その小説は、『神の手が
読者に美しい情景を思い描かせる優美な文体と、切なさとあたたかさの狭間を漂うストーリーがウリの恋愛小説だ。
発売されたのは十年以上前で、当初はあまり話題にならなかったものの、SNSなどでじわじわと話題になり、読書好きで知られる人気芸能人がテレビで紹介したことで一躍注目を浴びるようになった。
その際、紹介した芸能人が「この本の内容を一言でいうと『神の手が紡ぐ物語』です」と表現し、それがそのままキャッチコピーとなったのである。
このキャッチコピーには、作家の執筆スタイルが強く影響している。
作者は八十歳を超える年齢の老作家で、パソコンでの執筆が主流となった現在でも手書きで執筆しているというのだ。
原稿用紙に万年筆といういまどきの若者にはあまり馴染みが無いスタイルが、『神の手が紡ぐ物語』というイメージにピタリとハマったのだ。
話題となったのをきっかけに、リンもこの小説を読んでみたのだが、すぐにドハマりしてしまった。
その作家が書いた小説はすぐに買い揃えて読破したし、バイト先の本屋でも、目立つところに陳列したり手書きのポップをつくったりして積極的にアピールしている。
今ではすっかりひいきにする作家の一人となっていた。
リンがその作家をひいきにする理由がもうひとつある。
その作家の孫娘に当たる少女が、なんと、リンと同じ高校の同級生で同じ図書委員をしているのである。
『第三の神の手』と、リンは密かに名づけている。
その少女自身は読書好きではあるが小説を書いているような話は聞かないし、作文で賞を取ったというような話も無い。
文才があるかどうかは不明だが、それでもリンが少女に『第三の神の手』なる呼び名を与えたのには理由がある。
リンは、その少女の手が好きだった。
例えば、本の貸し出し作業の際、本を渡すときの手に、リンは思わず見とれてしまう。
返却された本を棚に戻すときの手の動きを、リンは思わず目で追ってしまう。
パソコンで本を検索するときの指の動きを、リンは目に焼き付けようとしてしまう。
そして、同じ本を取ろうとしたときや、狭い場所ですれ違うときなどに、不意に手が触れたりすると、まるで恋人と初めて手を繋いだかのようなときめきがある。
……もっとも、そのたびに、いやそんな経験ないだろ、と、自分でツッコミを入れるのだが。
ともかく、リンはその少女の手が好きだったのだ。
これは、『神の手が紡ぐ物語』が話題になるよりも前、少女と図書委員を務め始めた頃からだった。
その日も、リンは少女が返却の作業をする手に見とれていた。
カートから本を取り、棚に戻す。別の棚へ移動し、また本を取り、棚に戻す。
ただそれを繰り返しているだけなのに、思わず感嘆のため息を漏らしそうになる。
少女の手は、色白でシミひとつ無いし、指の一本一本の長さと太さのバランスも良い。
その見た目が単純に綺麗というのはもちろんだが、その動き方に、なんともいえない艶やかさがあるのだ。
まるで、一流の音楽家がオーケストラを指揮するような美しさ、あるいは、山の奥深くをたゆたう清流のような美しさ、それでいて、満天の星空を横切る一筋の流れ星のような美しさ――いろいろ矛盾しているな、と、リン自身も思う。
正直、どういう風に綺麗なのか、うまく説明することはできない。
他の人が見たら普通の手に見えるような気もする。
それでもリンは、その少女の手を、本を棚へ戻すときの仕草を、美しいと思うのだ。
リンがじっと見とれていると、その視線に、少女が気付いた。
「なに? 志摩さん」少女はわずかに首を傾けてほほ笑んだ。
「あ、ええっと――」
リンは慌てて視線を外した。
なんとなく見とれていた、なんて言うと、変に思われるかもしれない。
なんとかごまかせないか、と、自分の受け持ち分のカートを見ると、ちょうど、『神の手が紡ぐ物語』の本があった。それを取って、少女に見せる。
「これ、この前また読み返してみたけど、やっぱりすごく良いよね」
少女は驚いたように目を丸くした後、
「また読んでくれたんだ。ありがとう」
と、嬉しさと照れくささが混じったような笑みを浮かべた。
「おじいちゃん、きっと喜ぶと思う」
リンも笑顔を返しながら、内心ほっとする。
どうやら変に思われずにすんだようだ。
