その年の十二月、リンは隣町の病院でアルバイトをしていた。
といっても、医療関連のバイトではない。
リンはキャンプの資金を貯めるためによくバイトをするが、概ね本に関係した仕事を選ぶようにしている。
その病院は国立大学の医学部に付属する大きな病院で、医療施設だけでなく、コンビニやレストランなど、来院者や入院患者向けの施設が充実しているのだ。
そのひとつとして図書館があり、そこが短期のアルバイトを募集していたのである。
大学病院の図書館は、リンがよく働いている最寄り駅近くの本屋と比べ、通勤に時間がかかるのが難点だ。
しかし、交通費は出るし、時給もすごく良い。
期間は二十三日から二十九日までの一週間で、給料は最終日に支払われる。
年越しキャンプを計画しているリンにとって、実に好条件のバイトだった。
ただし、仕事はいつもの本屋とは比べ物にならないほど忙しかった。
リンに与えられた仕事は、貸出・返却の手続きをし、返却された本を本棚に戻し、本を探している人がいたら案内すること。
やることは高校の図書委員とさほど変わらないが、大病院だけあってとにかく利用者が多いのだ。
まあ、忙しくなければわざわざ臨時のバイトを雇うこともないのだが、普段の本屋や図書委員と同じようにカウンターでのんびり本を読みながら……などと考えていたリンは、自分の甘さを思い知ることとなった。
――よし、これで終わりっと。
返却の本をすべて返し終えたリンは、本棚にきれいに並んだ本を見て満足げに頷いた。
閉館まであと十五分。リンは、思わずニンマリと笑みを浮かべてしまう。
今日はバイト最終日で、仕事が終わればお給料をもらえるのだ。
それを資金に、明日は年越しキャンプに向けての買い出しだ。
この一週間は本当に忙しかったが、その分お給料に反映されているだろう。
ちょうど欲しいキャンプグッズがあるから買ってしまおう、キャンプ飯もいつもより豪勢にしよう――リンは明後日からのキャンプに心を躍らせながら、閉館の準備をし始めた。
カウンターに戻り、備品を片づけたりゴミをまとめたりする。
一〇分前になったら館内の利用者にも声をかけなければならない。
といっても、大晦日も近い二十九日の閉館間際にもなると、さすがに利用者はほとんどいない。
窓際の席で、ニット帽をかぶった女の子が一人、本を読んでいるだけだった。
十歳になるかならないかというくらいの少女だ。
リンがバイトをしたこの一週間、毎日お昼過ぎにやってきて、閉館まで本を読んでいた。
いつも部屋着を着ているから入院患者だろう。
――あの子、お正月も病院にいるのかな。
ふと、そんなことを思う。
多くの入院患者が年末年始を自宅で過ごすことを望むため、この時期は外泊希望をする人が多い、と、看護士さんが話していた。
よほどのことがない限り許可をするとも言っていたし、今日になって仕事が落ち着いたのはそれが原因だろう。
少女は毎日来館していたくらいだから重篤な状態ではないように思えるが、外泊の許可が下りないのなら、実は重い病気なのだろうか。
少女は机の上に広げた児童書をじっと読んでいる。
その顔には、幼い子どもには似つかわしくない、微妙な
リンが小学生の頃はワクワクしながら本を読み進めたものだが、少女はページをめくるたびに表情に
まるで本に魂を吸い取られているかのようだ。
なんの本を読んでいるのだろう、リンが気にしていると、少女は不意に顔を上げ、窓の外を見た。
この図書館は二階にあり、窓からは病院の中庭が見渡せる。
大病院だけあってかなり広く、運動場や芝生やベンチなどが整備され、ちょっとした公園のような雰囲気だ。
もっとも、年末の夕方、寒風吹きすさぶ中庭に人の姿は無い。
窓のすぐそばに、ほとんど葉を散らした木が一本、寒々しい姿で立っているだけだ。
少女はその木をしばらく見つめた後、本当に魂が抜けるかと思うほどの深いため息をついた。
さすがに心配になってきたリン。
ちょうど閉館を告げるために声をかけなければいけない時間だ。
リンは受付カウンターを出ると、少女に「こんにちは」と声をかけた。
「何を読んでるの?」
リンが訊くと、少女は少し戸惑ったような仕草で本の表紙を見せた。
