あまりにも予想外のことが起こった時、人は動きを止めてしまう。目の前の状況を把握するということに自身の処理能力を全てつぎ込んでしまうためだ。
だが、それが永遠に続くことはない。徐々に状況を理解し、動き出せるようになった者たちが現れ始める。
「……大変だ」
最初に誰かが呟いた。そしてそれがすぐに周囲へと伝播していく。
「“天竜人”が殴られた!」
「海軍大将が来るぞ! 避難しろ!」
「あいつは誰なんだ!?」
爆発するような叫びがいくつも響く。その中心にいるルフィはしかし、そんなことは気にもしない。
今の彼にとっての関心は、目の前の大切な人にのみ向いているのだから。
「馬鹿、知らねぇのか!? “麦わらのルフィ”だ! 海軍の英雄だよ!」
「何で海兵が“天竜人”を殴ったんだ!?」
「お前見てなかったのかよ!?」
ごめん、と何度も何度も呟くウタ。その彼女にしゃがみ込みながらルフィは背を向ける。
その背に、震えながらウタは手を伸ばした。彼女を背負い、ルフィはその場から離脱する。
「“麦わらのルフィ”は“歌姫”を守ったんだよ!!」
世界にも広く知られたゴムの力。その弾力を利用し、モンキー・D・ルフィはその場から離脱する。
「掴まってろよ」
一言。彼は背負う人に向かってそう言葉を紡いだ。
最後まで、彼の耳に周囲の声は届いていなかった。
◇◇◇
その報告の意味が、最初はわからなかった。
報告を受けたセンゴクだけではない。その場にいた三大将も、ガープも。全員がすぐに次の言葉を紡げなかった。
「もう一度、報告してくれ」
それでもその言葉をセンゴクが紡げたのは、彼が海軍本部におけるトップにいるからこそだろう。背負ってきた責任が彼を踏み留まらせたのだ。
いや、もしかしたら期待したのかもしれない。
それが何かの聞き間違いであることを。
『モンキー・D・ルフィ大佐が天竜人を暴行しました! こちらは混乱しています!』
電伝虫でこちらに連絡をしてきている海兵もまた混乱しているのがわかる。それほどまでに衝撃的で、そしてどうしようもない状況だった。
世界政府における象徴でもある存在、“天竜人”。その存在に手を出すということは即ち、世界政府への宣戦布告と同義である。
──“天竜人には逆らうな”。
これは世界の絶対的なルールだ。それを保証するのが今この場にいる3人の海軍本部大将である。
「…………何が、あった」
絞り出すような声だった。モンキー・D・ルフィはセンゴクにとっての友人と同様、破天荒な青年だ。常識破りの問題ばかりを次々と起こすし、それによってセンゴクを含め多くの者が頭を抱え、胃を痛めた経験がある。
だがそれでも彼の行動には理由がある。無意味な行動をするような男ではないのだ。当初は理解できずとも、後から事情を聞けば理解はできることは多い。
だからこれにも理由があるはずだ。こんなことをしでかしただけの理由が。
「…………」
動揺が広がる中、無言で立ち上がったのはガープだった。つい先程までの笑顔ではなく、思い詰めたような表情をしている。彼がするにしてはあまりにも珍しい表情。しかし同時に尋常ならざる雰囲気を纏う彼に対し、三大将も何も言えない。
「待てガープ」
だが、この男だけはそんな彼に対しても声をかけることができる。それだけの年月の付き合いがあり、信頼があるのだから。
「なんじゃ」
「貴様は待機だ」
三大将。海軍本部の最高戦力たちでさえも思わず身構えるほどの気配だった。
これは──ただただ純粋な、怒気。
「ルフィは馬鹿じゃが、考えなしの馬鹿ではない」
その言葉一つ一つから凄まじい圧を感じる。改めてこの場の者たちは理解した。
かつて世界最悪の“悪”を討伐した“伝説の海兵”。その歩んできた人生、そして積み上げてきた力を。ありとあらゆる海賊が恐れる存在の意味を。
「わしと同じであのクズどもを嫌ってはおるじゃろうが、だからといって気分で危害を加えるような奴ではない。何か理由がある」
「……何だというんだ」
「それはわからん」
言い切るが、ガープには心当たりがあった。おそらくは『あの子』だろうという確信に近い思いがあったのだ。