「すごいよね。身内に作家さんがいるなんて」
リンが本を棚に戻しながら言うと、少女は
「そんなことないよ。すごいのはおじいちゃんで、あたしは別に」
と、言葉では否定しながらも、顔はまんざらでもない様子だ。
「おじいさんの本、もっと読みたいな。ねえ、新作の予定とか、ないの?」
リンが身を乗り出して訊くと、少女は
「あ、えーっと……」
と言葉を詰まらせ、少し困ったような顔になった。
「あ、ゴメンゴメン。そんなこと、わかんないよね」
リンはすぐに謝る。
発売前の作品の情報など、もし知っていても話せるわけがないし、そもそも作家自身が話したりもしないだろう。
SNS等が普及した現代、出版業界に限らず情報管理は厳重になっている。
リンも本屋でバイトしている立場上、ときどき解禁前の新作の情報を知ることがあるが、そんなときは店長から
「絶対に情報を漏らしちゃダメだよ」
と強くクギを刺され、
「もしうちから流出なんてことになったら、こんな小さなお店、すぐに干されちゃうから」
と、冗談とも本当とも知れないことを言われるくらいだ。
「あ、ううん、そうじゃないの」
少女は手のひらを振った。
「まあ、そういう話をおじいちゃんがしてくれないのは確かだけど……おじいちゃんね、もう長く病院に入院してて、ずっと、小説は書いてないんだ」
「え!?」
図書室であることも忘れて思わず大きな声を上げてしまったリンは、慌てて口を押えた。
「……知らなかった。ゴメン、なんか、不謹慎なこと言っちゃって」
「いいの。あたしも、言ってなかったし。
それに、入院って言っても、重篤な状態じゃないの。
お見舞いに行ったら普通にお話しするし、病院の中だけだけど散歩もするし、ごはんもよく食べるそうだから」
「そうなんだ。早く良くなるといいね」
「うん。
でも、新作を書くことは、もう無いと思う。
手書きで小説書くのはかなり体力を消耗するって、おじいちゃん言ってたし。
まあ、普通の会社員だったらとっくに定年退職してる歳だし、仕方ないと思う」
「そっか……」
貸出カウンターから、「すみませーん」と、生徒が呼ぶ声がした。
少女は
「あ、あたしが行くよ」
と言って、カウンターへ戻った。
生徒が持ってきた本を受け取り、貸し出しの作業をする少女。その手の動きに、リンはまた思わず見とれてしまう。
いかんいかん、このままでは恋に落ちてしまう、と首を振って邪心を振り払う。
少女の祖父の新作がもう読めないかもしれないのは残念だが、少女が言った通り、こればっかりは仕方のないことだ。
家族のためにも、少しでも長生きしてほしいな――そんなことを考えつつ、リンは本を返す作業に戻った。
このとき、少女が祖父の入院の話をしたのは、彼女なりに予感があったのかもしれない――と、あとになって、リンは思う。
身内に不幸があり、少女がしばらく学校を休むことになったのは、それからわずか一週間後のことだった。
少女の忌引を伝えたのは図書室担当の先生だった。
身内とは誰か、具体的には言わなかったし、もしかしたら先生自身も聞かされていないのかもしれない。
彼女の祖父とは限らないが、どうしてもそうじゃないかと思ってしまう。
気になるが、リンの方から連絡をしてそれを確認するのはためらわれた。
どうしようか迷っていると、少女の方から連絡があった。
リンが心配した通り、亡くなったのはやはり作家のおじいさんだった。
詳しい話を聞きたいという気持ちもあるが、その日はお悔やみを伝えるだけに留めた。
それから、一週間が経った。
『神の手』と称された老作家の訃報はテレビや新聞・週刊誌などでも大きく報じられ、リンがバイトをする駅近くの小さな本屋でも、急遽追悼のコーナーが設けられた。
少女はずっと学校を休んでいる。そろそろ連絡してみようか、いやまだ早いかな、と、迷いながら追悼コーナーに本の補充をしていると、カランカラン、と、ドアベルが鳴った。
振り返り、いらっしゃいませ、という前に、その顔を見て思わず
「あ」
と声を上げてしまった。来店したのは、図書委員の少女だった。
少女も
「あれ?」
と、驚いた顔になる。
「そうか。志摩さん、このお店でバイトしてたんだったね」
「うん、ときどきだけどね」
そう言った後、リンは声のトーンを落として続ける。
