赤ん坊に優しく哺乳瓶のミルクを含ませるたきながいる。
んくんくと嬉しそうに小さな唇がミルクを飲み干すと、たきなはお尻を抱えるように抱き直した。それから優しくトントンと背中を叩けば、けぽっと可愛らしくゲップを漏らす。
その格好のままツインテールがゆっくりと左右に揺れると、たちまち大きな目はトロンとして口は半開きになる。
微睡むアオイに視線を落とすたきなの表情は、正しく慈母のそれだった。
その光景をファインダー越しに見つめ、キラキラと瞳を輝かせている千束。
「うーん、いいねえたきな! その表情最高!」
「ちょっ、千束、撮らないで下さい!」
たきなはやめさせようとするも、寝入りばなの赤子を抱えてはそれもままならない。
結局、頬を膨らませて無言の抵抗を示すたきなに、千束はとことん容赦がなかった。
「うん、凄くいい写真が撮れたよ!」
「どれどれ?」
さっそく見せびらかす千束に、覗き込むたきなを除いた他の面々。
「ほう」
「まるで本当の母親みたいじゃないか」
ミカの感嘆の声とクルミの忌憚ない評価に、たきなは顔を赤くするしかない。
「いっそ、この写真を引き伸ばしてポートレートにして、店内に張り出さない?」
「千束、冗談ですよね?」
「あ、それともこっちの写真の方が良かった?」
千束がカメラを操作して液晶ディスプレイを向けてくる。
以前に撮影された写真の1枚に、たきなはあんぐりと口を開けてしまった。
座敷に敷いた布団にアオイを寝かしつけて、そのまま一緒に眠ってしまった自分が映っていた。
「そんなの、いつの間に…!?」
「それじゃ、こっちの写真をポートレートに」
「消して下さい! 今すぐ!」
「だ~め♪ アオイの成長記録でもあるんだから♪」
ますますリスのように頬を膨らませ、たきなは涙目で黙り込む。
実に恨めしそうに睨んでくる相棒を意に介さず、千束はミズキへと視線を転じた。
「ほら、ミズキも! アオイと一緒に写真を撮ってあげるから!」
「あたしゃ結構よ」
開店前にも関わらずコップ酒を呷るミズキのやさぐれ具合は半端ではない。
「ミズキのやつ、ちょっと痛い目にあったから敬遠しているんだ」
苦笑しながらクルミが語るところによれば、千束もたきなも不在の時にはミズキも甲斐甲斐しくアオイの世話を焼いているらしい。
ところが、様々な乗り物のライセンスを所持し手先も器用なはずなのに、ミズキのオムツ交換の手際はいっかな上達しようとしない。ミルクを飲ませている途中で泣き出されることもしばしばだ。
加えて、ことアオイに関しては、ミズキはとことん間が悪かった。
夜の合コンに向けて朝からメイクに気合を入れていれば、あやしていたアオイから涎塗れの手で触られた。
おむつを交換してやろうと開いた直後に、顔面に放水されたこともある。
「どうせあたしは子供に好かれない運命にあるのよ…ひっく!」
自虐的な台詞とともにコップ酒を口に運ぶミズキ。
どこか寂し気な横顔は無言で語っている。決して子供が嫌いなわけじゃないのに、と。
なのに報われない背中には哀愁のようなものが漂い、カウンターに片肘を突く弱々しい姿はいっそ艶っぽく見えるほどだ。
―――ふむ。普段からああいう姿を見せれば、ミズキもモテるんじゃないか?
