第一話「仕官」
「そなたが妾に仕えたいと申している者か?」
その日、荊州は南陽を拠点とする袁術の下に一人の男が仕官をしたいと訪れていた。本来、袁術が態々会って話す必要もない人物であったが、担当した者の推薦と手土産にと持ってきた品物につられて直接会う事となっていた。
そして、その周りには袁術を甘やかし、好き勝手に振舞わせる原因となっている張勲、袁術陣営最大の武勇を持つ紀霊が護衛の為にそろっている。政治と軍事のトップにこの国の長が揃った状態に大抵の者は震えあがるだろう。
しかし、男はそんな様子は見せずににこりと笑みを浮かべて下げていた頭を上げる。
「はい。荊州において、いやこの大陸において最も優秀と噂される袁術様の下で働きたいと思いまして」
「おお! 中々分かっておるではないか!」
男の見え透いた言葉に袁術が機嫌を良くする。たったこれだけの様子から袁術の能力が見て取れるが、そんな事はどうでもいいとばかりに男は続ける。
「本来であれば卑しいこの身、小間使いでも充分すぎますがなんと態々袁術様に加え、武勇を誇る紀霊将軍に袁家の政治を一手に担う張勲様とのお目通りが出来た事はこれまでの人生の中で最上の喜びにございます」
「うむ! 中々分かっているではないか!」
「……」
袁術だけではなく自分も褒められたことで紀霊は大きすぎず小さすぎない胸を張り、張勲は笑顔のまま無言を貫いたがその視線には明らかな警戒が見て取れた。男は一瞬張勲の様子を確認すると傍においていた壺を手に取った。
「袁術様、これは私の故郷で取れる蜂蜜を用いて作った蜂蜜水でございます。お納めください」
「っ! 待っておったぞ! 早く寄越すがよい!」
袁術が態々男と謁見した目的である蜂蜜水を聞き上機嫌で持って来るように指示を出す。紀霊が壺を受け取り、毒見の為に一口飲んでから問題ないと判断して袁術に渡すとそれを一気に飲んでいく。
「んく、んく……。うまー! こんなにおいしい蜂蜜水は初めてじゃ!」
「お気に召した様でこちらとしてもうれしい限りです。……故郷は外部の者を受け入れない閉鎖的な場所でして余所者が手に入れる事は出来ない貴重なものでございます」
「……それならば、そなたを雇えばいつでもこの蜂蜜水を飲めるのか!?」
「ええ、袁術様のもとで働けるのであればいくらでも調達しましょう」
「よし! ではお主を雇おう! 蜂蜜を持って来るのじゃ!」
「……お嬢様? もう少し話を聞いてからでもいいのではないですか? いくら何でも蜂蜜水につられ過ぎですよ~?」
即答で雇う事を決める袁術に対して明らかに警戒心を持った張勲がもう少し調べたいという。しかし、そんな張勲を制するように男は更なる一手を繰り出す。
「袁術様。実は手土産はもう一つございます。南陽周辺に蔓延る賊どもの拠点を記した地図にございます」
「っ!? 貴方が、何故それを……!」
懐から地図を広げた男に張勲は笑顔も忘れて驚愕の表情を作る。地図は南陽を中心としたもので、山や川、森林などが正確に書かれている。そして、その地図には10を超える×字が刻まれており、賊の拠点を示していた。
しかし、張勲が驚いたのは地図の正確性である。自分たちが持つ地図をはるかに上回る正確さがあった。測量が発達していないこの時代において正確な地図は金の塊と同じくらいの貴重なものである。それを出自すら分からない男が持っている。張勲は魅力的な土産だとしても袁家に入れるのは危険と判断した。
「……残念ですが貴方は「素晴らしい! これだけの情報があれば南陽は平和になれますぞ!」紀霊将軍……」
「袁術様! この者を雇うのに私は賛成です!」
「紀霊もそう思うか! やはり雇おうではないか!」
武勇は有れど騙し合いには弱いとは言え将軍である紀霊が賛成に回った事で、袁術は張勲の話を聞かずに男を雇う事を決めた。張勲が何かを言おうとしても既に袁術は雇う事を決定しており、意見を覆すのは不可能に近かった。
「そう言えばお主の名前を聞いておらなかったの。なんと申すのじゃ?」
男の名前を聞いていなかった事を思い出した袁術は今更ながら男に名を問う。その問いに対して男は笑みを浮かべて答えた。
「我が名は板垣莞爾と申します。こことは違う風習故に字は有りません。ですがどうぞよろしくお願い致します」
男、板垣莞爾はそう言って深々と頭を下げる。口角を上げ、作戦通りに上手くいったと思いながら。