「おじいさん、残念だったね」
「うん。でも、歳も歳だし、長生きした方だよ」
意外とさばさばした様子で、少女は答えた。
あまり落ち込んでいないようで良かった……と言っていいのかはリンにも判らなかったが、まあ、落ち込んでいても、死んだおじいさんも喜ばないだろうから、いいのかもしれない。
追悼コーナーの前で少しおじいさんのことを話した後、リンは
「それで、何か本買うの?」
と訊いた。
「探してる本があるなら、手伝うよ?」
少女は首を振った。
「今日は本じゃないの。原稿用紙って、ある?」
「原稿用紙? あるけど」
この本屋では文房具も取り扱っている。リンは売り場へ案内すると、一種類だけ置いてある原稿用紙をひとつ取った。
「これでいい?」
「うん、ありがとう」
リンはカウンターへ向かいながら。
「作文の宿題とか、あったっけ?」
と訊いてみた。
少女はまた首を振ると、
「うーん」
と少し困ったような顔になった。
何か事情がありそうだ。
「まあ、志摩さんなら、いいか」
少女は一度頷いた後、続けた。
「ちょっと、小説、書いてみようと思って」
「ええっ! すごいじゃん!」
「そんなことないって、まだ書きはじめてもいないんだから」
少女は照れたように言うと、人差し指を立てて口の前に当てた。
「恥ずかしいから、みんなにはナイショにしててね」
「ええ? 別に恥ずかしがることないのに」
笑いながら言い、リンはレジのバーコードリーダーで原稿用紙のバーコードを読んだ後、首を傾けた。
「でも、いまどき原稿用紙で書くの?」
いまの時代、小説を書くのならパソコンを使うのが普通だろう。
あるいは、ネットの小説投稿サイトを利用している人にはスマホやタブレットを使う人もいる。
どちらも修正する場合に手書きよりもはるかに便利だ。
わざわざ原稿用紙で書くメリットは、ちょっとリンには思いつかない。
「うん、そうなんだけど――」
少女は一度頷くと、自分の手のひらを見つめた。
「手がね、おじいちゃんに似てたの」
それは、リンではなく、まるで自分の手のひらに話しかけるかのような仕草だった。
ドキッとした。
リンが少女の手が好きだということは気付かれていないと思うが、それを見透かされたような気持ちだった。
リンが戸惑ったのを、少女はどう解釈したのか、
「ごめん、変に思うでしょ?」
と言って、さらに続けた。
「似てる、って言っても、見た目とかじゃないんだよね。
おじいちゃんの手はしわくちゃで、ペンだこもあって、全然似てないんだけど……でも……うまく言えないんだけど、棺の中で手を組んでるおじいちゃんを見ていたら、なんでか、そう思ったの」
判るような気がした。
もちろん、リンは少女の祖父に会ったことはない。
年齢を考えると、少女の言う通り見た目は全く違うだろう。
ただ、少女の手には、見た目の美しさとは違う、なんとも言えない艶やかさがある。
恐らく、祖父の手にも、そういうものがあったのだ。
「だから、あたしも書いてみるの」
少女は手のひらを握った。
「そのために、おじいちゃんが使っていた万年筆も、形見分けで貰ったの」
「――うん」
リンは原稿用紙の清算を済ませると、少女に渡した。
「完成したら読ませてね」
「最後まで書けるか、わかんないけどね」
おどけたように笑った少女は、原稿用紙を受け取り、帰って行った。
リンは店先に出て見送る。
『第三の神の手』は、どんな物語を紡ぐのだろう。
少女を見送り、店内に戻ったリンは、追悼コーナーを見た。
――いつかあの
リンは思う。
その本は、この本屋や学校の図書室、街の本屋や図書館、大学病院の図書室の本棚にも並ぶだろう。
でも、その頃、あたしは図書委員も本屋でのバイトもしていないかもしれないし、そもそもこの街に住んでいないかもしれない。
五年後、十年後、二十年後、あたしはなにをしているだろう?
それを考えると、楽しみなような気が重くなるような複雑な気分だけど。
「――あたしも、がんばらなくちゃ」
リンは両手の拳を握って胸の前で振った。
カランカラン、と、ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
リンは、とびっきりの笑顔で新たな客を迎え入れた。