南陽袁家の危機はひとまずの所は去った。
板垣は劉琦を捕えたことでそう判断した。劉琦の捕縛は板垣と共に本陣に突入した兵士たちによって速やかに行われ、茫然自失となっている劉琦をあっけなくとらえる事に成功した。その際に本陣を守る守備兵の幾人かが切られており、その中の一人に劉琦が依存していた相手である司緒が混じっていた。劉琦が可笑しくなった原因というのは劉琦配下の臣や噂によって板垣も把握していた為に生かして捕縛し、何者による計画であったのかを知りたかったがこうなっては仕方ないだろう。
「孫家討伐には俺自身が再び率いよう」
「またですか? 他の将に任せてもよいのでは?」
拠点である南陽に戻ってきた板垣は兵に休息を取らせつつも徴兵を解除しようとはしなかった。彼らは十分な休息を取ったのちに孫家討伐を行ってもらう予定であった。幸いにも南郷決戦で劉琦の勢力をほぼ壊滅させた上に直後に厳顔による謀反が起こったために早期に決着をつけられた事で兵士たちにはまだまだ与力が残されていた。
「劉琦の時と同じだ。大軍を率いられる将が現状いないからな。加えて孫家は劉琦以上に手ごわい相手だ。劉琦にはない家臣同士の結束があり、こちらに対して徹底抗戦をするつもりのようだ。つまり、確実に激戦となる」
「なればこそ文官としては宰相様にはここで政務をとって欲しいのですがね……」
宰相として活動する板垣は基本的に政務がメインであり、今回のように将軍として兵を率いる事はまれであった。今回は最も信頼する周沙が揚州方面に向かっているせいで他に兵がいないせいでこうなっているのであり、普通なら兵を率いて戦場に出るべき人物ではないのだ。
「それは理解している。だからこそ今回は無理をするつもりはない。先ほどは激戦と言ったがこちらには劉琦を相手にした将官に加えて旧董卓軍の将もいる。全軍の指揮を任せるには信頼が足りないが本来なら俺の代わりに総大将を務めてもおかしくない人材だ」
呂布に張遼。それは三国志において有名な将兵であり、特に呂布奉先など明らかに史実以上の武を有していると板垣は判断していた。自分でも勝てるかは分からない相手だと。
それだけに兵を任せてもいいがそれは能力面だけで言えばである。董卓というカードが板垣の手元にある以上彼女たちが何か気狂いを起こす可能性は無いに等しいが反感を持って軍を好きなようにする可能性は高かった。それを許せるほど板垣が定めた南陽袁家の軍規は甘くはなかった。
「そんなわけで今回は彼女たちに戦闘は任せて俺は後方に待機する予定だ。決して前線には出ない」
「……普通なら止めるべきなのでしょう。事実上南陽袁家の最高権力者が裏切り者の討伐に出向くなど。相手にとっては絶好の好機である事でしょうから。ですが今は文官を代表しこの言葉を送らせてもらいます。……ご武運を」
「……ああ。俺の野望のためにもこんなところで死ぬつもりはない」
「……当然、相手に対しても言える事だがな」
そうぽつりと零した板垣の言葉に、気づいた者は誰一人としていなかった。
そんなわけで板垣は再び総大将として孫家討伐に出陣した。兵数は10万。途中旧董卓軍や江夏の黄祖軍1万と合流する予定であり、その後、長沙へと雪崩れ込むこととなっていた。
そして、板垣は出兵前に孫家を更に追い込むべく長沙の南、桂陽などの三郡に対して書簡を送っていた。劉表が荊州を統治していた時代にも独立路線を守り切った彼らだが近年の南陽袁家の台頭に頭を悩ませていた。
「いずれ荊州統一の名目でこちらに来るのではないか?」
「戦えば我らは負ける。だが、何もせずに屈するなど……!」
「一体どうすればいいのだ……」
三者三様の思いを抱えていた彼らに対し、板垣が送った内容は簡潔であった。
“長沙より出る者を全て捕らえよ。聞けないというのであれば孫家に与したと判断してともに討伐する。従うというのであれば捕えた物の数に応じて褒章を出そう。特に孫家の一族や重臣は思いのままとする”
事実上のどちらに就くかを迫る内容だったがこの書簡を受けて荊州南部は板垣に与する事を決意した。簡単な理由であり、曖昧な態度や孫家と組んではともに討伐される可能性が高かった。これがまだ反董卓連合軍前であれば違っていたかもしれないが、今の板垣は政治家としてだけではなく武人としての力も有している覇者とも呼ぶべき人物であった。そのような相手が10万を超える大軍を率いてやってくる。とてもではないが抗える相手では泣かった。ならば書簡の示すとおりに逃げ出す者を捕える方が何倍も賢かった。約束を反故にされるような事があれば捕らえた者達を逃がす想定もしつつ彼らは片っ端から長沙からやってくる者達を捕えていった。
