たきなは目を覚ます。
うっすらと輪郭を取り戻していく視界。
上体を起こすと、頭の芯が熱も持ったようにぼんやりとしている。
天井を見上げる。馴染みがあるのに、どこか懐かしい。
それは無理もない。ここしばらくリコリコに泊まり込んで生活をしていた。
『今日くらい、家に帰ってゆっくり寝て来なさい』
リリベルの襲撃を退けて取り合えずの後片付けを終えたあと。
店主であるミカの勧めに名残惜しかったが従った。
帰るなりシャワーを浴び、ベッドに転がり込んだところで記憶がぷっつりと途絶えている。
さすがに戸締りはしっかりしたけれど、こんな無防備に眠りこけたのは何時ぶりだろうか。
―――やはり、疲れていたのかな。
鬼灯司令代理に真っ向から喧嘩を売られ、怒りのままに神経を張りつめていた。
その上で、先晩のリリベルの撃退である。
あの時は無我夢中だったが、冷静に思い返せばよく単独で分隊を鎮圧できたものだ。
『女が最大に鍛えた筋量を素で所持している。それが男だ』
近接格闘の女性師範の言葉を思い出す。
ともあれ当面の危機は去った。
んー、とたきなはベッドの上で大きく伸びをする。
盛大に乱れた髪を撫でつけながら、部屋の中を見回す。
DA本部から異動されたときに借りた部屋。
一応セーフハウスの名目だけれど、当初はベッドと机しか置いていなかった。
食事を摂り、身体の清潔保持に勤め、眠って体力を回復する。
機能性しか重視していない殺風景な部屋。
それで良いし、それで構わないと思っていた自分。
それが今やどうだ。
机の上には漫画や雑誌が山と積まれている。どれもクルミの勧めで購入したもの。
小さなケースは化粧道具で、中に入ったアクセサリーごとミズキがくれた。
そして、30インチにも及ばないBD再生機一体型の液晶テレビ。
その隣に置かれた袋には、幾つものBDが入っている。
袋の表面に張り付けられたメモ帳。
“千束のおススメコレクション PART14♪”
それが視界に入るなり、たきなの頬がじんわりと熱を持つ。
慌ててたきなはパタパタと顔を仰ぎ、ベッド横のサイドボードから着替えとタオル一式を取り出す。
熱を冷まそうとシャワーを浴びて、もろに冷水だったため「ひゃぁああ」と間抜けな悲鳴が出た。
□□□
リコリコに出勤すると、見事なまでに外観は修理されていた。
「…おはようございます」
カランコロンとドアベルを鳴らせば、既に仕事着に着替えた千束が出迎えてくれた。
「あ、おはよう、たきな。夕べは良く眠れた?」
「え、あ、は、はい…」
アオイを抱きかかえる千束を直視出来ない。
「着替えて来ます」
なるべく顔を伏せて従業員用の更衣室へ。
何時もの早着替えを、何倍も時間をかけて済ませる。
終えて、胸に手を当てて、「はー」と息を吐く。
どういうわけか緊張している。
身体の奥がソワソワして、頭もフワフワする。
でも平熱だし、血圧にも異常はない。
わたしは至って健康だ。
「仕事に入ります」
「おう。おはよう」
店長には普通に挨拶できる。問題なし。
「おっはよう! 後でいいから仕込みを任せて大丈夫?」
「はい」
ミズキさんにも平常だ。うん、大丈夫。
「たきな~。ちょっとこっちこっち!」
呼ばれて座敷へと行く。千束の顔を見る。近い。一気に頬が火照る。
「ちょっとアオイの抱っこのレクチャーをお願いね!」
そんなたきなの変化に気づかず、千束は赤ん坊を渡してきた。
赤ん坊を受け取って、たきなはストンと腰を下ろす。
そこでようやく座敷でセカンドリコリスの制服を着たサクラが胡坐をかいていることに気づいた。
「あ、赤ん坊って抱っこしても壊れないっスよね?」
鼻息も荒く手をワキワキさせて、口にする台詞はひたすら物騒だ。
なるほど、これはレクチャーが必要かも、と納得するたきなを置いて、千束はカウンターを回って厨房へ。
千束の姿を追ってカウンターを見れば、そこには赤いファーストリコリスの制服姿が。
「は~い、フキ! 千束スペシャルだよ♪」
「そんなの頼んでないぞ?」
「ん~? 色々心配させた御礼かな?」
にこりと千束は首を傾げ、フキは「はッ」と短く鼻を鳴らす。
