反董卓連合軍後、漢王朝は一応の平穏を取り戻していた。南方では板垣包囲網が形成されていたりしたが全体で見れば些事であり、黄巾の乱の時のような中華を巻き込んだ大騒動というわけではなかった。
しかし、それでも漢王朝の権威の失墜は早く、最早南陽袁家がいなければ漢王朝としての体裁すら守れない程に落ちぶれていた。板垣が漢王朝に使い道を見出していなければ既に漢王朝は滅びていたかもしれない程であった。
「ままならないわね」
そんな漢王朝に仕え、大将軍就任後に上公の大司馬として武官の頂点に立った皇甫嵩は漢王朝の情けなさに辟易していた。軍を率いれば山賊相手に劣勢を強いられる漢軍、宮廷に居れば腐り切った政治を行い、派閥争いに明け暮れる宦官達。そして、国外からは匈奴や鮮卑などの遊牧民族の侵攻、略奪が相次いで発生している。何進や董卓が粛清を行ってこれであり、皇甫嵩は地位を返上して故郷に戻って余生を過ごしたいと何度も思う程であった。
それでも見捨てず、ここまでやってきたのは漢王朝に少なからず忠誠心を持っている為と南陽袁家の支援で何とかやれているためである。一応文官のトップには板垣と通じる人物が就任している事もあって南陽袁家の傀儡と変わらない状況にあるがそのおかげで漢王朝は腐敗しながらも国家運営を辛うじて行う事が出来ていた。皮肉以外の何物でもないだろう。
「問題は外ね」
そして、目下の課題は併州にて暴れる張燕と独自に動き続けている張楊、そしてそんな二人の間を縫うように略奪を繰り返す匈奴であった。そもそも、南北に分裂し、漢王朝に臣下の礼を取ったことで長城の中で暮らすことを許された南匈奴が漢王朝にて略奪を繰り返すのは鮮卑が圧力を加えている為であった。少し前まで鮮卑は最盛期を迎えており壇石槐を頂点に漢王朝や匈奴を相手に連戦連勝していたがその死後は後継者のごたつきで侵略が行われる事はなかったが荒らされた土地の復興を行う前に黄巾の乱が発生する事態となっていた。
漢王朝が黄巾の乱の討伐に手古摺っている間、匈奴は指導者を失い弱体化したとはいえ自分達より強大な鮮卑を相手に侵略の限りをつくされ、その補填を得るために漢王朝で略奪をするという悪循環に陥っていたのだ。
「匈奴は最早漢王朝の臣下ではない。討伐なり再び配下に収めるなりするためにも軍を起こすべきなのでしょうけど……」
現在の漢軍は総勢8万。それに合わせて南陽袁家が2万の兵を率いて駐留する予定となっていた。だが、攻勢に出れる程の数ではない上に質の面でも不安をぬぐい切れなかった。半数以上が反董卓連合軍後に徴兵された素人であり、戦いの経験などない者ばかりだったからだ。最近でこそ比較的小規模な略奪行為に対して出陣する事が多くなったことで戦場の経験を得る事が出来ているがそれでも諸侯の軍勢に比べれば大したことはないだろう。
「風鈴がいなくなったのも痛いわ……」
黄巾の乱の際には共に将軍として討伐に出た盧植は黄巾の乱の鎮圧前に罷免されている。現在は何処にいるのかさえ分かっておらず、南陽袁家の勢力範囲にいない事から教え子の下に身を寄せているのでは、と考えているものの居場所が分からない以上真相は分からずじまいだった。
とはいえ漢軍の練度は低くともそれを率いる将まで能無しではない。皇甫嵩は言わずもがなだがともに豫洲の黄巾党を討伐した朱儁、剛力無双を誇り、漢軍最高の戦力である郭汜。何事も卒なく熟し、並以上の戦果を誇る張済と武官はかなり優遇されている。もし、彼らが董卓に協力せずに司隷を離れていなかった場合、反董卓連合軍はあそこまで順調にいくことはなかっただろう。少なくとも馬超含む涼州兵が合流する事は出来なかったはずだ。
「白波賊がいつの間にか消えていて一安心していたはずなのに一体どうしてこうなっちゃったのよ……!」
皇甫嵩はヤケ酒にふけたい気持ちに襲われつつ事務仕事を行っていく。武官である彼女は文官から嫌われており、ただでさえ涼州出身で侮られる事が多い彼女の仕事を率先して手伝ってくれる者はおらず、こういった事も彼女にストレスをため込ませる原因となっていた。
「仕方ないわ。匈奴に関しては馬超殿に委任して対応してもらうしかないわね。公孫瓚殿でも良いけど彼女は北方からの侵攻で手一杯でしょうし」
馬超と公孫瓚。ともに外からやってくる遊牧民族の壁として戦ってきた猛者達だ。特に馬超が刺史を務める涼州はかつては西域都護が置かれた西域諸国と接しており、そちらからの侵略も防いでいる為に精強ぞろいだ。馬超を頂点に馬岱、馬休、馬鉄の従姉妹たちも強者であり、黄巾の乱でもその実力を大陸に見せつけていた。
彼女たちなら匈奴を何とかしてくれるかもしれないと考えつつ、その場合は多少なりとも兵を出さないといけないとそこまで考えたのちに司隷の実質的な統治者である南陽袁家にも伺いを立てないといけないと皇甫嵩は予想以上に感じる手間の多さについに事務整理を止めて机に突っ伏すのだった。
それより一月後、漢王朝の要請を受けて馬超が涼州兵を引き連れて匈奴討伐を開始した。当初は順調だったそれだが突如として併州北部の張燕が南下を開始。南部の張楊と合流し、司隷への侵攻を開始したのである。更には匈奴軍がこれに加わったために最終的に数は20万を超える大軍へと変貌を遂げた。
賊に遊牧民族に漢王朝の武官。本来ならあり得ない三勢力の合体に漢王朝はこれまでにない危機を迎える事になるのだった。
後の歴史書において『張燕、張楊、匈奴による司隷侵攻』と記載される一連の事件が始まった瞬間であった。
匈奴って単于以外に名前が知られている人物が見つからねぇ……