リンが通う高校の図書室では、年に一度、蔵書の整理を行っている。
毎年一学期の中間テスト後に行われるこの作業を、リンは密かな楽しみにしていた。
この作業のメインイベントは、なんと言っても、新たに購入された本をお迎えする(と、リンは呼んでいる)ことである。
年々削減されてゆく図書予算の中から購入された本は、志願倍率の高い難関校の受験を突破したようなものである。
彼らを蔵書に加えることは、将来有望なエリートを迎え入れるのと同じだ。
反面、残念ながら古くて傷みの激しいものなどお別れとなる本もあるので、ちょっとさみしい気持ちもある。
ただ、それらの本も、決して破棄されるわけではない。
校内の希望者に譲ったり、よその施設に寄贈したり、町内のフリーマーケットに出品したりして、新たな所有者に渡るのだ。
よほど傷みのひどいものでも、古紙として回収され、リサイクルされて新たな紙に生まれ変わる。
つまり、別れではなく旅立ちだ。
蔵書の整理は、図書室にとっての入学式と卒業式を同時に行う、重要な節目の日なのである。
この日、リンたち図書委員は放課後遅くまで残って作業をしていた。
リンに割り振られた作業は新しい本の登録だ。
この高校の図書室にはパソコンでの管理システムが導入されている。
バーコードを読んで本を登録すると管理用のラベルが印刷されるので、それを背表紙の下側に張り付けていくのだ。
図書室への
段ボールの中から一冊取り、パソコンに読み込ませ、プリンタから出てきたラベルを貼る。
これらの本の選書をしたのは図書担当の先生だ。
県が指定した本や読書感想文のコンクールで課題となっている本が主だが、他にも、最近のベストセラーの小説や人文書に実用書、ライトノベル、児童書、絵本など、さまざまなジャンルの本がある。
中にはリンたち生徒が前々からリクエストしていた本もあり、そういうのをお迎えするときは特にうれしい。
リンは一冊一冊心の中で本のタイトルを読み上げ、入学おめでとう、と祝福の言葉をかけながら、実に晴れやかな気持ちでラベルを張り付けていった。
が、最後の一冊を取ろうとしたところで。
――げっ!
心の中で悲鳴に近い声を上げ、思わず手が止まる。
それまでの楽しい気分が、その本を見た瞬間一気に吹き飛んでしまった。
それは『
民話を元にした絵本で、表紙には、三つのおにぎりと三人の女性僧侶――尼さんの絵が描かれている。
全体的に暗いタッチで描かれ、三人の尼さんのうち両サイドの二人が苦しそうな顔をしているのに対し、真ん中の一人だけがにんまりと笑いながらこちらを見つめる姿が、どこか狂気を感じさせる表紙だ。
その本を見た瞬間、リンの胸の奥底から忘れていた感情がよみがえった。
リンは、この本にイヤな思い出があるのだ。
――お前、まさかあたしを追いかけてここまで来たのか。
執念深い妖怪テケテケに遭遇したかのように、リンは恐れおののく。
リンとこの本との出会いは十年ほど前、小学校低学年のときだ。
きっかけは、お正月に遊びに来た親戚の子だった。
その子はお化けとか妖怪とかの怖い話が大好きで、リンの家に来るときは毎回怖い本を持って来ていたのだ。
いまでこそホラー系の本も普通に読むリンだが、子供の頃は怖い話のたぐいが大の苦手だった(普段クールぶってはいるが、実のところ今でもちょっと怖がりな面はある)。
そんなリンにとって迷惑この上ない子だったが、その子が持ってきた本の中に、この『飯降山』があったのだ。
話の内容は今となっては覚えていないが、表紙のその絵がとにかく怖かったのだけは覚えている。
そして、あろうことかその子、この本をリンの家に忘れて帰ってしまったのである。
いま思えば親に言って宅配で送ればいいのだが、そのときのリンにはそこまで考えが回らず、次その子が来たときに返すしかないと思っていた。
なので、それまではリンが持っておくしかない。