「誰もおまえのことなんざ心配するヤツなんていねーよ」
勢いよく千束スペシャルにスプーンを抉りこむフキに、珍しく千束は何も言い返さない。
「…それよか、おまえ聞いているか?」
「なにを?」
スペシャルを半分も片付けただろうか。フキがスプーンで千束の顔を指す。
「なんでも先日の明け方、リリベル本部にタンクローリーが突っ込んだんだとよ」
「へえ、マジ!? 大炎上?」
「ところがタンクの中身は醸造用アルコールだったらしい。盛大に酒浸しにされて職員総出で大掃除だとさ」
「なにそれ? 単なる嫌がらせ?」
きょとんとした千束だったが、たちまち悪戯っぽい顔つきになる。
「はは~ん。ひょっとしてフキたちの仕業かな~?」
「アホ抜かせ。そのころ私たちはちょうど『遠足』帰りだ」
「遠足?」
「それに、犯人は髪の長い細身の女二人だとよ。ファーストの連中が追っかけたらしいがまんまと逃げ切ったらしいぜ」
「ふーん…」
千束が首を捻っていると、相変わらずトレーナーの袖をふりふりクルミがやってきた。
「リリベルの本部に吶喊をするなんて、よっぽど腹に据えかねたことがあったんだろう。なあ、ミズキ?」
「ソ、ソウカモネ?」
言いおいて、そそくさとミズキは厨房に行ってしまう。
苦笑するクルミに、不思議そうに見送る千束とフキ両名。
「うわわ! なんなんスか~ッ!?」
サクラの悲鳴と赤子の泣き声が同時に上がった。
カウンターから上半身を乗り出して千束が顔を顰める。
「ん~、その反応は『S』かな? たきな、お願い!」
「は、はい」
千束に声を掛けられるまで、珍しくぼーっとたきなは座ったままだ。
言われて弾かれたように泣きじゃくる赤ん坊を受け取っている。
「…は~、見事な手際っスね」
サクラの感嘆の声で我に返る。
半ば自動的にオムツ交換を済ませてしまっていたことに気づく。
「そうだよ~。たきなのオムツ交換は名人級、ううん、本当のお母さんレベルなんだから♪」
千束の忌憚のない賞賛。
素直に嬉しい。嬉しくてまた顔が熱くなる。
なんで?
「…オムツを捨ててきます」
顔を伏せ、小走りで汚れものを抱えて店の奥へ。
アオイ専用のポリバケツに汚物を投げ捨て、冷水で手を洗う。
少しだけ頭も冷えて―――先日のことを思い出す。
「ねえ、たきな」
「はい」
「結婚しよっか」
「…はい?」
思わずたきなは千束の顔を見つめていた。凝視と言っても良かった。
にも関わらず、千束はニシシといった笑顔を浮かべている。そこには特に気負いも感じない。
でも『結婚』って言ったよね?
絶対に聞き間違いではない。
でも結婚って、そんな…。
「えーとさ、アオイのことなんだけど」
「ひゃ、ひゃい!」
裏返った声がたきなの口から飛び出す。
「結局のところ、クルミに戸籍を作ってもらっても、孤児であることには変りがないと思うんだー」
千歳は語る。やはりアオイは不安定な存在であると。
「だったら、誰かと養子縁組をしちゃって親子関係にしてしまえば良いんじゃないかな?」
そうすれば、今回のようにリリベルから奪取される名目を潰すことが出来る。
仮に奪われたら、今度はこっちが誘拐だー! と公明正大に警察や国家権力を頼ることが可能だ。
「だから私も色々調べたんだけどさ。独身者だと20歳で成人するまで養子縁組できないんだって」
そこで、千束はたきなの手を取った。
なぜか腰が引けているたきなに気づかず、千束は力説を継続。
「でも、結婚すれば、18歳でも養子縁組が出来るんだよ! 成年擬制っていって、婚姻で成人に達したとみなされるんだって! 知ってた?」
「い、イイエ…」
知りませんでしたよ。千束がそんなことを考えていることも何もかも。
手を振りほどけない。さらにギューッと力を込めて、笑顔を向けて来る千束からも目を逸らせない。
「だから、ね? たきな、私と結婚しよ!」
「わ、わたしたちは女の子同士ですよ!?」
「その考えは時代遅れだよ~。今や世界のLGBT! 日本でも同性婚は認められてるんだってば!」
ますます顔を近づけてくる千束に、たきなの思考が追い付かない。
違います! 制度的な問題の話じゃないんです! もっと、こう、なんというか…!