シャボンディ諸島で“天竜人”相手に事件を起こしたという事実。嫌な想像などいくらでもできる。
「いずれにせよ現場に行かねばならん。それがわしの」
「駄目だ」
遮るようにセンゴクは言った。
「これは貴様の管轄ではない」
「そうじゃな。だからこれは一個人の我儘じゃ」
「今の貴様は海軍本部の中将だ。軽率な行いは認めん」
「それは命令か、センゴク」
「そうだ」
即答だった。
強い意志を込め、センゴクは言う。
「──私は、海軍本部元帥だ」
その言葉には、とてつもない重さが宿っていた。
言葉から滲んでくる覚悟が周囲に伝わってくる。ガープは振り返ると、正面からセンゴクを見据えた。
海軍における“伝説”二人。互いに譲らぬ視線のぶつかり合い。
今にも二人が激突しそうな空気の中で。
「──わっしが行きましょう」
響いたのは、そんな言葉だった。
ゆっくりと立ち上がるのは黄猿だ。ボルサリーノ、とガープがジロリと黄猿を睨む。そのガープに対し、黄猿は苦笑を浮かべた。
「落ち着いて欲しいですねェ、ガープさん。“天竜人”への暴行は大罪。それは子供でも知ってることでしょう?」
「…………」
「わっしらは秩序側の人間です。それがルールを破ったら示しにならんでしょう」
それに、と黄猿は言葉を紡いだ。自身の同僚である大将二人へと視線を送り。
「わっし以外の全員が『理由』を探してるでしょう?」
その言葉に赤犬と青雉が小さく拳を握った。黄猿の言葉は図星だったのだ。
皆無意識のうちに『理由』を探していた。何かがあったのだろうと。だからこそこんなことが起こっているのだと。
そう思ってしまうくらいには、あの二人を知り過ぎていた。
「どんな事情があろうと罪は罪。情状酌量ってものがあるとしても、それはわっしらの仕事じゃないでしょう?」
「……そうだな。我々は定められた法に基づいて動く組織だ」
センゴクが応じる。その言葉に頷くと、黄猿がそのまま部屋を出ていこうとする。しかし、出ていく前に彼は小さな笑みと共に言葉を紡いだ。
「誤報、って線もあるかもしれないねェ。……それこそ、海賊に襲われた“天竜人”を守ろうとした流れ弾であったとか」
黄猿が出て行く。残された四人のうち、最初に呟きを零したのは青雉だった。
「……下手な冗談だ」
「誤報、か」
応じるように呟くのは赤犬である。そこには祈るような感情が込められている。
だがわかっている。そんなことはか細い希望であることなど。わかっているのだ。
「…………」
その場に座り込み、右手で顔を押さえるガープ。彼は呻くように言葉を紡いだ。
「──海兵になれ、と」
何も言えなかった。
ただ黙して、“英雄”の独白をその場の者たちは聞いている。
「わしが……そう言ったんじゃ」
その、あまりにも重い言葉だけが。
室内に、やけに響いた。
◇◇◇
60番GRは混乱に包まれていた。
あと一時間もすれば明日のイベントの事前挨拶が行われる予定であり、現場の総責任者でもあるモモンガは常に忙しく動き回っていたのだ。
件の二人はまだ到着しておらず、そろそろお目付役に連絡を入れようとしていたところであった。
──“麦わらのルフィ”が“天竜人”を殴り飛ばした。
突然入ってきたその報告に、普段落ち着いているモモンガも一瞬思考が止まったくらいだ。
何故、どうして、何が。
どんな理由が。
そこまで思考したところで、二人の挨拶を待っていた市民たちの間にもざわめきが広がり始めたことに気付く。
(止まっている場合ではない)
それは最早、本能的な感覚であった。
ここで動かなければ──動けなければ。一生後悔することになる。自分自身の直感がそう告げていることにモモンガは気付いていた。
電伝虫を取り出し、二人の『お目付役』へと繋ぐ。数度のコールの後、相手が出た。
『はい。こちらオリンです』
「モモンガだ。落ち着いて聞いてくれ。──ルフィ大佐が“天竜人”を殴り飛ばした」
『────』
絶句する気配が伝わってきた。当たり前だ。こんなこと、モモンガも信じたくはなかったのだから。
「起こったのはジャボンディパークの近くだ。おそらくは既に移動を始めていると思うが……そちらに連絡はないか?」