「板垣包囲網ならぬ孫家包囲網、俺たちとは違い孫家は風前の灯火だな」
それはまさに包囲網と呼ぶべき状態であり、孫家はさらなる追い打ちをかけられる形となった。この動きは長沙から脱出させようとしていた者達の動きを制限する形となり、小蓮こと孫尚香含む孫策が逃がすことを決めた者達は揚州方面からの脱出を余儀なくされた。
「全く! なんで私だけ逃げないといけないのよ!」
「姫様、これも孫家が生き残るためです」
孫尚香は長沙と揚州豫章郡の間の山道を歩きながら不満げな声を上げる。彼女には10人程の護衛がついているが孫家一行の者だと分からないように商人に偽って行動していた。孫尚香はその一人娘という設定で父親役の側近になだめられていた。
「私だって孫家の人間なのよ!? 私だけ逃げるなんて出来ないわよ!」
「……これが通常の戦であればその心意義は素晴らしいと賞賛されましょう。ですが今回は違います。敵は、板垣はこちらを滅ぼすつもりで行動しています。既に板垣は自ら10万の兵を率いてこちらにやってきているとの事。対する我らは2万の兵です。孫策様ならば道連れにすることは可能でしょう。ですがそれでは孫家の再興など不可能です。必ず、誰かは生き残らねばなりません。それは姫様も理解しているでしょう?」
「そ、それは……」
孫尚香とてそのくらいは理解している。だが、だからと言って自分だけ逃げるなど彼女の心がどうしても許せなかったのだ。
「……わかっているわ。もうこれしか方法はないって事もね。だからこそ、必ず私達で孫家を復興させるわ。そのためにもまずは揚州で勢力を固めるわ。今の揚州は刺史が死んで混乱状態にある。なりあがるには最高の場所だもの」
「最悪の場合は更に南の交州にまで逃げましょう。揚州は南陽袁家が勢力範囲にすると宣言していますがその手は交州までは伸びていません。そこでなら確実に勢力を立て直す事も可能です」
「そうね。でもまずは無事に逃げ延びないといけないわ。姉さまたちが決死の思いで戦ってくれているのだから」
「はっ!」
孫尚香は荷台の上に立つと後方の長沙の方を向く。既に郡境まで来ており、孫家の様子は確認する事は出来ない。孫尚香は長沙での姉たちとの思い出を振り返りながら遠くに消えていく長沙に思いを寄せるのだった。
ドガン!!!
そして、それが孫尚香の最後であった。
突如として響いた重い音が響くと同時に孫尚香の頭は破裂したように吹き飛び、左側へと体は吹き飛んだ。突如として発生したそれに対し、護衛達は何の反応も出来ず、固まってしまう。
「……え?」
そして、誰が発した言葉か、そのつぶやきが聞こえたと同時に残った護衛達も破裂音と共に次々と倒れこんでいく。
「な、なんだ!? 一体何が……!?」
そして、生き残った護衛が訳も分からない状態に混乱している中、何か太い矢のようなものが高速で飛んでくると同時に爆発し、護衛含め周囲の物を弾き飛ばした。それは人気のない山道で破壊の限りを尽くし、死体すら肉片と変えると再び静寂が訪れたがその場で生きている者は一人として存在しなかった。
「……目標の殺害を確認。撤収するぞ」
「了解だ」
そして、その山道から目視では確認が出来ぬ位置にいた板垣の特殊部隊は暗殺の成功を確認すると速やかにその場を離脱し、上司である賈詡に報告した。
『孫尚香の暗殺に成功したよ。これで長沙から脱出しようとした孫家の関係者は
「……了解した。後はこちらで対処する。隊員達には帰還命令を出しておけ」
『了解』
板垣は首元に仕込んだ通信機から簡潔に報告を聞くと遥か南のかなたの長沙へと視線を向ける。そこでは絶望的な戦いの為に孫家の人間たちが準備を整えているだろう。そして、自分たちの未来を託した人間はもうこの世にいないという事に気づかない状態で。
「悪いな。俺は孫家の歴史を知っているんだ。孫家がどうやって三国の一角まで上り詰めたのかを。孫策。お前を助けた時は敵対もしていなかったし、お前なら信じても良いと思ったから助けた。だが、今度は俺たちと敵対し、憎悪しているだろう他の人間を生かすつもりはない。後悔先に立たず。その言葉通りお前には永遠に悔やんでもらおうか、孫策」
板垣はそう呟き、怒りの感情を目に宿しながら10万の兵と共に旧董卓軍との合流地点に向かうのだった。