そんなたきなの混乱を見透かしたのだろうか。千束がふっと真顔になる。
「第一、アオイのことだよ。もし仮に、アオイを私だけの子供として育てるって言ったら、たきなはどうする?」
「え…?」
頭の芯に氷を押し当てられたように、一気に思考が冷める。
「そ、そんなの…!」
リコリコの前に置かれていたのを、千束が見つけた。
でも、名付け親は自分で。
ミルクを飲ませて、おしめを替えて、一緒にお風呂にも入れて…!
柔らかい手。抱きしめていると汗ばむほどの体温。
縋りついてくる手。全幅の信頼を持って慕ってくる命の存在。
苦労した記憶もある。でも、それ以上にあの赤子は、たきなにとっての特別な存在になってしまった。
「逆に、アオイがたきなだけの子になるなんて、そんなの私は嫌だ」
きっぱりと千束が言う。同時に、彼女が言っていたことを、たきなは完全に理解出来た。
ならば、二人の子供とすればいい。
それこそが、たった一つの冴えたやり方。
「だから、ねえ? どうかな?」
小首を傾げる姿がなぜか断然可愛く見えてきて、たきなは混乱する。
落ち着け。
これは論理的帰結の問題だ。
きっと感情の問題じゃない。
だから、落ち着け…!
「それにね、私はたきなのことが大好きだし!」
満面の千束の笑み。
ああ、もう。
反則でしょう、それは。
論理もなにも崩れ落ちて。
「ねえ? たきなは私のこと、好き?」
また小首を傾げている。
いちいち可愛いんですよ、千束は。
だからやめてください死んでしまいます!
「…もしかして、嫌いだったのかな?」
しょぼんとなる落差に、胸の動悸が跳ね上がる。
ええ、ええ。嫌いでしたよ。
まったくとらえどころのないフワフワとした人格で。
そのくせ、物凄く距離を詰めてきて。
なのに、バカみたいに腕が立って。
本当に、バカ。
バカみたい…。
ゆっくりと深呼吸して、胸の鼓動を落ち着けて。
たきなは首を振ってみせた。口を開けば、自分でも言葉を抑制できる自信がなかったから。
すると、千束が抱き着いてくる。
「嬉しい~! あ、将来的に、たきなが誰が男の人を好きになってもいいからね!」
―――― 一瞬で、呼吸も脈拍も正常値に落ち着いた。
顔を離す千歳をジト目で見てしまう。
「あー、その顔! やっぱり私のこと嫌いなんでしょ!? たきな~、教えて! 直すからさ~!」
「…そういうところですよ」
はふー、とたきなは熱い呼気を漏らす。
まるで放熱だ、と思う。
仕事着の上から胸を触る。
千束と違った天然ものの心臓は、今日も元気に動いている。ただそのステップは乱れがち。
ありていにいえば、千束のプロポーズに対し、たきなの返事は保留。
そもそも常識的に考えてすぐに返答できる問題でもないし。
だけど、時間を置けばおくほど、養子縁組のロジックに穴は見当たらない。
一方で、千束に対する自分の感情は―――。
クルミの勧めで読んだ本。
男の子同士が恋愛する内容もあった。
千束に勧められて見たBDの海外映画でも、そんな描写もあったような気がする。
思っていたより、世の中は同性愛の寛容になってきているらしい。
いやいや、そうじゃない。それも重要だけど。
恋愛ってなんだろう?