『い、いえ。何もないです。まだ時間もあるので私も気にしておらず』
「そうか。……まあ、そうだろうな」
二人の部下である彼女が悪い部分はないとモモンガは思う。彼女の役目はお目付役ではあるが、それは遅刻しないようにという程度のものだ。まさかこんなことの責任を彼女に問うわけにもいかないだろう。
「二人がどうするかはわからないがそちらへ戻る可能性もある。大尉、確認だ。どこに船はある?」
『……79番GRです。ホテル街でもあるので人の出入りも多いですから……その、紛れるにはいいと』
「承知した。大尉はそこで待機するように。──すぐに向かう」
言い切ると、モモンガは周囲に視線を向ける。すると、こちらに駆け込んでくる人物が見えた。
その人物はモモンガの直下として彼の部隊の副官を務める人物だった。彼は焦った様子で言葉を紡ぐ。
「大変ですモモンガ中将!」
「ああ。聞いている。本部は?」
「大将黄猿がこちらへ向かっていると連絡が!」
その言葉に、そうか、とモモンガは頷いた。海軍本部の大将が動く──つまり、“天竜人”が害されたことは事実であるということだ。
誤報ではないのだろう、とモモンガは思った。ならば動かなければ。
今の自分は──“海軍本部中将”だ。
「指示を出す。部隊を三つに分けるんだ」
「三つ、ですか」
頷く。やるべきことは三つだ。
「一つはこの場に残す部隊だ。既にこの件の情報が流れ、市民たちに動揺が広がっている。それを止める役目が必要だ」
「なるほど……」
「荒事の必要はない。経験の少ない新兵を中心に組み立てろ。そしてもう二つだが、一つはシャボンディパークに向かう部隊。もう一つは79番GRに向かう部隊だ。こちらの目的は言う必要はないだろう」
急げ、とモモンガは言った。すぐに、と副官は応じる。そんな彼に対してモモンガは背を向けた。
「私は79番GRに先行する。大将黄猿にはそう伝えてくれ」
普段の彼からすると非常に珍しい、焦りすら混じった言葉。そのまま副官の言葉を待たず、モモンガは地面を蹴った。
二人の“英雄”を待っていた市民たちの間にははっきりと動揺が広がりつつある。それだけではない。前代未聞とも言える大事件を察知したこのシャボンディ諸島そのものが混乱しつつあるように思えた。
「……79番GRか」
混乱の中を駆け抜けながら、モモンガは呟く。
「──いい部下を持ったな」
◇◇◇
モンキー・D・ルフィはかつてないほどに全速力で駆け抜けていた。
自分自身が起こした事件による混乱が伝播し、真っ直ぐに進むことは難しい。だが泣き言は言っていられない。
「ごめん」
何度も何度も自分の背中で謝り続ける大切な人を守るためには、今は走るしかないのだ。
「謝るんじゃねぇ。ウタは何も悪くねぇだろうが」
それは心からの本心だった。彼女は何も悪くない。悪いはずがないのだ。
ルフィはよく周囲から破天荒と言われる。騒ぎを起こすことは毎度のことであるし、説教や始末書などは最早日常だ。
しかし、そんな問題児である彼はそれでも秩序側の人間だ。
だから自分がしたことの意味はわかっている。個人の好悪は関係ない。世界のルールにおいて、彼は許されないことをしたのだ。
「悪いってんなら、それはおれだ」
積み上げてきたもの。
背負ってきた人と共に歩み、成し遂げてきたこと。
その全てを捨て去る行為をした彼は言う。
「だから気にすんな」
──だから、笑っていてくれ。
いつだって、ウタには笑っていて欲しいから。
それを彼が口にすることはなかった。だがそれでも長い付き合いだ。彼女にも伝わっていると信じた。
「……ルフィ……」
こちらを背中から抱く腕の力が、少しだけ強くなった。
大丈夫だ、ともう一度ルフィは呟く。
どんな相手が来ようとも、守ってみせる。
──覚悟なんて、十年前に終わっているのだから。
「……オリン」
息を切らし、汗を流しながら辿り着いた場所。
73番GR──そこにいたのは、二人にとって信頼できる部下であるオリンだった。
正義のコートを纏い、右手には彼女の獲物である長銃を下げている。
「何があったかは、聞いています」
声は震えていた。いつもの彼女からは想像もできないような、聞いたことない声だ。
