「これは……!?」
突如として発生した煙幕。それは黄忠とて驚きで固まってしまう衝撃を与えた。煙幕自体はこの時代でもないわけではない。ただしそれは炎を勢い良く焚いたり、砂埃を利用して発生させるものであった。今は快晴だが空気は乾燥しきってはおらず、かといって砂埃が立ちそうな場所でもない。というよりも黄忠と板垣の間に発生させる等まず不可能だった。
「っ! 行けない!」
だが、流石は歴戦の武将と言ったところだろうか。驚きで固まりこそしたがそれは一瞬のみ。直ぐに煙幕に向けて矢を向けた。既に板垣軍は周囲に散会し、包囲するような動きを見せているがそれは黄忠配下の弓隊と本陣の守備兵に任せ、自らは板垣にのみ集中する。通常なら煙幕を避けて進軍するだろうが黄忠には板垣がこの煙幕から出てくるとなんとなくだが予想が出来た。
視界は悪く、光一つ通さない黒煙は一瞬で広がり、今はゆっくりと消えつつある。となれば板垣は完全に消える前、少し視界がよくなってから飛び出してくると予想した。意識を目の前に集中し、それ以外の些事を意識から切り捨てる。全てはこの一投の為に。
「っ!」
瞬間、黄忠は矢を放っていた。黒煙の中で見えた揺らぎ。それを感じた時には黄忠は矢を放っていた。寸分の狂いもなく揺らぎに放たれた矢は見事にとらえ、地面に落下するがそれを見て失敗したと理解した。
「荷物!?」
黄忠が見た揺らぎは投げ込まれた荷物だった。布に包まれたそれは矢を受けたことで黒煙から出てすぐの所に落ちてしまう。慌てて次の矢を取り出すがそれを待っていたとばかりに煙より馬のいななきが聞こえてくる。
「くっ!」
急ぎ慌てつつも正確に矢を引き絞った黄忠は煙の揺らぎ等から馬の位置を正確に割り出すと一気に放った。狙うは先ほどとは違い、馬の頭部を狙う。黄忠は板垣の武をきちんと把握していた。汜水関で華雄を討ち取った瞬間を見ていた彼女は板垣を呂布と同等の武勇を持っていると判断していた。それだけにここで討ち取らねば本陣は危ういと思っていた。
「(板垣だけでも何とかしないと本陣を守り切るのは難しい……!)」
それだけの武を持つ相手である以上事実上本陣の兵を率いている魏延だけで対応は難しいだろう。というよりも自分ですら無理だと黄忠は考えている。弓の名手だが接近戦は苦手の為、何としてもここで倒さないといけないと感じていた。
そう思い、込められた渾身の一撃は見事馬の頭部を破壊し、馬を倒れこませることに成功した。それを受けてなのか馬に跨っていた板垣も前のめりに倒れたようで派手な音と共に地面に転がった。そして、その致命的な隙を逃す程黄忠は甘くはない。
「はぁっ!」
これまでで最大の威力が込められた矢を板垣の頭部に向けて放った。放たれた矢は前まで放っていた者とは違い、この日の為に作られた特注品である。地面に落としただけで矢じり近くまで貫く威力を誇っており、貫通させることに特化したそれは見事落馬した板垣の頭部を貫いて見せた。
「っ! やっ……!?」
思わず喜びを上げそうになった黄忠だが煙が晴れ、目撃したその姿を見て絶句した。矢は確かに頭部を貫いていた。しかし、貫いたのは板垣ではなく、白い木材のようなもので作られた人形だった。板垣と同じ服を着せられたそれは明らかに本人ではなく、今だ生きているという事実を黄忠に教えていた。
「まさか!?」
その明らかな失態に気づいた黄忠が慌てて周囲を確認した時、絶命した馬から少し離れたところ、柵がちょうどなく、黄忠の体が晒されている位置に板垣はいた。槍を持ち、投擲寸前の構えをした状態で。