それは、オー・ヘンリーという作家の『最後の一葉』だった。
いや病人がそんな本読むな、と、リンは思わず心の中でツッコミを入れる。
これがなでしこや千明たちが相手だったら、間違いなく声に出してツッコんでいただろう。
『最後の一葉』は、小学校や中学校の教科書に載ることもある短編小説だ。
重い病気に
児童書や絵本でも多く出版され、マンガやテレビのコントなどでパロディにされることも多い、世界的に有名な作品だ。
ちなみに原作で主人公が見るのは家の外壁を這う蔦の葉だが、児童書や絵本では一本の木に置き換えられることが多い。
少女が読んでいる本の表紙にも、ベッドに上半身を起こした主人公が窓の外の木を見ている絵が描かれていた。
「それ、あたしも読んだことあるよ」
リンはそう言った後、続ける言葉に迷う。
普段ならば「いい話だよね」と言うだろうが、今の状況ではそれが正しいのかが判らない。
リンが言葉に詰まっていると、少女はまた窓の外に視線を移した。
そして。
「あたしも、あの木の葉っぱがぜんぶ散ったら、死んじゃうのかな……」
表情よりもさらに
やっぱりそうなるか、と、リンは心の中でため息をつく。
感受性の強い子どもが入院中に最後の一葉なんて読んだら、そう思ってしまうのも仕方がない。
そんな本を病院の図書館に置いた担当者にクレームを入れたい気分だ。
「……入院して長いの?」
リンが訊くと、少女は小さく頷いた。
小学校に入る前から、ずっとこの病院にいると言う。
病名までは教えてくれなかった――というよりは、少女も知らないのかもしれない。
しかし、室内でもニット帽をかぶったその姿から、なんとなく想像はできた。
「――お正月が終わったら、大きな手術を受けるの」
と、少女は続けた。
両親や先生や看護師さんたちは、その手術が成功したら病気は良くなる、と言っているそうだ。
しかし、失敗したらどうなるのかは、少女が訊いても教えてくれない。
どこか困ったような笑顔で、「大丈夫、きっと成功するから」と言うだけだ。
きっと成功する――「絶対に成功する」とも言ってくれない。
そんな様子から、子供心にも難しい手術だと悟っているのかもしれない。
少女は「だからね」と言って、木を見つめる。
「あたしも本と同じように、あの木の葉っぱがぜんぶ散ったら、死んじゃうかもしれないの」
リンも窓の外を見る。
なんの木かは判らないが、寒さも厳しくなったこの時期、残っている葉は片手で数えられるほどだ。
よほど根性のある葉であっても、そう長くはもたないだろう。
リンは少女に視線を戻した。
葉が全て散ったら死ぬ……少女がどこまで本気で信じているのかは判らない。
ただ、「そんなの、ただのお話だよ」と言っても、大した励ましにはならないだろう。
それに、作品自体を否定してしまうのも違う気がする。
『最後の一葉』は、決してバッドエンドではないのだから。
『最後の一葉』では、病に侵された主人公と同じアパートに住む老画家が、蔦が生えた壁に極めて精巧な葉の絵を描くのだ。
本物と見まごうその絵は、どんなに強い風雨にさらされてもけっして散ることはなく、それを見た主人公は生きる気力を取り戻し、やがて全快を果たすのだ。
恐らく、少女は本を最後まで読んでいないのだろう。
結末を教えてあげれば、少しは元気になるかもしれない。
しかし、本好きのリンとしては、少女がまだ読んでいない本のネタバレするのは気が引けた。
一瞬、本のように絵を描いてみるか、とも思ったが、リンに本物そっくりの葉の絵を描く技術は無いし、そもそも木のそばには絵を描くための壁が無い。
だから。
「――冬になると木の葉が落ちる理由、知ってる?」
その理由を、教えてあげることにした。
突然の話に、少女はきょとんとした顔になったが、やがて小さく首を振った。
リンは続けた。
「人間がご飯を食べて栄養を摂るのと同じように、木とか花とかの植物は、葉っぱから太陽の光を吸収して栄養にしているの。
でも、たくさん葉っぱを付ければいいってわけじゃなくて、たくさん葉っぱが生えたらそれだけ栄養もたくさん必要になるから、バランスが難しいんだよね。