「言いたいことも聞きたいこともたくさんあります。でも多分、大佐がそうしたっていうことは……そうするしかなかったんだ、ってことなんだと思います」
「……言い訳をするつもりはねぇ。時間もねぇしな」
ルフィのその言葉に、服を掴むウタの手の力が強くなった。
「オリン。おれたちは──」
「行ってください!」
ルフィの言葉を遮るように、オリンが叫んだ。背後の小舟を──ここに来る時に使用した、本当に最低限の機能のみを有した船を示しながら。
「あまり、持ち合わせがなくて」
その瞳から、大粒の涙がいくつも流れ出る。
「本当に最低限しか……それ以下しか、用意できませんでした。でも、集められるものは詰め込みました」
だから、という彼女の言葉に頷き、ルフィはオリンの横を通り過ぎる。
その時、すれ違い様に。
「ありがとう」
「ごめん」
二人はそう、小さく呟いた。
一度顔を俯かせるオリン。そして彼女は涙を拭うと、船に乗り込む二人を追いかける。
「本当に最低限のものしかありません。だから──」
言いかけた彼女の言葉が止まった。オリンが持っていた子電伝虫が鳴ったのだ。
船の上にウタを降ろしたルフィがオリンの方を見る。ウタもまた、怯えたような目でオリンの方を見ていた。
「……はい」
オリンは人差し指を口元に当てる合図を送ると、そのまま呼び出しに応じた。
相手は誰だ、とルフィは思う。その答えはすぐに来た。
『モモンガだ。……そちらにはまだ、二人は来ていないか?』
「はい。まだ来ていません」
何の澱みもなく言い切るオリン。そうか、とモモンガは応じた。
『私が先行してそちらに向かっている。もう一度確認するが、79番GRで間違い無いんだな?』
「──はい」
79番GRという言葉に、思わずルフィは自分達がいる場所を見た。近くにある木には『73』という数字が書かれている。
『……承知した。私が着く前に二人が来た場合、足止めを』
僅かな沈黙の後、モモンガがその言葉と共に通話を切った。オリン、とルフィが彼女の名を呼ぶと、苦笑と共にその部下は言う。
「私のことは気にせず。まあ……この混乱ですから。報告を誤ったとか、お二人に出会わなかったとか。言い訳並べて何とかします。大丈夫ですよ」
行ってください、とオリンは言った。ごめんなさい、とか細い声でウタが言う。
何度も、何度も。
「いいんです。私は──」
そんなウタへ、オリンが言葉を紡ごうとしたところで。
「──いい部下を持ったな」
響いたのは、そんな言葉だった。
その場の全員がそちらを見る。そこにいたのは、一人の海兵。
息を切らしながら、大量の汗を掻きながら。
それでも、その鋭い気迫に衰えはない。
「行かせるわけにはいかん」
海軍本部中将、モモンガ。
二人にとって、恩師とも呼べる人物がそこにいた。
◇◇◇
その人物は、ルフィとウタにとっては恩人とも呼べる人物であった。
海兵としての振る舞いをまだ知らぬ頃。彼の船に乗り、多くのことを学んだ。拳では解決できないこともあるし、そしてそれならばそれで戦い方があるのだということを教えてくれた人だ。
尊敬している。信じてもいる。
だが、だからこそ。
今ここで、この状況で。最も相対したくない人物のうちの一人だった。
「どうして」
呟いたのはオリンだ。そんな彼女に対し、息を一つ吐いてモモンガは応じる。
「昨日の夜。簡単に当日の動きを確認しただろう。73番GRに船を停めるつもりだとその時に言っていたことを忘れたか?」
刀の鞘で地面を軽く叩くモモンガ。そうだ、とルフィも思った。確かに昨日の夜に確認したのだ。
“明日は遅刻だけはするなよ”
“わかってるっておっちゃん”
“はい。大丈夫です”
“信用できんな……前科があり過ぎる”
“あはは……一応、私が連絡役をしますので。73番GRですし、60番GRも近いですから”
それは当たり前の確認であったのだ。だがそれが、こんなところで。
「“天竜人”に危害を加えることは重罪だ。知っているな?」
小さな金属音を立てながら、モモンガが刀の柄に手を添えた。直後、動いたのはオリンだ。
「行ってください!!」