そんな風に第三者を決め込むクルミへも容赦ない矛先が。
「ほら、クルミも抱っこしてあげてよ!」
たきなからアオイを受け取り、ぐいぐいと寄せて来る千束。
寝ぼけ眼の赤子の顔を間近に受けて、クルミは悲鳴を上げた。
「や、やめろぉ! 赤ん坊ほど緻密で繊細な生き物は存在しないんだぞッ!?」
「んな大袈裟な。うりうりうりっ!」
「ボクはタブレットより重いものを持ったことはないんだッ!」
この娘たちのやり取りを、ミカは優しげに眺めている。
店の営業中もカウンターの中から泰然自若として見守っている風のこの巨漢が、アオイに関しては実は一番ヤバい。
従業員用の店の奥にある座敷は、いまやほぼアオイの部屋と化している。そこに置かれたベビーグッズや赤子用の玩具の九割はミカが私費で購入したもの。
元からミカは千束を実の娘のように思い、守るつもりでいる。
だが父親として、ただ甘いだけでなく、時には厳しく諭し、戦士としても接してきたつもりだ。
しかし、千束らが子供のように可愛がっているアオイに関しては、その節度は必要ない。ミカも存分に猫可愛がりできる。
要は、祖父母が孫をべろべろに甘やかすのと一緒であった。
そんな楽しくも騒がしい団欒に、店の電話のベルが鳴り響く。
「あ、いいよ、先生。私が出るから」
アオイをクルミの背中に括りつけ写真撮影を終えた千束が、やりきった爽やかな笑顔で額の汗を拭う。
「はいはーい、こちら喫茶リコリコでーす」
『楠木だ』
「あ、楠木さん? じゃ、先生に替わるね」
『いや、おまえで構わん。…虎杖司令が入院した』
「マジ!? リアル鬼の霍乱じゃん! つか、あの妖怪爺も年貢の納め時かー」
『…健診で腹部に腫瘍が見つかったそうだ。発見が早かったことと良性の腫瘍ということもあり、簡単な手術で済む。だが、しばらく司令職は休むしかない。よって
「鬼灯?」
『やつは上昇志向が強く野心家だ。せいぜい気を付けろ』
「え? あ、もしもし? おーい? …切れちゃった」
受話器を置くと、すかさずミカが話しかけてきた。
「千束。誰からだ?」
「楠木さんから。ところで先生は鬼灯って人、知っている?」
「いや、聞いたことはないな。…他には?」
「虎杖司令が病気入院で、後任はその人だって」
表面を見れば、至って普通の後任人事の通達だ。
だが、一方的に要件だけを告げて切るなど、普段の楠木らしくなかった。
千束とミカが揃って首を捻っていると、リコリコの入口のドアベルが音を立てる。
「あ、すみません、まだ開店前で…って、フキさんですか」
出迎えたたきなをジロリと一瞥し、フキはカウンターの前まで来る。
するとさっそく千束が上半身を乗り出して、
「あれ? フキ。相方は?」
「一人だよ。今日はプライべートだ」
「え~、だったらリコリスの制服じゃなくて私服で来なよ~」
「ほっとけ! 何を着ようが私の自由だ!」
怒鳴るフキの前に、そっと小鉢が置かれる。中身はミカが冷蔵庫から素早く盛りつけた冷製ぜんざいだ。
「プライベートなら、ゆっくりとしていけるんだろう?」
「あ…」
「いま、コーヒーも出すから待っていなさい」
「…はい」
顔を伏せるフキはとても分かり易かった。
「なーんだ、先生に会いに来たかかっただけじゃん」
スプーンでぜんざいをかっ込むフキを千束は冷やかす。
そんな千束をジロリと睨みつけると、フキは胸ポケットから出したものを突きつけてきた。
「これを持って行けって司令から言われたんだよ!」
「へ? なんで?」
「私が知るか!」
渡されたメモリースティックを摘まみ上げ、千束は顎先に指を当てて考え込む。
電話をした上にわざわざフキに言付けるなんて、どういうことかしらん?
そんな千束の興味だったが、一瞬で上書きされた。
ぜんざいを口に運びながらチラチラと座敷へ視線を送るフキ。そこには、まるで亀の親子のようにうつ伏せになったクルミとアオイがいるわけで。
千束の口元がニンマリと半円を描く。
「あら~? フキさんも私の可愛いボクちゃんに興味があるのかしら?」
「…バッカ、そんなわけ…!」
オホホと小指を立てて笑う千束は、カウンターをぐるりと回り座敷の方へ。
アオイを抱え上げ、身動きが取れないでいたクルミをようやく解放してやる。
「ほら、アオイ~。フキお姉ちゃんでちゅよ~」
あからさまに腰が引けているフキに、千束は思いのほか真剣な表情を向けた。
「私とたきなの子だよ。抱っこしてあげて」
「…………」
おそるおそるフキの手が伸び、千束から赤子を受け取った。
初めて抱っこされる相手にも関わらず、アオイは「あーうー」と声を上げながら、笑顔で手を動かしている。
「うん、フキ、抱っこ上手じゃん」
おっかなびっくり赤ん坊を抱き続けるフキの表情は、困惑と未知の感情にかき回されている。
それでいて、腕の中の小さな存在を見る目が優し気なことに、きっとフキ自身が気づいていない。こちらもごく自然にフキの口元がゆっくりと綻ぶ。