リコリスとして生きる。国家の安寧のためにその身を捧げる。
実際に殉職した仲間を見送ってきたたきなは、自身を暴力装置だと認識していた。
そこに余計な感情が介在する必要はない。
だから、知らなかった。
感情ですらない。恋とか愛という概念すら良くわからなかった。
皮肉にも、DAを追い出されてからそれらに触れる機会を得た。
だが、しょせん娯楽だ。作り物の世界を彩る話のスパイス。
それでも、実際に世の男女は、そういう感情を突き合わせているのだろうか。
どちらにしろ自分には無縁の世界。
修羅の世界に生きる身にとって、平和な世界の話など別次元と同じだ。
そう決めていた。そう思っていた。
思っていたのに―――。
たきなはギュッと服の上から胸を掴む。
落ち着け、落ち着けと必死で念じる。
こんな風に感情をかき乱されるのは嫌だった。
だってこんなことじゃ、緊急事態に冷静に対処できない。
「あ、たきな、ここにいたのね。忙しくなってきたんで仕込みお願いね」
ミズキに声を掛けられた。
「はい」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
身体もスムーズに動く。良かった、大丈夫だ。
接客、会計、お見送り。
勤めて労働に身を任せ、あっという間の閉店時間。
「よっしゃ! 今日も閉店後のボードゲーム大会、始めるぞ!」
残った常連客たちの前でクルミのアナウンス。
「おー!」とアオイの小さな手を一緒に突き上げる千束をなるべく見ないようにしながら、たきなはレジ閉めをこなしている。
「ん? ほら、たきなも早く来なよ~」
「はいはい、いま行きますから」
わざとぞんざいに応じる。
結局、こちらも着替えと同様に、いつもの数倍も時間をかけてレジ閉めを終えた。
ゆっくりと手を洗い、襷を解いて座敷へと向かう。
そこには常連たちに囲まれている千束がいた。
抱える赤ん坊の手にダイスを持たせ、転がさせている。
上がる歓声。弾ける笑顔。
とても尊い、尊すぎる光景。
それを護るために戦った。
千束の隣にいる自分を幻視する。
一緒に赤んぼを抱えて笑っていた。この先もずっと笑っていけたらなと思う。
「ん?」
千束がこちらに気づく。
「なにしてんのさ、たきな。早く交じりなよ、ほら!」
アオイをクルミに預け、千束が座敷から走ってくる。
手を掴まれた。
感情の限界は決壊した。
素直な思いはもう止められない。
「千束」
「ん?」
「そ、その、不束ものですが、末永くよろしくお願いします」
たきなが真っすぐ頭を下げる。
「え?」と硬直した千束だったが、たちまち凄い笑顔になる。髪がぴんぴんと逆立つ。
「やった~! 嬉しい嬉しい嬉しい!」
「ちょ、千束!」
たきなを腰から持ち上げて、例によってのメリーゴーラウンド。
「私はたきなが大好きだよー!」
「わ、わたしだって千束のことが大好きです!」
半ば叫ぶ。そうしなければ胸から噴き上げてくるこの
この騒ぎに、なんだなんだ? と常連の視線が集中。
たきなをおろし、その身体をツインテールごと抱きしめて千束は宣言。
「私とたきなは結婚します!」
一瞬の沈黙。
巻き起こる歓声とともに常連たちの反応は。
「うっそ~、マジですか!?」
「これも時代ですかね」
「俺というものがありながら…!」
「ヤバイ、創作意欲がヤバい! スケブどこ、スケブ~!!」
それぞれの感想を漏らしたあと。
そろって口にしてくれるのは「おめでとう!」
そして、そんな光景に唖然とする同僚が一人。
「あたしを差し置いて、二人で結婚…だと!?」
「ははは、ミズキ、先を越されたな」
「…もうアンタでもいいわ。あたしの嫁に来なさい」
「悪いがボクは年上は趣味じゃないんだ」
「キサムァッ!」
全てのやり取りを眺めて、ミカはそっと涙を拭っていた。
突然、赤ん坊の泣き声が響く。
「おっと、ほったらかしてごめんな」
慌ててクルミが抱き上げて、アオイを二人に渡してくる。
千束とたきなに抱きかかえられると、赤子はピタリと泣き止んだ。
それどころか笑いながら両手を伸ばしてくる。
右手は千束の指を。
左手はたきなの指を。
小さな両手ががっちりと掴む。
一緒にアオイの顔を覗き込む。
優し気に二人の子供を慈しんだあと。
千束はたきなに笑いかける。
「これからも、ず~~~っと相棒だよ、たきな!」
「はい!!」