなの子でもあるって!」

 

 赤面し黙り込むウブなたきなは、局地的に発生した誤解に気づくはずもなく。

 

 

 

『―――錦木千束さん。至急司令室までおいで下さい』

 

 

 

 

 折よく、天井のスピーカーから館内放送が降ってきた。

 

「アオイもお腹いっぱいになったみたいだし、ちょいと行ってくるわ」

 

 アオイを抱え直し、千束は立ちあがる。

 

「悪いけど、たきな。後片付けお願い」

「は、はい。アオイも連れていくんですか?」

「うん。たぶん呼び出された理由がそれ」

 

 にっこりして、千束は「はい、ごめんなさいよー」と言いながらリコリスの群れを割って行ってしまう。

 残されたたきなが使い終えた哺乳瓶を回収していると、周囲の輪からピンク髪のセカンドリコリスが近づいてきた。

 かつてのチームの一員であった蛇ノ目エリカだ。

 

「そ、その、たきな、おめでとう」

 

「う、うん? エリカ、ありがとう…?」

 

 とりあえず礼をいうたきなの前で、エリカは何故かモジモジとしている。

 

「どうしたの?」

 

 訊ねるも、

 

「え? えへへ…」

 

 ぎこちなくそう繰り返すだけだ。その顔は赤い。

 なんなんだろう? とたきなが視線を巡らせば、なんだか妙な空気を感じた。

 こちらを遠巻きにしているリコリスたちの中で、エリカのパートナーである篝ヒバナが「行け行け!」という風にジェスチャーしている姿が気にかかる。

 

 その姿に触発されたのだろうか。

 意を決したようにエリカはたきなに近づくと、耳打ちするように小さな声で訊ねて来た。

 

「えーとね、その…………錦木さんて、生えているのかな?」

「はい?」

 

 

 

 

 

 

 

 

「どおも~♪」

 

 意気揚々と司令室へと入った千束を楠木が出迎えた。

 

「ありゃ、楠木さん一人? 珍しい~」

「どういうつもりだ千束? 説明しろ」

 

 じろりと見てくる楠木に、千束は大きく首を捻って見せる。

 

「説明? なんの?」

「おまえが腕に抱えているものに対してだ」

「まッ! ものなんて失礼でちゅね~。アオイくんって名前がありまちゅもんね~。うふふ」

「茶化すな」

「はい、カリカリしな~い」

 

 勧められてもいないのに勝手にソファーに座る千束。

 それからコートに両手を入れたままの楠木を仰ぎ見ると、少しだけ口調を真剣なものに改める。

 

「先生の子でも、私の子でもないよ。リコリコの前に置かれていた」

「捨て子か」

「さあね。私としては預かっているつもりだけど」

「預け主が現れなければ、この先の処遇はどうするつもりだ」

「リコリコのみんなで育てていければ、と思っている」

 

 千束の即答に楠木は微かに目を細める。

 ミカの了解は取ってあるのかと口にしそうになって、愚問だなとすかさず撤回。

 千束を実の娘のように愛しているミカが、千束の提案を無碍にするわけがない。

 

 同時に、楠木も千束の人工心臓問題を把握していた。

 命のリミット。歴代最強という称号を維持するために捧げられた代価。

 もっとも、今の千束はその問題は解決している。

 だがこの時の楠木は、リコリコで千束が『私、子育てってものをしてみたかったんだ~♪』と宣言したときのミカの気持ちを、僅かながら共有出来ていたのかも知れない。

 

「…そうか」

 

 短い間を置いて答えると、なぜか千束はソファーに赤ん坊を寝かせていた。

 

「おまえ、なにをしている?」

「あ、私、今から健診と体力測定を受けなきゃいけないんですよ」

 

 そのために千束が今日ここまで赴いてきたことは把握している。

 だが、赤ん坊をここに寝かせてどうするつもりだ。まさかここでオムツ交換でもするつもりか?

 内心の困惑をいつもの鉄面皮に押し込め、じっと眺めていると、千束は花が咲くような笑顔を向けて来た。

 

「なので、私が健診とか終わってくるまでに、アオイの面倒をよろしくお願いします♪」

「……正気か、貴様」

 

 ほとんど素の声で楠木は睨んでしまった。

 リコリスの大半は硬直してしまう圧を受けても、どっこい千束はどこ吹く風。

 

「いや~、たきなも受けなきゃいけなかったから、その間に面倒見てくれる人がいなくて困ってたんですよ~」

 

 良かった良かった、とソファーから腰を浮かす千束。

 「アオイ、ママは行って来まちゅね~」と赤ん坊の頬に軽くキス。

 

「それじゃ、司令、あとはよろしく♪」

「おい、ふざけるな…!」

 

 楠木は一歩踏み出す。千束はくるりと振り返る。

 

「それに、この基地で、司令室(ここ)が一番安全ですよね♪」

 

 片目を閉じ、人差し指をビシっと立ててポーズを決めている。

 

 …まさか、それを折り込んで呼び出しに応じたのか?