「オリン!?」
彼女の名を呼んだのはウタだ。悲鳴のような声を上げてオリンの名を呼ぶその声を背に、その女性海兵は突き進む。
銃口を向ける先にいるのは、自分と同じ海兵。しかし遥かに高い地位にいる相手。叶うはずのない存在だ。
しかし彼女に躊躇いはない。
「……本当に、いい部下を持ったな。いや」
呟き。長銃を構えて迫るオリンにも届かぬほどの声量。
そんなモモンガに対し、オリンが引き金を引こうとして。
「友人と、いうべきか」
しかし、その引き金が引かれることはなかった。
一瞬だ。十歩以上はあった距離を一瞬で詰め、刀の柄をオリンの腹部へとモモンガは叩き込んだのだ。
崩れ落ちるようにして倒れ込むオリン。思わずといった様子でルフィが叫ぶ。
「オリン!」
「ただの当て身だ」
こちらを見据えながら言うモモンガ。そのまま彼は、鋭い視線を二人に向ける。
「理由については察している。姿を見れば一目瞭然だ。……言いたくはないが。『そういう場面』を見たことは何度もある」
「……おっちゃん。おれは」
「だからこそ見逃せない」
腰だめに刀を構えるモモンガ。そのまま彼は言葉を続ける。
「それを“正義”だと飲み込んで。それでもか弱き人々を守るのだと。そう誓ったから私はここに立っているんだ」
血を吐くような言葉だった。
だが、だからこそわかる。モモンガも退けないのだということが。
「悪いようにはしない。私がさせない。だから頼む」
まるで絞り出すかのような言葉だった。
それもまた彼の本心だということはわかった。だが同時に、だからこそルフィはそれに頷くことはできない。
「駄目だおっちゃん」
足元にある正義のコートをルフィは拾う。
見慣れたはずの“正義”の文字が、今はとてつもなく重く感じた。
「──それじゃあ、ウタが笑えねぇ」
息を呑む気配が伝わってきた。それは隣に座り込んでいる幼馴染からであり。
目の前の、師とも呼べる人からでもあって。
「それが……お前の“正義”か。モンキー・D・ルフィ大佐」
「そうだな」
船を降り、ルフィは言う。
「気付いてなかっただけだ。おれの“正義”は、ずっと昔からここにあった」
そして彼は正義のコートをその身に纏う。
それは、彼の誓い。
それは、彼の覚悟。
彼が掲げる、“正義”の形。
「“大切な人が、笑える正義”」
今この瞬間に。
ようやく、モンキー・D・ルフィは背負う“正義”の形を見つけたのだ。
「退いてくれ。おっちゃんとは戦いたくねぇ」
「我儘を言うな。……嫌なことなど、この先いくらでもあるんだ」
この先、という言葉でルフィは察した。彼は一度顔を俯けると、そのまま右の拳を地面へと突き立てるようにして振り下ろす。
それは彼の戦闘における構え。その構えを見てモモンガも頷く。
「私をここで退けられないようでは、結局逃げることなど不可能だ。……できれば、こんな形で聞きたくなどなかった。もっと、そうだな。それこそ──……」
しかし、その先の言葉をモモンガは紡がなかった。
そして、その二人が向かい合う。
「ギア、2」
「“一刀居合”」
かつては二人がかりでも手も足も出なかった。
強く、厳格で、誇り高い。
モモンガという海兵は、ルフィとウタにとってはいつかは超えたいと願った存在で。
何よりも。
──“海兵”という生き方を、その背中で教えてくれた人だ。
言葉はなく。
二人の海兵が、全力で地面を蹴る。
共にその背に宿るは“正義”の文字。
一度は交わり、そして別の場所で戦うことになっても。
それでも、互いに信じていたもの。
“私とて今よりも強くなる。そう容易くはいかん”
思い出すのは、あの日のモモンガの言葉。
いつか超えてみせるとそう言ったあの日から、随分と時間が経ったような気がする。
拳と刀。その二つのぶつかり合い。
それを見守るのはたった一人だ。涙で視界を滲ませながらも、それでも彼女は決して目を逸らさなかった。
「うわあああああああああ!!」
若き海兵の叫びには、あまりにも多くの感情が込められていて。
その先達は何も言わず──しかし、終ぞ。
──その刀が、抜かれることがなかった。
鈍い音と共に、左の頬を殴られたモモンガが吹き飛ばされる。
