店先のマガジンラックを片づけていたら、懐かしいお客さんが通りかかった。
リンがよくバイトさせてもらっている、最寄り駅からほど近い小さな本屋でのことだ。
閉店時間となり、片づけをしていたら、前の道を通りかかったのだ。
リンよりもひとまわり年上の女の人で、少し前までは、定期的にこの店を利用していた。
しかし、女性は店内に入ることはなく、リンと目を合わせることもなく、そのまま足早で歩いて行った。
少しさみしい気もしたが、特に親しい間柄という訳でもなく、向こうはリンのことなんて覚えていないかもしれない。
まあそんなものだろう、と思い、あまり気にすることなく作業を続ける。
マガジンラックを片付け終えたら、今日のお仕事は終わりだ。
――そう言えば、
片付けを終え、店内のマンガ売り場を見る。
最も目立つ
深夜ドラマ化されたのをきっかけに、現在じわじわと人気が出ているグルメ漫画だ。
店長手書きのポップも添えられているから、この店でも販売に力を入れているようだ。
それは、いま店の前を通り過ぎた女性客がよく買っていたマンガだった。
ドラマ化されるずっと前の話で、いまほどの人気はなかったにも関わらず、新刊は毎回予約をし、必ず発売日に買っていた。
それが、今日は素通り――というより、もう一年以上も来店していない。
もう読まなくなったのか、別のお店で買うようになったのか、電子書籍に切り替えたのか……。
なんにしても、やはりちょっとさみしい。
リンが初めてその女性を接客したのは、店でバイトを始めて間もない頃だった。
最初はそのグルメ漫画をよく買っていたが、半年くらいして、調理師や管理栄養士など、食の資格に関する本を買うようになったのを覚えている。
料理人になるのかな、と思った。
代わりにマンガは買わなくなり、それから半年後くらいには、来店することもなくなった。
「――
奥で売り上げの計算をしている店長の声に「はーい」と返事をする。
リンは仕事を終えると、その日はそのまま帰宅した。
その後も、その女性客がお店に来ることはなかった。
もちろん、リンも毎日このお店にいるわけではない。
むしろバイトをしていないことの方が多いので、リンが働いていない時間に来ている可能性もある。
そう思い、何気なく店長に訊いてみた。店長もその女性客のことは覚えていたが、やはり来ていないらしい。
ただ、閉店時間ごろになると、店の前を通るのを、何度か見かけることはあった。
あの日と同じように素通りするだけであったが。
さらに一年が過ぎ。
閉店時間が近づき、そろそろ店頭のラックを片づけようかな、と思っていると、カランカラン、と、入口のドアベルが鳴った。
入って来たのは、あの女性客だった。
ちょっとびっくりしたリンは、「いらっしゃいませー」の声が上擦ってしまう。幸い、女性客は特に気にした様子はない。
女性客はまっすぐにマンガのコーナーへ向かう。
エンドの平台で足を止め、しばらく何かを探すように見つめた後、一般棚の方へ回った。
例のグルメ漫画を探しているのだろうか。
一年前は人気だったあのグルメ漫画は、ドラマの終了と同時に一気にブームが去っていった。
マンガの連載自体はまだ続いており、少し前に最新巻の十二巻が発売されたはずだが、かつてのエンドの平積みから一転、今は一般棚に背表紙を向けて並べる『棚差し』という陳列方法に変わっている。
マンガ家にしてみれば手のひらを返されたようなものだが、悲しいかな、世の中そんなものである。
しばらくして、女性客は例のグルメ漫画を持ってカウンターに来た。
七巻から十二巻まで――ちょうど、女性客が買わなくなった以降に発売されたものである。
本を受け取ったリンは「おひさしぶりですね」と、声をかけた。
女性客は少し驚いた顔になった。
「あたしのこと、覚えてくれてたんですか?」
「はい。最近来られないな、と思ってたんです。このマンガも、少し前にドラマ化されて、ちょっとしたブームになったのに、もう読むのやめちゃったのかと思いました。お仕事、お忙しかったんですか?」
「そうね……少し前までは、本当に忙しかった」
そう言って、女性は遠くを見るような目になった。
女性はいま、隣町の繁華街にある小さなレストランで働いているという。
リンが思っていた通り、やはり料理人になっていたのだ。
「マンガの影響で目指してみようと思ったんだけど、思っていたよりずっと厳しい世界でね。とてもじゃないけど、マンガを読んでる暇なんてなかった。お店が終わっても、残って次の日の下ごしらえとかをしないといけないし、帰っても勉強することが多いから、寝る暇もなかったくらい。でも、ここ一年くらいは、早く帰れるようになったの」
それは、ちょうどリンが店先で帰宅する女性を見かけるようになった頃だ。
「それでね」
と言って、女性は続ける。
「今日、このお店の前を通ったとき、そう言えばあのマンガ、しばらく読んでないな、って、不意に思ったの。ちょうど明日お休みだし、久しぶりに読んでみたくなっちゃって」
仕事に慣れて、時間にも心にも余裕ができた、ということだろうか。
どんな本でも、読むには時間が必要だし、心に余裕が無いと、読んでいても楽しくない。
リンはいつでもどこでも本を読むタイプだが、最高に楽しいのは、なんといってもキャンプ先でひとりのんびりと読むときだ。
この女性の明日がそんな日になってくれると、リンもちょっとだけ嬉しい。
「ありがとうございました」
女性は本の精算を済ませると、「また来ます」と、笑顔で帰っていった。
「――志摩さん? そろそろ閉店の作業、はじめて」
奥からの店長の声に、リンは、「はーい」と返事をする。
――次のキャンプ、なんの本を読もうかな。
リンは候補を考えながら、店頭のラックを片づけ始めた。