 僅かに逡巡する楠木の前で、千束の声は続く。

 

「あ、さっきご飯もおしめも済んだんで、二時間くらいは大人しくしていると思います。もし泣いたときは柔軟な対応でお願いしまっす!」

 

 言われて、楠木は反射的に赤ん坊を見てしまう。

 正面に視線を戻したとき、千束の背中は司令室のドアに閉ざされて見えなくなっていた。

 楠木は静かに歯噛みする。

 ここで取り乱したり、慌てて千束の後を追うのは論外だ。

 組織の長には威厳が求められ、行動一つにも体裁というものが存在する。

 

 思えば、千束絡みでこのような苦汁を舐めさせられるのは何度目だ?

 もちろん不快で腹が立つことが多かったが、その後始末をするのは仕方がないこととも割り切っていた。

 もしここにミカと二人きりで、彼が『子供の尻ぬぐいは親の仕事だ』との台詞を口にしたら、ほろ苦い表情で楠木も首肯したかも知れない。

 

「しかし…」

 

 それでも口の中で苦言を弄ぼうとした楠木だったが、視界の端で動くものがある。

 千束によってソファーに寝かせられた赤ん坊が身動ぎを繰り返し、背中からずり落ちようとしていた。

 今この部屋に、楠木の手足になって動く秘書官は存在しない。

 必然的に楠木が動くしかなかった。

 

「ほら、危ないぞ」

 

 落ちそうになった赤ん坊を支えて、ソファーの中心へと身体を戻してやる。

 予想以上の暖かさと柔らかさが伝わってきて驚く。

 出産どころか結婚をしたこともない楠木にとって、赤ん坊は全く未知の生き物だった。

 

 ために「あーあー」と無邪気に手足を動かして笑う赤ん坊の頬にその指を伸ばしたのは、いったいどういう心境によるものだろうか?

 

 楠木の細く尖り気味の人差し指が、赤ん坊の頬を撫でる。

 幼子特有の滑らか過ぎる感触に、楠木の目は険悪と逆の理由で細まる。

 

 そんな赤ん坊が嬉しそうに虚空へと手を伸ばす。

 咄嗟に手を引こうとした楠木だったが、その指先を絡めとられた。

 意外に力強く、それでいて小さく、紅葉のような手。

 細かい爪の造形は人形細工のようで、確かに血が通っている。

 ならば今この指を握っている手は、神の造形品に違いあるまい。

 

「―――司令、失礼します」

 

 司令室のドアを開け中に入るなり、秘書官は硬直した。

 中腰でソファーに向かう楠木と、その先に横たわる赤ん坊は、彼女の豊すぎる想像力を遥か百億光年は置き去りにする光景であった。

 文字通り絶句して立ち尽くす秘書官に、楠木はゆっくりと首を巡らすと普段通りの冷徹な表情と口調を向けた。

 

「どうした? 状況を報告せよ」

 

 赤ん坊に指先を握らせたまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お帰り。大丈夫だったか?」

 

 リコリコに帰還した千束とたきなを、心配そうなミカが出迎えてくれた。

 もともと母性本能が豊かな男であるからして、今日の健診へアオイも同行する! と千束が宣言した際に、一番動揺したのも彼である。

 

「全然大丈夫だったよ~。あ、ついでにアオイも健診して貰ったけれど、どこも異常はないって!」

 

 朗らかに千束は応じる。

 

「どうしたたきな? なんか疲れているようだが」

 

 例によってサッチェルバッグの二つ持ち+アルファの荷物を抱えたたきなは、クルミの指摘した通りの表情を浮かべていた。

 

「それは疲れますよ。リコリス寮でもたくさんのみんなに囲まれて、赤ん坊を抱っこさせて欲しいとかミルクをあげてみたいとか。挙句、色々と質問までされて…」

「まあ、そりゃそうだろうな」

 

 基本的に部外者や男子禁制のリコリスたちの住まいだ。そこに赤ん坊を連れていくなど、火薬庫の中にダイナマイトを放り込むより分かり易い。

 クルミは苦笑しながら質問を重ねる。

 

「ところで、今日も閉店日のボドゲ会なんだが、たきなはどうする?」

「すみません、奥の座敷で少し休ませてもらいます…」

「わかった」

 

 半ば引きずるように荷物を持ってたきなが去ったあと。

 クルミが千束に同じ質問をしたところ、食い気味で返答される。

 

「え? 今日もボドゲするの? やったーやるやる! あ、アオイのおしめ交換してくるからちょっと待ってて!」

 

 バタバタとたきなの後を追うように奥へと駆け込んでいく千束。

 

「…あいつは本当にタフだな」

 

 その後ろ姿を呆れたように見送るクルミだったが、小さな頭の上に大きな掌が載せられた。

 見上げると、ミカが微笑んでいる。

 

「昔から言うだろう? 母は強し、だ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの、フキ先輩」

 

「ああ、今日、千束とたきなが来てたんだってな。私は留守にしていてちょうど良かったわ」

 

「いえ、それはそうだったんですが、ちょっとご相談が…」

 

「どうしたサクラ、改まって」

 

「その、良かったら、あたしと一緒に子供作りませんか…?」

 

「…あ゛あ゛ッ!?」

 

 

 

 

 

 

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