「しま……ッ!??」
「遅い」
まさに全てが手遅れだった。黄忠が慌てて矢を番えた時には槍は投擲され、黄忠の腹部を易々と貫き、致命的な一撃を与えるのだった。
板垣にとって今回の戦いは不本意な事ばかりであった。揚州連合の侵攻に始まり、孫策の裏切り。劉琦の侵攻に厳顔の職務怠慢、黄忠の裏切り。どれ一つとして許せる事ではなく、そしてそれを易々と許してしまった自分が情けなく、許せなくなっていた。
「つく相手を間違えた代償は、でかくついたな」
「あ、……ぅ」
槍を刺され、致命傷を負った黄忠を板垣は冷たく見下ろした。周囲では弓隊の攻撃を凌いだ兵たちが本陣に雪崩れ込んでおり、決着がまもなくつきそうだという事を示していた。
最早自分は必要ないだろうと板垣は周囲を警戒しつつ黄忠に話しかける。
「安心、と言えないが璃々に関しても心配はするな。直ぐに貴様の後を追わせてやる」
「……」
復讐にでも走られれば困ると考えた末の決断であった。璃々の将来については分からないが弓の名手である黄忠の娘である以上その腕前を引き継いでいる可能性は高く、暗殺してくる可能性は0ではないと思っていた。故に、そうなる前に不安の芽は摘んでおくと。
「来世では自らの影響力を考え、家族とどう接するか、どのように守るかを考えておくといい。それが出来ず、破滅に向かう傾向は信じられないことに多いからな」
これは物語ではなく現実であり、将来に期待など言っていられない。特にそういった話はよく起きる事である以上摘まないという選択肢はなかった。
「ん? ……どうやら一人手練れがいたか」
ふと、本陣の中心部を見れば棍棒らしき武器を持った女が板垣の兵相手に無双していた。厄介な武将がまだいたかと板垣はそちらに目を向け武器を持った。その時に黄忠に目を向ければいつの間にか物言わぬ死体と成り果てており、板垣の話をどこまで聞いていたのかは分からない。だが、そんな黄忠を冷めた目で見た板垣は自身の兵を救うべく再び武を振るうべく前に出るのだった。
南郷決戦と後に呼ばれるようになるこの戦いは瞬時に前線部隊を壊滅させ、本陣に攻撃を仕掛ける事に成功した南陽袁家軍の圧勝で幕を閉じた。兵力差を埋める事は出来ず、劉琦軍は本陣を取られ敗走。兵は散り散りとなって逃げだすか捕まるか捕らえられるかのいずれかの末路を辿る事となった。
劉琦と本陣の副将をしていた魏延は捕えられ、黄忠は戦死。前線指揮官は呉巨、文聘は戦死。金旋は捕縛され、残った王威は可能な限り残存兵を集めて撤退したがその時には牢を脱していた厳顔が待ち構えており、捕縛されたのちに残った劉琦勢力全体で降伏してきた。劉琦を捕えられ、主要な血族がいない状態では勢力を維持する事は不可能であるという判断からだった。
だが、これにより揚州連合に続き劉琦勢力を片付けた事で包囲網は一気に瓦解。残る敵は南部の孫家だけとなり、南陽袁家には比較的余裕が生まれる事となった。
この余裕をもって板垣は全体の立て直しを開始した。孫家は旧董卓軍に引き続き任せ、周沙には豫洲の奪還、自らは劉琦の勢力圏の統合にまい進することとなる。
そして、一月後には南陽袁家は豫洲を完全に取り戻し、荊州の北部から中部にかけて勢力を盤石なものに成功するのだった。その勢力はちょっとした包囲網程度では崩されぬ程になり、ここまで来て板垣は揚州征伐は後回しに、荊州南部の統一に乗り出すのだった。
そう、板垣は裏切り者である孫家の討伐を開始したのである。