まさに千載一遇のシャッターチャンスだったが、千束がカメラを構えるより早くハッとフキは正気に返ると、慌てて赤ん坊を返してきた。
返しながら、珍しく顔を赤くした彼女の小声の質問。
「その…この子は本当におまえらの子で…おまえら二人で作ったのか?」
「へ? 女の子同士で子供作れるわけないじゃん。頭大丈夫?」
「…っ! うっせ、そんなの知ってるわバーカバーカ! タンスの角に小指ぶつけて死ね!」
激昂し、フキは席を蹴立てる勢いで立ち上がる。
ミカの「コーヒー出来たぞ」という声に振り向きもせず店を駆けだして行ってしまった。
「どうしたんでしょうね?」
茫然と訊ねてくるたきなに、
「ん? フキは意外と
きっと子供はキャベツ畑で採れるかコウノトリが運んできてくれるって信じてるんだ、なんて千束は思う。
兎にも角にもメモリースティックの中身である。
店の開店を先延ばしに、リコリコ内の全員がクルミ専用マシンの前に集まる。
「妙に固いプロテクトが施してあるな…」
ブツブツ言うクルミだったが、そこは天下のウォールナットだ。たちまち解凍されたフォルダの中には、一つの書式ファイルが鎮座していた。
「E・A・F…? ああ、Exercise Application Formで、演習申請書か」
ファイル名と中身を展開し、クルミは納得したように呟く。
どれどれ、と一緒に大型ディスプレイを覗き込んだ面々の中で、たきなが緊張した面持ちで口走る。
「これって…!」
演習概要:特定施設への緊急襲撃から制圧。及び施設側の防衛、対応能力の確認とその向上。
運用兵力:リリベル一個中隊 非致死性装備を採用。
字面だけ見れば、文字通りのリリベルの演習計画でしかない。
だが、たきなだけでなく、ほぼ全員に緊張が走ったのは、次の行に記載されている目標である特定施設の住所だ。
「東京都墨田区錦糸町―――って、おいおい、これって
振り返ってくるクルミに、アオイを抱えて千束は唇の端を歪めて見せた。
「あちゃー、こう来たか…」
千束の中で、二つの点が繋がって線になる。
もともとリコリコはDAの支部ということになっている。いかに独立採算性な立ち位置を主張しようとも、実際にDAの資金援助を受けている以上、そうみなされるのは当然だ。
ゆえに、支部として襲撃された場合のため、危機管理上ある程度の防衛力や対応力を所持しなければならない、というのは正論であろう。
同時に、リコリコという存在自体がDAにとっては
ゆえに、リリベルの総指揮を執る虎杖が、目の上のたんこぶとばかりにリリベルを使い、千束の抹殺を試みたことが一切ではないのだ。
それも楠木司令とミカの尽力により、どうにか休戦協定のようなものを結べたわけだが。
「鬼灯とかいう司令代理にとって、目障りに思えたのだろう」
ミカがぼそりと呟き、そこで初めて全員に虎杖司令が入院して一時司令職を退いたという情報が共有される。
「司令が変わったからといって、こんな無茶な…!」
訴えるたきなの肩を千束がポンと叩く。
「それがあながち根拠がないとも言えないんだよ、たきな」
千束が語るは先の延空木のオープニング日に起きた一連の事件。
まず、楠木から
吉松を捕らえられていた事情があるにせよ、一度は協力を承諾していたのだから命令無視と取られても仕方ない。
結果として真島と対峙し撃退出来たわけだが、彼の死体は確認されず、行方不明扱いとなっている。
そしてその戦闘がモニターされていなかった以上、こういう見方も出てくるのだ。
―――能力が及ばなかったから仕留めきれなかった。もしくはわざと見逃したのではないか?
そう解釈した面々と鬼灯にとって、虎杖が病床にいるこの状況はまさに奇貨だ。
演習を名目に、リコリコごと潰してしまえ―――。
「面倒臭いなー。いっそみんなでもう一回ハワイへバカンスに行っちゃおうか?」
今度はアオイも行くんでちゅよ~♪ と表情をヤニ下げる千束だったが、先刻の楠木の電話とフキを使った行動に大いに納得していた。
急襲という題目がある以上、抜き打ちで来るだろうリリベルの動向を千束たちに伝えるのは明確な横紙破りとなる。
そうしてまで警告をくれたのは、千束が口にした通りいっそ国外にでも退避していろということに違いない。
ほどなく虎杖司令が復帰すれば以前と同様の状態に戻る。その間に無闇に波風を立てる必要もあるまい―――。
「ちょっと待て。なんだ? 作戦概要書も混じっているぞ?」
ぺちぺちとキーボードを叩くクルミの声に、全員の視線が再度ディスプレイに注がれる。
「ふむ。つまりはこの演習は隠れ蓑で、実際は裏で作戦行動が行われるということか…」
スクロールされていくページ。
読み込んでいくうちに、クルミがぼそりと呟く。
「これって要人救出作戦じゃないか?」
喫茶リコリコの間取り図からさらに画面がスクロールされ、そこに表示された文字の羅列に時間が音を立てて凍り付いた。
救出対象:不当に拘禁されている将来のリリベル候補生