目につくところにあると怖いので、部屋の押し入れの奥に隠したのだが、今度はその押し入れが怖くなった。
何か、押し入れの中に怨霊を閉じ込めたような気分で落ち着かない。
ちょっとでも押し入れの戸が開いていようものなら、その隙間から何者かがこちらを覗き見しているような気さえした。
結局その子が次に遊びに来たのは一年後のお正月だった。
本はそれまでずっと押し入れの中にあり、リンは自分の部屋なのになんだか落ち着かない気分で一年を過ごしたのだ。
この出来事がトラウマとなり、リンはいまでも押し入れがちょっと怖い。
それでも本のことはすっかり忘れていたのに、まさかこの歳になって、リンの安らぎの場である高校の図書室で再会しようとは。
リンは恐る恐る絵本を手に取ってパソコンに登録し、プリントされたラベルを張り付けると、伏せた状態で横に置いた。
ふう、と大きく息を吐く。
新入生の中に地元で有名な不良がまぎれ込んでいたような気分だ。
誰だよ、こんな本を蔵書に選んだのは。いや先生だけど。
ひとまず割り振られた作業を終え、リンは図書カウンター内から室内を見回した。
いつの間にか誰もおらず、リン一人になっている。
すでに下校時間を過ぎているため、バスや電車の時間がある子は先に帰ってしまった。
残っているのはリンを含めた数人だけで、今日だけは特別に作業が終わるまで残っていいことになっている。
倉庫の整理もすると言っていたから、そっちに行ったのだろう。
リンは窓の方を見た。
いつもは千明たち野クルのメンバーが騒がしくしている校庭にも、当然もう誰もいない。
校庭全体を照らす照明も落とされているためほとんど真っ暗で、遠くに校門を照らす心細い明かりが見えるだけだ。
闇の中に校門だけがぼんやりと浮かび上がる光景は地獄へ誘われているようで、かえって不気味だ。
校内にはまだ図書委員の子以外にも先生や守衛さんも残っているはずだが、なんだか自分一人だけが取り残されたような気分になる。
ぶんぶんと首を振り、リンは考えを振り払った。
いかんいかん。トラウマ本との思わぬ再会にネガティブモードに入ってしまった。
怖いときに怖いことを考えてしまうのは怖がりの悪いクセだ。
こういうときこそ、楽しいことを考えなければ。
登録を終えた本を見る。
さっき裏返した絵本の裏表紙は、不気味なおもて表紙と違い、おにぎりが一個書かれているだけだ。
そう言えばお腹すいたなぁ、今日は遅くなるのは判ってたんだから、お菓子でも買っておくべきだった、なでしこがギョーザ鍋でも差し入れしてくれないだろうか、さすがにそれはないか――そんなことを考え、笑みがこぼれる。
本一冊に怯えているのもバカバカしく思えてきた。
リンは伏せている本を表向きにしてみた。
子どものころは怖くて仕方なかったその表紙だが、今こうして改めて見ると、そこまで怖いとも思わない。
むしろ、丸っこくディフォルメされた尼さんには、どこかゆるキャラのような愛嬌もある。
『飯降山』というタイトルも、ご飯が降ってくる山、と解釈すれば、なんだか楽しい話のような気もする。
ひょっとしたら、あたしは必要以上に怖がり過ぎているのかもしれない――そう思った。
怖かったのは純粋無垢な子供時代だったからかもしれない。
いま読んでみると、案外子供だましの内容なのかもしれない。
ひょっとしたら、これは神様があたしにトラウマを克服するチャンスを与えてくれているのかもしれない。
よし、と、リンは小さく気合を入れる。
ちょうど作業もひと段落したところだ。
絵本だからさくっと読めるだろうし、ここで十数年ぶりにトラウマを克服しよう。
リンは、絵本を開いた。
『飯降山』
むかしむかし、福井県のある山のふもとで、木こりをしている男がいました。
ある日、木こりの元に、三人の尼さんが訪れました。
尼さんは、これから山に入り、修行を行うと言います。
山には小屋も無ければ満足な食べ物もありません。