特に、冬になると昼間の時間は短くなるし、太陽の光も弱くなるから、充分な栄養を得られなくなっちゃう。
太陽の光を吸収して得られる栄養よりも、葉っぱを広げるために使う栄養の方が多くなっちゃうわけ。
それじゃあムダだから、冬になる前に、木は思いきって葉っぱを全部落しちゃうの」
少女にはまだ難しい話かもしれない。
説明も上手にできていないかもしれない。
それでも、少女は真剣な表情で、リンの話を聞いてくれている。
リンはさらに続ける。
「今は、あんなふうに葉っぱがほとんど落ちちゃって、寂しい姿に見えるかもしれないけど、決して、死んでいるわけじゃないの。
春になって太陽の光が強くなれば、また葉っぱを付けて、元気な姿を取り戻すわ」
リンは「だからね」と言って、少女の目線にしゃがむ。
そして。
「あなたも、春になる頃には、きっと元気になってるわ」
しっかりとその目を見て、最後の
中庭に風が吹いた。残りわずかだった葉が、また一枚散る。
でも、リンはそれを悲しいとは思わない。少女の顔にも、さっきまでの憂いは、もう無い。
館内に閉館を告げる音楽が流れる。
少女は病室に戻らなければいけない。
リンのバイトも、これで終わりだ。
「――ありがとう、お姉さん」
少女は笑顔で言った。ようやく、子どもらしい無邪気な表情が浮かんだ。
そして、少女は病室へ戻って行った。
お給料を受け取り、帰り支度をしたリンは、中庭に出てみた。
相変わらずひと気は無く、暗くなってさらに寂しさを増したように見える。
リンは木を見上げた。
枝越しに入院病棟が見える。大病院だから部屋数は多いが、外泊患者が多いからだろうか、明かりが点いている部屋はまばらだ。
その明るい窓のひとつに、あの少女はいるのだろうか。
「――がんばれよぅ」
リンの声は、白い息と共に中庭の夜空に舞い上がった。
冷たい風が吹きつけた。
リンは「うう、寒」と身を震わせると、ダウンジャケットのポケットに手を入れ、マフラーに顔をうずめるようにして、中庭を後にした。
年が明け、春。
リンは、縁があってまた同じ図書館でバイトをすることになった。
貸出・返却の手続きをし、返却された本を本棚に戻し、本を探している人がいたら案内する。
年末と同じ仕事を、同じようにやる。
年末と同じく利用者が多く、同じように忙しい。
ただ、ひとつだけ違うのは――窓辺の席に、あの少女の姿が無いことだった。
冬には毎日姿を見せていた少女は、アルバイト二日目も、三日目も、最終日になっても、結局姿を見せることはなかった。
手術は成功したのだろうか? 少女はどうなったのだろうか?
リンが知ることはできない。
リンは少女の名前も、病名も知らない。
本の貸し出し履歴を見れば名前くらいは判るかもしれない。
だが、大きな病院だ。
看護士さんに訊いても名前だけでは判らないかもしれないし、判っても個人情報管理には厳しいだろうから教えてくれないかもしれない。
今のリンに、少女がどうなったのかを知る術は無い。
あの日少女が読んでいた『最後の一葉』は、児童書の本棚にひっそりと並んでいた。
少女が本を最後まで読んだのかどうか――それすらも、判らない。
それでも、リンは窓の外を見つめ、笑みを浮かべた。
あの冬、枯葉数枚を残すだけだった木は、春を迎え、薄桃色の花を満開に咲かせていた。
冬には気が付かなかったが、あの木は桜だったのだ。
そして。
冬にはひと気が無かった中庭は、多くの人でにぎわっている。
シートを広げお弁当を食べる家族、ベンチに座って本を読む女の人、芝生でお昼寝をしている男の人、追いかけっこをする子供――みんな、笑顔で春を謳歌している。
きっとあの少女も、どこかで同じように笑っているだろう――そう信じることにした。
強い風が吹き渡った。
枝が大きく揺れ、桜吹雪が舞う。
その一枚が、開けっ放しになっていた窓から、室内に入って来た。
リンが手を出すと、誘われるように、手のひらに舞い降りた。
春の日差しをふんだんに浴びた桜の花びらは、ほんのりと温かい。
リンは花びらをやさしく握り、目を閉じた。
浮かび上がった少女の顔には、桜よりも美しい笑顔が花開いていた。
来年も、再来年も、その先も、ずっと――。
桜は、満開の花を咲かせるだろう。