姿が見えなくなった。拳を振り抜いたルフィは、噛み締めるように呟く。
「……痛ぇ」
ズキズキと、右の拳に走る痛み。
嫌なこと。
苦しいこと。
辛いこと。
その全ての始まりがこの痛みであったのだと。
後に彼は、大いに痛感することになる。
「オリン。大丈夫か」
数秒の間そうしていたルフィだが、すぐに思考を強引に切り替えた。今ここで立ち止まっている暇はないのだ。
倒れていた部下の体を揺する。薄くその瞳が開いた。
「ッ、ごほ……行って、ください」
身を起こし、咳き込みながら言うオリン。
「自分のことは自分で何とかします! だから行ってください!」
彼女の言葉にもまた、強い覚悟が宿っていた。
それを無碍にすることはできない。故にルフィは立ち上がり、船に飛び乗る。
帆を張り、風を受けてゆっくりと船が動き出す。
その最中で、ルフィもウタもこちらを見つめる部下へと視線を向けた。
「誇りです!!」
涙の混じった声。
いつだって、“英雄”たちの船出は万雷の拍手と歓声と共にあった。
多くの幸せと共に“新時代の英雄”は歩んできたのだ。
「お二人の部下であれたことは!! 私の生涯の誇りです!!」
だが今、二人を送り出すのはたった一人だ。
そこには笑顔も歓喜も──幸福もない。
「ありがとう」
どちらが呟いた言葉であったのか。
その言葉を残し、二人の“英雄”は海へと漕ぎ出した。
かつて、モンキー・D・ルフィは自由な冒険というものに憧れた。海賊という存在に憧れていた。
しかし、海賊に対する憧れは捨て去ることになった。そこに未練はない。だが“冒険”というものに対して未練がないのかというと嘘になる。未知なるものへの好奇心はいつだって彼の中にあったのだから。
だが、この時は違った。
未来が何もわからない。行く先もわからない。それはかつて憧れたものであったはずなのに。
その“未知”にはただ、底知れぬ“闇”が待っていた。
◇◇◇
「……逃げられたようだねェ〜」
現場に着いた黄猿が部隊を率いて向かった79番GR──そこにいた二人に対する第一声はそれであった。
今日行われるイベントの責任者でもあったモモンガと。
この事件を引き起こした大罪人の部下であるオリン。
この場所にその二人しかいないということが、その結果を示している。
「申し訳ありません」
頭を下げるのはモモンガだ。黄猿は肩を竦める。
「聞けばCP0も倒されたっていうんだから……いやァ、あの子供が強くなったもんだねェ」
その口調と態度からは真意が読み取れない。黄猿はサングラスの位置を直すと、後ろに控えている部下たちへと声をかける。
「軍艦の用意を。さっさと追うよォ〜」
「は、はい!」
その言葉に慌てて動き出す海兵たち。その光景を一瞥すると、彼もまた移動を開始する。
「……79番GR、ねェ〜」
呟く声はモモンガとオリンにのみ届いた。こちらに背を向けた海軍本部最高戦力は、そのままこの場を立ち去っていく。
残されたのは二人だ。思わず息を吐くオリンに、モモンガが言う。
「凶悪犯を取り逃した」
思わずモモンガの顔を見るオリン。彼は自身の刀を見つめながら言葉を紡ぐ。
「……それが我々に対する評価だ」
「しかしモモンガ中将。私は」
「大佐を……ルフィを私は斬れなかった」
遮る言葉を紡いだその表情は、苦悩に満ちていた。
「そして貴様もまた、あの二人を足止めできなかった」
それが全てだと、モモンガは語る。
「海兵は私情を挟むべきではない。だからこれが最後だ」
まるで自分自身に言い聞かせるような言葉だった。その言葉に頷き、オリンは空を見上げる。
既に日が落ち始めている。忙しくなる一日だと思っていた。駆けずり回ってくたくたになって、明日も頑張ろうとそう言って。
そんな、風に。
“あのね、オリン。サプライズがしたいの”
“サプライズ?”
ふと、数日前のことを思い出す。
今日はあくまで前日挨拶だった。短い時間だけの本当に顔見せで、明日のイベントの告知が目的であったのだ。
“うん。挨拶だけっていうのは折角来てくれてる人に申し訳ないなって”
“……歌う気ですか?”
“うん”
“当日の責任者はモモンガ中将ですよ?”