木こりは、「やめた方が良いのでは?」と言いましたが、尼さんたちは、「つらいからこそ修行をする意味があるのです」と言って、木こりの言うことを聞かず、山へ入っていきました。
それから三ヶ月ほど経ちました。
尼さんたちがどうなったのか、木こりが心配をしていると、山に入った三人の尼さんのうち、一番年上の尼さんだけが、一人で山を下りてきました。
他の二人はどうしたのか、と木こりが訊ねると、尼さんはこんな話を始めました。
「私たち三人は山に入って修行を始めたものの、やはり満足な食べ物がありませんから、すぐにお腹が空いてきました。
尼は殺生が禁じられておりますので、動物を殺して食べることはできません。
食べるものといえば、木の実や草の葉などしかないのです。
当然満腹になることはありませんが、それでも、三人で励まし合って修行を続けていたのでございます。
そんなある日のお昼のことでした。
空腹に苦しむ私たちの前に、空からおにぎりが三つ降りてきたのでございます。
これは天の神様からのお恵みだ、と、私たちは喜んでそのおにぎりを食べました。
それからも、毎日お昼になると空からおにぎりが降ってまいりました。
私たちは三人で一個ずつ分け合って食べていましたが、やがて一個では満足できなくなり、もっと食べたいと思うようになりました。
そこで、私はもう一人の者と相談し、一番若い尼を殺すことにしたのでございます。
一人減れば、その分食べられるおにぎりが増えると考えたのです。
私たちは年下の尼を呼び出すと、棒や石で殴りつけて殺しました。
私たち二人はおにぎりを楽しみに待ちましたが、その日、降ってきたおにぎりは、なぜかふたつだけだったのでございます。
次の日も、またその次の日も、おにぎりはふたつだけしか降ってきませんでした。
せっかく覚悟を決めて一人殺したのに、これでは食べる量は前と変わりません。
私は、もうひとりの尼さんも殺せば、おにぎりを独り占めできると考えました。
そして、彼女が夜眠っている所を、首を絞めて殺したのでございます。
しかし、その日以降、空からおにぎりが降ってくることは二度とありませんでした。
食べるものが無くなった私は、仕方なく山を下りることにしたのでございます」
こんなことがあり、以来この山は、飯が降る山ということで、『飯降山』と呼ばれるようになったのです。
「……いや怖いわ!」
リンは思わず声を出してツッコミを入れ、叩きつけるほどの勢いで本を閉じた。
予想通り絵はそれほど怖くはなかったものの、今度は子供の頃はよく理解していなかった話自体が怖い。
仏門に入った尼さんがおにぎりを巡って殺し合いをするというだけで充分怖いが、この話は木こりが尼さんの話を聞くという形で書かれているのがなお怖い。
山の中で起こった出来事は、全て尼さんが証言しているだけのことであり、本当に起こったことかどうかは判らないのだ。
空からおにぎりが降ってくるなど、普通はあり得ないだろう。
もし、尼さんがウソをついているとしたら、この尼さんは、三ヶ月もの間、
そして、尼さんの話が終わったところで、突然この話自体も終わっている。
「…………」
ガラガラ! と勢いよくドアが開いて、リンはびくっと大きく身体を震わせた。
「志摩さんお疲れ。これ、先生から差し入れだよ」
倉庫で作業していた別の図書委員の子だった。
手にはコンビニの袋を提げている。
リンは、ほっと胸をなでおろした。
「ちょっと休憩して、食べよ?」
他の子も図書室に戻ってきて、テーブルに集まった。
リンもお腹がペコペコなのでちょうど良かった。
リンはラベルを貼りつけた本を整理し、最後に飯降山の本を裏向きにして置くと、カウンターから出てみんなが集まっている席に着いた。
一人の子がレジ袋から中のものを取り出している。お茶、お水、菓子パン、サンドイッチ、そして――おにぎり。
「…………」
リンは、そっとお茶とサンドイッチを取った。
参考:福井の民話『飯降山の三人の尼』