“わかってる”
しかし、折角来てくれたのだから礼をしたいとウタは言ったのだ。
“お願い”
両手を合わせてそう言われてしまっては、どうしようもなかった。
だから部隊全員を巻き込んだ。怒られるなら全員でと。秘密裏に準備して、そして今日そのサプライズを行うはずで。
そうなる……はずだったのに。
「……二人は、どうなるのでしょうか」
「そこらの海賊とは訳が違う。……あまりいいイメージはできんな」
世界のルール。子供でも知っていること。
──この世界の支配者たる“天竜人”に、逆らってはならない。
「信じたくはある。だが……」
モモンガはそれ以上の言葉を紡げなかった。オリンは空を見上げたままに思う。
この世界の“神”によって、あの二人は積み上げてきた全てを奪われた。
ならば、誰でもいい。何でもいい。
悪魔でも、魔王でも、どんな存在であってもいい。
(どうか)
あの人たちを。
あの優しい人たちを。
──助けてください。
◇◇◇
こちら抱き締めながら肩を掴む強い力を感じながら、ルフィはその作業を行っていた。
「もうちょっとだ」
「…………ッ!」
布を噛むウタが苦痛に表情を歪ませながらも小さく頷く。その太ももに打ち込まれた海楼石の弾丸。それをルフィが救急用の道具で取り出そうとしているのだ。
麻酔などという気の利いたものはない。本当に最低限のものしかない以上、傷口にピンセットを突っ込む形になる。傷口を抉るような行為だ。痛くないはずがないのだ。
真剣な表情でその作業を行うルフィ。久遠のように長く感じられた作業の後、ようやくその弾丸を取り出すことができた。
「頑張ったな」
「……うん」
小さく頷くウタ。その彼女の足へルフィが包帯を巻いていく。
医療行為は得意ではないが、最低限の手当ての仕方は彼も身につけている。彼自身のためというよりは目の前の彼女のためのものだ。
無駄じゃなかったと思いつつ簡単な手当を終えるルフィ。彼は努めて明るい調子で言葉を紡いだ。
「なあウタ。おれ航海術なんて持ってねぇからよ。頼んでもいいか?」
いつも通りの口調であった。その彼を見て、再びウタの瞳から涙が溢れる。
「ごめん」
何度目かもわからない、謝罪の言葉。
今日一日で何度も聞いただろうかと、そんなことを思った。
「ウタ。右手を出してくれ」
俯く彼女に対し、ルフィは自分の手を差し出しながら言う。
おずおずと、ウタが右手を差し出した。その手の小指にルフィは自分の右手の小指を絡ませる。
「約束しただろ」
あの日。誓いを立てた。約束をした。
だから良いのだと、ルフィは言う。
「──ずっと一緒に」
ウタの瞳から、大粒の涙が流れ出す。
それは二人だけの約束だった。
あの夜に誓った、二人だけの。
「だからもう気にすんな」
いつも通りの笑顔を浮かべるルフィ。その胸へと飛び込むようにウタは縋り付く。
「……ッ、う、あ、あああ……!」
何かが決壊したかのように声を上げて泣き始めるウタ。その彼女を優しくルフィは抱き締める。
安心させるように。
ありとあらゆる全てから彼女を守ると、そう伝えるかのように。
「…………」
だが、抱き締める手とは違ってその表情は険しい。
夜の闇の向こう。姿も見えぬそれを睨みつけるように。
世界そのものを見据えるかのように、彼はその視線を外へと向ける。
覚悟は、ずっと前からあったのだ。
世界を敵に回すことになろうとも。
この手の中の、大切な人を守るのだと。
──世に“英雄”と呼ばれる青年は、ずっとそれだけを決めていたのだ。
二人の“英雄”が堕ちた日。
その絶望のニュースは瞬く間に海を渡り、世界へと伝播する。
世界は荒れるだろう。
人々は嘆くだろう。
いつか、いつかきっと。
この苦しい時代は終わるのだと信じた人々の“希望”は、悪意ですらない“何か”によって奪われた。
──その“何か”とは、何なのか。
人は自分自身に問いかけることになる。
この世界そのものに、疑問を抱くこととなる。
ただ、わかるのは。
かつて“新時代の英雄”と呼ばれた二人は。
積み上げてきた全てを、たった一日で失うことになった。
後の世において歴史を変えた事件と謳われるその一日は。
悪意ですらない、一つの意思によって起こったのだ。
書くのが色々としんどいお話でした。
ただこの概念の根幹なので、SW編を書いた以上書かないとなのかな、と。
麦わら帽子を被ったウタを背負って逃げるルフィ。そこが最初のイメージでしたね。
前編からのこの落差はそのまま二人の環境にも適用されるのは……地獄なのでは?